壱
───────、昏い、闇の中を歩く。
辺りは何も見えず、音もない世界をただひたすらに。
そうして何かに導かれるように、目の前が一気に開けると見えたもの。
月の光さえ届かない闇の中、何故かその桜の木だけが鮮やかに浮かび上がる。
ただ、暗闇の中でも花弁の色だけが息を飲むほどに鮮やかに映えていた。
その木を視界に捉え、時折強く吹く風で枝が大きくしなる姿を見つめていると、
ザァァァ………
と、淡い薄紅色の花弁が散っていく。
『嗚呼……胸が、とても痛くて、切ない』
どうしてここに立っているのかも、これが夢なのか現実なのかも分からず。
あまりの苦しさに逃げ出したいのに、まるで地面に足が貼り付いたかのように動かない。
それでも目の前の光景から目を離せず、ただひたすらに見つめた。
その時、
『愛している、昴』
低く、力強くも優しい声が響いた────。
──────。
ゆっくりと覚醒を促され、閉じていた瞼を開けると柔らかな日射しが視界を染める。
まだ朝も早い時間か、静まり返った部屋を見渡せばやはり見慣れぬ景色。
「夢じゃ、ないんだな………」
数日前までは確かに現代 に居たはずなのに、どこを見ても時代を感じさせるものばかりのもの。
電気もなく、ガスもないこの時代で、自分は確かに存在している。
どうしてそうなったのか、いまだ疑問は尽きないけれど。
ここは自分が居た『世界』とは全く違う。
そう、ここはまだ日本と言う国が激動の最中にあった時代。
「そろそろ店の準備をしないと………」
そんな事を考え、ふと身体を起こせば身支度に取り掛かる。
この世界に来て、行く宛のない自分をこの店で住み込みとして紹介してくれた幸男の顔を潰す訳にもいかず。
そして快く迎え入れてくれた店主と彼の恩に報いるため、こうして毎日働いて汗を流す日々。
今日もまた働くべく布団を畳み、着物の袖に腕を通して手際よく着付ける最中、ふと先程の声を思い出した。
『愛している、昴』
そう聞こえた瞬間に目が覚めたけれど、今の自分には到底考え付かないことで。
幼い頃より女性らしいこともせず、ひたすらに剣術を学んでいた己に色恋などと縁があるはずもなく。
それは両親の影響もあったが、彼女自身の性格も相まって更に研ぎ澄まされる感覚。
まるでそれが成すべきことのように、息をすることと同じようにしてきた。
だから今も、こうして淑やかな着物を着ることに多少の違和感を否めずに微苦笑する。
「私に……似合うなんて、有り得ないな」
そうこぼし、いっそ袴姿で店の中をうろつきたいくらいだと吐息した。
「先輩、起きてますか?」
すると襖の向こうから遠慮がちな声が掛かって我に返る。
もうほとんど着替えは完了していたから、返事をすると襖が静かに開いた。
「おはよう、篠宮くん」
「おはよ、先輩。今日は少しゆっくりだね?」
そう言って中に少しだけ踏み込んだのは、学生時代の後輩だった男である篠宮恭。
飲み会でばったり出くわしたばかりに、自分と一緒にこの世界にタイムスリップしてしまった。
その彼もこうしてこの店で働き、何とかして元居た世界に戻るために独自で調べようとしていた。
けれど彼もどうしてそうなったのか分からないから、すぐに行き詰まったようで。
そんな彼を見つめ、謝ると首を振る男。
「夜中、少しうなされてたみたいだったから…少し心配した」
「私が?」
聞けば頷き、夜中にふと目が覚めたら自分の声が微かに聞こえたと言う。
「でもすぐに聞こえなくなったから。何か、怖い夢でもみたんじゃないかって……」
「………怖い夢ではなかったと思うけど、朧気にしか記憶にないな」
そうして心配させないように言えば、恭が安堵したような表情で頷いた。
「なら良かった……!それじゃ、早く店開ける準備しましょ!」
「ああ」
「昴ちゃん!おはよう!」
店の入り口に暖簾をかけ、ようやく一段落した所で中に入ろうとすると声が掛かる。
振り向き、広い路地を小走りに走ってきた男性を見れば微笑んだ。
「おはよう、ユキ…ちゃん」
「あらやだ!そんな可愛い顔して、まだ呼び慣れないのかしら?」
その男性こそ、彼女こと瀬田昴と篠宮恭を助けてくれた人である東雲幸男。
呉服屋の若旦那であり、昴に着物を贈ってくれた人でもある。
この世界のことを何も知らない自分を敬遠することなく、面倒を見てくれた。
しかも男性にしては男性らしくなく、どちらかと言うと女性に近い話し方をする彼。
「昴ちゃんの凛々しい姿も好きだけど、そうやって恥ずかしがる姿はもっと好きよ!その着物も、良く似合ってる」
目の前まで来た幸男が頬を両手で挟むと、ニッコリと笑みを浮かべた。
「…………っ!」
あまりの近さに息を飲み、頬が薔薇色に染まれば増々笑みをこぼす彼。
「わ、私に着物は似合わない………。この格好で働くのは、一生慣れないような気がする」
濡れたように艶めく黒髪を揺らし、金色に近い茶色の瞳を反らすその姿を見るとため息をついた。
「分かってないわねぇ………ほんと」
「………………?」
そして昴の背中を押すと店の中に入り、まだ誰も居ないのをいいことに彼女の腕を安心させるように擦る。
「あなた、ここいらにいるどんな女性よりも綺麗よ?分かってないでしょうけど、背の丈も長いし、立ち姿も凛々しくて美人だし。顔もまるで芝居小屋の女形みたいに綺麗よ。そして何よりその男にも女にも好かれる性格。遊女のように媚を売るでもなく、男のように無頼漢でもない。ただそこに立っているだけで、見る者の目を惹き付けてやまない。そんな魅力を持ってるの!だから自信を持ちなさい。ね?」
「ユキちゃん………」
「そうですよ!ここに来る男の大半は、みんな先輩目当てですから」
そこで台所のほうから出てきた恭が更に告げると目を見開いた。
その時、
「おい、そこに立ってると邪魔なんだが」
暖簾をバサリと払いながら誰かが店の中に入ってくる。
突然の来客に三人が顔を上げ、その人物を見れば気だるそうに頭を掻く男。
「あら、土方さんじゃない!こんな朝早くから昴ちゃんに会いに来たのね!」
「あ?そんな訳ねぇだろ。腹減ったから、来ただけだ」
幸男が目を輝かせたがその男は目もくれずに奥へ進み、いつもの場所である座敷に着くと座り込んだ。
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辺りは何も見えず、音もない世界をただひたすらに。
そうして何かに導かれるように、目の前が一気に開けると見えたもの。
月の光さえ届かない闇の中、何故かその桜の木だけが鮮やかに浮かび上がる。
ただ、暗闇の中でも花弁の色だけが息を飲むほどに鮮やかに映えていた。
その木を視界に捉え、時折強く吹く風で枝が大きくしなる姿を見つめていると、
ザァァァ………
と、淡い薄紅色の花弁が散っていく。
『嗚呼……胸が、とても痛くて、切ない』
どうしてここに立っているのかも、これが夢なのか現実なのかも分からず。
あまりの苦しさに逃げ出したいのに、まるで地面に足が貼り付いたかのように動かない。
それでも目の前の光景から目を離せず、ただひたすらに見つめた。
その時、
『愛している、昴』
低く、力強くも優しい声が響いた────。
──────。
ゆっくりと覚醒を促され、閉じていた瞼を開けると柔らかな日射しが視界を染める。
まだ朝も早い時間か、静まり返った部屋を見渡せばやはり見慣れぬ景色。
「夢じゃ、ないんだな………」
数日前までは確かに
電気もなく、ガスもないこの時代で、自分は確かに存在している。
どうしてそうなったのか、いまだ疑問は尽きないけれど。
ここは自分が居た『世界』とは全く違う。
そう、ここはまだ日本と言う国が激動の最中にあった時代。
「そろそろ店の準備をしないと………」
そんな事を考え、ふと身体を起こせば身支度に取り掛かる。
この世界に来て、行く宛のない自分をこの店で住み込みとして紹介してくれた幸男の顔を潰す訳にもいかず。
そして快く迎え入れてくれた店主と彼の恩に報いるため、こうして毎日働いて汗を流す日々。
今日もまた働くべく布団を畳み、着物の袖に腕を通して手際よく着付ける最中、ふと先程の声を思い出した。
『愛している、昴』
そう聞こえた瞬間に目が覚めたけれど、今の自分には到底考え付かないことで。
幼い頃より女性らしいこともせず、ひたすらに剣術を学んでいた己に色恋などと縁があるはずもなく。
それは両親の影響もあったが、彼女自身の性格も相まって更に研ぎ澄まされる感覚。
まるでそれが成すべきことのように、息をすることと同じようにしてきた。
だから今も、こうして淑やかな着物を着ることに多少の違和感を否めずに微苦笑する。
「私に……似合うなんて、有り得ないな」
そうこぼし、いっそ袴姿で店の中をうろつきたいくらいだと吐息した。
「先輩、起きてますか?」
すると襖の向こうから遠慮がちな声が掛かって我に返る。
もうほとんど着替えは完了していたから、返事をすると襖が静かに開いた。
「おはよう、篠宮くん」
「おはよ、先輩。今日は少しゆっくりだね?」
そう言って中に少しだけ踏み込んだのは、学生時代の後輩だった男である篠宮恭。
飲み会でばったり出くわしたばかりに、自分と一緒にこの世界にタイムスリップしてしまった。
その彼もこうしてこの店で働き、何とかして元居た世界に戻るために独自で調べようとしていた。
けれど彼もどうしてそうなったのか分からないから、すぐに行き詰まったようで。
そんな彼を見つめ、謝ると首を振る男。
「夜中、少しうなされてたみたいだったから…少し心配した」
「私が?」
聞けば頷き、夜中にふと目が覚めたら自分の声が微かに聞こえたと言う。
「でもすぐに聞こえなくなったから。何か、怖い夢でもみたんじゃないかって……」
「………怖い夢ではなかったと思うけど、朧気にしか記憶にないな」
そうして心配させないように言えば、恭が安堵したような表情で頷いた。
「なら良かった……!それじゃ、早く店開ける準備しましょ!」
「ああ」
「昴ちゃん!おはよう!」
店の入り口に暖簾をかけ、ようやく一段落した所で中に入ろうとすると声が掛かる。
振り向き、広い路地を小走りに走ってきた男性を見れば微笑んだ。
「おはよう、ユキ…ちゃん」
「あらやだ!そんな可愛い顔して、まだ呼び慣れないのかしら?」
その男性こそ、彼女こと瀬田昴と篠宮恭を助けてくれた人である東雲幸男。
呉服屋の若旦那であり、昴に着物を贈ってくれた人でもある。
この世界のことを何も知らない自分を敬遠することなく、面倒を見てくれた。
しかも男性にしては男性らしくなく、どちらかと言うと女性に近い話し方をする彼。
「昴ちゃんの凛々しい姿も好きだけど、そうやって恥ずかしがる姿はもっと好きよ!その着物も、良く似合ってる」
目の前まで来た幸男が頬を両手で挟むと、ニッコリと笑みを浮かべた。
「…………っ!」
あまりの近さに息を飲み、頬が薔薇色に染まれば増々笑みをこぼす彼。
「わ、私に着物は似合わない………。この格好で働くのは、一生慣れないような気がする」
濡れたように艶めく黒髪を揺らし、金色に近い茶色の瞳を反らすその姿を見るとため息をついた。
「分かってないわねぇ………ほんと」
「………………?」
そして昴の背中を押すと店の中に入り、まだ誰も居ないのをいいことに彼女の腕を安心させるように擦る。
「あなた、ここいらにいるどんな女性よりも綺麗よ?分かってないでしょうけど、背の丈も長いし、立ち姿も凛々しくて美人だし。顔もまるで芝居小屋の女形みたいに綺麗よ。そして何よりその男にも女にも好かれる性格。遊女のように媚を売るでもなく、男のように無頼漢でもない。ただそこに立っているだけで、見る者の目を惹き付けてやまない。そんな魅力を持ってるの!だから自信を持ちなさい。ね?」
「ユキちゃん………」
「そうですよ!ここに来る男の大半は、みんな先輩目当てですから」
そこで台所のほうから出てきた恭が更に告げると目を見開いた。
その時、
「おい、そこに立ってると邪魔なんだが」
暖簾をバサリと払いながら誰かが店の中に入ってくる。
突然の来客に三人が顔を上げ、その人物を見れば気だるそうに頭を掻く男。
「あら、土方さんじゃない!こんな朝早くから昴ちゃんに会いに来たのね!」
「あ?そんな訳ねぇだろ。腹減ったから、来ただけだ」
幸男が目を輝かせたがその男は目もくれずに奥へ進み、いつもの場所である座敷に着くと座り込んだ。
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