二
それから日本は更に混迷を極め。長州征伐に幕府が大敗して以降、その地位が揺らぎ、権力そのものが地に落ち始める。そこで薩摩藩がいよいよ幕府を見限り、徳川家を排除した新政府の樹立へと動き出した。
そして徳川家はついに己が持つ実権を天皇に返上するという大政奉還を行い、事実上は権力を失ったかのように見えた。しかし朝廷は政が正常に戻るまでの緊急政務を徳川慶喜に処理するよう委任したことにより、実際はまだ実権を握った状態のままとなった。これにより薩摩を筆頭にした藩らがクーデターを起こし、王政復古の大号令を発する。
そこから京都守護職や京都所司代の廃止、幕府も廃止となり、徳川慶喜は二条城から身柄を大阪城へ移すことになる。そこで新選組に下った命令は、再び慶喜公が京へ向かうにあたり、桑名藩らと共に伏見方面へ向かえというものだった。
年も明け、寒さが厳しい日が続くなか、熱い茶を用意した昴が部屋に入るとそこには風間と天霧の姿。
油小路事件以降、薩摩の命に従いつつもうわべだけの動きをしていた彼らは、どうやら長州の動きを探っているようで。そこには千鶴の義父である鋼道が、何やら水面下で動いているとのことだった。
「風間さん、天霧さんも、少し休憩したらどうだ?」
目の前では不知火から届いた書状を広げ、風間と天霧が難しい表情でいると、二人分の茶を差し出す。
「すみません、私にまで用意していただき」
しかも彼は昴が伝説上でしか語られることのなかった北の鬼神である"玄武"だと知り、ことさら礼儀正しくなると深々と頭を下げた。
「お気になさらず。お茶菓子もあるので、後で食べてくださいね」
「昴……その茶菓子はお前に買ったものだ。天霧にやるようなものではないのだがな」
そこで風間がピクリと反応し、ため息を吐くと本人は今知ったふうな顔。
「そうだったのか?沢山あったから、侍女の人たちにも分けたんだ」
それでも皆が喜んでいたと、綺麗な笑みを浮かべれば、風間はあからさまに機嫌が悪くなる。自分のことに関しては鈍いのか、それが自分への土産だと気付きもしない彼女に天霧は微笑み、別の殺気が飛んでくると軽く咳払い。
「私はご遠慮いたします。残りはあなた様が食べないと、この男が拗ねてしまうやもしれませんのでな」
「誰が拗ねるだと……?」
途端に風間の冷ややかな声が聞こえ、昴が彼を見つめると微笑んだ。
「有り難う、風間さん。後で頂きます」
「…………そんなもので良ければ、また買ってやる」
その笑みをチラリと見やり、ようやく殺気を引っ込めると、天霧はこの男の変化に最初は戸惑いを隠せなかったのを覚えている。
誰に対しても傲慢で、気に食わない相手であれば容赦なく切り捨てるのが風間千景。誇り高き純血の鬼である己に絶対の自信を持ち、その力で以て相手を屈服させる。それが西海九国を束ねる頭領にして、自分の領土を守る彼の強さだった。
だが桜塚昴と出逢い、傲慢な態度は少しなりを潜めたくらいだが、彼女に接する時の風間は驚くほどに柔らかい。その接し方についてはまだ問題もあるが、外に出れば昴へ土産を買い、今の状勢を聞かせては意見を交わしている。まるで男と会話しているようにも見えるが、風間が彼女を女性として扱っているのは一目瞭然であり、時折触れてはその反応を楽しんでいるのだ。
何の感情さえなく、ただ"子を生むため"としか思ってないのであれば、関心さえなく扱いも最低だったはず。その風間が油小路事件の時に彼女を迎えに行き、こうして傍に置いているという事は、二人に何かしらの強い結び付きがあるようにしか思えなかった。
「────それで、鋼道さんの動きは?」
そこで昴の声に引き戻され、風間が彼女へ視線を向けると教える。
「あれはお前の素性をどうやら暴こうとしているらしい……。昴に会わせろと、この俺に書状を何度も寄越しているからな……」
「私に?だが私が鬼と分かったところで、何をするつもりなんだ?」
雪村鋼道もまた鬼なのにと、慎重に答えると天霧が独自に調べていた事を告げた。
「新選組も使用しているあの変若水ですが、あれは西洋から伝わったものであり、西洋の鬼と同じ力を得ると言うものらしいのです」
「西洋の鬼……?」
「はい。あの羅刹と呼ばれている者が、血に狂うというのは謂わば吸血衝動です。人の血を吸う衝動に度々襲われるのはその為。そして日中は極端に身体能力が落ち、夜になると活発になる」
「それはまるで……ヴァンパイアじゃないか」
すると昴の口から聞き慣れない言葉が洩れ、風間が眉を寄せる。
「ばんぱいあ……とは何だ?お前はその西洋の鬼を知っているのか?」
そこで彼女が二百年も後の時代から来たと言っていたのを思い出し、持っている情報を教えろと促した。
「私がいた二百年後の時代では実際に見た者はないが、実在していたとも言われている。だが西洋では古くからヴァンパイアと言う人間ではないモノが存在し、人の血を吸う恐ろしい"化け物"として恐れられていた。しかも年を取ることもなく、同じ姿のまま何百年という永い時間を生きるとも言われている」
「………そのようなモノが西洋にいたとは。で、そのばんぱいあとやらは死なぬのか?」
そして風間が興味深そうに聞き、昴が首を横に振ると続ける。
「羅刹と違うのは、ヴァンパイアは日の光を浴びれば灰となって死ぬ。あとは銀でできた釘などを心臓に打ち込まれても死に至る。だから日が昇っている間は眠り、夜な夜な起き出しては人々を襲っていた。それを日本では血を吸う鬼……"吸血鬼"として呼んだのが始まりだ」
「それは………真なのですか?」
しかし俄には信じ難く、天霧が呆然とすれば昴のそもそもの存在にまた驚く。彼女は自らを二百年後の時代の鬼だと言い、変若水の力の元を簡単に言ってのけたのだ。その反応を見た昴は微苦笑し、信じられないのは尤もだと頷く。
「私も最初はどうしてこの時代にやって来たのか分かりませんでした。いや、正確に言うなら今もです。でも元の時代で気を失い、京の外れの森で目が覚める間に声が聞こえたんです」
── 来たれ、我が同胞よ ── と。
「それが何を意味するかは分かりません。その声に呼ばれて来たと言うのなら、きっとそれが正しいのだと思います……」
そうしてどこか所在なげに目を伏せれば、風間が口の端を上げる。
「それは俺の元に来るためではないか?」
「え────」
しかも堂々と威厳に満ちた姿で、昴の細い顎に指先を這わせると持ち上げ。
「北の玄武しかおらぬ世界では、お前はただ独り朽ち果てる覚悟だったのだろう?だから俺の妻になるべく呼び寄せられた………違うか?」
さも自信たっぷりに言うと、目の前では目許を朱に染めて絶句するひと。何故そうなると決まっているのかと、言いたそうな反応に天霧が肩を震わせると風間が睨み付けた。
「何がおかしい?」
「いえ……。あなたの自信も大したものですが、北の鬼門を守護する玄武の当主を妻にとはまた……大胆不敵」
彼女は八瀬の姫、つまりあの千姫よりも遥かに位が違うのだと言えば、風間はそれがどうしたと言う。
「俺とて誇り高き純血の鬼。風間の頭領だ。玄武の当主を妻に望んでも、誰も文句は言うまい?」
そんなやり取りを固まったままの昴が聞き、その場から逃げ出したい気持ちになれば天霧がやれやれと肩を竦め。
「それよりもまず、昴様の好意を得ることからですぞ。風間様」
そこから始めろと言えば、風間が驚きの表情を浮かべる。そして昴をじっと見つめ、
「そう言えば……確かにお前の口からまだ聞いておらぬな?」
親指で彼女の唇をそっと撫でるも、慌てて立ち上がる昴。今はまだ彼をどう思っているか分からず、拒んだように見えたかもと思えば胸が急に苦しくなるも、その理由さえ分からないのだ。
「ま、また用があれば呼んで欲しい。失礼する!」
だから二人から背を向け、部屋から出て行けば風間が大きなため息を吐いた。
「やれやれ……。色恋の話しになると、途端に無垢な姿を見せる……。あれでは子供より質 が悪いぞ」
けれどそれが愛しいとでも言うように目をほそめ、天霧が笑みを浮かべると風間は真剣な表情で言った。
「その心ごと……欲しいものだな」
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そして徳川家はついに己が持つ実権を天皇に返上するという大政奉還を行い、事実上は権力を失ったかのように見えた。しかし朝廷は政が正常に戻るまでの緊急政務を徳川慶喜に処理するよう委任したことにより、実際はまだ実権を握った状態のままとなった。これにより薩摩を筆頭にした藩らがクーデターを起こし、王政復古の大号令を発する。
そこから京都守護職や京都所司代の廃止、幕府も廃止となり、徳川慶喜は二条城から身柄を大阪城へ移すことになる。そこで新選組に下った命令は、再び慶喜公が京へ向かうにあたり、桑名藩らと共に伏見方面へ向かえというものだった。
年も明け、寒さが厳しい日が続くなか、熱い茶を用意した昴が部屋に入るとそこには風間と天霧の姿。
油小路事件以降、薩摩の命に従いつつもうわべだけの動きをしていた彼らは、どうやら長州の動きを探っているようで。そこには千鶴の義父である鋼道が、何やら水面下で動いているとのことだった。
「風間さん、天霧さんも、少し休憩したらどうだ?」
目の前では不知火から届いた書状を広げ、風間と天霧が難しい表情でいると、二人分の茶を差し出す。
「すみません、私にまで用意していただき」
しかも彼は昴が伝説上でしか語られることのなかった北の鬼神である"玄武"だと知り、ことさら礼儀正しくなると深々と頭を下げた。
「お気になさらず。お茶菓子もあるので、後で食べてくださいね」
「昴……その茶菓子はお前に買ったものだ。天霧にやるようなものではないのだがな」
そこで風間がピクリと反応し、ため息を吐くと本人は今知ったふうな顔。
「そうだったのか?沢山あったから、侍女の人たちにも分けたんだ」
それでも皆が喜んでいたと、綺麗な笑みを浮かべれば、風間はあからさまに機嫌が悪くなる。自分のことに関しては鈍いのか、それが自分への土産だと気付きもしない彼女に天霧は微笑み、別の殺気が飛んでくると軽く咳払い。
「私はご遠慮いたします。残りはあなた様が食べないと、この男が拗ねてしまうやもしれませんのでな」
「誰が拗ねるだと……?」
途端に風間の冷ややかな声が聞こえ、昴が彼を見つめると微笑んだ。
「有り難う、風間さん。後で頂きます」
「…………そんなもので良ければ、また買ってやる」
その笑みをチラリと見やり、ようやく殺気を引っ込めると、天霧はこの男の変化に最初は戸惑いを隠せなかったのを覚えている。
誰に対しても傲慢で、気に食わない相手であれば容赦なく切り捨てるのが風間千景。誇り高き純血の鬼である己に絶対の自信を持ち、その力で以て相手を屈服させる。それが西海九国を束ねる頭領にして、自分の領土を守る彼の強さだった。
だが桜塚昴と出逢い、傲慢な態度は少しなりを潜めたくらいだが、彼女に接する時の風間は驚くほどに柔らかい。その接し方についてはまだ問題もあるが、外に出れば昴へ土産を買い、今の状勢を聞かせては意見を交わしている。まるで男と会話しているようにも見えるが、風間が彼女を女性として扱っているのは一目瞭然であり、時折触れてはその反応を楽しんでいるのだ。
何の感情さえなく、ただ"子を生むため"としか思ってないのであれば、関心さえなく扱いも最低だったはず。その風間が油小路事件の時に彼女を迎えに行き、こうして傍に置いているという事は、二人に何かしらの強い結び付きがあるようにしか思えなかった。
「────それで、鋼道さんの動きは?」
そこで昴の声に引き戻され、風間が彼女へ視線を向けると教える。
「あれはお前の素性をどうやら暴こうとしているらしい……。昴に会わせろと、この俺に書状を何度も寄越しているからな……」
「私に?だが私が鬼と分かったところで、何をするつもりなんだ?」
雪村鋼道もまた鬼なのにと、慎重に答えると天霧が独自に調べていた事を告げた。
「新選組も使用しているあの変若水ですが、あれは西洋から伝わったものであり、西洋の鬼と同じ力を得ると言うものらしいのです」
「西洋の鬼……?」
「はい。あの羅刹と呼ばれている者が、血に狂うというのは謂わば吸血衝動です。人の血を吸う衝動に度々襲われるのはその為。そして日中は極端に身体能力が落ち、夜になると活発になる」
「それはまるで……ヴァンパイアじゃないか」
すると昴の口から聞き慣れない言葉が洩れ、風間が眉を寄せる。
「ばんぱいあ……とは何だ?お前はその西洋の鬼を知っているのか?」
そこで彼女が二百年も後の時代から来たと言っていたのを思い出し、持っている情報を教えろと促した。
「私がいた二百年後の時代では実際に見た者はないが、実在していたとも言われている。だが西洋では古くからヴァンパイアと言う人間ではないモノが存在し、人の血を吸う恐ろしい"化け物"として恐れられていた。しかも年を取ることもなく、同じ姿のまま何百年という永い時間を生きるとも言われている」
「………そのようなモノが西洋にいたとは。で、そのばんぱいあとやらは死なぬのか?」
そして風間が興味深そうに聞き、昴が首を横に振ると続ける。
「羅刹と違うのは、ヴァンパイアは日の光を浴びれば灰となって死ぬ。あとは銀でできた釘などを心臓に打ち込まれても死に至る。だから日が昇っている間は眠り、夜な夜な起き出しては人々を襲っていた。それを日本では血を吸う鬼……"吸血鬼"として呼んだのが始まりだ」
「それは………真なのですか?」
しかし俄には信じ難く、天霧が呆然とすれば昴のそもそもの存在にまた驚く。彼女は自らを二百年後の時代の鬼だと言い、変若水の力の元を簡単に言ってのけたのだ。その反応を見た昴は微苦笑し、信じられないのは尤もだと頷く。
「私も最初はどうしてこの時代にやって来たのか分かりませんでした。いや、正確に言うなら今もです。でも元の時代で気を失い、京の外れの森で目が覚める間に声が聞こえたんです」
── 来たれ、我が同胞よ ── と。
「それが何を意味するかは分かりません。その声に呼ばれて来たと言うのなら、きっとそれが正しいのだと思います……」
そうしてどこか所在なげに目を伏せれば、風間が口の端を上げる。
「それは俺の元に来るためではないか?」
「え────」
しかも堂々と威厳に満ちた姿で、昴の細い顎に指先を這わせると持ち上げ。
「北の玄武しかおらぬ世界では、お前はただ独り朽ち果てる覚悟だったのだろう?だから俺の妻になるべく呼び寄せられた………違うか?」
さも自信たっぷりに言うと、目の前では目許を朱に染めて絶句するひと。何故そうなると決まっているのかと、言いたそうな反応に天霧が肩を震わせると風間が睨み付けた。
「何がおかしい?」
「いえ……。あなたの自信も大したものですが、北の鬼門を守護する玄武の当主を妻にとはまた……大胆不敵」
彼女は八瀬の姫、つまりあの千姫よりも遥かに位が違うのだと言えば、風間はそれがどうしたと言う。
「俺とて誇り高き純血の鬼。風間の頭領だ。玄武の当主を妻に望んでも、誰も文句は言うまい?」
そんなやり取りを固まったままの昴が聞き、その場から逃げ出したい気持ちになれば天霧がやれやれと肩を竦め。
「それよりもまず、昴様の好意を得ることからですぞ。風間様」
そこから始めろと言えば、風間が驚きの表情を浮かべる。そして昴をじっと見つめ、
「そう言えば……確かにお前の口からまだ聞いておらぬな?」
親指で彼女の唇をそっと撫でるも、慌てて立ち上がる昴。今はまだ彼をどう思っているか分からず、拒んだように見えたかもと思えば胸が急に苦しくなるも、その理由さえ分からないのだ。
「ま、また用があれば呼んで欲しい。失礼する!」
だから二人から背を向け、部屋から出て行けば風間が大きなため息を吐いた。
「やれやれ……。色恋の話しになると、途端に無垢な姿を見せる……。あれでは子供より
けれどそれが愛しいとでも言うように目をほそめ、天霧が笑みを浮かべると風間は真剣な表情で言った。
「その心ごと……欲しいものだな」
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