銀桂の薫りはあなたの気を惹く -Exhibition -
修羅場である。
決して恋人と喧嘩をしたとか、他カップルの痴話喧嘩に巻き込まれた、とかではない。
大学生になると大抵の人間が経験する修羅場。レポート提出の期限である。
「……チッ」
今日は明日のレポート提出最終日に向け、限界大学生の詰所こと真山御殿にてレポートの字数を稼いでいるわけだが、いつもは聖女の如く焦燥と不機嫌を表に出さない薫ちゃんが、今は鬼の形相でアナログなレポート用紙に必死でボールペン書きを行なっている。今の舌打ちは、誤字をして修正テープを使わざる得ないことに苛立ったが故の舌打ちである。顔の造形が綺麗な人間のキレ顔は怖いというが、普段全く見ない表情ということもあり新鮮味もある。
彼女は本来ならば”大抵の人間が経験する修羅場”を経験しないタイプの人間だ。教育学部で高校教諭を取るべく真面目に勉強している彼女に”提出期限前日に修羅場”という単語は無縁だった。
ではなぜか。事件は今日の昼間に起こった。
昼間、俺と薫ちゃんは空き教室でノートパソコンを広げ一緒にレポート作業を行なっていた。
俺はほぼ白紙の状態だったが、彼女はほぼ完成の状態であり、見直しを行なっていた。
薫ちゃんが水分補給にとペットボトルの紅茶を口に含んでいる時に事件が発生する。
「うわ危ないッ!」
「んッ!?」
偶然隣の通路を通ろうとしていた小賀が落ちていたシャーペンを踏み体勢を崩したことにより、彼女とぶつかって結果的に薫ちゃんは手に持っていたペットボトルをパソコンの上に落とした。
結果的にパソコンは故障。修理に出すことになって小賀の懐は真冬になり、薫ちゃんのレポートはほぼ白紙になった。提出用のPDFに出力したものはクラウドで確認ができたが、いくつかWord管理のままだったのだ。自分のパソコンでレポートを書き、外付けUSBではなく本体保存していた彼女には他にデータを開く方法がなかった。
いつもは小賀の不運に笑って手を貸している彼女もその時は笑顔が引き攣っていたし、紅茶がこぼれた時には絶叫していた。
小賀はもう、そういうものだと思うようにしているが、彼女も結構巻き込まれ体質で不運寄りだ。
「…う゛〜〜〜〜ッ」
「だ、大丈夫? 休憩する?」
頭を掻きむしり、いつもは綺麗にセットされた髪が乱れ目元が髪で隠れる。め、目がすわってる……
一度アウトプットしたものを、今度はアナログで同じものを、と言われたら相当なストレスだろう。
「大丈夫。なんでもっと前に提出しなかったんだろうってイラついてるだけ」
目に光はないが、怒りの矛先が小賀ではなく自分なあたり彼女は本当に人が出来ている。
「そろそろお腹空いてきたし、ウーバーでも頼もうか。僕が注文するから欲しいもの教えてから送金してね」
真山の提案に俺と水元が手を止めるが、薫ちゃんは届くまで書き続けるらしい。レポート用紙に穴が開くんじゃないかってぐらい睨みつけている。
「銀木さんなに頼む?」
「牛丼大盛りつゆだくトッピング食べるラー油、キャラメルフラペチーノエクストラホイップチョコソース追加でお願い」
雄々しさと可愛らしさって共存するんだ……
しかし、牛丼はありだな。俺も牛丼にするか。
結局真山も水元も牛丼の口になって注文することになった。
「あ〜だめ、目がチカチカしてきた…」
「ホットアイマスク差し入れでいっぱい貰うからあるよ。取ってくる」
ウーバー来るまでにも余白を埋めてる彼女は、途中でボールペンを置き眉間を指先で摘む。マヤセンは寝室の方からホットアイマスクを取りに席を立った。
「ちょっとは休んだらいいのに」
「仮眠取ったら終わる気がする」
瞳孔は完全に開いている。驚いた猫ちゃんみたいだ。…猫ミーム見たくなってきた。
「なんでそこで猫ミームになるんだよ…」
「頭抱えたいのは猫ちゃんより私なんだよね…」
頭を抱えて鳴く猫ちゃん、可愛い。
あ、薫ちゃんがペンを置いた。いいぞ水元このネタで行こう。
「あのミーム好きなんだけど流行の廃りが早すぎて悲しい」
「お前が頻繁にチピチピチャパチャパうっせぇから終わってくれて助かったわ。…で、銀木が思い浮かべるのはDJ猫なんだよ。他にあるだろ」
「え〜可愛いじゃん」
「え! なんの話? 銀木さんにはい、ホットアイマスク」
真山が戻ってきて薫ちゃんに個包装のアイマスクを渡す。
マヤセンを見て思い出すのは十中八九、あれだ。マシンガントークヤギ。
「ぶっ…お前ら一斉にヤギやめろ」
薫ちゃんもかい。
「えっヤギ? 猫の話じゃなかったの??」
「猫ミームな」
「え〜〜〜〜〜ッ、ハッピー猫にしてよ」
確かに、学内外どこでもBL的概念を見つけただけでもハッピーしてるもんな。
ミームの話をしている間に家に食事が届き、夕食の時間。
お腹が空いていたというのもあったのだろう。薫ちゃんの情緒はだいぶ落ち着いたように見える。
「今日どうする? 泊まってく? 僕らはよくやるけど…」
食べている間に、マヤセンが今晩のことを聞くと薫ちゃんはハッとした。現在時刻はすでに十九時を回っている。そして白紙になったレポートの数的に日付が変わるまでに終われるかは微妙なところだろう。
俺、水元、と視線を向け反応を伺ったあと、マヤセンに視線を戻す。
「家主がいいならありがたいけど…」
「いいよ〜仮眠したかったら部屋もあるし」
「ありがとう助かるよ」
「どういたしまして」
食事を終え、ゴミを片していると、キッチンに俺の様子を見に彼女がやってくる。
「暇があったらコンビニ行くのついてきてくれない?」
少し歩く場所にしかコンビニはないし、そもそも夜に女子一人で歩かせるのはBL漫画の世界であっても良くない。
そもそも俺が薫ちゃんを一人で行かせるのが嫌だ。
「もちろん。何買うの?」
「化粧落とし」
それは確かに必要だ。
大抵のものが揃っているこの家だが、流石に真山が個人的に女子を呼ぶことはないと思うので、女子特有の必要なものはないだろう。
二人の買い物も引き受けて、俺と薫ちゃんで近所のコンビニに向かう。
必要なものを買って帰路に着く際、彼女が口を開いた。
「ごめん。猫ミームの時の会話、気つかってくれたんだよね…? 脳内で多分色々考えて、水元くんの集中の邪魔してなかったらいいんだけど」
気づくあたり、彼女は本当に思いやりがあって、心優しい人なんだと再確認する。
彼女は自分の機嫌をコントロール出来なかったことを後悔しているようだが、そこまで落ち込むことではない。パソコンが使えなくなった経緯から、今回の修羅場形成、真山宅に泊まりまで薫ちゃんに非はない。
「水元は、うざいと思ったらちゃんと言うから大丈夫」
「そうかな? 友達の彼女だからって面倒に思われてないかな」
水元の人との関わり方が虫以下なのは、超能力が原因であり、彼女が気にするところではない。
それに、俺が断定するのもおかしな話だが、水元もおそらく薫ちゃんのことはちゃんと友人認識していると思っている。
本来なら男女の友情など成立しないと言うところかもしれないが、この世界はBL漫画の世界だ。男同士の友情の方が性欲に傾き、逆に異性間の方が適度な距離を保つ友人であることが多い。そう、カップル成立前の男たちの近くにいる所謂女友達ポジに近い形と言えるだろう。
「思いやりが深いところが薫ちゃんのいいところだけど、水元にとっては普通に接したくれたほうが嬉しいんじゃないかな」
「…そっか、ありがとう。そうかもね」
今日の事故以降、彼女は初めて笑みを浮かべた。買い物袋を持った手とは逆の腕に彼女が抱きついていた。
提出期限の不安が、内心に溜まっていた色々な不安を増幅させていたのだろう。
俺自身が彼女にフラグ的な意味は置いておいても、普段から優しさに救われているし、出来ることがあるのならしてあげたい。
ダシにするつもりもなかったのだが、真山宅に戻るまでの間、彼女の”甘え”はしっかりと受けさせてもらおう。
時間は過ぎ、日付がそろそろ変わろうとしている。
提出期限まで残り約十二時間。毎度修羅場を迎える俺たちにとってはここからが本番なわけだが、普段から規則正しい生活をしている薫ちゃんはすでに活動限界を迎え、瞼が五割ほど落ちてきている。
あ、やば、船漕ぎ初めてレポート用紙にミミズが生成されようとしている。目覚めた時の絶望を想像して自分のことではないのだがゾッとする。
「少し仮眠取ったら? あと二教科だけだよね?」
「ん……そ、する」
手からボールペンを抜き取ると、彼女はさも当然のようにあぐらを掻く俺の足を枕にして寝そべった。
「????」
「三十分したら、おこして…」
寝るのに枕がいるのは分かる。今尻に敷いているクッションは枕にならないのもまだ理解できる。
俺の足で膝枕はちょっと訳わかんない。 膝枕って女子の柔らかい身体でするからいいのであって男の硬い足で膝枕しても痛いに違いない、っていうかもう寝てるし。
「お前うるさい。集中しろよ」
この状態で集中できると思ってんのか。薫ちゃんが俺の腹側向いて寝息立ててんだぞ。
「ちょっと。レポート頑張ってる作家の前にネタを転がすのやめて」
それは知らない。
──結局全然集中出来なかった。だが俺も微かに感じていた眠気は完全に飛んだので良しとしよう。
「薫ちゃ〜ん、三十分経ったよ〜起きて〜」
肩を揺らすとモゾモゾと動く。そういえば彼女、寝起きは少し悪いんだった。
寝返りを打ち、うつ伏せになる。うーん勘弁してください二人が前にいるから。
「……硬い」
「そりゃあ、男の足だからね」
気だるそうに薫ちゃんは起き上がる。
「でもよく寝れたありがとう」
「ならよかった……?」
一度水を汲みに立ち上がり、戻ってくると再び黙々とレポート用紙の空白を埋めていく。
寝起きすぐに普段の集中力を発揮できるとは。部活とかで培われるものなのだろうか。
「手、腱鞘炎になりそ〜。真山くんとか普段どうしてるの?」
「サポーターとか付けてるよ。あとやっぱり”休憩を取る”かなあ。時間を忘れると難しいけど」
「わかる難しいよね。私もよく部活で休憩忘れて怒られた」
まさか真山に対して悔しいと思うとは。会話に乗れない。
おいこら、水元口元が笑い我慢できてないよ。腹立つ。
すると薫ちゃんと話していた真山が急にこっちを見た。かなり嫌な予感がする。
「銀木さん、隣のカレシも話に入れたげて。彼、膝枕中とかすごい悶々としてたよ」
「ブッ」
おい。ふざけんなお前ら。
「えっあ、本当にごめんね!? 足痺れてない??」
可愛いから許した。でも薫ちゃん、問題はそこじゃない。
「いいよ気にしないで。生活リズム的に眠いのは仕方ないし」
平謝りの彼女を宥めていると、目の前の二人も仲間割れをしているようだ。
「真山お前、人の良い銀木を困らせんなよ」
「えー、キミだってさっき吹いてたじゃん」
二人の言い合いに彼女が笑う。
「いや、仲良くはない」
「そうかな。水元くんも楽しそうだよ」
二人のやりとりを見て「仲良いんだね」と考えていたのだろう。
水元がそれを否定しても薫ちゃんは意見を曲げない。水元もそれ以降は否定もしない。
図星か。普段散々俺らのことをカス扱いしるくせに。
まあ俺も二人のことは友人だと思っている。この世界のことを認識している数少ない味方のようなものだ。
「…お前はほんと黙れ。口も脳内も」
ガタッ
おっと、マヤセンが急に立ち上がってびっくりした。
「もしかして水元くんのカップルサンド??? 酷い! 僕も友達なんだから会話に混ぜてよ!!」
ややこしいことを言うのはやめてくれ。普通に四人組でいいだろ。
────。
*
時刻は七時。屍となった真山を踏まないように跨いでカーテンを開けると、差し込んだ朝日に目がくらむ。
座ったまま寝てしまい首が痛いが、提出レポートは無事に全て完成した。
「は〜ぁ、おはよ」
朝日を浴びてソファーで寝ていた薫ちゃんも目覚めた。
乱れた髪を手櫛で軽く整えつつ目を擦っている。
「…お兄ちゃんからだ。仕事前に早めに出て迎えに来てくれるみたい」
「お、よかったね」
薫ちゃんの家からこの家は少し遠く、帰すならタクシーだっただろうし丁度良いだろう。
彼女はそそくさと広げていたものを片付けて、寝ている二人を起こさないようにしつつ、乱れた室内の片付けも少しした。
それが終えるとカバンから化粧ポーチを取り出して、乾燥が気になったであろう唇にリップを塗っている。
以前にも見た、既視感のある花柄のポーチ。チャックを閉じ、それをバックへ戻す動作に見覚えがあった。それは少し昔の記憶だ。
「文房具一式忘れてた…」
「っ…!」
口から出た言葉に、バックの中を見ていた薫ちゃんが勢いよく顔を上げた。
大学受験のとき、通路を跨いで隣になった女子にシャーペンと消しゴムをあげたことを思い出した。
どうやら化粧ポーチと筆箱を間違えたらしく、カバンの中身を全て出し、あの花柄のポーチを手にして唖然としていた。
あの時はまだ彼女の顔はぼやっとした認識でよく見えていなかったが、ポーチを手にしていた絶望の顔と、ノートパソコンが溺死した時の顔が一緒だ。
「……薫ちゃんって、結構運ないよね」
「思い出して貰えるとは思ってなかったけど、感想それなの…?」
小賀が極端な例すぎて感覚が麻痺っているとしか思えない。
図書館でステップで助けてもらった程度でここまで尽くしてくれるのが、どうしても腑に落ちなかった。
しかし、二回も同じ人物に助けてもらったと言うのは、BL漫画の世界なら運命的に捉えても何ら不思議ではない。
「…話変わるんだけどさ、バレーをやめるって言った時周りに結構言われたんだよね。勿体無い、後悔するって。実際推薦とか声かけられてたし」
確かに唐突だ。だがおそらく関係のあること。
真剣な声色に加え、過去彼女がした選択を否定した人物たちの言葉を思い出しているように目を伏せる。そんな儚く見える表情が、次の言葉を紡ぐ時にはいつもの明るい笑顔に戻っていた。
「でも、私はバレーやめても幸せに生きてるし。運がなくても、おかげで貴方と出会えて助けてもらって、今付き合えて、毎日楽しい。…後悔してないの。ありがとう!」
俺は、このBL漫画の世界でモブであることを何よりも望んでいる。
薫ちゃんは属性過多で、受けの妹で、真山の言うみたいに百合世界の住民なのではと思うこともあるのだが、それでも、これはBL漫画の世界の中に僅かに存在した、薫ちゃんとの運命だったのかもしれない。
「あ、ごめんお兄ちゃん近くに来たみたい。また大学で。二人によろしく」
カバンを肩にかけ玄関に向かう彼女を追いかけ、手を取り振り向かせると抱きしめた。
「俺も、ありがとう」
この感謝は彼女にちゃんと伝わっているのだろうか。
彼女に対し、好きという気持ちを抱いてから、場面を弁えても気持ちを抑えたことはない。
友人の家でしていいことと悪いことの分別はついているのだが、どうしても我慢が出来ずキスをした。
「…えへへ、友達の家ではしないんじゃなかったの?」
「今のはするでしょ…」
耳元で囁かれる言葉がくすぐったく顔が熱くなる。
「あとでね」
身体を離すと、彼女は声を抑えて呟き、手を振ると玄関ドアを開けて出て行った。
俺は大きく深呼吸をしてリビングに戻ると、床に寝そべりながらも先ほどからどう見ても体勢の変わっている男の背中を踏みつけた。
「ぐえぇ」
「なに撮ってんだ」
「そりゃ撮るでしょキミのSSRレアなラブシーンだよ!!?」
「真山も、お前も、感情が強い方がうるせぇつってんだろ!! 」
もう一人も血管が限界を迎えている。
野球部並みの声量は、マジですまん。
一方その頃。兄の車に乗る銀木。
(絶対水元くんに聞かれてた!!!! 仕方ないとはいえ恥ずかしすぎる穴があったら埋まりたい!!!!)
自覚があったので羞恥心で死にそうになっていた。
