短編集
「あの、この前は傘、ありがとうございました」
裏道は職場のHNK局の廊下ですれ違った女性に声をかけた。
女性は一瞬、きょとんと目を丸くしたあと裏道の言葉を理解して微笑み返した。
「いえ当然のことをしたまでです、お役に立てたなら何よりです」
先日、残業帰りに突然の雨に見舞われた裏道に傘を貸した女性。その時には名前も聞けなかったが、裏道は今、彼女が首からかけている社員証をチラ見した。
青衣瑠璃。おそらく青が好きな彼女を表すにはピッタリな名前だ。
アッシュグレーの髪の内側には濁りの無い青が見え隠れしていて、あの日と同じシルバーのリングピアスが輝いている。いつもなら見た目がド派手なだけで偏見を持ってしまう彼だが、初対面で傘を借りたというのと、なぜか目が離せないという感覚もあり、裏道は彼女に声をかけることに躊躇しなかった。
「傘、楽屋にあるんで収録後にまた声かけてもいいですか」
「わざわざすみません! では私、企画部にいますので」
胸元で揺れる社員証を手に取って裏道に見えるように見せる。
「青衣瑠璃です。ではまた後で、裏道さん」
紺色のパンツスーツに白いシアーシャツと黒のインナーという涼やかな格好の彼女は、裏道に一礼したあと颯爽と廊下を歩いていく。
その時にもインナーカラーの青色が裏道の視線を奪う。
「オハざーっす」
「おはようございます」
彼女の背中を目線で追う裏道の後ろに、後輩二人の声が聞こえる。
晴れやかと言えるほど穏やかだった裏道の気分はいつもの鬱々としたものに戻ってしまう。
「……おはよ」
「誰かと話してました?」
振り向いた裏道の後ろを見て熊谷が聞いてきた。
あの青色が目に止まったのかと想像すると、裏道は少し言葉に言い表せない窮屈さを感じる。
「ま、まあ」
熊谷はそれ以上聞かず、兎原は何も分かっていないのか頭に疑問符を浮かべている。
裏道は大きく息をついて、今日の仕事を乗り切る覚悟を決めた。
時間は過ぎて夜も深くなってくる時間。ディレクターの無茶振りもあり収録後に次の企画の準備になるのかも分からないことをさせられ演者たちは心身ともに疲弊していた。
しかし、今の裏道にはそんなことすら通過点であり、気にすることではなかった。今日だけは。
定時を過ぎていたが企画部のオフィスには灯りが灯っている。
「お疲れ様です、裏道さん」
中に入ろうかと右往左往していると後ろから声をかけられた。声をかけてきたのは青衣だった。朝より落ち着いた声色の彼女の手には缶コーヒーが握られている。
「今中に入ったら修羅場中の木角くんに捕まって無茶振りさせられますよ」
「え、あ、お疲れ様です」
「移動しましょうか」
オフィス内に聞こえないように小さい声で話すのは分かる。しかしその囁き声のような息を含んだ声がなんともこそばゆい。透明感という言葉が似合う声。鈴を転がすようなと言えば、響きがよく伸びが良いと言われる池照とも似ている。
透明で、涼やかで、ほんのりと甘い声だ。
言われるがまま夜風の当たる外まで出てようやく足が止まる。
「甘いものとか大丈夫ですか、好みとか分からなかったんですけど…」
漸く借りた傘と、お礼のお菓子を彼女に渡した。お菓子は、なんとか話をしたくて買ってしまったデパ地下菓子。
「大丈夫です、大好きですよ」
わざわざありがとうございます、と続いた言葉のあと、紙袋を青衣は受け取ろうとする。
「あの、」
紙袋の持ち手を介して渡す時、指先が触れてピクリと反応する。
「…はい?」
荷物が青衣に渡り、それと同時に彼女は首を傾げた。
「連絡先、聞いても良いですか?」
裏道の言葉に青衣はその薄茶色の瞳をまん丸とさせて驚いている。一瞬の沈黙の後、その無言に耐えられなくなった裏道が言葉を発するのを遮るように青衣が口を開く。
「はい、喜んで!」
輝くような笑顔のあと、パンツスーツのポケットからスマホを取り出した。そのスマホカバーはやはり澄み渡る青。
メッセージアプリで連絡先を交換してアイコンが表示される。青色の小さな花だ。
「青色が好きなんですか?」
「あは。分かりますか」
顔にかかる横髪を耳に掛けると青いインナーが視界に入る。
「昔から好きなんです」
照れてほんのり染まる頬に、眉を下げて目を細めて笑う彼女に裏道は咄嗟に息を詰めた。
自分に向けて言われた言葉でなくても、彼女は好きなもの に対してこんな表情をするのだと分かる。そして唐突に自覚した。
「すみません、残業中に。無理しないでくださいね」
「こちらこそお気をつけて」
彼女が局内に戻るのを見送ったあと、裏道は帰路に着く。
呆然と起こったことを整理して、考えが纏まらないうちに自宅に辿り着く。夕食を摂っている間も、入浴中も、眠れずに見る深夜番組を垂れ流している間も、後輩とのグループメッセージも全て思考をすり抜けて、考えるのは彼女のことばかり。
あの雨の日、裏道の中で芽生えながらも感情の起伏が追いつかなかったせいで言葉にならなかった、その言葉。
特徴的な髪も、素朴な瞳も、透明な甘い声も、触れて反応を見せる指も、そして彼女の人柄も初見ながらにとても好きだと自覚する。
「はあ…どうしよ…」
純粋な恋というものに正直自信が無い裏道は、ただ溜息が止まらなかった。
裏道は職場のHNK局の廊下ですれ違った女性に声をかけた。
女性は一瞬、きょとんと目を丸くしたあと裏道の言葉を理解して微笑み返した。
「いえ当然のことをしたまでです、お役に立てたなら何よりです」
先日、残業帰りに突然の雨に見舞われた裏道に傘を貸した女性。その時には名前も聞けなかったが、裏道は今、彼女が首からかけている社員証をチラ見した。
青衣瑠璃。おそらく青が好きな彼女を表すにはピッタリな名前だ。
アッシュグレーの髪の内側には濁りの無い青が見え隠れしていて、あの日と同じシルバーのリングピアスが輝いている。いつもなら見た目がド派手なだけで偏見を持ってしまう彼だが、初対面で傘を借りたというのと、なぜか目が離せないという感覚もあり、裏道は彼女に声をかけることに躊躇しなかった。
「傘、楽屋にあるんで収録後にまた声かけてもいいですか」
「わざわざすみません! では私、企画部にいますので」
胸元で揺れる社員証を手に取って裏道に見えるように見せる。
「青衣瑠璃です。ではまた後で、裏道さん」
紺色のパンツスーツに白いシアーシャツと黒のインナーという涼やかな格好の彼女は、裏道に一礼したあと颯爽と廊下を歩いていく。
その時にもインナーカラーの青色が裏道の視線を奪う。
「オハざーっす」
「おはようございます」
彼女の背中を目線で追う裏道の後ろに、後輩二人の声が聞こえる。
晴れやかと言えるほど穏やかだった裏道の気分はいつもの鬱々としたものに戻ってしまう。
「……おはよ」
「誰かと話してました?」
振り向いた裏道の後ろを見て熊谷が聞いてきた。
あの青色が目に止まったのかと想像すると、裏道は少し言葉に言い表せない窮屈さを感じる。
「ま、まあ」
熊谷はそれ以上聞かず、兎原は何も分かっていないのか頭に疑問符を浮かべている。
裏道は大きく息をついて、今日の仕事を乗り切る覚悟を決めた。
時間は過ぎて夜も深くなってくる時間。ディレクターの無茶振りもあり収録後に次の企画の準備になるのかも分からないことをさせられ演者たちは心身ともに疲弊していた。
しかし、今の裏道にはそんなことすら通過点であり、気にすることではなかった。今日だけは。
定時を過ぎていたが企画部のオフィスには灯りが灯っている。
「お疲れ様です、裏道さん」
中に入ろうかと右往左往していると後ろから声をかけられた。声をかけてきたのは青衣だった。朝より落ち着いた声色の彼女の手には缶コーヒーが握られている。
「今中に入ったら修羅場中の木角くんに捕まって無茶振りさせられますよ」
「え、あ、お疲れ様です」
「移動しましょうか」
オフィス内に聞こえないように小さい声で話すのは分かる。しかしその囁き声のような息を含んだ声がなんともこそばゆい。透明感という言葉が似合う声。鈴を転がすようなと言えば、響きがよく伸びが良いと言われる池照とも似ている。
透明で、涼やかで、ほんのりと甘い声だ。
言われるがまま夜風の当たる外まで出てようやく足が止まる。
「甘いものとか大丈夫ですか、好みとか分からなかったんですけど…」
漸く借りた傘と、お礼のお菓子を彼女に渡した。お菓子は、なんとか話をしたくて買ってしまったデパ地下菓子。
「大丈夫です、大好きですよ」
わざわざありがとうございます、と続いた言葉のあと、紙袋を青衣は受け取ろうとする。
「あの、」
紙袋の持ち手を介して渡す時、指先が触れてピクリと反応する。
「…はい?」
荷物が青衣に渡り、それと同時に彼女は首を傾げた。
「連絡先、聞いても良いですか?」
裏道の言葉に青衣はその薄茶色の瞳をまん丸とさせて驚いている。一瞬の沈黙の後、その無言に耐えられなくなった裏道が言葉を発するのを遮るように青衣が口を開く。
「はい、喜んで!」
輝くような笑顔のあと、パンツスーツのポケットからスマホを取り出した。そのスマホカバーはやはり澄み渡る青。
メッセージアプリで連絡先を交換してアイコンが表示される。青色の小さな花だ。
「青色が好きなんですか?」
「あは。分かりますか」
顔にかかる横髪を耳に掛けると青いインナーが視界に入る。
「昔から好きなんです」
照れてほんのり染まる頬に、眉を下げて目を細めて笑う彼女に裏道は咄嗟に息を詰めた。
自分に向けて言われた言葉でなくても、彼女は好きな
「すみません、残業中に。無理しないでくださいね」
「こちらこそお気をつけて」
彼女が局内に戻るのを見送ったあと、裏道は帰路に着く。
呆然と起こったことを整理して、考えが纏まらないうちに自宅に辿り着く。夕食を摂っている間も、入浴中も、眠れずに見る深夜番組を垂れ流している間も、後輩とのグループメッセージも全て思考をすり抜けて、考えるのは彼女のことばかり。
あの雨の日、裏道の中で芽生えながらも感情の起伏が追いつかなかったせいで言葉にならなかった、その言葉。
特徴的な髪も、素朴な瞳も、透明な甘い声も、触れて反応を見せる指も、そして彼女の人柄も初見ながらにとても好きだと自覚する。
「はあ…どうしよ…」
純粋な恋というものに正直自信が無い裏道は、ただ溜息が止まらなかった。