ハッピーエンド未満


 父を知る人は、俺は父に似ていると言う。
 けど俺は父に会ったことがない。
『おかあさん』
『ん?』
『おとうさんってどんなひと?』
 初めて母にそう問いかけたのは小学生になった頃。そして母の返事は決まって「優しい人」だった。
 俺にとって父は写真の中や動画の中にしかいない、血が繋がっていると言われてもどこか他人のようにしか思えない。
 そんな、興味も希薄な存在。

 *

「おかえり結人。部活はどうだった?」
「ただいま。んー…特に、まあまあ」
 玄関からリビングまでの動線にある脱衣場に練習着を投げ入れ、スクールバックから弁当箱を取り出そうとしているところに、母から声を掛けられた。
 シンプルなランチクロスに包まれた弁当箱を渡しながら答えると母は「そっか」と微笑むとも言えないレベルで、表情を綻ばさせる。
 三人分の料理がダイニングテーブルに並べらているのを見て、今日はあの人が来るのだと分かった。
「今日、水元さん来る日なの?」
「うん。さっき残業になるって連絡きたから先に食べようね」
 最後にメインディッシュの唐揚げが置かれて、俺は席についた。
 
 母はあまり笑わない人だ。
 昔は逆によく笑う人で、笑顔が可愛いと父はよく言っていたらしいが、俺はそんな母を見たことがない。
 …正確には写真では見たことがある。
 食事を終えて風呂に入った。母は交代で風呂に入っている間に俺はよく母の部屋に入って昔の写真をみる。
 飾り棚に置かれたデジタルフォトフレームに父と母が写った写真が飾られている。と言っても俺の写真もあるのでずっと見ていられるわけではない。写真の中にいる父と一緒にいる母はずっと笑っているのに、俺と一緒にいる母は笑わない。それがずっと嫌だった。
「結人」
「!」
 不意に呼ばれて心臓が飛び出たかと思った。
 俺を呼んだのは母ではなく水元さん。
 両親の大学時代の友人で、シングルマザーである母を援助してくれている。再婚はしないと母は断言しているけど、周りは再婚した方がいいんじゃないかって言っているみたい。確かに水元さんはいい人だし。
「お土産にアイス買ってきた、食べるか?」
「食べる」
 母の部屋から出てリビングに戻る。水元さんが買ってきたアイスはケーキ屋さんのアイス。残業だったのにマメだ。
「ねえ水元さん」
「……なんだ」
「俺と父さんって似てる?」
 母の作った料理を食べていた水元さんの食指が止まった。
 この人はすごく察しがいい。俺が何か質問をしてももう一度聞いたり、聞き方を変えて理解しようとぜず、数秒目を見つめただけで求めた答えを出すことができる。
「結構似てる」
 そう、水元さんは俺が父に似ていると言う人の中でも筆頭。今年高校に入った俺を見て父方の親戚、特に叔父は似ていると言うようになったが、水元さんは俺がもっと小さい頃からそう言っている。
「……薫の前でその質問するなよ」
「しないよ」
 皆んなが似ていると言う中で、母だけが似ていないと言ってくれる。
 むしろ似ていると言われると母はとても嫌そうな顔をする。表情の乏しい母の露骨な顔が負の感情だったのはよくないけど、母のそういうところは嬉しかった。
 俺も、父に似ていると言われるのはあまり好きじゃない。
「自分で聞いて嫌になるなら聞くな」
「……」
 どうしても気になってしまうものだろう。
 再婚しないと断言している通り、母は今でも父のことが一番好きなんだから。
「母さんが喜ぶことってなんだろう」
「急だな」
「急じゃないよ、母の日」
 もうすぐゴールデンウィーク。それが終わったら母の日はすぐに来てしまう。
 俺は部活に入っていてバイトはしていないけど、お年玉とか、水元さんにもらったお小遣いで何かプレゼントを買いたい。でも、俺は母の好きなものとかに詳しいわけじゃない。
「マスカットとか好きだろ」
「失せ物じゃなくて、何か残るものがいいんだよ」
 察しはいいのに、贈り物系というか気を遣うってことは水元さんは得意じゃないと思う。
 真山さんとかに聞く?
 ……父がいたら、相談とか出来たのかな。
「父さんは母さんにどんなプレゼントあげてた?」
「大学の頃はデートで一泊旅行に行ったりしてた。あとはアクセサリー系だな」
 旅行かアクセサリー。バイトもしていない学生にはハードルが高すぎる。

「母さんが嬉しいことって何?」
「…唐突だね」
 お風呂から上がってきた母に直接聞いてみた。微かに目が丸くなって驚いているのは分かる。やっぱり、大きな変化があるわけじゃないけど、ないわけじゃないんだ。
 俺が成長して、思春期もあったからベタベタ触ってくるなんてことはないけど、母さんに頭を撫でられるのは好きだ。手つきが優しくて俺のことを大切にしてくれているのが分かる。
「結人が幸せで健康でいてくれたらなんでもいいよ」
 母が言うとおためごかしじゃない。
「無理しなくても大丈夫。お母さんは結人のお母さんで居られるだけで嬉しい」
 水元さんが喋ったな。釘刺すの忘れてた。あの人、俺か母どちらの味方といえば母の味方だし。
 最近、俺の身長が急激に伸びてきて抱きしめられると顔が近い。これが恥ずかしい。
 俺を産んだのが二十代後半で、それから十五年経ってるのに母は若く見えるし、子供の俺からみても綺麗な人だと思う。小さい頃は「結人くんママ綺麗だね」と言われるだけでむず痒かったが、今でも若々しくて綺麗なのは良いことだけじゃないって水元さんが言っていた。独身で言い寄られるのが嫌でダミーリングをつけてるイケオジが言うと説得力が違うと思った。
「……そういうのじゃなくて、何か具体的に」
「そう言われても困るの。夕飯なんでもいいって言われるぐらい」
 だからそうじゃない。

 *

『心変わりしろなんて言わない。俺から銀木に触れることもない。ただ支えさせてほしい』
 その約束をこれまで違ったことはない。
 十五年前の十一月、妊娠後期の銀木を残し、あの男は交通事故によって亡くなった。産婦人科に通う道すがらでの事故で、銀木を庇うような形だったと聞く。
 失意のどん底の中でもなんとか出産した銀木だったが、子供を育てるにしても、ただ生活するにしても援助が必要だ。もちろん双方の両親も手を挙げ、子育てに関しては俺がどうこうするような立場でもなかった。でも、聞いてしまった。
(寂しい。辛い。死にたい)
 あの男が死んでから笑顔が消え、心の声が小さく聴き取りにくくなっていた。そんな銀木の心うちを俺は聞いてしまった。
 俺のテレパシー能力は気持ちが強ければ強いほど大きく聴こえる。聞き取れにくかった声の中でそこだけが明確に聴き取れた。
 子供を抱いていても幸せに思えない。失ってしまったことが辛すぎて前を見れない。二人で育んだ子なのに笑いかけることが出来ない。
 俺は誰かを好きになったことも、愛したこともないから本当の意味で共感はできない。銀木が悲しいこと辛いことは全て、死んでしまったあの男が一緒に背負ってきたから。でも、たとえ代わりにはなれなくても聞いてしまったからには、どうにかしたいと思ってしまった。

 *

 母は時折、不意に消えてしまいそうな儚さというものがある。
 父の話題になった時、俺が母の部屋に入って写真を見ていると気づかれた時。初めて俺が父に似ているという話題になった時。最初に口にした水元さんは母の前でその話をすることを禁止した。
 何か残るものを渡したいと言ったのも、失せ物が全て消費された時に母も一緒に消えてしまうんじゃないかって考えてしまうから。
 あのあと、水元さんと同じ、両親の友人である真山さんに聞いたら、大学卒業して同棲してから父は、何か祝い事がある時に母に対して花束を渡していたと聞いた。
 花はダメだ。枯れてしまう。父と一緒というのも、母にはよくないかも。

 ところで、俺には成人済みの親戚がいる。母方の叔父の子供なので従姉に当たる。叔父の子と言っても養子なので明確に言えば血は繋がっていない。
 その従姉が結婚してつい先日出産して俺も赤ちゃんを抱かせてもらった。小さくてやわくて暖かい。俺にもこんな時期があったんだなってしみじみした。
『これで親孝行できたかな』
『親孝行?』
 従姉には仲良くしてもらっていたので、俺一人で従姉の家に遊びに行った。旦那さんも良い人。
『ちょっと古いかもだけど、特殊な環境でもここまで育ててくれた二人にこの子を抱かせられてよかったなって』
 叔父は詳しく言えば結婚はしていない。同姓のパートナーがいて、子供が出来ないから養子を迎えた。それが今の従姉なわけだけど。
 パートナーとしての立場はあるけど、まだまだ異性夫婦のように一般的ではないから苦労があったのは子供の俺でも想像できる。当事者であればもっと。

 そうだ。これだ。と、ピンときた。

 打算で子供とか、結婚とかよくないのは理解している。高校生になったばかりで彼女もいないし、好きな子どころか気になっている相手もそもそもいない。
 でも、母の言う”幸せでいてくれたら”という言葉にも合致する。好きな人と結婚して子供が出来たらきっと幸せに違いない。母も父が死ぬまでは幸せだったはずだ。俺は父と同じようにはならない。
 俺がいつか誰かと結婚して子供を抱かせたら、母もあの写真の頃のように笑ってくれるだろうか。

 *

 愛している。今でもずっと。

 我が子のことも。血を分け合って産んだ子だから。片親でも立派に育ってくれた。ずっと通って援助してくれた水元くんにも感謝している。
「母さん。ほら抱っこしてあげて」
「義母さんもぜひ」
 結人は良い人と結婚した。
 愛おしい人を見る目が二十数年前の出来事をまるでつい先日のことのように思い出される。この子には言いたくなかったけれど、──くんとよく似ている。
 最初に口にしたのは水元くんだった。よく会うし成長を目の当たりにしてつい口から出てしまったのだろう。
 私も正直そう思っていた。
 最初は声変わりをした頃。背が伸びて追い越された頃には明確に。でも口にはしたくなかった。水元くんも私の考えを聞いて理解してくれたから言わないようにしてくれていた。
 口にして、あの子に伝えたら、きっと気にしてしまう。私が子に向ける愛情は彼への深愛とは別の感情だから。
「親孝行できたかな」
「え、」
 以前に聞いた言葉を、似た声が発した。
 時が止まったように他の音が聞こえなくなる。
「今まで育ててくれてありがとう、母さん」
 ある年の母の日の前に「私が喜ぶことはなに」と質問されたことがあった。その年は丁度兄が養子にとった子が出産をした年で、結人はよく会いに行っていた。
 …もしかして、あれからずっとこうすることを考えていたのだろうか。
 ずっと否定したかった。この子と──くんは別の人間だ。思い至った理由も違うのに、なのにどうして同じことを考えて、目指してしまうの。
 
 今までずっと、私が彼に助けられたことを後悔したことはなかった。私が助かったのは、彼が望んだ孫を親に抱かせるという願いを遂行するため。私を選んでくれた彼へのせめてもの想い。そしてその子を育てるためにここまで生きてきた。
 なのに、
「母さん…?」
 結人が私になにを求めているのか知っている。言わないけど、きっと多分変わってはない。小学生の時の作文で周りにいじられるのを分かっていながら書いたぐらいだ。
「うんん、ありがとう結人。あなたも」
 私はちゃんと笑えたのだろうか。

 *

 結人の子を抱いた日の夜。分かり易いところに書き置きを残した。水元くんが気が付くように。

 ごめんね。
 本当は最初からこうするつもりだったの。

 水元くんが来るまでに、私はあなたに会いに行く。
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