カケラひとつ

 ガチャりと玄関ドアが開く音が聞こえて、私はスマホから顔を上げた。お邪魔しているこの家の家主が帰ってきた。
 週末の夜。みつ夫くんは同僚たちと呑んで帰ってくると連絡があった。斯く言う私は執筆を終え束の間の休息を取る、修羅場を超えて怖いもののない作家。
「おかえりー」
 沈黙。
 声を掛けたが返事がない。体育会系の性質なのか挨拶は欠かさない彼が無反応なのは珍しい。
 リビングから移動して廊下部分を見る。お酒に強いはずのみつ夫くんは脱力して靴を脱いだところで力尽きて座り込んでいた。
「えぇっ、大丈夫?」
 駆け寄って、声を掛けつつ肩を揺さぶる。
 顔色に変化は無いが眉間に皺を寄せている。一度キッチンに戻って水を汲んで彼に飲ませる。
「歩ける?流石に私じゃ担げないし……」
 顔だけ見れば綺麗系でもいける彼だが、体格はゴリゴリの筋肉質。酔ってまともに動けないだろうし流石に担ぐのは難しい。
 コップに並々と注いだ水を一気に干したかと思えば今度は下から睨むように私の顔を凝視する。その眼差しに既視感があって私は息を呑む。
「みつ夫く────!」
 噛みつかれた。──いやキスされた。噛みつかれたと錯覚するぐらいの勢い、有無を言わせない快感の暴力。
 黒曜石のような目はギラついて、まるで捕食対象を見つけた肉食獣。まさしく熊。
 というか、すっごい酒臭い。日本酒の匂いがきつい。私は匂いだけで酔いそう。
「っちょ、待って」
「ん…?」
 喉だけを低く鳴らして分からないふり。酔ってるけどちゃんと分かってる反応だ。
「ダメだからね。シャワーぐらいは浴びないと」
「乗り気だ」
「違うから…っ」
 肉食獣のような眼光から一変、今度は蕩けたように甘い眼差しと声で刺激してくる。
 立ち上がろうとした私の腕を引いてまたキスを仕掛けてくる。噛みつくようなものではないが、口内を蹂躙されることに違いはない。しかも今度は私の耳を触ってくる。軟骨や耳たぶに空いた穴を一つ一つ確認するように入念に。
 舌と唾液の絡む水音に刺激されて、快感に耐えるように足に力が入る。
 押し抜けようとしても体格差もあってびくともしない。もう酔っ払いの彼に全く抵抗できない程に力が入らない。
「……真澄、好いにおい」
 最後に唇を舐られたあと、首筋に顔を埋められる。癖のない髪の感触と酔っ払い特有の荒めの息遣いを肌に直接感じてしまう。首周りの緩いTシャツだったが故に熱い息が隙間から入り込んで胸元近くまで熱を感じる。そのせいで肩にまで力が入ってしまう。
「ふろ、一緒に入ろ」
 これまでのキスとは違う、甘えるような唾むような軽いキス。もう入ったとは言わせないように、私が了承するまで何度もこのキスをみつ夫くんは続けた。


「いつまでスネてんの」
 濡れた髪をタオルで拭きつつ腰を下ろした。
 目の前には完全に臍を曲げた真澄。お互いに下着に服一枚という格好。まあ、そういうことだ。
「みつ夫くん、途中から酔い覚めてたでしょ」
「酔ってる、今も」
 正直、睨まれても何も怖くない。むしろ可愛い。
 酔いは家に着く前頃がピークで、風呂に入ってから暫くして覚醒したと言っても間違いではないが、今でも少しアルコールが周ってる感覚はある。
「……普通に心配するし、びっくりするじゃん」
「悪い…」
 隣ではない、少し間を空けた場所に体育座りで小さくなる真澄に手を伸ばす。
 表情を隠す横髪を耳に掛けて、その流れでブルーブラックの髪を梳き、頭を撫でた。毛流れに従うようにうんと優しく。軟い細い髪の感触が心地よい。何より横髪に隠されていた、拗ねて口元をぐっと噤む真澄がよく見える。
「ほんと、可愛いよ」
 いつも思うだけで、口にしない本音が溢れるぐらい、俺は酔ってる。
 胡座の片足だけ立ててその膝に肘を置く。そして横目に真澄を見た。
「その可愛い彼女に帰宅すぐ襲いかかるかな普通」
 怒り一割、皮肉四割り、その他揶揄いの言葉。だが嫌な感じはしない。頭を撫でていた手を頬まで持ってきて包むように撫でる。潤む灰青の目と目線が合うとキスを我慢できない。
 最初は軽く触れるだけ。そこからどんどん手数を増やしていく。抵抗を見せないので舌同士を絡めて、どんどん刺激を与える。
 甘い吐息が漏れ聞こえて、真澄の肩を抱き寄せる。俺は上半身裸、真澄はシャツ一枚ブラなし。この一枚がもどかしいが、今はそれすらも良い。なよなかな肩が上下して、息を整える間も与えずに内腿を撫でた。熱が引きかけていた真澄の身体は再び熱く、ピンク色に染まっていく。
「…………あつい。みつ夫くんのせいで酔った」
「俺も、あつい」
 今日何度目かも分からないキスをして、真澄の手を握った。
6/8ページ