いつもと何ら代わり映えのない日々を、いつも通りに過ごしていたある日────。
出掛けた先から家に帰るべく最寄りの駅に行こうと、スクランブル交差点を歩いてたその時。

「────っ」

一際強い風が吹き荒れ、反射的に目を閉じると同時に訪れた無音の世界。
まるで聴覚の機能を失ったかの如く、恐ろしいほどの静寂の中でゆっくりと目を開けるとそこは漆黒の闇だけが広がり。

「なっ……何が、起こったんだ……?」

訳も分からず、己の耳に響くのは狂ったように脈打つ心臓の音。
さらに一歩でも足を踏み出せば、奈落の底へ堕ちてしまいそうな、そんな恐怖が身体中を襲い。
持っていた筒上の袋を無意識に抱き寄せた、その瞬間。

「────っ!!」

ガクリと身体が傾き、一瞬浮いたような感覚を覚えるもそこから勢い良く失墜し始める。
視界さえなく、音さえもない中で手を必死に伸ばし、ただ宙を虚しく掴まえたその時。



──── 来たれ………我が 同胞はらから よ ─────



ふいに微かな声が聞こえ、視線をさ迷わせるが今の自分には考えている余裕さえなく。

何とか足掻くけれど、成す術もなく。

どこまでもどこまでも、暗い闇へと堕ちていった…………。




* * *

それからどれくらい経ったのだろうか。

サワサワと吹く風が艶やかな黒髪を揺らし、閉じた瞼に光が射すとピクリと動く。それからゆっくりと目を開け、ぼやける視界をクリアにすれば草むらのような場所に倒れているのに気付き。腕に力を込め、上体を起こせば辺りを見回す。

「ここ、は………?」

するとどうやら森の中に倒れていたようで、鬱蒼と生い茂る木々に囲まれ呆然としたのは言うまでもなく。ついさっきまで、都会の喧騒の中にいた事を思い出すと動悸が一気に乱れた。

「一体、何が……?」

視線を頼りなくさ迷わせ、何か目印を探そうとするも全く意味がなく。鳥たちの鳴く声が森に木霊し、残酷にもこれが現実だと伝えている。それでも信じることが出来なくて、再び視線を漂わせると足にカツンと何かが触れた。

「っ……これは……」

それは自分が肌身離さず持っている物で、筒状の袋だと認識するとそれを拾い上げる。結んでいた紐を解き、見れば中には二振りの日本刀。傷も何もないことも一緒に確認すれば、安堵の息と共に抱き締めた。
しかし解決したことは何一つなく、小さく吐息すると視線を前に向け立ち上がる。まるで外国人を思わせるような、蒼穹を映したかのような碧い瞳が立ち並ぶ木々を見つめ、このままでは埒があかないと小さな唇を引き結ぶとスッと目を閉じた。
そして澄んだ空気を静かに吸い込み、吹く風を感じ取れば静かに目を開け。迷うことなく足を踏み出せば森を抜けるべく歩き出す。
五感を研ぎ澄まし、こうして自然の中を歩くなど、幼い頃によく森で遊んでいた時以来だと思い出せば唇が自然と綻んだ。

そうして更に小一時間ほど経った頃。
鬱蒼とした木々が段々と少なくなり、視界が開けると見えたのは街道か。日差しが強く照り付け、目を細めるとその街道へと出る。

「やっと抜けた……………っ!?」

しかし、そこで目の前に現れたのはおよそ現代とは掛け離れた景色であり。コンクリートで舗装された道は愚か、立ち並ぶ高層ビルも、車もバスも電車もない。極めつけは電柱や電線さえもなく、まるでテレビの時代劇で見たような田園風景が広がるだけ。
見える民家もポツリとあるだけで、その異様な景色に愕然とした。

瞬間────

「おい、あんた───」

「っ!?」

突然背後から声がかかり、持っていた袋の紐に手をかけると振り向く。するとそこにはやはり時代劇で見たような農民の格好をした男が立っていて、自分の姿を見て逆に言葉を失っていた。

「まさか……異国のおひとか……?」

それは自分の格好もさることながら、何よりも碧い目を食い入るように見つめているのに気付き。

「その格好もそうじゃが……まぁなんと綺麗な目じゃろうか!オラ、そんな目ぇした人間、生まれて初めて─────」

「す、すみません!急いでいるので」

初めて見るものに興味津々か。ゆっくりと近付いてくる気配に慌てて目を反らし、頭を下げるとその場から逃げるようにして離れた。
そのまま走り続け、見えた一軒家を視界に捉えると軒先に干されていた洗濯物に目がいく。そこに干してあった大きな布のようなものを手に取り、心の中で詫びながらも拝借すれば頭からマントのようにして巻き付けた。これで少しは人の目から逃れられると、再び人の姿さえない街道を歩いていると空が段々と朱に染まってゆく。

「野宿以外、なさそうだな………」

沈みゆく太陽を見つめ、諦めたように思わず呟きが洩れたのは当たり前か。このまま夜になれば、街灯すらないこの世界では頼りになるのは月明かりのみなのだ。動き続ける事は危険極まりないことであり、また下手に動けば野盗に襲われるかもしれず。それでも雨風を避けられるような場所を探さなくてはならず、重い足取りで歩いていると遠くに見えた家々。
どうやら宿場町として栄えているのか、旅装姿の人々が歩く姿を捉えると俄に息を吹き返した。
そのまま町へと足を踏み入れた頃には既に辺りは暗く、人の姿もまばらの中静かに歩く。すると店の軒先にある桃燈に火を灯しに出た女性を見つけ、意を決すると声を掛けた。

「すみません……つかぬことをお聞きしますが、ここはどこですか?」

「…………そういうアンタは、旅の人かい?」

明らかに自分の身なりを警戒していて、上目遣いで訝しげに見る女性。布を目深に被り、見たことのない格好をした変な男だと表情が語れば少し目を伏せ。

「そうなんですが……。道に迷ってしまって」

困ってるのだと正直に告げると、ため息混じりにも女性は教えてくれる。

「ここは天子様が住まう場所、京の都だよ!といっても最近は攘夷だの何だのって、ごろつき共が増えて治安も悪くなってる。それに得体の知れない集団もいて─────」

「年号は………年号はいつですか!?」

その聞き慣れない言葉に目を見開き、思わず身を乗り出せば面食らったような顔で女性が口をあんぐりと開け。

「今は文久三年だよ!!アンタ、それも知らないのかい?」

ますます怪しいと見つめるが、既に耳に入ってないのか。

「文久、三年………天子?攘夷?……まさか、そんな……」

小さな囁きが聞こえ、いよいよ女性が顔を覗き込もうとすると歩き出す。

「ちょ、アンタ!どこ行くの!?」

それでも耳に届かないのか、去ってゆくその後ろ姿を首を傾げながら見るも、関わらないのが得策だと考え直して店に戻る。その間も呆然としながら歩き、混乱する頭を必死に整理しようとすれば武士らしき三人連れが少し前を歩いている。しかも見るかりに浪人だとわかる雰囲気で、その少し前を歩いている少年らしき人物を見つけると、下卑た笑みで相槌を打っていた。

「……………」

そのただならぬ光景に、知らず路地へと身を隠せばやはり少年へと近付く三人。声を掛け、明らかに金品を強奪しようとしているのが目に見えると、少年が弾かれたように逃げ出した。

「おいゴラ!待て!!」

そこで見逃すはずもなく、浪人三人も走り出すと自分も後を追う。
放っておけばいいのにと。
見なかったことにすれば良かったのにと。
けれどあの少年を助けなければいけないと思った時には、足が走り出していたから。
暗い夜道のなか見失わないように、しかし夜目にもはっきりと見える三人の姿を追えば、更にその向こうから現れたのは羽織を纏った三人の男たちだった。

「………………………」

「おい、てめぇら邪魔だ!退けよっ!!」

突然現れたその三人組に行く手を阻まれ、殺気立つも無言の彼ら。だが見るまでもなく様子がおかしくて、揃って白髪の彼らの目は血のように赤い。そうこうするうちに浪人の三人が刀を抜き放ち。

「退かねぇなら、斬るぞ!!」

容赦なく白銀の刃を振りかざした、その時。

「ぎゃあああああああぁぁぁぁ!!」

夜の闇に断末魔が響き渡った。


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