銀桂の薫りはあなたの気を惹く -Exhibition -
前回のあらすじ、薫ちゃんが飲み会でお持ち帰り未遂を受ける。
非常に恐ろしいことではあるが、飲みかけの酒に周囲に気付かれないように異物を混入させるという事案は、BL漫画においても発生する。
だが同性が多い飲み会で警戒心の緩まった場面の悪用、何より同性同士ならは多少は許されるだろうとしている世界が恐ろしすぎる。普通に性暴力である。男だろうが女だろうが普通に危険人物だ。そんな人物を彼女の友人という立ち位置のまま放置するわけにはいかない。
「あ、薫おはよー、昨日大丈夫だった?」
「おはよ。うん彼が家まで送ってくれたし」
薫ちゃんには表向き普段通り大学で授業を受けてもらう。
流石に人の多いキャンパス内でいきなり襲われることはないだろう。
そして今話しかけてきたのは昨日の飲み会の幹事だな。俺は女子の顔が判別できない代わりに髪型や身長などで識別している。この女子は薫ちゃんと同じ暗髪で根明系なので恐らく犯人ではないだろう。
「珍しくベロベロだったもんねぇ」
「それはごめん。あのあと特に何もなかった?」
「んー、普通だったかな。あ、でもミカは薫が帰ったあとすぐに帰っちゃった」
ミカ。
薫ちゃんと同じ高校出身。俺も彼女を交え数度話したことがある。そして千鳥足の薫ちゃんが俺に抱きついてきたとき真っ先に『本当に彼氏呼んだの。見せびらかしじゃん』と声をかけてきた女である。
明るい髪色に小柄で優しげな雰囲気をしているが語気が強い、まさしく薫ちゃんとは真逆のタイプ。そして俺が真っ先に目星をつけた人物。
「あとでね〜」
「ありがと、またね」
この幹事と薫ちゃんみたいな女子が少数であることがBL漫画の世界の恐ろしいところである。
「……やっぱりミカだと思う?」
「十中八九」
眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。唸る薫ちゃんを見て今朝の会話を思い出す。
『フラグ回避の大先輩としての見解を聞きたい』
『言い方が大業すぎるけども……えーっと、なんて子だっけ…小柄で金髪の…』
『リサ? ミカ?』
『髪長い方』
『ミカだね…ミカか……』
名前を復唱する彼女の表情は、どうも心当たりのある顔だ。
普段の二人のやりとりを見ているわけではないが、側から見た属性だけでも十分あり得る。組み合わせの法則がBLと同じならば、対立する真逆の属性を持つもの同士はカップルになりやすい。
『…結構前にめちゃくちゃ強請られて友達に写真見せたって言ったじゃん?』
『あぁ…付き合いたての頃だよね』
『そのとき愛想笑いで”優しそう”って言った子だよ』
友人の微妙な顔の彼氏を見た時の常套句を言われた薫ちゃんが、頭に来てムキになり言い返したことも知っている。
憶測が正しければ、なんとなく思考も想像できた。
「今日は講義一緒じゃないけど、バイトは一緒なんだよね…」
彼女は、薫ちゃんと同じくキャンパス内の図書館のアルバイトをしている。
「今日あからさまに避けるのは良くないし、俺も今日は図書館で勉強しとく」
「うん、ありがとう、お願い」
そうしてお互い講義のために一旦の解散。講義終わりの夕方以降、俺はバイト中の薫ちゃんを見守るために図書館に向かった。
返却された本の再配架、本棚の整理清掃がバイトの主な仕事らしい。本棚と本棚の間の通路を、本を乗せたトラックを押して歩く彼女の姿が時折目に入る。そして件の女子も薫ちゃんと一緒に行動して仕事をしている。
今のところ、問題はなさそうに見えるが……。
ミカとは普通に仲の良い友達だと思っている。
ずっとバレー一筋で生きてきたから、中学高校と友達と遊ぶ時間は少なかったけど、彼女とはクラスの班で一緒になって仲良くなった。試合もよく見にきてくれていた。
なんの変哲もない友達のひとり。
「昨日、大丈夫だったの?」
「うん大丈夫だよ」
昨日の飲み会にいた友人みんなに聞かれた言葉なのに、彼女の問いかけだけは妙に勘繰ってしまう。良くない。ポーカーフェイスは苦手なのに、疑って掛かるなんてしたら駄目だ。
書架の最上段に配架する本を私が、逆に下の段をミカが担当する。いつもと同じ流れだ。
「やっぱり良いよね、薫は背が高くて」
「そうかな」
「うんかっこいい。昔から」
かっこいい。
彼と付き合うまで私に向けられる言葉はこればかりだった。決して嫌ではない。でも、今思い返してみれば、私を最初にかっこいいと評したのは誰だったっけ。
「バレーしてる姿が、一番かっこよかった」
高校でバレーを引退すると言ったとき、OGやコーチ達より残念そうな顔をしていたのは誰だっけ。
「薫って変わったよね。彼氏出来てから」
「そう、かな」
「そうだよ」
トラックから本を取るはずが手に取ったのは──、取られていた(、、、、、、)のは本ではなくミカの手。
まずい、そう思った時には遅かった。
握られた手を書架に押さえつけられた。周りにバイト仲間はいない。しかも彼からも死角の位置にいる。
「あたしも薫のこと薫ちゃん(、、、、)って呼んだらいい? かっこいいじゃなくて可愛い(、、、)って言ったら良いの? そうしたらあたしのこと見てくれる?? 薫を好きな気持ちは同じじゃん?」
背伸びをした彼女の顔が目の前にある。咄嗟に顔を背けたら反対の顔で頬を掴まれ、正面を向かせられる。
「むかつく、あたしの方がずっと…ずっとずっと、」
怖い。この子は本当に私の知ってる友人なんだろうか。
「薫の酒に媚薬入れたんだよ。昨日は盗られちゃったけど今度はちゃんとあたしが気持ち良くしてあげる」
身の毛がよだつ。本当に怖い。
「ね、薫ちゃん(、、、、)」
全然違う! 同じ呼び方をしたって、声も抑揚も、込められた想いも何から何まで違う。
絶対に、同じじゃない!
「──くん…!」
私が彼の名前を呼ぶとミカは顔を歪めた。
左手を掴む手に更に力が込められる。ネイルの先端が刺さって痛い。抵抗すれば多分振り解けるけど、無理に抵抗したらきっと良くない。諭そうと言葉を選んでいる間に、ミカが先に言おうとするけどそれは止められた。
「薫ちゃん…!」
焦燥顔に眉間に汗を掻いた彼がやってきて私とミカの間に腕を入れて引き剥がす。同時に頬を掴まれていた手が離れた。
「…ちょっとっ! 薫の彼氏だからって出しゃばってこないで、今あたしと喋ってんの!」
「バイト中の口論にしてもやりすぎだと思うけど? 昨日の今日で体調も良くないんだよ薫ちゃんは」
話を大きくしすぎないために、彼はこの場をバイト中の口論として収める気みたいだ。昨日のことを知っていると示唆する言葉にミカは歯を食いしばっている。
掴まれたままだった左手も彼が振り解いてくれた。
「バイトリーダーに言って早退させてもらおう」
体調は正直そこまで悪くはないけど、多分顔は真っ青だ。
上着を頭に被せられ視界を遮られる。狩猟で動物の視界を塞ぐと大人しくなるというけど、あれは人間にも効く。実際に恐怖心が少し和らいだ。
彼に肩を抱かれ、声をかけられつつこの場を後にする。
けれど、微かに恐怖心は和らいだとはいえ、ミカに言われた言葉が勝手に脳内を反芻する。
いつから? 一体いつから想われていた? かっこいいと私に言う声にあんな劣情が混じっていることなんて今まで気がつかなかった。
答えの出ないことをずっと考えていたら、いつの間にか彼が呼んでくれたタクシーの後部座席に座っていた。
彼の上着を取って横を見るととても心配した顔の彼がいる。
「落ち着いた?」
「…少しは」
「無理しないでね」
自然に手を取られ優しく握られる。
私よりも大きい手が、私の手を包んで親指が甲を撫でている。すりすりと微かに聞こえる音が心地よい。
空いた反対の手で彼の上着を握りしめた。その手にはミカに爪を立てられ跡がついている。
「ミルクティーだけど飲む?」
「うん…」
キャップを開けるために繋いでいた手を離し、嚥下した。
一口の筈が、二口三口と喉を鳴らし続ける。目を開けているのに昔の記憶が目に張り付いたように鮮明に思い出される。
『薫はかっこいいね!』『なんでバレー辞めるの』『え、優しそうだけど、意外…薫ってこういうなのが好きなの?』『薫を好きな気持ちは同じじゃん?』
あ、だめだ。
飲み口から口を離してキャップを閉める手が震える。
これは恐怖というより嫌悪だ。友達に抱いていい感情じゃない。同性に告られたことではく、あんな身勝手で暴力的な好意が恐ろしい。
今まで全く興味のない相手から告白されたことはある。友達だと思っていた人からも。でもさっきのは告白とは違う悍ましい何かだ。煮詰まった鍋の底のような、ドロドロとした好意と性愛を向けられて、心身が拒絶反応を起こした。
あのかっこいいに、あんな意味が込められていたなんて知りたくなかった。今まで友達だと思ってしてきたこと、思い出も全部、跡形もなく八つ裂きにされた気分だ。
視界が霞む、目が熱い。
いつの間にか手から抜き取られていたペットボトルの代わりに、また彼の手が繋がれて上着も頭に掛け直される。
言葉はなくても心配されているということは伝わってくる。
…やっぱり全然同じじゃない。
*
まさかBL漫画の世界とか関係なく、人怖案件とは思うまい。
美形の水元を見ていても厄介なのに絡まれているなとは時折思っていたが、女子である薫ちゃんにも世界は容赦がない。むしろ今回の犯人は彼女の男性にも劣らぬ外見的部分に惹かれているように思う。
バレーボール一筋だったからこそ、薫ちゃんは恋愛に疎く、あのガチ百合女子の好意に気が付くことが出来なかった。
図書館、キャンパス内と我慢していた彼女も、とうとう涙腺が崩壊してしまい、俺には手を握り慰めることしかできない。ここで下手に言葉をかけることはしない方が良いだろう。
「……」
無言のまま薫ちゃんの頭が俺の肩に凭れかかった。
どれだけ信じ難いことでも、薫ちゃんはきっと自分の抱いた気持ちに折り合いをつけるのだろう。どれだけ体調が悪くてご両親がおらず寂しい日も、バレーを辞めた時に言われた言葉にも、俺がこの世界がBL漫画の世界であると伝えた時もそうしてきたように。それがある種の妥協点(あきらめ)だったとしても、だ。
だから俺は、俺だけは彼女の味方であり、恋人であり続ける。
俺のことを好きになって、付き合い始めて、毎日が楽しいと言ってくれた。過去の選択を後悔していないと言ってくれた薫ちゃんに、やっぱり後悔しているだなんて言ってほしくはない。言われたくもないのだ。
「お客さん、着きましたよ」
運転手に言われて頭を上げた。決済を終えて二人でタクシーから降りる。
泣き疲れてふらつく薫ちゃんを支え、部屋まで歩いた。
彼女の家は今日も誰もおらず静かである。同じ実家暮らしなのに俺の家とは全く違うとつくづく思う。
「なんか、初めて家に行った日のこと思い出しちゃった」
「あー…うんちょっと似てるかもね」
初めて薫ちゃんが俺の家に来た日。それはこの世界がBL漫画の世界であると伝えた日であり、俺たちが一線を超えた日でもある。
いつ雨が降り出してもおかしくない天気の悪い日に、家族のいない家の中。
貸していた上着を返してもらい、彼女のベッドに腰掛けて話をする。
「前に私が言ったこと、撤回するつもりはないよ。誰になんて言われようと私は後悔なんてしない」
「うん」
よかった。
彼女が折れないでいてくれるのならどうとでもなる。俺が後悔も絶望もさせないから。
横に座る彼女に対して腕を広げると、薫ちゃんは一瞬驚いたように目を見開いたあと微笑み、目を細め腕の中に飛び込んできた。あまりの勢いに二人してベッドに転がる。
顔に掛かる横髪を払いのけ目を見つめる。本当に一度見るとなかなか離せない、綺麗な目。
「…ふふ、すごくドキドキ言ってる」
「まーね? 仕方ないじゃん」
最初よりは慣れたものの、ドキドキはする。
俺の上に乗って鼓動を聞くように胸に耳を当てている。目が見えなくなると少し寂しい。
「あ…雨降ってきたんじゃない?」
ガラス窓に雨粒が当たる音が徐々に大きくなってきた。本当にあの日みたいになってきたな。
「ねえ、ちょっとこれは願望なんだけどさ」
「んー?」
「大学卒業したら一緒に住みたいね」
「」
うん、
ん??
「そ、それはけ、けけ、」
「とりあえず同棲からかな」
「だよなっ!!」
ッあぶね〜〜〜〜〜〜! 先走って結婚と言いそうになってしまった!
まだだ落ち着け、まだにやけてはいけない。だが、だが
「鼻、膨らんでる」
「ぐ」
鼻を摘まれ、揶揄うような小さな笑い声が聞こえてくる。
そりゃにやけるのを我慢したら鼻の穴ぐらい開くわ! 絶対キモい顔になってるので口元を手で隠すことにする。
「爆発しない? 大丈夫?」
未だ俺の鼓動を聞いている薫ちゃんは、先ほどの同棲希望で全力疾走後並に爆増した心拍を真剣に聞いていた。
「めちゃくちゃ嬉しい、全力で生きる」
「ふふ、それはよかった」
好きだ。愛おしい。
俺をこんなに幸せにしてくれる薫ちゃんを必ず幸せにする。
そのためには目下の課題、今彼女に襲いかかる特大フラグをどうにかして折らねばならない。
あのヤンデレ女子は俺でいうフラグ小僧的立ち位置にあると思われる。つまり周りの誰かにフラグを押し付けようなどとすると、ドツボにハマる可能性がある。
なので、あの女の中で薫ちゃんの立ち位置を変えるのが一番良いだろう。俺と小僧の場合は関係値がそもそも低かったため使えなかったが、要は嫌いになってもらう作戦だ。
現状相手は、元々高嶺の花ポジにおりもとより諦めのついていた薫ちゃんに恋人が出来たことによって逆上、闘争心を刺激された状態である。そこから全力で嫌われに行きヤンデレの恋を冷めさせる。
「でもバレー辞めても失望されたわけじゃないんだよね…今までは友達として振る舞ってたわけだし」
薫ちゃんは腕を組みつつ、指を顎に当てて首を傾げる。
確かにそうとも言える。アクセル全開になった理由が分からない現状、どういった方向で行けば嫌われるのか検討がつけ難い。
「なんか嫌そーな反応してたこと覚えてない?」
あのヤンデレ女は態度と表情に出やすいタイプとみた。薫ちゃんが気に留めていなかっただけで、ヒントはあるはずだ。
「うーん、なんか…………あ、」
「なに?」
「化粧覚えたての頃は、似合ってないって結構言われたなあ。単純に私が下手だった可能性はあるけど」
なるほど化粧か。最近は一概には言えないものの、女性的な行為に含まれる事柄を己が”かっこいい”と評する女子にされるのは嫌なのかもしれない。
化粧そのものを嫌う人間もいるしな。
「高校の時はしてた?」
「全然。覚えようと思ったのは受験できみと会った後で、今日に至るまでにめちゃくちゃ練習した」
もしかしてヒント:俺
言い逃れようもない、原因は俺だ。
どうする? 薫ちゃんの行動原理が俺であることは大変嬉しいが、今は大問題である。
確かにあのヤンデレ女の俺への敵対心は尋常ではない。俺は表情を把握出来ていないが声色が「お前を刺し殺す」と言わんばかりの迫力だった。
正直なところ、俺もヤンデレはさほど詳しくない。この世界は原則ハッピーエンドなのでバットエンドに行きがちなヤンデレは参考から除外しがちであった。ただ成就しないと理解した時の行動の素早さや、悪い方向への振り切りの良さについてはある程度理解している。
飲み会で酒に異物混入、大学で襲撃ときて、もう次の段階で監禁まで行きそうな勢いだったので、まず接触はなんとしても避ける必要がある。
「とりあえず他の友達に一言入れとく?」
「そうだなあ…あの幹事の子に伝えて、その子から回してもらおう」
「了解。電話する」
薫ちゃんがその場で別の共通の友人へ電話で、今回のことをなるべくオブラートに包み説明する。
電話先の飲み会の幹事さんは、側から会話を聞いているだけでもあのヤンデレ女の異常性に以前から感じ、違和感を持っていたようで、説明はスムーズに終わった。
会話を終えた薫ちゃんは自分が本当に何も気が付いていなかったことにショックを受けていた。うん、まあそれが彼女の良いところ…なのだが、今回は下振れのようだ。
「あの女子と同じ講義って必修以外は何がある?」
「選択が一個。でも水元くんいるから二人きりにはならないと思う」
水元は薫ちゃんと分野の傾向が俺より近く、講義が被っていることが多い。必修は他の友人に様子を見てもらうとして、その講義については不本意だが水元にお願いしよう。
「今思えばあの授業の時だけ頑なに同じグループにならないし、そういうことだったのかな」
「あり得る」
水元は人の心の声が聞こえるが友人とはいえ、聞いたことを聞かれてもないのにわざわざ伝えたりするなどの伝書鳩行為はしない。俺たちの思っていることにツッコミを入れるのも、俺たちだからという線引きをしている。
特に薫ちゃんに近寄る男(特に俺)を嫌悪しているなら、物理的に距離を取るしか知らないコミュ力虫以下の水元が近寄ってこないのも頷ける。
ということで、水元にも根回しをしておく。俺が電話をかけ、薫ちゃんが説明すると「本当に気をつけろよ」と念押しされたようだ。女の顔と名前など全く興なさそうな割に、最初の「私の友達のことなんだけど、」と切り出した時点で察し、言葉にするのも悍ましそうな声で応対していたので考察は間違いではなさそうだった。
というわけで、他にも先ほどのバイトリーダーにも事情を話すとシフトを組み直してくれることになり、キャンパス内で薫ちゃんは一人になる時間とヤンデレ女と二人だけになるタイミングはなくなった。
*
あれから約一週間。警戒体制を敷いているが何か事件は起こっていない。正直不気味ではあるが、問題はないことに越したことはない。
「それで最近、銀木さんのバイト終わるの待ってるんだ」
「うん。悪いなマヤセンまで一緒に待ってもらって」
「いいよいいよ気にしないで。僕は君と銀木さんとも友達だからね」
商業に二次同人とやるべきことに枚挙に暇なく多忙な真山まで結局巻き込んでしまったが、ヤンデレの憎悪の対象であるということはかなり危険であると、ご指摘されたので薫ちゃんのバイト終わりまで一緒に待ってもらうことになった。ちなみに今日は水元はコンビニバイトへご出勤である。
「マヤセンってヤンデレ詳しいの?」
「うーん君よりは詳しいと思うけど、ぶっちゃけ専門外なんだよね。もちろんBLだったら大抵読むけど。僕が描くのは王道青春系だし」
彼はこの世界と同じく原則ハッピーエンドが好きなタイプである。彼のいう通り大抵読む(、、、、)の中にハジけたヤンデレがいるのかどうかは分からない。
というかこの専門外発言も教授の「素人質問で恐縮ですが、」と類義語である。絶対その分野に精通してる。
「おつかれ〜、あれ真山くん?」
「おつかれ薫ちゃん」
「お疲れさま銀木さん」
薫ちゃんがバイト中にマヤセンと合流したのと、巻き込んでしまったことも伝えていなかったので彼女は目を丸くしている。
「ヤンデレは監禁型と他者排除型もいるし、彼も危険だから二人で待ってたんだ」
「え、ごめんね? でもありがとう。今度兄のBLエピ奢るね?」
「やったー!!」
それは奢るものなのだろうか?
とはいえずっと警戒して疲れている薫ちゃんが少しでも楽しそうにしていてくれて良かった。
「今日水元くん、深夜帯前にバイト終わるみたいだからうちにおいでよ。四人で飲もう」
「やった〜! 行き道にコンビニいこ。あとドラスト」
だが少し、空元気のようにも思ってしまった。
翌日。
必修ばかりが詰まった今日は薫ちゃんとは昼休憩以外に会える時間はない。
昨晩の真山宅でのどんちゃん騒ぎもあり、俺はいつもより眠気が強く気だるい。同じぐらい飲んでいた薫ちゃんは今朝もいつも通りシャキシャキ歩いていたので尊敬でしかない。二日酔いとか経験したことあるのだろうか。
「大丈夫? 起きてる??」
「起きてる…起きてるよー」
そして迎えた昼休憩の時間。彼女が講義を受けていた教室で待ち合わせて食堂に向かう。
大きく欠伸をして目を擦る俺に、薫ちゃんは心配そうに眉を下げながらも笑っている。今いる階層は三階、食堂は一階にあるので階段を使って降りることになる。
「ほら階段あるから」
流石に階段は危ないので心配してくれている彼女のいう通り足元を見た。
──ドンッ、と強く背中を押された。
ここは漫画の世界ではあるが、俺にとってのリアルでもある。漫画のキャラクターのように咄嗟の状態で後ろを見ることは不可能だ。
だが確信している。背中を押したのはあの女だ。
落ちる。
ここはBL漫画の世界。そして原則ハッピーエンドが約束されている世界であるため階段から落ちても死にはしない。良くて以前のように骨折か、悪くても俺の下にいる男に助けられフラグが立つ程度。
…いや、ここは確かにBL漫画の世界だが、今は薫ちゃんにフラグが立っている。つまり俺はGLに巻き込まれている。その場合はどうなる?
え、俺、死ぬ?
「──くん!!」
バランスを崩し頭から落ちそうになった俺の腕を強く掴まれ、落ちることはなかった。
「薫ちゃ、!」
俺の腕に薫ちゃんの爪が刺さっている。それだけ必死に掴んだんろう。
反対の手でパイプ型の手すりを掴んで自分も落ちないように支えている。そこから力任せに引っ張られて助かった。
「あっぶな…」
ガチで死ぬかと思った。
俺は引き上げられたその場で尻餅をつく。
危機一髪な状況に心拍数が上がるが、薫ちゃんは俯きながら肩で息をしている。火事場の馬鹿力を発揮したからだと一瞬思ったが、そうではない。
薫ちゃんは前を見ないまま踵を返し、俺を突き落とそうとした犯人の前まで一直線に歩く。
「かお──、」
左手を振り上げたのが見えた時点で止めようとしたが、腰が抜けて無理だった。
バチン! と乾いた音が階段の踊り場に響いた。
彼女の叩く威力は、以前に現役だった頃の映像を彼女の家で見たことがあるので把握している。想像しただけでゾッとした。
「…なにしようとした」
初めて聞く声色に、一瞬彼女だと思えなかった。
あのヤンデレ女は超えてはいけない一線を超えてしまったのだ。
「…そ、の…」
「なにしようとしたって聞いたんだよ私は!!」
薫ちゃんはずっと、あの女に怯えてこそいたが、長く友達だったこともあり、周りに根回しをしてハブるような状況になってしまったことに少なからず負い目を感じているようだった。そんな感情を怒りが塗りつぶした。
それでも怒り慣れず、張り上げ慣れていない怒号は掠れている。
答えない相手に薫ちゃんは続けた。
「じゃあ聞き方変えるけど、これで私がお前を好きになると本気で思ったの?」
「………………ごめん。ゆるして、おねがい…」
「許さない。絶対に」
頬を叩いた左手を薫ちゃんは強く握りしめていた。そして開かれたとき、彼女の手のひらが出血していることに気がついた。頬を叩いたり手を強く握ったぐらいでは出血しない。おそらく俺を助けるとき、手すりを掴んだ際に摩擦で皮が剥けたのだろう。自分の体重と自由落下する俺を片手で支えたのだから。
「…ずっと友達だと思ってた。あれからずっと悩んでた。良い落とし所はないのかって、でももう駄目。彼に怪我をさせようとした時点で駄目。ミカの好きは彼の好きと全く別物。一緒と言われるのも腹立たしい」
一度、息を飲んだ後に出た言葉は、少し落ち着いた声色だったものの、怒りそのものは変わっていない。
「ごめんなさい! 怒らないで薫! 二度としないからっ、あたし、どうかしてたのっ、好きなの大好きなの! 中学のとき、試合をしてる薫を見てからずっと!!」
薫ちゃんは黙った。
俺も、二人は高校で出会って仲良くなったと聞いていた。薫ちゃんも出会いは高校だと思っていたようだが、事実は違ったらしい。
中学の新人戦で薫ちゃんがプレーしている姿を他校の選手として見ていた。そして彼女と同じ高校に進学した。と女は暴露した。
「…最初からってこと? 最初から単なる友達じゃなくてそういう(、、、、)風に見ていたってこと?」
薫ちゃんの声の震えの質が変わった。怒りではなく驚きと恐怖と、悲しみだ。
相手はゆっくりと頷いた。
薫ちゃんはもう一度手を強く握りしめる。
「最低。大嫌い。最初から友達として見てなかったなら、私たちは友達じゃない。もう私に関わらないで」
決別の言葉にヤンデレ女は絶句し、追い縋ろうとするが手は素早く弾かれた。そのとき見えた横顔は、怒りに染まってはいたが口元は怒りではない感情によって歪められていた。
「いこう」
集まり始めた観衆を無視し、俺の腕を掴みその場から退散する。
早歩きで言葉もなく、ひたすら歩き続ける
渡り廊下を抜け別棟まで来てようやく足を止めた。
「ごめん、手痛くない?」
助けられた時に手首についた跡を心配されるが、俺は出血した薫ちゃんの方が心配だ。
「怪我もしてない、けど俺よりも薫ちゃんの方が」
ようやく俺の方に身体を向けてくれたが顔は俯いて表情は見えなかった。
そして皮が剥けて出血した手をまじまじと見つめている。
「…叩いちゃった。これじゃミカと一緒だ」
「そんなことないよ」
少し膝を折って、視線を彼女より下にして見上げるようにする。
俯いていた薫ちゃんの顔がようやく見えた。彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。
痛かっただろう。辛かっただろう。摩擦と熱と皮の剥けた痛みだけでなく、最後まで友達だと思っていた女子を叩いた痛み。物理的なものだけでなく精神的な苦痛。
衝動的な怒りで叩いたのでなく、そうしないと分からないと思ったから叩いたのだと俺は理解している。しかし結局相手には響いていなかったようだが。
仕方ないのだ。それだけ心を砕き、根気よく説いたとてそれが報われるとは限らないのである。俺にはまだ彼女のような付き合いの長い友人が実は自分に好意を向けていたなんてフラグはないが、もし仮に、今の親しい友人がそうだったなら俺だって狼狽ぐらいするだろう。
友愛より性愛を優先する恋愛が主体のBL漫画の世界とはそういうものなのだ。
薫ちゃんは何も悪くない。
「助けてくれてありがとう。保健管理に行って手当てしてもらおう?」
「……うん」
一度抱きしめたあと、今度は俺が彼女の手を引いて歩き出した。
*
当初の作戦通りとはいかなかったものの、フラグは潰えた。
普段は心優しい薫ちゃんの拒絶の言葉は、とても耐えられるものではなかったのだろう。
翌日から相手は登校しなくなり、暫くして退学したと薫ちゃんは共通の友人経由で知ることになる。階段での出来事に関しても、薫ちゃんを責める人物は誰もいなかった。
原則ハッピーエンドの世界としては珍しい結末ではあるが、大学を辞めた新天地で次回は健全な恋愛が出来ていることを祈るしかない。
最初は落ち込んでいた薫ちゃんも少しずつ元気になって笑顔も戻ってきた。彼氏として俺は彼女の支えであり続けたい。
「一緒に住みたいって言ったじゃん?」
「え、あ、そうだね」
「まだ有効?」
薫ちゃんにとって、人を叩いてしまったというのはかなりの衝撃だったようで、それをかなり気にしている。
俺に幻滅されたのではないかと、伺ってくる素振りがある。
だが、そんな訳はない。俺がそんなことで薫ちゃんに愛想を尽かすなどあり得ない。
今際の際まで一緒に居させてください。重い? すまん、そこの妥協は不可能である。
頷く彼女に俺はつい笑みを浮かべてしまう。
「日取りはいつ頃にしようか?」
「ッ!」
息を呑み、顔を赤くしてもじもじしている。可愛い。
そして負い目を感じているような表情は完全に吹き飛んだ。以前と同じ明るい花のような笑み。
薫ちゃんの言葉に俺は幸福な気持ちで耳を傾ける。
そして何度でも誓う。
彼女との穏やかな時間をいつまでも過ごすために、俺と、彼女に降りかかるフラグを折り続けると。
非常に恐ろしいことではあるが、飲みかけの酒に周囲に気付かれないように異物を混入させるという事案は、BL漫画においても発生する。
だが同性が多い飲み会で警戒心の緩まった場面の悪用、何より同性同士ならは多少は許されるだろうとしている世界が恐ろしすぎる。普通に性暴力である。男だろうが女だろうが普通に危険人物だ。そんな人物を彼女の友人という立ち位置のまま放置するわけにはいかない。
「あ、薫おはよー、昨日大丈夫だった?」
「おはよ。うん彼が家まで送ってくれたし」
薫ちゃんには表向き普段通り大学で授業を受けてもらう。
流石に人の多いキャンパス内でいきなり襲われることはないだろう。
そして今話しかけてきたのは昨日の飲み会の幹事だな。俺は女子の顔が判別できない代わりに髪型や身長などで識別している。この女子は薫ちゃんと同じ暗髪で根明系なので恐らく犯人ではないだろう。
「珍しくベロベロだったもんねぇ」
「それはごめん。あのあと特に何もなかった?」
「んー、普通だったかな。あ、でもミカは薫が帰ったあとすぐに帰っちゃった」
ミカ。
薫ちゃんと同じ高校出身。俺も彼女を交え数度話したことがある。そして千鳥足の薫ちゃんが俺に抱きついてきたとき真っ先に『本当に彼氏呼んだの。見せびらかしじゃん』と声をかけてきた女である。
明るい髪色に小柄で優しげな雰囲気をしているが語気が強い、まさしく薫ちゃんとは真逆のタイプ。そして俺が真っ先に目星をつけた人物。
「あとでね〜」
「ありがと、またね」
この幹事と薫ちゃんみたいな女子が少数であることがBL漫画の世界の恐ろしいところである。
「……やっぱりミカだと思う?」
「十中八九」
眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。唸る薫ちゃんを見て今朝の会話を思い出す。
『フラグ回避の大先輩としての見解を聞きたい』
『言い方が大業すぎるけども……えーっと、なんて子だっけ…小柄で金髪の…』
『リサ? ミカ?』
『髪長い方』
『ミカだね…ミカか……』
名前を復唱する彼女の表情は、どうも心当たりのある顔だ。
普段の二人のやりとりを見ているわけではないが、側から見た属性だけでも十分あり得る。組み合わせの法則がBLと同じならば、対立する真逆の属性を持つもの同士はカップルになりやすい。
『…結構前にめちゃくちゃ強請られて友達に写真見せたって言ったじゃん?』
『あぁ…付き合いたての頃だよね』
『そのとき愛想笑いで”優しそう”って言った子だよ』
友人の微妙な顔の彼氏を見た時の常套句を言われた薫ちゃんが、頭に来てムキになり言い返したことも知っている。
憶測が正しければ、なんとなく思考も想像できた。
「今日は講義一緒じゃないけど、バイトは一緒なんだよね…」
彼女は、薫ちゃんと同じくキャンパス内の図書館のアルバイトをしている。
「今日あからさまに避けるのは良くないし、俺も今日は図書館で勉強しとく」
「うん、ありがとう、お願い」
そうしてお互い講義のために一旦の解散。講義終わりの夕方以降、俺はバイト中の薫ちゃんを見守るために図書館に向かった。
返却された本の再配架、本棚の整理清掃がバイトの主な仕事らしい。本棚と本棚の間の通路を、本を乗せたトラックを押して歩く彼女の姿が時折目に入る。そして件の女子も薫ちゃんと一緒に行動して仕事をしている。
今のところ、問題はなさそうに見えるが……。
ミカとは普通に仲の良い友達だと思っている。
ずっとバレー一筋で生きてきたから、中学高校と友達と遊ぶ時間は少なかったけど、彼女とはクラスの班で一緒になって仲良くなった。試合もよく見にきてくれていた。
なんの変哲もない友達のひとり。
「昨日、大丈夫だったの?」
「うん大丈夫だよ」
昨日の飲み会にいた友人みんなに聞かれた言葉なのに、彼女の問いかけだけは妙に勘繰ってしまう。良くない。ポーカーフェイスは苦手なのに、疑って掛かるなんてしたら駄目だ。
書架の最上段に配架する本を私が、逆に下の段をミカが担当する。いつもと同じ流れだ。
「やっぱり良いよね、薫は背が高くて」
「そうかな」
「うんかっこいい。昔から」
かっこいい。
彼と付き合うまで私に向けられる言葉はこればかりだった。決して嫌ではない。でも、今思い返してみれば、私を最初にかっこいいと評したのは誰だったっけ。
「バレーしてる姿が、一番かっこよかった」
高校でバレーを引退すると言ったとき、OGやコーチ達より残念そうな顔をしていたのは誰だっけ。
「薫って変わったよね。彼氏出来てから」
「そう、かな」
「そうだよ」
トラックから本を取るはずが手に取ったのは──、取られていた(、、、、、、)のは本ではなくミカの手。
まずい、そう思った時には遅かった。
握られた手を書架に押さえつけられた。周りにバイト仲間はいない。しかも彼からも死角の位置にいる。
「あたしも薫のこと薫ちゃん(、、、、)って呼んだらいい? かっこいいじゃなくて可愛い(、、、)って言ったら良いの? そうしたらあたしのこと見てくれる?? 薫を好きな気持ちは同じじゃん?」
背伸びをした彼女の顔が目の前にある。咄嗟に顔を背けたら反対の顔で頬を掴まれ、正面を向かせられる。
「むかつく、あたしの方がずっと…ずっとずっと、」
怖い。この子は本当に私の知ってる友人なんだろうか。
「薫の酒に媚薬入れたんだよ。昨日は盗られちゃったけど今度はちゃんとあたしが気持ち良くしてあげる」
身の毛がよだつ。本当に怖い。
「ね、薫ちゃん(、、、、)」
全然違う! 同じ呼び方をしたって、声も抑揚も、込められた想いも何から何まで違う。
絶対に、同じじゃない!
「──くん…!」
私が彼の名前を呼ぶとミカは顔を歪めた。
左手を掴む手に更に力が込められる。ネイルの先端が刺さって痛い。抵抗すれば多分振り解けるけど、無理に抵抗したらきっと良くない。諭そうと言葉を選んでいる間に、ミカが先に言おうとするけどそれは止められた。
「薫ちゃん…!」
焦燥顔に眉間に汗を掻いた彼がやってきて私とミカの間に腕を入れて引き剥がす。同時に頬を掴まれていた手が離れた。
「…ちょっとっ! 薫の彼氏だからって出しゃばってこないで、今あたしと喋ってんの!」
「バイト中の口論にしてもやりすぎだと思うけど? 昨日の今日で体調も良くないんだよ薫ちゃんは」
話を大きくしすぎないために、彼はこの場をバイト中の口論として収める気みたいだ。昨日のことを知っていると示唆する言葉にミカは歯を食いしばっている。
掴まれたままだった左手も彼が振り解いてくれた。
「バイトリーダーに言って早退させてもらおう」
体調は正直そこまで悪くはないけど、多分顔は真っ青だ。
上着を頭に被せられ視界を遮られる。狩猟で動物の視界を塞ぐと大人しくなるというけど、あれは人間にも効く。実際に恐怖心が少し和らいだ。
彼に肩を抱かれ、声をかけられつつこの場を後にする。
けれど、微かに恐怖心は和らいだとはいえ、ミカに言われた言葉が勝手に脳内を反芻する。
いつから? 一体いつから想われていた? かっこいいと私に言う声にあんな劣情が混じっていることなんて今まで気がつかなかった。
答えの出ないことをずっと考えていたら、いつの間にか彼が呼んでくれたタクシーの後部座席に座っていた。
彼の上着を取って横を見るととても心配した顔の彼がいる。
「落ち着いた?」
「…少しは」
「無理しないでね」
自然に手を取られ優しく握られる。
私よりも大きい手が、私の手を包んで親指が甲を撫でている。すりすりと微かに聞こえる音が心地よい。
空いた反対の手で彼の上着を握りしめた。その手にはミカに爪を立てられ跡がついている。
「ミルクティーだけど飲む?」
「うん…」
キャップを開けるために繋いでいた手を離し、嚥下した。
一口の筈が、二口三口と喉を鳴らし続ける。目を開けているのに昔の記憶が目に張り付いたように鮮明に思い出される。
『薫はかっこいいね!』『なんでバレー辞めるの』『え、優しそうだけど、意外…薫ってこういうなのが好きなの?』『薫を好きな気持ちは同じじゃん?』
あ、だめだ。
飲み口から口を離してキャップを閉める手が震える。
これは恐怖というより嫌悪だ。友達に抱いていい感情じゃない。同性に告られたことではく、あんな身勝手で暴力的な好意が恐ろしい。
今まで全く興味のない相手から告白されたことはある。友達だと思っていた人からも。でもさっきのは告白とは違う悍ましい何かだ。煮詰まった鍋の底のような、ドロドロとした好意と性愛を向けられて、心身が拒絶反応を起こした。
あのかっこいいに、あんな意味が込められていたなんて知りたくなかった。今まで友達だと思ってしてきたこと、思い出も全部、跡形もなく八つ裂きにされた気分だ。
視界が霞む、目が熱い。
いつの間にか手から抜き取られていたペットボトルの代わりに、また彼の手が繋がれて上着も頭に掛け直される。
言葉はなくても心配されているということは伝わってくる。
…やっぱり全然同じじゃない。
*
まさかBL漫画の世界とか関係なく、人怖案件とは思うまい。
美形の水元を見ていても厄介なのに絡まれているなとは時折思っていたが、女子である薫ちゃんにも世界は容赦がない。むしろ今回の犯人は彼女の男性にも劣らぬ外見的部分に惹かれているように思う。
バレーボール一筋だったからこそ、薫ちゃんは恋愛に疎く、あのガチ百合女子の好意に気が付くことが出来なかった。
図書館、キャンパス内と我慢していた彼女も、とうとう涙腺が崩壊してしまい、俺には手を握り慰めることしかできない。ここで下手に言葉をかけることはしない方が良いだろう。
「……」
無言のまま薫ちゃんの頭が俺の肩に凭れかかった。
どれだけ信じ難いことでも、薫ちゃんはきっと自分の抱いた気持ちに折り合いをつけるのだろう。どれだけ体調が悪くてご両親がおらず寂しい日も、バレーを辞めた時に言われた言葉にも、俺がこの世界がBL漫画の世界であると伝えた時もそうしてきたように。それがある種の妥協点(あきらめ)だったとしても、だ。
だから俺は、俺だけは彼女の味方であり、恋人であり続ける。
俺のことを好きになって、付き合い始めて、毎日が楽しいと言ってくれた。過去の選択を後悔していないと言ってくれた薫ちゃんに、やっぱり後悔しているだなんて言ってほしくはない。言われたくもないのだ。
「お客さん、着きましたよ」
運転手に言われて頭を上げた。決済を終えて二人でタクシーから降りる。
泣き疲れてふらつく薫ちゃんを支え、部屋まで歩いた。
彼女の家は今日も誰もおらず静かである。同じ実家暮らしなのに俺の家とは全く違うとつくづく思う。
「なんか、初めて家に行った日のこと思い出しちゃった」
「あー…うんちょっと似てるかもね」
初めて薫ちゃんが俺の家に来た日。それはこの世界がBL漫画の世界であると伝えた日であり、俺たちが一線を超えた日でもある。
いつ雨が降り出してもおかしくない天気の悪い日に、家族のいない家の中。
貸していた上着を返してもらい、彼女のベッドに腰掛けて話をする。
「前に私が言ったこと、撤回するつもりはないよ。誰になんて言われようと私は後悔なんてしない」
「うん」
よかった。
彼女が折れないでいてくれるのならどうとでもなる。俺が後悔も絶望もさせないから。
横に座る彼女に対して腕を広げると、薫ちゃんは一瞬驚いたように目を見開いたあと微笑み、目を細め腕の中に飛び込んできた。あまりの勢いに二人してベッドに転がる。
顔に掛かる横髪を払いのけ目を見つめる。本当に一度見るとなかなか離せない、綺麗な目。
「…ふふ、すごくドキドキ言ってる」
「まーね? 仕方ないじゃん」
最初よりは慣れたものの、ドキドキはする。
俺の上に乗って鼓動を聞くように胸に耳を当てている。目が見えなくなると少し寂しい。
「あ…雨降ってきたんじゃない?」
ガラス窓に雨粒が当たる音が徐々に大きくなってきた。本当にあの日みたいになってきたな。
「ねえ、ちょっとこれは願望なんだけどさ」
「んー?」
「大学卒業したら一緒に住みたいね」
「」
うん、
ん??
「そ、それはけ、けけ、」
「とりあえず同棲からかな」
「だよなっ!!」
ッあぶね〜〜〜〜〜〜! 先走って結婚と言いそうになってしまった!
まだだ落ち着け、まだにやけてはいけない。だが、だが
「鼻、膨らんでる」
「ぐ」
鼻を摘まれ、揶揄うような小さな笑い声が聞こえてくる。
そりゃにやけるのを我慢したら鼻の穴ぐらい開くわ! 絶対キモい顔になってるので口元を手で隠すことにする。
「爆発しない? 大丈夫?」
未だ俺の鼓動を聞いている薫ちゃんは、先ほどの同棲希望で全力疾走後並に爆増した心拍を真剣に聞いていた。
「めちゃくちゃ嬉しい、全力で生きる」
「ふふ、それはよかった」
好きだ。愛おしい。
俺をこんなに幸せにしてくれる薫ちゃんを必ず幸せにする。
そのためには目下の課題、今彼女に襲いかかる特大フラグをどうにかして折らねばならない。
あのヤンデレ女子は俺でいうフラグ小僧的立ち位置にあると思われる。つまり周りの誰かにフラグを押し付けようなどとすると、ドツボにハマる可能性がある。
なので、あの女の中で薫ちゃんの立ち位置を変えるのが一番良いだろう。俺と小僧の場合は関係値がそもそも低かったため使えなかったが、要は嫌いになってもらう作戦だ。
現状相手は、元々高嶺の花ポジにおりもとより諦めのついていた薫ちゃんに恋人が出来たことによって逆上、闘争心を刺激された状態である。そこから全力で嫌われに行きヤンデレの恋を冷めさせる。
「でもバレー辞めても失望されたわけじゃないんだよね…今までは友達として振る舞ってたわけだし」
薫ちゃんは腕を組みつつ、指を顎に当てて首を傾げる。
確かにそうとも言える。アクセル全開になった理由が分からない現状、どういった方向で行けば嫌われるのか検討がつけ難い。
「なんか嫌そーな反応してたこと覚えてない?」
あのヤンデレ女は態度と表情に出やすいタイプとみた。薫ちゃんが気に留めていなかっただけで、ヒントはあるはずだ。
「うーん、なんか…………あ、」
「なに?」
「化粧覚えたての頃は、似合ってないって結構言われたなあ。単純に私が下手だった可能性はあるけど」
なるほど化粧か。最近は一概には言えないものの、女性的な行為に含まれる事柄を己が”かっこいい”と評する女子にされるのは嫌なのかもしれない。
化粧そのものを嫌う人間もいるしな。
「高校の時はしてた?」
「全然。覚えようと思ったのは受験できみと会った後で、今日に至るまでにめちゃくちゃ練習した」
もしかしてヒント:俺
言い逃れようもない、原因は俺だ。
どうする? 薫ちゃんの行動原理が俺であることは大変嬉しいが、今は大問題である。
確かにあのヤンデレ女の俺への敵対心は尋常ではない。俺は表情を把握出来ていないが声色が「お前を刺し殺す」と言わんばかりの迫力だった。
正直なところ、俺もヤンデレはさほど詳しくない。この世界は原則ハッピーエンドなのでバットエンドに行きがちなヤンデレは参考から除外しがちであった。ただ成就しないと理解した時の行動の素早さや、悪い方向への振り切りの良さについてはある程度理解している。
飲み会で酒に異物混入、大学で襲撃ときて、もう次の段階で監禁まで行きそうな勢いだったので、まず接触はなんとしても避ける必要がある。
「とりあえず他の友達に一言入れとく?」
「そうだなあ…あの幹事の子に伝えて、その子から回してもらおう」
「了解。電話する」
薫ちゃんがその場で別の共通の友人へ電話で、今回のことをなるべくオブラートに包み説明する。
電話先の飲み会の幹事さんは、側から会話を聞いているだけでもあのヤンデレ女の異常性に以前から感じ、違和感を持っていたようで、説明はスムーズに終わった。
会話を終えた薫ちゃんは自分が本当に何も気が付いていなかったことにショックを受けていた。うん、まあそれが彼女の良いところ…なのだが、今回は下振れのようだ。
「あの女子と同じ講義って必修以外は何がある?」
「選択が一個。でも水元くんいるから二人きりにはならないと思う」
水元は薫ちゃんと分野の傾向が俺より近く、講義が被っていることが多い。必修は他の友人に様子を見てもらうとして、その講義については不本意だが水元にお願いしよう。
「今思えばあの授業の時だけ頑なに同じグループにならないし、そういうことだったのかな」
「あり得る」
水元は人の心の声が聞こえるが友人とはいえ、聞いたことを聞かれてもないのにわざわざ伝えたりするなどの伝書鳩行為はしない。俺たちの思っていることにツッコミを入れるのも、俺たちだからという線引きをしている。
特に薫ちゃんに近寄る男(特に俺)を嫌悪しているなら、物理的に距離を取るしか知らないコミュ力虫以下の水元が近寄ってこないのも頷ける。
ということで、水元にも根回しをしておく。俺が電話をかけ、薫ちゃんが説明すると「本当に気をつけろよ」と念押しされたようだ。女の顔と名前など全く興なさそうな割に、最初の「私の友達のことなんだけど、」と切り出した時点で察し、言葉にするのも悍ましそうな声で応対していたので考察は間違いではなさそうだった。
というわけで、他にも先ほどのバイトリーダーにも事情を話すとシフトを組み直してくれることになり、キャンパス内で薫ちゃんは一人になる時間とヤンデレ女と二人だけになるタイミングはなくなった。
*
あれから約一週間。警戒体制を敷いているが何か事件は起こっていない。正直不気味ではあるが、問題はないことに越したことはない。
「それで最近、銀木さんのバイト終わるの待ってるんだ」
「うん。悪いなマヤセンまで一緒に待ってもらって」
「いいよいいよ気にしないで。僕は君と銀木さんとも友達だからね」
商業に二次同人とやるべきことに枚挙に暇なく多忙な真山まで結局巻き込んでしまったが、ヤンデレの憎悪の対象であるということはかなり危険であると、ご指摘されたので薫ちゃんのバイト終わりまで一緒に待ってもらうことになった。ちなみに今日は水元はコンビニバイトへご出勤である。
「マヤセンってヤンデレ詳しいの?」
「うーん君よりは詳しいと思うけど、ぶっちゃけ専門外なんだよね。もちろんBLだったら大抵読むけど。僕が描くのは王道青春系だし」
彼はこの世界と同じく原則ハッピーエンドが好きなタイプである。彼のいう通り大抵読む(、、、、)の中にハジけたヤンデレがいるのかどうかは分からない。
というかこの専門外発言も教授の「素人質問で恐縮ですが、」と類義語である。絶対その分野に精通してる。
「おつかれ〜、あれ真山くん?」
「おつかれ薫ちゃん」
「お疲れさま銀木さん」
薫ちゃんがバイト中にマヤセンと合流したのと、巻き込んでしまったことも伝えていなかったので彼女は目を丸くしている。
「ヤンデレは監禁型と他者排除型もいるし、彼も危険だから二人で待ってたんだ」
「え、ごめんね? でもありがとう。今度兄のBLエピ奢るね?」
「やったー!!」
それは奢るものなのだろうか?
とはいえずっと警戒して疲れている薫ちゃんが少しでも楽しそうにしていてくれて良かった。
「今日水元くん、深夜帯前にバイト終わるみたいだからうちにおいでよ。四人で飲もう」
「やった〜! 行き道にコンビニいこ。あとドラスト」
だが少し、空元気のようにも思ってしまった。
翌日。
必修ばかりが詰まった今日は薫ちゃんとは昼休憩以外に会える時間はない。
昨晩の真山宅でのどんちゃん騒ぎもあり、俺はいつもより眠気が強く気だるい。同じぐらい飲んでいた薫ちゃんは今朝もいつも通りシャキシャキ歩いていたので尊敬でしかない。二日酔いとか経験したことあるのだろうか。
「大丈夫? 起きてる??」
「起きてる…起きてるよー」
そして迎えた昼休憩の時間。彼女が講義を受けていた教室で待ち合わせて食堂に向かう。
大きく欠伸をして目を擦る俺に、薫ちゃんは心配そうに眉を下げながらも笑っている。今いる階層は三階、食堂は一階にあるので階段を使って降りることになる。
「ほら階段あるから」
流石に階段は危ないので心配してくれている彼女のいう通り足元を見た。
──ドンッ、と強く背中を押された。
ここは漫画の世界ではあるが、俺にとってのリアルでもある。漫画のキャラクターのように咄嗟の状態で後ろを見ることは不可能だ。
だが確信している。背中を押したのはあの女だ。
落ちる。
ここはBL漫画の世界。そして原則ハッピーエンドが約束されている世界であるため階段から落ちても死にはしない。良くて以前のように骨折か、悪くても俺の下にいる男に助けられフラグが立つ程度。
…いや、ここは確かにBL漫画の世界だが、今は薫ちゃんにフラグが立っている。つまり俺はGLに巻き込まれている。その場合はどうなる?
え、俺、死ぬ?
「──くん!!」
バランスを崩し頭から落ちそうになった俺の腕を強く掴まれ、落ちることはなかった。
「薫ちゃ、!」
俺の腕に薫ちゃんの爪が刺さっている。それだけ必死に掴んだんろう。
反対の手でパイプ型の手すりを掴んで自分も落ちないように支えている。そこから力任せに引っ張られて助かった。
「あっぶな…」
ガチで死ぬかと思った。
俺は引き上げられたその場で尻餅をつく。
危機一髪な状況に心拍数が上がるが、薫ちゃんは俯きながら肩で息をしている。火事場の馬鹿力を発揮したからだと一瞬思ったが、そうではない。
薫ちゃんは前を見ないまま踵を返し、俺を突き落とそうとした犯人の前まで一直線に歩く。
「かお──、」
左手を振り上げたのが見えた時点で止めようとしたが、腰が抜けて無理だった。
バチン! と乾いた音が階段の踊り場に響いた。
彼女の叩く威力は、以前に現役だった頃の映像を彼女の家で見たことがあるので把握している。想像しただけでゾッとした。
「…なにしようとした」
初めて聞く声色に、一瞬彼女だと思えなかった。
あのヤンデレ女は超えてはいけない一線を超えてしまったのだ。
「…そ、の…」
「なにしようとしたって聞いたんだよ私は!!」
薫ちゃんはずっと、あの女に怯えてこそいたが、長く友達だったこともあり、周りに根回しをしてハブるような状況になってしまったことに少なからず負い目を感じているようだった。そんな感情を怒りが塗りつぶした。
それでも怒り慣れず、張り上げ慣れていない怒号は掠れている。
答えない相手に薫ちゃんは続けた。
「じゃあ聞き方変えるけど、これで私がお前を好きになると本気で思ったの?」
「………………ごめん。ゆるして、おねがい…」
「許さない。絶対に」
頬を叩いた左手を薫ちゃんは強く握りしめていた。そして開かれたとき、彼女の手のひらが出血していることに気がついた。頬を叩いたり手を強く握ったぐらいでは出血しない。おそらく俺を助けるとき、手すりを掴んだ際に摩擦で皮が剥けたのだろう。自分の体重と自由落下する俺を片手で支えたのだから。
「…ずっと友達だと思ってた。あれからずっと悩んでた。良い落とし所はないのかって、でももう駄目。彼に怪我をさせようとした時点で駄目。ミカの好きは彼の好きと全く別物。一緒と言われるのも腹立たしい」
一度、息を飲んだ後に出た言葉は、少し落ち着いた声色だったものの、怒りそのものは変わっていない。
「ごめんなさい! 怒らないで薫! 二度としないからっ、あたし、どうかしてたのっ、好きなの大好きなの! 中学のとき、試合をしてる薫を見てからずっと!!」
薫ちゃんは黙った。
俺も、二人は高校で出会って仲良くなったと聞いていた。薫ちゃんも出会いは高校だと思っていたようだが、事実は違ったらしい。
中学の新人戦で薫ちゃんがプレーしている姿を他校の選手として見ていた。そして彼女と同じ高校に進学した。と女は暴露した。
「…最初からってこと? 最初から単なる友達じゃなくてそういう(、、、、)風に見ていたってこと?」
薫ちゃんの声の震えの質が変わった。怒りではなく驚きと恐怖と、悲しみだ。
相手はゆっくりと頷いた。
薫ちゃんはもう一度手を強く握りしめる。
「最低。大嫌い。最初から友達として見てなかったなら、私たちは友達じゃない。もう私に関わらないで」
決別の言葉にヤンデレ女は絶句し、追い縋ろうとするが手は素早く弾かれた。そのとき見えた横顔は、怒りに染まってはいたが口元は怒りではない感情によって歪められていた。
「いこう」
集まり始めた観衆を無視し、俺の腕を掴みその場から退散する。
早歩きで言葉もなく、ひたすら歩き続ける
渡り廊下を抜け別棟まで来てようやく足を止めた。
「ごめん、手痛くない?」
助けられた時に手首についた跡を心配されるが、俺は出血した薫ちゃんの方が心配だ。
「怪我もしてない、けど俺よりも薫ちゃんの方が」
ようやく俺の方に身体を向けてくれたが顔は俯いて表情は見えなかった。
そして皮が剥けて出血した手をまじまじと見つめている。
「…叩いちゃった。これじゃミカと一緒だ」
「そんなことないよ」
少し膝を折って、視線を彼女より下にして見上げるようにする。
俯いていた薫ちゃんの顔がようやく見えた。彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。
痛かっただろう。辛かっただろう。摩擦と熱と皮の剥けた痛みだけでなく、最後まで友達だと思っていた女子を叩いた痛み。物理的なものだけでなく精神的な苦痛。
衝動的な怒りで叩いたのでなく、そうしないと分からないと思ったから叩いたのだと俺は理解している。しかし結局相手には響いていなかったようだが。
仕方ないのだ。それだけ心を砕き、根気よく説いたとてそれが報われるとは限らないのである。俺にはまだ彼女のような付き合いの長い友人が実は自分に好意を向けていたなんてフラグはないが、もし仮に、今の親しい友人がそうだったなら俺だって狼狽ぐらいするだろう。
友愛より性愛を優先する恋愛が主体のBL漫画の世界とはそういうものなのだ。
薫ちゃんは何も悪くない。
「助けてくれてありがとう。保健管理に行って手当てしてもらおう?」
「……うん」
一度抱きしめたあと、今度は俺が彼女の手を引いて歩き出した。
*
当初の作戦通りとはいかなかったものの、フラグは潰えた。
普段は心優しい薫ちゃんの拒絶の言葉は、とても耐えられるものではなかったのだろう。
翌日から相手は登校しなくなり、暫くして退学したと薫ちゃんは共通の友人経由で知ることになる。階段での出来事に関しても、薫ちゃんを責める人物は誰もいなかった。
原則ハッピーエンドの世界としては珍しい結末ではあるが、大学を辞めた新天地で次回は健全な恋愛が出来ていることを祈るしかない。
最初は落ち込んでいた薫ちゃんも少しずつ元気になって笑顔も戻ってきた。彼氏として俺は彼女の支えであり続けたい。
「一緒に住みたいって言ったじゃん?」
「え、あ、そうだね」
「まだ有効?」
薫ちゃんにとって、人を叩いてしまったというのはかなりの衝撃だったようで、それをかなり気にしている。
俺に幻滅されたのではないかと、伺ってくる素振りがある。
だが、そんな訳はない。俺がそんなことで薫ちゃんに愛想を尽かすなどあり得ない。
今際の際まで一緒に居させてください。重い? すまん、そこの妥協は不可能である。
頷く彼女に俺はつい笑みを浮かべてしまう。
「日取りはいつ頃にしようか?」
「ッ!」
息を呑み、顔を赤くしてもじもじしている。可愛い。
そして負い目を感じているような表情は完全に吹き飛んだ。以前と同じ明るい花のような笑み。
薫ちゃんの言葉に俺は幸福な気持ちで耳を傾ける。
そして何度でも誓う。
彼女との穏やかな時間をいつまでも過ごすために、俺と、彼女に降りかかるフラグを折り続けると。
