カケラひとつ

 夕方のカフェ。帰宅ラッシュのピーク前のカフェのレジには、学生によって列が出来ていた。
 私は学生が多くなる少し前の時間からラテを飲み始めて今で二杯目。パーテーションで区切られたテーブル席に座って、学生と並ぶような様子で原稿を進める。今は週刊連載漫画の原作ではなく、純文学。
 漫画の原作として書く物語ではなく、作家として作品と向き合うのは久しぶりかもしれない。本当に作品として完成して、本屋に並ぶとは考えられないぐらい完結が遠いが、完成を目指し達成するということに意義がある。
 カフェで書いているのは、今日は夜から待ち合わせがあるので、その合間の時間に少しでも思いついたことをまとめようと思ったから。家で書き始めると止まらなくなりそうだし。
 ノートパソコンではなくタブレットを持ってきたのは正解かもしれない。何より大きくないカバンでも入るし、他の周りにいる学生も最近はめっきりタブレットで課題を進めているようなので、おかげで違和感なく紛れ込めた。
「ねえ、久しぶり」
 ふと、隣に座ってきた男性が私の方を見て口を開いた。イヤフォンをつけていたから声は聞こえなかったが、ちらっと視界に入った口元はそんなふうに動いた。私は半ば、睨みつけるような形相でイヤフォンの片耳を外して顔を向けた。
「やっぱり真澄ちゃんだ。俺のこと覚えてる?」
 相手の男は、私のリアクションを気にするまでもなく話しかけてくる。そして何故か名前を呼ばれた。私はこの男に全く身に覚えがないのだけど。
「……どちら様ですか」
「ええ! ひどいなあ……彼氏だった人の顔忘れちゃうかなあ普通」
 どうしてクズ男という人種は、昔付き合っていた女が何年ぶりに会ってもまだ、顔を覚えていたり、好意が残っていると思うのだろうか。全く顔も名前も思い出せない。まあ思い出したくもないけど。
 けど、この身の毛がよだつようなような、生理的に嫌悪感のする笑みはなんとなく記憶にある。
「もしかして仕事中? それとも待ち合わせ?」
「両方です」
 顔とタブレットを交互にガン見してくるので、片耳にイヤフォンを挿したままタブレットの画面は落とした。これをこの男は“話を聞いてくれる体勢"と勘違いしたのか、顔を近づけて一方的に話を続ける。うざいから顔を背けると「照れてる?」と聞かれた。すまんうざいからキモイに変更する。
「いつまでいるんですか、待ち合わせしてるんですけど。それにドリンクすら持ってないのに」
「相変わらず律儀だな。真澄ちゃんかなって思って勢いで声かけたからさ。それとも、買ってきたら俺の話聞いてくれる?」
「聞きません」
 どうしよう。勢いで待ち合わせって認めたせいで私から帰れないし、みつ夫くんが来るって言ってた時間まであと三十分以上ある。正直めっちゃ帰りたい。
「待ち合わせしてる人が来るまで話そうよ」
 本当に誰なんだ。誰か分かったら昔やらかしたことをネタに強引にでも帰らせるのに。こんな感じの口調の奴、何人も居たしなぁ。
「知らない人と一緒に居たくないので」
「だから彼氏だってば、元だけどね」
「じゃあ名乗ってください」
「それは真澄ちゃんが思い出してよ? 人の名前が出てこないって普通に失礼だから。それに言ったら真澄ちゃん、逃げちゃいそうだし」
 自覚があるならやめろ。でもこのちょっとうざい感じに上から目線の言葉。確かに聞き覚えがあるし、確かに記憶の奥にある感じがする。
 さっきからスマホを見てもみつ夫くんから連絡来ないし、時間も全く進んでくれない。最悪だ。
「それにしても見ないうちにすっごく綺麗になったよね。髪も染めて、ネイルもいいね。振ったの失敗したなあ」
 お前が失敗したおかげの上に今の出会いがあるので、皮肉にも感謝しておこうか。
 あと、この男から振ったという情報は結構大きい。あと口ぶり的に大学生の時の彼氏ではない。となると、残ってるのは、
「ねえ、もう地元では暮らさないの?」
 言葉の前につく、呼びかける二文字。男性にしては少し高いような声。私を見ていない遠くを見るような薄ら笑い。そしてコイツは私の地元を知っている。
「……っ!!」
 名前が、決壊したダムのように一斉に流れ出す記憶と共に喉元まで出てくる。
 思い出した。全部思い出した。寒気がして鳥肌が収まらない。昔に掛けられた言葉と、今までの言葉が重なって反響して気持ち悪い。
「やっと思い出してくれた?」
 この男は、私を姉さんの代替品として扱った、どうしようもなく可哀想な男。
『俺、別に真澄ちゃんのこと好きじゃない。透子ちゃんの妹だから付き合っただけ』
『いい経験になったんじゃない? 中学生が高校生と付き合うなんて滅多にないよ』
『真澄ちゃんがもっと透子ちゃんに似て、可愛かったらまた付き合ってあげる』
『なにを透子ちゃんに吹いたの。お前のせいで透子ちゃんの友達からハブられたんだけど』
『ねえ、別れよ。透子ちゃんと付き合えないなら用なんてないから』
 気持ち悪い。全部。何もかも。
 最悪だ。お前のせいで十五年越しに不快感しか湧かない。
 今の年齢で当てはめるとコイツのやっていたことはストーカー以外のなにものでもない。子供だったから、過激になりすぎなかっただけで、やったことは異常だ。
 告白して振られて、諦めつかないから姉さんの周りの友達から距離を詰めて、家にくる口実を作るために私と付き合った。私と二人で話している時も話題は姉。姉のことを聞きまくって、私を通じて会いたがった。
 無知で無垢だった私は疑うことなく、姉との仲介人を彼女という言葉に乗せられて熟していた。
 本性を知ったのは、姉の友達から教えられた。問い正したらあっさりと暴露されて、浮かれて好きだと思ってたから、普通に傷ついて。それから私は姉の代替品なんだって思うようになった。
「…………姉さんが、結婚したの知ってますよね」
「うん。だから東京に来たんだよ。本屋で名前を見た時はびっくりしたなあ。友達から絶縁されたけど、風の噂で上京したってのは聞いてたし」
 ようやく絞り出した言葉に、この男は何倍もの情報量を返してくる。
 怖い。
 やっぱりこの男、異常だ。
「ねえ、真澄ちゃんの待ち合わせしてる人って、」
「真澄」
 短い音。低い声。それだけでこんなに安心することなんて、これ以上にない。
「みつ夫くん」
 相当な顔をしていたのか、彼の名前を呼んで振り向いただけで、彼は全てを理解したようにこの男の方に目線を向けた。
「彼女に何か」
「俺は彼女の知り合いだよ。お姉さんと共通のね」
 姉というワードにみつ夫くんは反応した。
「ああ、貴方ですか。悪戯に姉妹を比べて、真澄を陥れたっていう」
「陥れるなんて、俺は」
「そうでしょう、お前のせいで真澄がどれだけ苦しんで悩んだと思ってる」
 食い気味に言葉に重ねて、言い訳を許さない。
 でもどうしよう、ちょっと泣きそう。
 流石に人の多いカフェではダメと、外に出ることにした。警察とか呼ばれたらどうしよう。
「彼氏いたんだ」
「……」
 みつ夫くんの後ろに隠れる。そういえばクソ上司に殴られ掛けた時も、みつ夫くんは私をこうやって庇ってくれた。
「ねえ、じゃあ俺はどうしたらいいわけ、真澄ちゃんが取り持ってくれなかったら透子ちゃんに会えない。仕事中は話しかけられないし、家にはあの男もいるし、真澄ちゃんがいないと」
「それで?」
「真澄ちゃんと結婚したら透子ちゃんとも会えるし、最悪、透子ちゃんの代わりになるでs」
 最後まで言わせず、みつ夫くんが胸ぐらを掴んだ。
「殴るのは…!!」
「殴らない」
 絶対に殴らないと、両手で相手の服を掴む腕がわなわなと震えながらも主張している。
 いや、殴らないと言いつつ、眼光だけで人が死にそう。
 それでも怒りのままを吐き出さず、なんとか言葉を探しているようにも見える。
「謝れ。十五年前とさっき、真澄を代わりだと言ったことを謝れ」
「は?」
「お前のせいで真澄は姉を通してしか自分を見れなくなった。姉のようになりたいって言わせたんだよ」
 姉さんのようになりたかった。なれるわけがないのに、姉さんが私のあるべき姿で、私は劣化版で代替品。ほんの数年前まで本当にそう思っていた。姉さんではないから、私は私が大嫌いだったし、誰かに好かれるわけもないし、一番に思ってもらえないって、大真面目に。
「…………悪かった」
「俺じゃなくて、真澄をみろ」
「悪かった」
 圧に負けたのか、渋々と心のない謝罪の言葉が聞こえてきた。心になんの響きもしない言葉では、もう癒せない。
 それでも謝ったからと、なんとか逃れた男は走って逃げていった。みつ夫くんは舌打ちをしたけど追わなかった。
「あの話を聞いて、付き合い始めてからずっと腹が立ってた」
「え、」
 初耳なんだけど。
「“私より姉さんの方が良いに決まってる”そう思わせるほどのことを言った奴がいるって。良いわけがない」
「あ、ありがとう」
 相手の胸ぐらを掴んでいた手をぱっぱとはらったあと、私の髪の毛を軽く撫でる。髪が乱れてると言い訳しているが、おそらく私を慰めているのだろう。そういうところ好き。
「もっと早くくればよかったな」
「ううん、これでも聞いてたより早かったよ」
 手を繋いで歩き始める。やっと、待ち望んだ買い物の時間だ。
「俺も調べてきたけど、良さそうな店見つけたか?」
「うん、シンプルなの多くて、みつ夫くんでも普段からつけられるの多いと思う」
「どんなデザインでもつけるけどな」
 
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