銀桂の薫りはあなたの気を惹く -Exhibition -
隣に住んでいるお姉さんとは、可も不可もなく、普通の付き合いだった。
歳が離れていて、学校も違う。俺はずっと朝が得意でなくて、俺が家を出る時間には彼女は部活の朝練に出て、夜も委員会で遅くなった時にたまに顔を合わせる程度。
それでもたまに喋ると不思議なぐらい話が弾むし、仲良くしてくれた。
『おはよう伊織くん』
『薫さんも、おはようございます』
俺が高校生になって、相手も大学生になり朝の時間が合うようになった。
それまでずっとショートカットだった髪が明らかに伸びたなと感じるようになった頃に、学校に向かう時間が一緒になって最寄り駅まで喋るのが朝の恒例になっていた。
その頃にはこの人が他の女子と比べて話しやすい理由も理解できた。彼女は学校にいる女子のように喋っていて不意に見惚れられることがない。あからさまな下心を感じない。
俺に姉はいないけど、いたらこんな感じなんじゃないかなと思うぐらいには自然に話が出来る。話していたら楽しいと思う年上、という点では、少し綾人のお兄さんに似てる。
『実はね、最近恋人が出来たんだ』
『そうなんですか、おめでとうございます』
『えへへ、ありがと〜』
部活一筋。
同じマンションの主婦の人に恋人の有無を問われている場面を見かけた時、薫さんは「バレーが恋人みたいなものですよ」と少し困ったように笑っていた。あの乾いた笑みは反応に悩むことを無遠慮に聞かれて困り果てていたのだろうけど、言葉自体は嘘ではないように思えた。
でも、恋人が出来たと言う彼女を見て意外にも腑に落ちる。
大学に入学してから会う薫さんは、以前にも増して大人びていて綺麗な人だと思う。綾人を好きな俺が言うのも可笑しな話だけれど、この人に好かれる人が落ちないわけがないと思う。
だから、鉢合わせしたときは本当に驚いた。
薫さんの恋人が、綾人のお兄さんと知った時は。
*
「あ、おはよう。これからお外かけ?」
「はい。薫さんもですか?」
「そうなの。これから彼のお家に猫ちゃん観に」
「…実は俺も綾人の家に」
浮かべられた笑みが固まる。行き先が同じであることに気がついたからだろう。
薫さんはどこまで知っているのだろう。お兄さんは一を聞いて十を知るような察しの良い人だから、恐らく俺と綾人が付き合っているのことに気が付いていて、俺に良くしてくれているんだと思う。あと旗野のこともお兄さんは話しているんだろうか。
ここで四人で顔を見合わせた時は不自然な反応だったし、あのあと旗野からお兄さんと会ったとは聞いていたけど薫さんのことは聞いていない。彼、お兄さん以外のことは本当に何もかも希薄だからな…。
「私、これからお土産買ってから行くんだけど伊織くんはもう買った?」
「まだですね」
「だったら一緒に買って行こう。同じ場所に行くのにバラバラに行くのも変だもんね」
「! そうですね。行きましょうか」
どちらとも言えない反応。でも今までと変わらず気さくな人だ。
お土産を決めている間もそうだ。今まで通り他愛無い話をする。今日は綾人の家にいる飼い猫の話が多いけど。猫を観に来ないかとお兄さんに誘われて、夕飯もご両親も一緒にとのこと。綾人のお兄さんって結構強かなんだと思う。
「お邪魔します」
「お邪魔します、お兄さん」
「どうぞー」
二人でやってきたことにお兄さんは珍しく驚いたような反応をしていた。
綾人には事前に来ることを伝えていたけど、お兄さんには教えていなかったみたいだ。なんとなく綾人の考えてることが分かる。惚れた弱みとしてはなんとも口にしにくいけど、綾人のお兄さん大好きの裏返し行動は、たまにあらぬ方向に行く。
薫さんはお母さんとの挨拶を終えて、一番の目的のミーコちゃんへと意識を向ける。驚いたことに、会うのは初めてでは無いらしい。それにお兄さんも今まで見たことがない顔をしている。俺がいるから自重しているんだろうけど、上がろうとする口角を抑えられていない。…こんな表情するんだこの人。
「あ、薫ちゃん。口元にクリームついてる」
「はずかし、」
お土産に買ってきたエクレアと綾人も入れて四人で食べていたら、薫さんの口元についたカスタードクリームをお兄さんが指で拭い舐めとった。
お兄さんってこういうことしないと思ってたから本当に意外だ。綾人が言うよりちゃんとしてる人だし、俺たちとも仲良くはしてくれているけど適度な距離感を保っている。だから多分、二人にとっては特段珍しいことでは無いのかも。
あ、でも薫さん驚いて指にチョコ付けちゃってる。
「薫さんティッシュ使いますか」
「…使う。ありがとう伊織くん」
薫さんの膝の上にはミーコちゃんが「ここは自分の定位置」だと言わんばかりに寛いでいて動きそうにない。
視界の端で綾人が俺と薫さんを見てる。綾人はこう言う時の表情が本当に分かりやすい。向けられている視線の意味が言葉がなくても良くわかる。嬉しいな。心配しなくても俺も薫さんはただのお隣さんだよって言っても、綾人は顔を真っ赤にして「なんも言ってないだろ」って否定するかもだけど。
お茶を終えて、片付けをかって出た。薫さんもミーコちゃんを置いて立ち上がると兄弟二人も立とうとするけど断った。申し訳なさそうにする顔が一緒で面白い。
俺が食器を洗い、泡を洗い流し薫さんが水気を拭き取る。
「さっきの二人の表情みた?」
「はい。たまに浮かべる表情が似てて兄弟だなって思います」
薫さんも同じことを思ったようだ。
他のみんなが言うぐらいだ。二人の顔がよく似ているのは事実。俺が二人を全く違うように思うのは綾人が好きだからと言う惚れた欲目なのかもしれない。
「──くんは兄弟よく似てるでしょって言うけど、綾人くんは似てないって言うみたいだね」
くすくすと笑う薫さんは、今まで年上で大人びたイメージのある彼女とは少し外れた印象を内包している。
「薫さんは似てると思いますか?」
「えぇ私まだ綾人くんとそんなに話してないしなあ…パーツはご家族で似てるけど雰囲気はあんまり似てないよね」
人の目をまっすぐ見て話す薫さんは人の表情をを本当によく見ている。第一印象よりも一歩先を彼女は大切にしている。
お兄さんはまるで読心でもしてるんじゃないかと思う時があるけど、この人は汲み取るのが上手い。猫のように無の顔になることが多いお兄さんとうまく続いているのはそういった部分が噛み合っているからなのかもしれない。いや、もしかしたらこの人の前ではお兄さんは表情豊かなのかも。
「薫さん、お兄さんのこと呼んでみてください、くん付けなしで」
笑って細まっていた瞳が丸くなった。
俺の意図がちゃんと伝わったかどうかは分からない。けれど拒否はせず、彼女の口から装飾なくお兄さんの名前が呼ばれた。
「はいは…………い??」
頼まれた付近を手に取ったところでお兄さんは固まった。いつも冷静なこの人が目に見えて狼狽えているのは初めて見る。花見の帰りの車内で旗野に口説かれていた時でさえ、何か言葉に出して無言の時間を作ることはなかったのに、今は完全に黙ってしまった。
「……はい。薫」
声色に動揺は隠しきれていない。でも表情には出ていなくて、お兄さんはポーカーフェイスが上手いんだと分かる。そういうところは綾人とは真逆。
「うん」
薫さんはかなり照れているみたいで、「違和感あるね」と笑って誤魔化しながら言っている。お兄さんと目が合うと、僅かに眉間に皺が寄った。けれど悪い方に解釈はされず怒らせたわけではないようだ。
「東條くんも夕飯食べてく?」
「いいんですか?」
「もちろん。母さんに連絡するわ」
遠回しではあるものの、お褒めに預かったみたいで良かった。
トイレで離席していた綾人が戻ってきてお兄さんは完全にいつも通りを取り戻している。
「伊織くん」
「はい?」
薫さんはずっと平常が保てず口元を手で隠していた。
「ありがとね」
「はい」
…旗野には申し訳ないけど、これ、本当に勝ち目ないと思うよ。
*
もし仮に、お兄さんの相手が薫さんでなかったら俺も旗野の応援を続けることが出来たかもしれない。友達だし、グループの中で綾人を好きじゃない味方ということも差し引いても、見ていて面白いし協力するのは嫌じゃない。
でも実際に二人の様子を見て望みは薄いと思った。
お兄さんは、おおよそ俺と綾人のことに気付いていて、それを気にする様子もなく自然に相手をしてくれるから、同性で付き合うこと自体に嫌悪感とかは抱いてないと思う。でもあの人自身は、前に好みを聞いた時から変わらず女の人が好きなんだよね。そこに理想系に近い薫さんがいるなら他によそ見をするようなことはない。
旗野もいいやつだけど、俺が下手に誘導すると好きな人の優しいお兄さんも、お隣の優しいお姉さんも失うことになるのは辛い。
「ごめんね」
「…気にしてない。俺も悪かった色々頼って」
それでも旗野は成人後に告白するのを止めないつもりらしい。
「あの女の人の次でも、もっと下でもいいからあの人に覚えていて欲しいんだ」
「そっか」
そんな会話があってからも俺は綾人の家にみんなで行く時は旗野も誘ったし、出かける時も変わらず誘うようにした。
元々積極的に絡んでくるような人じゃなかったけど、お兄さんが旗野を実質的に振った日から、四人で家に行く日にあの人を家で見かけることが減った。綾人は「兄貴は薫さんとデートだとよ」といつも恨めしそうに言う。お兄さん大好きでツンケンしている綾人と俺が知らないうちに少しずつ打ち解けていることに驚く。やっぱり人と仲良くなるのが上手い人なんだ。
でも一度だけ、旗野と薫さんが顔を合わせた場面に出会うことになる。
「こんにちは。この前会ったよね。旗野くん、だよね?」
「…っはい旗野龍二です」
デートの待ち合わせで、今日は薫さんが車を出すという約束をしていて、マンションまではお兄さんが行く予定だったらしいのだが家まで迎えにきたらしい。そのタイミングで俺たちも遊びに来ていた。
玄関先で会話をしている二人を俺はヒヤヒヤした気持ちで見守る。三郷くんは「お兄さんの美人な彼女」と喧しかったので先に部屋に押し込んだ。
「えっ薫ちゃん、迎えに来てくれたの?」
お母さんに呼ばれてお兄さんが慌てて二階の部屋から駆け降りてくる。腕には少し大きいバックがあって泊まりのデートなんだと分かった。
「急にきてごめんね。いつも迎えに来てもらってるから」
「別にいいのに、俺がしたくてしてるんだよ」
ちょっと待ってて、とお兄さんはリビングに入って行った。
綾人が二階から俺と旗野を呼ぶ。階段から顔を覗かせている綾人、柳、三郷くんに対して薫さんは「こんにちは」と笑顔を向けて手を振った。三郷くんがちょっと五月蝿い。
「お待たせ、はい」
リビングからお兄さんが持ってきて、何か薫さんに手渡す。
「え、ありがとう」
「作ったのは母さんだけどね」
お兄さんがリビングから持ってきたは袋詰めされたお菓子だった。リビングからお母さんも顔を出した。
「息子と仲良くしてくれてありがとね。薫さんも気を付けて」
「ありがとうございます、いただきます!」
薫さんは俺たちにもう一度手を振って先に家を出る。
お兄さんも玄関で靴を履き始める。
「あの、」
「ん?」
ずっと置物状態だった旗野がようやく口を開く。お兄さんが視線を向ける。
だけど言葉を続けようとする旗野の声に三郷くんの声が被さった。
「お兄の彼女、めっちゃべっぴんさんやんな!」
デカすぎる声にお兄さんでさえ一瞬目を丸くした。あー旗野黙っちゃった。
「そーでしょ。薫は滅茶苦茶可愛いよ」
「じゃ、俺ももう行くから。ごゆっくり〜」
お兄さんはなんでも見抜くけど、直裁的な言い方はしない。ぬらりくらりと旗野の好意を交わしていたように。それはきっとこの人の波風立てないための処世術だったんだと思う。
だからこそ、その所謂オブラートをかなぐり捨てたお兄さんの言葉は旗野にダメージを与える。
俺も驚いた。前に呼び捨てで呼び合っていた時はあんなに動揺していたのに、さっきは自然とそう呼んでいた。まるで普段から呼び慣れているように。
なんだかもう、完全に釘を刺されちゃったな。やっぱりこれから下手に旗野の味方できないや。
