MANKAIカンパニーとの出会い、運命の出会い
夢より素敵な
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もうずっと前から消えてしまいたかった。
小学生の頃の話だ。
香り付きの消しゴムや、三色ボールペンが流行った。勿論私も流行に踊らされて持っていた。
ある日、自分の机の下に見覚えのある消しゴムとボールペンが落ちていた。なんの疑問も持たずに使っていると、「あー!」と甲高い声がした。そちらを見る間もなく、「それあたしの!」と言って消しゴムを、「こっちはオレのだ!」と言ってボールペンを奪われた。私のだと言うと、「だって、この消しゴムにはマークが書いてあるもん!」と言われ、底面のマークを見せられた。私のものにはマークはついていない。ならばボールペンもそうなのかと、一気に同級生から泥棒扱いされた。
次の日、今度こそ自分の消しゴムとボールペンを持って学校へ行き、同級生たちに見せて昨日は自分の勘違いで他人のものを使って悪かったと謝った。同級生たちはすぐにわかってくれて、「同じものを持ってたなら間違えても仕方ないね」と笑ってくれた。
だが数年後、別件で関わった他の同級生から、あの時の出来事は仕組まれていたのだと教えられた。わざと私が間違えて使うようにと私の机の下に消しゴムとボールペンを置いたそうだ。ちょっとした賭けだったらしい。私が気づいて落し物入れに入れるか、気づかずに使って泥棒になるかの賭け。小学生が。
その別件というのも、同級生が入院中に他の同級生がその同級生の陰口を言っていた。それを私も止めもせず、かといって加勢するでもなく退院を待っていると、私が陰口を言っていたという話に纏まっていた。他の同級生と違いその同級生が授業に遅れないようにとノートを取っていた私を、退院してきた同級生は責めた。ノートはちゃっかり持っていった。
こうやって話すと、まるで孤立しているように思われるかもしれないが、休み時間には私の周りに人が集まっていた。普通に昨日見たテレビの話や、好きな人の話なんかをした。陰湿な虐めがあるとは思えない光景だ。当時の私は察しが悪く、もしかしたら陰でなにか言われていたのかもしれないが。
そこでティーカップの縁に口をつけた。目の前の彼は眉間に皺を寄せながら聞いている。
「私の話も聞いてって言ったでしょ?」
「小学生にしては陰湿すぎないかね?」
「そうかもしれないね。」
少しして、元々学校という空間が好きでなかった私は一切学校に行かなくなった。そんな私を、親は祖父母へ託し、「学校に行かないのなら仕事を手伝え」と言った。大好きな祖父母のもとで、私は祖父母の仕事を手伝った。祖父は下請けの下請けのような工場を経営していて、そこには母親や他の社員も数人いた。皆いい人たちだった。
『みゆちゃんはバリ取りが上手いねぇ。』
細かい作業は嫌いではなかった。不器用だが、仕事を覚えればそれなりにこなせた。
ある程度そこにいると、遠足の知らせが来た。遠足や旅行は積み立てているお金が勿体ないから参加していた。そもそも、私は同級生の虐めから逃げたわけではなく、学校という空間そのものが嫌いなだけで、休みの日には同級生と遊ぶことだってあったのだ。私を虐める同級生とも。
「理解できない?」
「キミはその者から虐めを受けていたのだろう?」
「でもね、私は遊べちゃうの。」
神経が図太いのかもしれない。学校から出れば普通に笑えるのだ。
小学校を卒業し、中学生になった。小学生の頃に私の首に草刈り鎌を突きつけてきた上級生もいる中学校だ。
その頃の話は今でも笑える。小学一年生の頃、歩くのが遅いと言って落ちていた草刈り鎌を私の首に突きつけてきた上級生がいた。当然私の両親は学校やその上級生の親のもとに怒鳴り込んだ。上級生の親は最初は謝らなかったが、私がある家の孫であると知るとその上級生の祖父からすぐに謝ってこいと言われたらしく、家まで謝罪に来た。うちの祖父は地元ではそれなりに顔が利くのだ。今でもそれは健在で、「あの人の孫じゃあ」と得をすることがある。
「何故そんなことを笑って言えるんだい?一歩間違えば、」
「私も『壊れたサイボーグ』かなにかなのかもね。・・・嘘。誉がそうやって怒ってくれるから、私は笑って話せるの。」
両親からなにもなかったわけではない。ベランダから落とされそうになったり、包丁を突きつけられたり、竹刀で叩かれたり。裸足で外に放り出されたことだって数知れず。
私は高校に上がるまで家で笑えなかった。笑うことを許されなかったからだ。家では常に敬語で話すことを強いられた。躾としては多分他の家庭より厳しかったと思う。だが、他の家庭では厳しかったアニメや漫画、ゲームといったものは禁止されたことがない。それどころか、父親に褒められた記憶はゲームをしていた時の記憶だ。父親も弟もクリアできなかったステージを、私がクリアすると散々褒められた。
成績のことで叱られたこともない。両親は自分の子どもがそんなにできるはずがないと最初から諦めていたし、私も私でそれなりにテストができていたから。漢字テストだけがどうしてもできなくて、居残りさせられたりもした。だが、漫画を読み始めてから満点常連になった。それもあったし、両親が漫画やアニメが好きなこともあって禁止されなかったのかもしれない。漢字については、その後高校に上がってから授業以外での勉強をせずとも年に三回行われる全校漢字テストでも平均で九十点は固かった。景品として図書カードがぶら下がっていたから余計に頑張れた。漢字検定は準二級までその調子で取れた。二級にはあと六点足りなかった。
中学の話に戻るが、初めてラブレターを書いた。結果はボロ負けだったが、下駄箱に切り刻まれたそのラブレターが入っていたのを見た時に、碌でもない野郎だなとスっと冷めたのを覚えている。相手は小学生の頃から好きだった上級生だ。
「ふむ。」
「なぁに?妬いてる?」
「ワタシはキミからファンレターすらもらっていないよ。」
「ファンレターの前に誉から話しかけてきたでしょ。」
「あの時は『客をナンパすんじゃねぇ』と左京さんに怒られたよ。」
「今の、左京さんの物真似?」
「ナンパのつもりはなかったのだがね。」
中学二年、また学校に行きたくなくなった。虐めとかでなく、一学期の始めに休んだら行きづらくなってしまったのだ。学校に行かないのなら、と、今度は母親に色々な場所へ連れ出された。世間からは虐待だと言われるだろう行為の多かった両親だが、両親なりに私を見ていたのだと思う。父親の威圧的な態度も、私だけに向けられているのではないとその頃には気づいていた。あれは私を守るためのものだったのだろう。ただ、私からすれば恐怖の対象だったのだが、風邪で寝込んでいた時に食べたいものを訊かれ、当時あまり口にしたことのなかった珈琲ゼリーを食べたいと言ったらそれから風邪を引く度に珈琲ゼリーが冷蔵庫に積まれていた。父親の愛情は不器用だったのだ。手先は器用で、学校行事で親子で工作をするような時には必ず父親が来ていた。PTAなどの役員なども積極的にこなしていた。
母親から校内の相談室に顔を出さないかと持ち出されるのと同時に、相談室からも手紙が届いた。それがきっかけで相談室登校が始まった。相談員と町内のゴミ拾いを兼ねた散歩をしたり、分厚い本を読んだり。時間はたっぷりあった。その頃から私は職員室が好きで、相談室が開く時間まで職員室で沢山の大人たちと過ごした。昔から大人の中で過ごしていたのでなにも感じなかった。少しずつ気力も出てきて、相談員と調理室を借りて料理を作り、教師たちに振舞ったりもした。町のイベントでクッキーを焼いて出したり、甘酒の販売の手伝いなんかもした。
その頃、小学生の時に揉めた同級生と話す機会を設けることができた。あの、入院中に私が陰口を言っていたと嘘を告げられた同級生だ。他の同級生からの話で、私はなにもしていなく、寧ろ同級生のために毎時間ノートを取っていたことを知ったらしい。謝罪を快く受けた。元々は保育園から一緒だったので、あとから仲間に入った同級生の話ばかりを信じてしまった自分が情けないと謝られた。
「自分の都合ばかりではないか。」
「でも私は許しちゃうんだなぁ。」
「過度の優しさは優しさではないのだよ。キミのそれは、本当に優しさかね?」
「私は優しくなんかないよ。謝ったってあの時の傷は消えないし、でもそれ以上の話し合いが面倒だったから許したの。ただの怠惰よ。」
中学三年。二年の終わりから少しずつ教室に顔を出すようになった私は、同級生から特別腫れ物を触るように扱われることはなかった。皆、自然に接してくれた。気づけば女子より男子の友達の方が多くなっていた。相談室にも男子からの面会が多かった。色気づいた勘違い女子たちは私のことが気に入らなかったと思う。人気のある男子は、私の保育園からの友達だからお互いに他意なんてないのに。
「この男子、たまにテレビに出るよ。イケメン店員みたいな肩書きで。」
「むう。」
「私は誉の方が好きだけどね。」
「でないと困るよ。」
中学三年の修学旅行は楽しかった。従姉が同じ班だったのだが、私が一人電車に乗り遅れ他の班と一緒に向かうと、同じ班の男子が煙草を吸いながら待っていた。私が「煙草はやめなさいよ」と言うと、しゅんとして「綴喜ちゃんの心配してたら吸わずにはいられなくて」なんて言うもんだから笑ってしまった。つまり、問題児の班に私はいたのだ。同じ団地に住んでいたからどういう人間かは知っていたけれど。因みに、先述の人気のある男子も同じ班だった。
文化祭では劇にも出た。『リア王』、誉の好きなシェイクスピアの作品だ。私は王の侍女役で出演した。端役だが、不登校だった私が劇に出演するほどになったのだ。台詞は『王様、王様!しっかりなさいまし!』たったこれだけ。旗揚げ公演のシトロンくんよりも少ない。
「中学生で『リア王』とは、素晴らしいセンスだね。」
「言うと思った。」
稽古も楽しかった。男子たちに「綴喜ちゃん、ちょっと」と呼ばれて行ってみれば、「綴喜ちゃん、この声優好きでしょ?」と私の好きな声優が出演しているアニメのビデオを一緒に見ようと誘われた。そんな緩い稽古でも、見事、最優秀賞をもらった。担任は泣いていた。
いよいよ進路の話になった。私は中学二年を丸々休んでいたため、数学や英語の基礎ができていない。中学一年の成績のまま来ていればレベルの高い高校に入れたのにと言われながら決まったのは、地元最底辺の女子校だった。男子が苦手なはずもなかったのだが、ランクを下げたらその女子校しかなかったのだ。
面接の練習は、私は校長に当たった。その時、「敬語がしっかりしている」「普段から綺麗な言葉を遣っているのだろう」と言われた。そこで普段家で敬語を遣わされているのは父親なりの愛情だったのではないかと思った。
入試は最悪だった。筆記試験では落ちたと思った。殆ど白紙だったからだ。英語の試験官が知り合いで、「みゆちゃん、余裕そうだったね」と言われたが、あまりにもできなくて落書きをしていただけだ。
合格発表、見事受かっていた。というか、定員割れもあったし全員受かっていたと思う。それから煙草だか酒だかで何人か落ちたと聞いた。また問題児の集まりに投げ込まれたということだ。入ってみれば、同級生は下品極まりない。これが地元最底辺か。
今度は自分が対象になったわけではなかったが、虐めもあった。教室の空気が嫌で、またも休みがちになった。隣のクラスでは担任が生徒に泣かされたらしい。うちのクラスの授業ではにこやかに出ていた品のいい家庭科教師は、自分のクラスの授業には最初に課題を出すだけであとは準備室に篭っているとも聞いた。
体育の出席日数が足りず、留年が決まった。だが、補講のマラソンは全て走り切った。教師たちの私の評価は、留年が決まったにも拘らず上がっていた。タイプの違うギャル系の先輩からも優しくされた。問題は同級生だけだった。
二回目の高校一年。何故か一緒に留年した同級生と新入生の世話を担任から任された。それが私の評価だったのだろう。一緒に留年した同級生は一学期には辞めていた。後から、私は怖い人だと思われていたと知った。入学式当日に既にブレザーを脱ぎ、教室には上級生が遊びに来る。それが原因だったようだ。
この頃には私も察しがよくなっていた。現代社会の教師は私が気に入らなかったのだろう。だが、ノートは取っているし、テストの点もいいからそれなりの評価を出さなくてはいけない。学期末に評価を訊きに行くと、苦虫を噛み潰したような顔で手を広げた。最高評価の五だ。あの顔は忘れられない。随分と性格も悪くなったものだ。
高校二年で二人目の恋人ができた。忘れもしない、初体験の相手だ。何故ならば、初体験の場所は公園のトイレだったから。
「・・・怒ってる?」
「いや、どちらかというと呆れているね。そんな汚い場所で初体験を迎えさせるとは、男としてどうなのかとね。」
「でも好きだったんだよね。」
「むう。」
「妬かないの。」
今日の誉は嫉妬を隠さない。可愛い可愛い、私の紳士。
なんやかんやで一年もせずに別れてしまったが、その頃の私はモテ期を迎えていた。次の恋人はすぐにできたのだ。Sを勘違いしたような男だった。その恋人とも一年もたなかったが、最後まで勘違い男だった。なにをしても私が自分に縋ると思い込んでいるようだった。私の気持ちは相談に乗ってくれていた日本史教師に移っていたのに。高校を卒業して数年経ち、その日本史教師は私の同級生と結婚したのだが。
二回目の高校一年から、私は家でも笑えるようになった。あんなにギスギスしていた教室が、入る人が変わればこんなにも穏やかになるのかと感じた。元同級生の方は学年が上がりクラスが変わってもギスギスしていたらしい。問題児は次々と辞めていったが。
どうやら私は人の好き嫌いが激しいくせに表に出ないらしい。気づいたのは小学校から一緒の幼馴染くらいだった。大嫌いな相手といても、他人からは仲が良さそうに見えるそうだ。
大学は通信制の教育学部のあるところに入ったが、バイトが楽しくて二年で辞めてしまった。モテ期も収まりつつあったが、最悪な男に当たってしまった。所謂ヤリ部屋のようになっていた部屋に呼ばれ、当時腰まであったロングヘアが引っ張られて痛いと言っているのに行為をやめようとしなかった。その男とはすぐに別れた。その前に外でされそうになったこともあるから、それもあった。
「誉はわかりやすいなぁ。」
「自分の身体だろう?大事にしなさい。」
「なんかね、大事にできないんだ。」
自傷行為は高校卒業と共に卒業した。それまでは本当に消えてしまいたかったのだ。だが、教育学部に入る以上、そんな精神状態ではいけないと心を入れ替えた。自傷行為はなくなったが、心を蝕まれていく感覚は消えなかった。それが、歯科助手というバイトをしていた時に決定的な出来事が起きた。今までミスがなかったわけではないが、お金の管理や人の管理まで任されるほどだったのに、急に全てが崩れた。院長や当時の恋人から休むように言われ、心療内科を受診した。診断結果は『統合失調症の疑いアリ』。大学で精神科系の勉強もしていたため、ある程度は知っていた。これからなにをすべきかも。
とりあえず役場に電話をして福祉課との面談の約束を取り付けた。記憶の端に、病院の受診料を一割負担にできる方法というのがあった。『自立支援医療』といったか。それは今通っている心療内科では難しいらしく、大きな病院を紹介された。既に心に余裕はなく、恋人との別れと共に更に悪化した。友達もかなり減った。リアルの友達も、ネットの友達も。私は昔から外部のアンチはバッチコイだったが、身内からバッシングされることには弱かった。私が慕っていた人が嘘を吐いてまで私から離れたと知った時は自分を呪った。
「・・・誉は優しいね。」
「優しいのはキミだろう。優しいから傷つく。自分を呪ってまで。」
知らずに流れていた涙を拭う指が冷たく優しい。いつもは温めてから触れる指が冷たいのは、誉にも余裕がないからだろう。
残った人を大事にしようと心掛けた。私の間違いを指摘はしても、離れない人を。でないと自分が潰れてしまう。
病院を変え、主治医も変わり、薬も調整して外出できるようになった。友達も安定した。ある年の新年会に、全額負担するから出てこないかと誘われた。まだ障害者年金が入る前で本当にお金がなかったので有難い申し出だったが、申し訳なく思った。「こんな私に」、そんな想いが強かったが、参加者全員が私を呼んでくれたので参加した。久々の再会は楽しかった。そこから今に繋がる付き合いの友達もいる。
「いい友を持ったね。」
「うん。本当にね。」
一人は今も月に一回、わざわざ電車に乗って会いに来てくれる。食事をして、色々な話をするのが毎月の楽しみになった。
それから親の揉め事に巻き込まれたりもしたが、友達が支えてくれた。友達の母親もよくしてくれる。
「最近よく遊ぶ友達は、高校で初めてできた友達よ。」
「ならば人生の半分以上だね。」
「嫌な計算しないの。」
頬を滑らせていた冷たい指が、ワンレングスの長い前髪を耳にかける。そんな流れるような仕草が、(あぁ、紳士なんだな)(でもなんだか慣れていないか?)などと雑念を生む。彼が過去に愛した女性にも同じことをしていたのかもしれない。私も案外と嫉妬深いのだ。
「よく話してくれたね。」
「誉も話してくれたでしょう?」
「ワタシの話はここまで深い話ではなかっただろうに。」
「誉だから、いいと思っただけだよ。」
私の半生をこんなにちゃんと聞いてくれる人が現れなかっただけだが、誉と出会えて、更に恋人になれてよかった。
「紅茶が冷めてしまったね。新しく淹れよう。」
「まだちょっとこのままいて。」
離れそうになった手を掴むと、「仕方ないね」と座り直して私の頬を優しく撫でる。
この優しい恋人が、誉がいてくれれば、きっと大丈夫だって、今なら言える。
20181125
小学生の頃の話だ。
香り付きの消しゴムや、三色ボールペンが流行った。勿論私も流行に踊らされて持っていた。
ある日、自分の机の下に見覚えのある消しゴムとボールペンが落ちていた。なんの疑問も持たずに使っていると、「あー!」と甲高い声がした。そちらを見る間もなく、「それあたしの!」と言って消しゴムを、「こっちはオレのだ!」と言ってボールペンを奪われた。私のだと言うと、「だって、この消しゴムにはマークが書いてあるもん!」と言われ、底面のマークを見せられた。私のものにはマークはついていない。ならばボールペンもそうなのかと、一気に同級生から泥棒扱いされた。
次の日、今度こそ自分の消しゴムとボールペンを持って学校へ行き、同級生たちに見せて昨日は自分の勘違いで他人のものを使って悪かったと謝った。同級生たちはすぐにわかってくれて、「同じものを持ってたなら間違えても仕方ないね」と笑ってくれた。
だが数年後、別件で関わった他の同級生から、あの時の出来事は仕組まれていたのだと教えられた。わざと私が間違えて使うようにと私の机の下に消しゴムとボールペンを置いたそうだ。ちょっとした賭けだったらしい。私が気づいて落し物入れに入れるか、気づかずに使って泥棒になるかの賭け。小学生が。
その別件というのも、同級生が入院中に他の同級生がその同級生の陰口を言っていた。それを私も止めもせず、かといって加勢するでもなく退院を待っていると、私が陰口を言っていたという話に纏まっていた。他の同級生と違いその同級生が授業に遅れないようにとノートを取っていた私を、退院してきた同級生は責めた。ノートはちゃっかり持っていった。
こうやって話すと、まるで孤立しているように思われるかもしれないが、休み時間には私の周りに人が集まっていた。普通に昨日見たテレビの話や、好きな人の話なんかをした。陰湿な虐めがあるとは思えない光景だ。当時の私は察しが悪く、もしかしたら陰でなにか言われていたのかもしれないが。
そこでティーカップの縁に口をつけた。目の前の彼は眉間に皺を寄せながら聞いている。
「私の話も聞いてって言ったでしょ?」
「小学生にしては陰湿すぎないかね?」
「そうかもしれないね。」
少しして、元々学校という空間が好きでなかった私は一切学校に行かなくなった。そんな私を、親は祖父母へ託し、「学校に行かないのなら仕事を手伝え」と言った。大好きな祖父母のもとで、私は祖父母の仕事を手伝った。祖父は下請けの下請けのような工場を経営していて、そこには母親や他の社員も数人いた。皆いい人たちだった。
『みゆちゃんはバリ取りが上手いねぇ。』
細かい作業は嫌いではなかった。不器用だが、仕事を覚えればそれなりにこなせた。
ある程度そこにいると、遠足の知らせが来た。遠足や旅行は積み立てているお金が勿体ないから参加していた。そもそも、私は同級生の虐めから逃げたわけではなく、学校という空間そのものが嫌いなだけで、休みの日には同級生と遊ぶことだってあったのだ。私を虐める同級生とも。
「理解できない?」
「キミはその者から虐めを受けていたのだろう?」
「でもね、私は遊べちゃうの。」
神経が図太いのかもしれない。学校から出れば普通に笑えるのだ。
小学校を卒業し、中学生になった。小学生の頃に私の首に草刈り鎌を突きつけてきた上級生もいる中学校だ。
その頃の話は今でも笑える。小学一年生の頃、歩くのが遅いと言って落ちていた草刈り鎌を私の首に突きつけてきた上級生がいた。当然私の両親は学校やその上級生の親のもとに怒鳴り込んだ。上級生の親は最初は謝らなかったが、私がある家の孫であると知るとその上級生の祖父からすぐに謝ってこいと言われたらしく、家まで謝罪に来た。うちの祖父は地元ではそれなりに顔が利くのだ。今でもそれは健在で、「あの人の孫じゃあ」と得をすることがある。
「何故そんなことを笑って言えるんだい?一歩間違えば、」
「私も『壊れたサイボーグ』かなにかなのかもね。・・・嘘。誉がそうやって怒ってくれるから、私は笑って話せるの。」
両親からなにもなかったわけではない。ベランダから落とされそうになったり、包丁を突きつけられたり、竹刀で叩かれたり。裸足で外に放り出されたことだって数知れず。
私は高校に上がるまで家で笑えなかった。笑うことを許されなかったからだ。家では常に敬語で話すことを強いられた。躾としては多分他の家庭より厳しかったと思う。だが、他の家庭では厳しかったアニメや漫画、ゲームといったものは禁止されたことがない。それどころか、父親に褒められた記憶はゲームをしていた時の記憶だ。父親も弟もクリアできなかったステージを、私がクリアすると散々褒められた。
成績のことで叱られたこともない。両親は自分の子どもがそんなにできるはずがないと最初から諦めていたし、私も私でそれなりにテストができていたから。漢字テストだけがどうしてもできなくて、居残りさせられたりもした。だが、漫画を読み始めてから満点常連になった。それもあったし、両親が漫画やアニメが好きなこともあって禁止されなかったのかもしれない。漢字については、その後高校に上がってから授業以外での勉強をせずとも年に三回行われる全校漢字テストでも平均で九十点は固かった。景品として図書カードがぶら下がっていたから余計に頑張れた。漢字検定は準二級までその調子で取れた。二級にはあと六点足りなかった。
中学の話に戻るが、初めてラブレターを書いた。結果はボロ負けだったが、下駄箱に切り刻まれたそのラブレターが入っていたのを見た時に、碌でもない野郎だなとスっと冷めたのを覚えている。相手は小学生の頃から好きだった上級生だ。
「ふむ。」
「なぁに?妬いてる?」
「ワタシはキミからファンレターすらもらっていないよ。」
「ファンレターの前に誉から話しかけてきたでしょ。」
「あの時は『客をナンパすんじゃねぇ』と左京さんに怒られたよ。」
「今の、左京さんの物真似?」
「ナンパのつもりはなかったのだがね。」
中学二年、また学校に行きたくなくなった。虐めとかでなく、一学期の始めに休んだら行きづらくなってしまったのだ。学校に行かないのなら、と、今度は母親に色々な場所へ連れ出された。世間からは虐待だと言われるだろう行為の多かった両親だが、両親なりに私を見ていたのだと思う。父親の威圧的な態度も、私だけに向けられているのではないとその頃には気づいていた。あれは私を守るためのものだったのだろう。ただ、私からすれば恐怖の対象だったのだが、風邪で寝込んでいた時に食べたいものを訊かれ、当時あまり口にしたことのなかった珈琲ゼリーを食べたいと言ったらそれから風邪を引く度に珈琲ゼリーが冷蔵庫に積まれていた。父親の愛情は不器用だったのだ。手先は器用で、学校行事で親子で工作をするような時には必ず父親が来ていた。PTAなどの役員なども積極的にこなしていた。
母親から校内の相談室に顔を出さないかと持ち出されるのと同時に、相談室からも手紙が届いた。それがきっかけで相談室登校が始まった。相談員と町内のゴミ拾いを兼ねた散歩をしたり、分厚い本を読んだり。時間はたっぷりあった。その頃から私は職員室が好きで、相談室が開く時間まで職員室で沢山の大人たちと過ごした。昔から大人の中で過ごしていたのでなにも感じなかった。少しずつ気力も出てきて、相談員と調理室を借りて料理を作り、教師たちに振舞ったりもした。町のイベントでクッキーを焼いて出したり、甘酒の販売の手伝いなんかもした。
その頃、小学生の時に揉めた同級生と話す機会を設けることができた。あの、入院中に私が陰口を言っていたと嘘を告げられた同級生だ。他の同級生からの話で、私はなにもしていなく、寧ろ同級生のために毎時間ノートを取っていたことを知ったらしい。謝罪を快く受けた。元々は保育園から一緒だったので、あとから仲間に入った同級生の話ばかりを信じてしまった自分が情けないと謝られた。
「自分の都合ばかりではないか。」
「でも私は許しちゃうんだなぁ。」
「過度の優しさは優しさではないのだよ。キミのそれは、本当に優しさかね?」
「私は優しくなんかないよ。謝ったってあの時の傷は消えないし、でもそれ以上の話し合いが面倒だったから許したの。ただの怠惰よ。」
中学三年。二年の終わりから少しずつ教室に顔を出すようになった私は、同級生から特別腫れ物を触るように扱われることはなかった。皆、自然に接してくれた。気づけば女子より男子の友達の方が多くなっていた。相談室にも男子からの面会が多かった。色気づいた勘違い女子たちは私のことが気に入らなかったと思う。人気のある男子は、私の保育園からの友達だからお互いに他意なんてないのに。
「この男子、たまにテレビに出るよ。イケメン店員みたいな肩書きで。」
「むう。」
「私は誉の方が好きだけどね。」
「でないと困るよ。」
中学三年の修学旅行は楽しかった。従姉が同じ班だったのだが、私が一人電車に乗り遅れ他の班と一緒に向かうと、同じ班の男子が煙草を吸いながら待っていた。私が「煙草はやめなさいよ」と言うと、しゅんとして「綴喜ちゃんの心配してたら吸わずにはいられなくて」なんて言うもんだから笑ってしまった。つまり、問題児の班に私はいたのだ。同じ団地に住んでいたからどういう人間かは知っていたけれど。因みに、先述の人気のある男子も同じ班だった。
文化祭では劇にも出た。『リア王』、誉の好きなシェイクスピアの作品だ。私は王の侍女役で出演した。端役だが、不登校だった私が劇に出演するほどになったのだ。台詞は『王様、王様!しっかりなさいまし!』たったこれだけ。旗揚げ公演のシトロンくんよりも少ない。
「中学生で『リア王』とは、素晴らしいセンスだね。」
「言うと思った。」
稽古も楽しかった。男子たちに「綴喜ちゃん、ちょっと」と呼ばれて行ってみれば、「綴喜ちゃん、この声優好きでしょ?」と私の好きな声優が出演しているアニメのビデオを一緒に見ようと誘われた。そんな緩い稽古でも、見事、最優秀賞をもらった。担任は泣いていた。
いよいよ進路の話になった。私は中学二年を丸々休んでいたため、数学や英語の基礎ができていない。中学一年の成績のまま来ていればレベルの高い高校に入れたのにと言われながら決まったのは、地元最底辺の女子校だった。男子が苦手なはずもなかったのだが、ランクを下げたらその女子校しかなかったのだ。
面接の練習は、私は校長に当たった。その時、「敬語がしっかりしている」「普段から綺麗な言葉を遣っているのだろう」と言われた。そこで普段家で敬語を遣わされているのは父親なりの愛情だったのではないかと思った。
入試は最悪だった。筆記試験では落ちたと思った。殆ど白紙だったからだ。英語の試験官が知り合いで、「みゆちゃん、余裕そうだったね」と言われたが、あまりにもできなくて落書きをしていただけだ。
合格発表、見事受かっていた。というか、定員割れもあったし全員受かっていたと思う。それから煙草だか酒だかで何人か落ちたと聞いた。また問題児の集まりに投げ込まれたということだ。入ってみれば、同級生は下品極まりない。これが地元最底辺か。
今度は自分が対象になったわけではなかったが、虐めもあった。教室の空気が嫌で、またも休みがちになった。隣のクラスでは担任が生徒に泣かされたらしい。うちのクラスの授業ではにこやかに出ていた品のいい家庭科教師は、自分のクラスの授業には最初に課題を出すだけであとは準備室に篭っているとも聞いた。
体育の出席日数が足りず、留年が決まった。だが、補講のマラソンは全て走り切った。教師たちの私の評価は、留年が決まったにも拘らず上がっていた。タイプの違うギャル系の先輩からも優しくされた。問題は同級生だけだった。
二回目の高校一年。何故か一緒に留年した同級生と新入生の世話を担任から任された。それが私の評価だったのだろう。一緒に留年した同級生は一学期には辞めていた。後から、私は怖い人だと思われていたと知った。入学式当日に既にブレザーを脱ぎ、教室には上級生が遊びに来る。それが原因だったようだ。
この頃には私も察しがよくなっていた。現代社会の教師は私が気に入らなかったのだろう。だが、ノートは取っているし、テストの点もいいからそれなりの評価を出さなくてはいけない。学期末に評価を訊きに行くと、苦虫を噛み潰したような顔で手を広げた。最高評価の五だ。あの顔は忘れられない。随分と性格も悪くなったものだ。
高校二年で二人目の恋人ができた。忘れもしない、初体験の相手だ。何故ならば、初体験の場所は公園のトイレだったから。
「・・・怒ってる?」
「いや、どちらかというと呆れているね。そんな汚い場所で初体験を迎えさせるとは、男としてどうなのかとね。」
「でも好きだったんだよね。」
「むう。」
「妬かないの。」
今日の誉は嫉妬を隠さない。可愛い可愛い、私の紳士。
なんやかんやで一年もせずに別れてしまったが、その頃の私はモテ期を迎えていた。次の恋人はすぐにできたのだ。Sを勘違いしたような男だった。その恋人とも一年もたなかったが、最後まで勘違い男だった。なにをしても私が自分に縋ると思い込んでいるようだった。私の気持ちは相談に乗ってくれていた日本史教師に移っていたのに。高校を卒業して数年経ち、その日本史教師は私の同級生と結婚したのだが。
二回目の高校一年から、私は家でも笑えるようになった。あんなにギスギスしていた教室が、入る人が変わればこんなにも穏やかになるのかと感じた。元同級生の方は学年が上がりクラスが変わってもギスギスしていたらしい。問題児は次々と辞めていったが。
どうやら私は人の好き嫌いが激しいくせに表に出ないらしい。気づいたのは小学校から一緒の幼馴染くらいだった。大嫌いな相手といても、他人からは仲が良さそうに見えるそうだ。
大学は通信制の教育学部のあるところに入ったが、バイトが楽しくて二年で辞めてしまった。モテ期も収まりつつあったが、最悪な男に当たってしまった。所謂ヤリ部屋のようになっていた部屋に呼ばれ、当時腰まであったロングヘアが引っ張られて痛いと言っているのに行為をやめようとしなかった。その男とはすぐに別れた。その前に外でされそうになったこともあるから、それもあった。
「誉はわかりやすいなぁ。」
「自分の身体だろう?大事にしなさい。」
「なんかね、大事にできないんだ。」
自傷行為は高校卒業と共に卒業した。それまでは本当に消えてしまいたかったのだ。だが、教育学部に入る以上、そんな精神状態ではいけないと心を入れ替えた。自傷行為はなくなったが、心を蝕まれていく感覚は消えなかった。それが、歯科助手というバイトをしていた時に決定的な出来事が起きた。今までミスがなかったわけではないが、お金の管理や人の管理まで任されるほどだったのに、急に全てが崩れた。院長や当時の恋人から休むように言われ、心療内科を受診した。診断結果は『統合失調症の疑いアリ』。大学で精神科系の勉強もしていたため、ある程度は知っていた。これからなにをすべきかも。
とりあえず役場に電話をして福祉課との面談の約束を取り付けた。記憶の端に、病院の受診料を一割負担にできる方法というのがあった。『自立支援医療』といったか。それは今通っている心療内科では難しいらしく、大きな病院を紹介された。既に心に余裕はなく、恋人との別れと共に更に悪化した。友達もかなり減った。リアルの友達も、ネットの友達も。私は昔から外部のアンチはバッチコイだったが、身内からバッシングされることには弱かった。私が慕っていた人が嘘を吐いてまで私から離れたと知った時は自分を呪った。
「・・・誉は優しいね。」
「優しいのはキミだろう。優しいから傷つく。自分を呪ってまで。」
知らずに流れていた涙を拭う指が冷たく優しい。いつもは温めてから触れる指が冷たいのは、誉にも余裕がないからだろう。
残った人を大事にしようと心掛けた。私の間違いを指摘はしても、離れない人を。でないと自分が潰れてしまう。
病院を変え、主治医も変わり、薬も調整して外出できるようになった。友達も安定した。ある年の新年会に、全額負担するから出てこないかと誘われた。まだ障害者年金が入る前で本当にお金がなかったので有難い申し出だったが、申し訳なく思った。「こんな私に」、そんな想いが強かったが、参加者全員が私を呼んでくれたので参加した。久々の再会は楽しかった。そこから今に繋がる付き合いの友達もいる。
「いい友を持ったね。」
「うん。本当にね。」
一人は今も月に一回、わざわざ電車に乗って会いに来てくれる。食事をして、色々な話をするのが毎月の楽しみになった。
それから親の揉め事に巻き込まれたりもしたが、友達が支えてくれた。友達の母親もよくしてくれる。
「最近よく遊ぶ友達は、高校で初めてできた友達よ。」
「ならば人生の半分以上だね。」
「嫌な計算しないの。」
頬を滑らせていた冷たい指が、ワンレングスの長い前髪を耳にかける。そんな流れるような仕草が、(あぁ、紳士なんだな)(でもなんだか慣れていないか?)などと雑念を生む。彼が過去に愛した女性にも同じことをしていたのかもしれない。私も案外と嫉妬深いのだ。
「よく話してくれたね。」
「誉も話してくれたでしょう?」
「ワタシの話はここまで深い話ではなかっただろうに。」
「誉だから、いいと思っただけだよ。」
私の半生をこんなにちゃんと聞いてくれる人が現れなかっただけだが、誉と出会えて、更に恋人になれてよかった。
「紅茶が冷めてしまったね。新しく淹れよう。」
「まだちょっとこのままいて。」
離れそうになった手を掴むと、「仕方ないね」と座り直して私の頬を優しく撫でる。
この優しい恋人が、誉がいてくれれば、きっと大丈夫だって、今なら言える。
20181125
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