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短編集

 前職を辞めてもう半年が過ぎたらしい。
 社会人になってから本当に月日が過ぎるのは早いと親の言葉を実感する。
 就活終わりから数年かけて書いた小説が出版社の新人賞を受賞してはや一年。編集者が着き、添削を重ね本屋に並ぶようになって半年前。正式に会社と契約を結んで今は雑誌に掲載する作品の執筆と満ち足りている。
 間違いなく、今までの私の人生で最高潮。今が私の人生のピークなのではないかと錯覚するほどだ。
「悪い。遅かったな」
「うんん。大丈夫」
 それを親友に言ったら早計過ぎると笑われたけど、今の私にはそうとしか思えない。
 単純に好きな人が出来た。
 夕方の駅前で待ち合わせ。彼は最近転職活動を終えて新しい職場できぐるみの中で働いている。
 真面目というには大雑把で、優しいというにはシビアなところもある。それでも彼は私を見てくれていると分かるようになった。
「鍋好きなんだな」
「そう、味噌が好きだから味噌煮込みとかよくするんだよね」
「俺も好きだな。よく作る」
 実家が板前で漁師の家系らしい彼は料理が得意だという。そういえば一度食べた朝食が美味しかった。
 今日行くのは個室の焼肉屋。マンゴーみたいに切られた極厚牛タンが美味しいらしい。彼とはお互いに転職後、街で偶然再会したあと連絡先を交換して、最初はメッセージのやり取りだけだったが、最近は一緒に夕食に行く関係だ。
「今度は鍋にしよう」
「まだ焼肉食べてすらないよ」
 私が笑うと彼も釣られて少し笑う。最初は本当に僅かだった笑みも、今でははっきり分かるし、笑い声だって上がる。
 ああ、楽しいな。会話をするだけで楽しいなんで今までなかったな。
 大学生の時、もう彼氏なんか作らないと枕を濡らしたことがある。それぐらいにはずっと辛い思いをしてきた。実際、彼と会うまでは男性の好意が気持ち悪いと思えるほどだった。
「この店だな」
 個室限定の店とは聞いていたが思っていたよりも高級感のある店だった。焼肉屋というよりはお寿司を連想するようなナチュラルな外観。
 店内に入ってすぐに目に入った定員が品の良さそうな女性で、途端に今日の私の服装が気になって仕方ない。季節は春で季節は梅雨を無視したように暑い日が続く。カーディガンを羽織った程度の夏に近い結構ラフな格好。
 緊張して、案内されている熊谷くんの後ろを黙ってついて行く。
「緊張してんの?」
「思ったより高そうだったから」
「ちょっとな…」
 部屋に案内されてコース料理が来る前に出されるお通しを摘みながらの会話。
 笑いながらも少し含みを持たせる彼。いつもは食べログの画面を見せてくるのに今回は料理の話題しか無かったのも頷ける。
「誕生日おめでとう」
「ありがとう」
 昨日は私の誕生日だった。今日の約束をするときに珍しく日にちを指定して来た時に気がつくべきだった。彼に誕生日の話をしたのは一度きりだったのですっかり忘れていた。
 舞い上がっているからなのか、アルコールのせいなのか身体がとても熱くなる。
 お酒の力もあっていつもより言葉がするすると流れ出る。制御が難しいぐらいにはレスポンスが上がるのが自分にも分かる。
 食べ初めて一時間は経過しているだろうか。私は一度食指を止めた。
「ごめん…ちょっと酔った…」
「水貰うか?」
 私とは違い、酒に強い彼はどんどん酒を干していく。私は水をもらって少しアルコールを中和する。
 残りのお肉もラストスパートといったところだろう。お肉はひたすらに柔らかかった。美味しいしか言っていない気がする。
「焼けたぞ」
「うん、食べる」
 もうだいぶ酔ってる気がする。多分だらしない顔してると思う。
 最後の一枚が名残惜しい。この美味しいお肉も、彼の優しい笑みを見る時間も終わってしまう。そう思うと少し感傷的になった。
「もう終わりかぁ」
「次は鍋だろ」
「そうだけど……」
 今、この瞬間は終わってしまうのは寂しい。そう言ったら熊谷くんは困るだろうか。
 私が言い淀んでいると彼は立ち上がった。
「帰るか。送る」
「うん、ありがと」
 酔ってる私の手を引いて、店を出て二人でタクシーに乗った。
 タクシーに揺られウトウトしているとすぐに自宅マンションに着いた。電子決済で会計を済ませ、タクシーから降りる。ここでお別れかと思えば彼もタクシーを降りた。「部屋前まで行く」と熊谷くんは言った。
 少し休んでかなり酔いは治っていたけど手は繋いだまま。ほんのり汗を掻いてじんわりと熱いしっとりした手。私を心配するような足取りはいつもより速度を緩めていた。
 長い道のりを歩いたような錯覚を起こす。それぐらいゆっくりマンションの廊下を歩いた。ようやく部屋の前について、私は熊谷くんに向き直る。
「今日はありがとう」
「ああ、また予定空けといてくれ」
 繋いだ手を離すのが名残惜しいとは何事だろう。付き合ってもない同年の男性の手を借りて、安心しまくって酔うほど呑んで。今日が終わるのが寂しいと思っている。
 思えばずっと慢性的な寂しさに負けていた。自分から両親や姉さんと距離を取って、東京の大学に入って、酒で得られる幸福感より先に男に求められる幸福を知ってしまった。今思えばそれがよくなくて、どんなクズでも私と一緒に居てくれる寂しさを誤魔化してくれる人を選んだ。
 男は性欲を満たし、私は寂しさを誤魔化していた。同様にクズだ。
 ダメだ。彼だけはそんな関係で終わりたくない。そう思うと背中に冷や汗が流れるのが分かる。
「……うん」
 言葉で繕う理性はあるのに、身体が言う事を訊かない。繋いだ手をぐっと引き寄せようとする。
 でも彼は気づいていたように腕に力を込めて動かないようにしていた。
 はっと、私は勝手に俯いていた顔を上げた。
「やめとけよ。後悔するだけやざ」
 方言とか、言葉の意味とか、そんなことよりも彼の、笑っているとも言えないような、目を細めて私を見て、私の思っていることを理解して、私を止めようとしている彼の表情に私は冷静さを取り戻した。
「あ、ありがと。落ち着いた」
「気にするな、真澄も俺も酔っちまったな…今日は」
「え?」
 繋いでいた手がするりと解かれると思いきや、私の指を摘んで止まって、指先を握られる。
 意図を掴めなくて見つめ返すと、彼は一瞬目を泳がせた。
「酔ってない時に言うことにする」
 最後に握っていた指先も離して彼は「またな」と手を振った。私も振り返して彼がエレベーターに乗るのが分かるまで玄関の前にいた。
 数秒の沈黙。
 察しが悪いわけでも子供なわけでもない。好意を向ける人の顔を私は知っている。
「はあ〜〜〜〜……」
 静かな夜のマンションに私の長い息が少し響く。家の中に入るのも忘れて、今は少しでも夜風で熱くなった顔を冷やすべきだ。
 事前告知なんて、そんなの狡すぎる。
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