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とりかえたい

わたしが初めてヨコハマに来た日も世界が紅い、夕刻だった。なんでも海を越えた隣国からの汚染物質が関係して、世界が紅色に染まっているらしい。此の事を知らない人たちは人並みに「綺麗な夕焼けだね」と写真を撮ったりするだろう。各云うわたしも、そんなことを教えてもらうまで知らなかった。
 ただ、わたしの身に起こったことを天の神様が判ったように此の世界に珍しいことを起こしてくれたのではないかと、そんな自己満なことをなんとなく考えたりもしていた。

「はぁ……気味悪いなぁ…」

わたしは独り言を呟く。
 ヨコハマに来て初めて真面に話し相手になった条野という男性に斡旋してもらった「猫探し」という私立探偵のような仕事の為にわたしは薄暗い雑木林の中を何時間も歩いている。依頼人は此の林一帯を私有地に持つ富豪で、家から逃げた猫を捜索するという依頼だ。
 こんな依頼を如何して公務員の彼が斡旋していたのかはとても疑問だが、そんな事、気にならないぐらい今回の報酬は良い。
 確かに、初対面から偉そうな雰囲気を飛ばし、没落華族であるわたしのことなど湧いた蛆虫を見るような目で、目線に入れるのも嫌そうな顔だったが、報酬を考えればそんな不快な視線も耐えられる。厭、相手にとっては蛆虫に与える程度の報酬なのかもしれないが。

「此のままだと、蛆虫というか黴が生えそう……」

鬱蒼とした雑木林は湿度が高い。こんな場所にもう二時間以上いる。そろそろ足が痛いし、紅かった世界は徐々に紺色に染まりつつある。こうなってくると依頼を投げ捨てて、住んでいるボロアパートに帰りたくなる。家の布団に何も考えなく、怠惰な時間を貪りたい。
 大体、こんなに探していないのだ。とうの昔に保護されたか、林を抜けて街に出たのだろう。猫にまで威張ってそうな人だ。御猫様も嫌気がさしたのだろう。
 わたしは帰ることを決意し、依頼人に電話を掛けことにする。何を云われるか判らないがサービス残業はしないと決めているので仕方ない。

「貴女の願い。叶えてあげようか?」

今まで私の息遣いと風で草木が揺れる音ぐらししかしなかった静かな世界に、凛とした声が響く。
 くしゃり、と地面に落ちている木の葉を踏み、わたしの方へ歩いてくる。
 暗くなっていく紅い世界に溶け込んでいる、女性がいた。何故其の人が私の正面にいるのか判ったかというと其の女性の目が暗い世界の中で異質な程に光を放っていたから、正しく月のような黄色い瞳。そして女性と判ったのは彼女の美しい乍に芯の通ったような強い声と、立ち振る舞いがあったから。

「願い?」
「ええ。貴方の願い。なんでもいいし、何個でも叶えてあげる」

対価を払えば……という彼女の言葉を訊こうと思う理性と、其の魅力的な言葉に対して直ぐに願いを云おうとする本能が一瞬の戦いを行う。勝ったのは本能。
 結局、対価がなんなのか聞く前に私は願いを彼女に言った。

「今すぐに家に帰りたい。家の万年床で明日の昼ぐらいまで寝たい。序に今の依頼人の家が全焼して財産も全て失って路頭に迷えばいい。そして今まで蔑んできた人たちに蛆虫を見るような目線を向けられればいいのに」

後半はとても道徳的とは云えないが、こんな胡散臭い人にそんなことまで叶えられないだろうと半ば適当に思い付いたことを云った。
 すると女性は「後から、こんな筈じゃなかった」って泣き寝入りしても遅いわよ。其れに願いの取り消しは出来ないのと願いで時間は戻せない。と忠告された。
 なぁんだ、なんでも叶えると云う割に時間は戻せないんだ。とわたしは落胆した。強いて云うならわたしの一番の願いは「時間を戻してほしい」だったのに。

「うーん、なんでもいいよ。叶えてくれるなら」
「其れが貴女の願いね」

そう云った彼女は、月のような瞳を下弦の三日月のように怪しく細めた。
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