短編集

 声が嫌いだ。
 その甘い声で女を口説いたりしているだろうと思うだけで虫唾が走る。
異能以外にも"忘れない"という才覚を持つ私にはこれ以上ない拷問だ。あの男の声はKに瓜二つだった。始めて声を聞いた幼少期には消えたはずの彼が居るのだと錯覚したぐらいに。
 大人になった今でも正直嫌いだ。
「紫織ちゃん」
 と、私の手を取ってこれでもかと甘く媚びるような声を発する。手を払い除け、顔を背けてもさらに「照れて可愛いなあ」と追い討ちを投げてくる。
基本で嫌な顔をするとキラキラと目を輝かせて嘘泣きのような真似をする。
「貴方の声、聞きたくないんですよ」
 忘れない私に追い討ちをかけるその声は、とても毎日聞いていては耐えられない。
見つめ合っていた目線を外して、言い訳したい訳では無いのに、言い訳が口から出てしまう。
「私に優しくするのが悪い、耳元で囁くのが悪い。離れてください。出来るだけ遠く……声を聞かせないでください」
 何度、意地悪い言葉や皮肉、罵倒を発してもこの男は平然としていた。
でも、この時だけは心のそこから悲しそうに目を細めた。
「嫌だね。何度でも呼ぶよ」
布の擦れた音がして、手と手が触れ、私の手の甲を彼はすりすりと撫でる感触に身体を捩らせながら抵抗する。
「あぁ、駄目だよそんな抵抗」
 逸らした顔を追いかけて唇を奪いにくる。
 両手で私の手を握っているからキスから逃げることは簡単だ。頭を振って逃げると太宰さんはまた追いかけてくる。
「っいや」
「だめ」
 長い指をうまく使い、片手で私の手首を掴み直して、空いた片手で私の肩を寄せる。身体ごと逃げていたのを抱き寄せて逃げられない私にキスを繰り返す。
 態と吐息を漏らしたりリップ音を鳴らして私に嫌がらせをする。
 声が、息が甘い。頭が働かない、馬鹿になる。
 何分も時間が過ぎて私が抵抗しなくなったのを見計らって掴んでいた手首を離した。「赤くなっちゃったね。ごめんよ」と、掴まれていたことで少し赤くなった手首周りを撫でながら耳元に唇を寄せる。
「紫織ちゃんが私の声を私のものだと、身体だけでなく脳で理解するまでは辞めない」
 甘いだけではない、低い喉の奥を揺らすような声色。
「本当は大好き、でしょ?」
 違うことなんて分かるに決まっている。
 そうでなければ両者への申し訳なさで舌を噛み切って死んでやる。それでも私が頑ななのは、この男が、私が、本心では抵抗出来ないのを知っててやってるからだ。
「紫織ちゃん」
 ああ、もう本当に、呼ばないでくれ。
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