カケラひとつ
「どんくさっ、ていうかとろい」
子どもながらに同級生に言われたことが胸に刺さった感覚は、今でも忘れがたいものだ。そのあとに周りからの同調の笑い声を聞いて泣き出しそうになったことも鮮明に覚えている。
私には三つ離れた姉がいる。姉は私より良く出来た人で、気立てがよく、物事に良く気が付く。おまけに頭も良くて、容姿も可愛いこともあって、地元では良く知られていた。
そんな姉と比べられたのがこの私。同級生にこう言われてしまう程度に行動も遅い。いまいち空気が読めない。親が私たち姉妹を差別しなくとも周りはそうではなかった。
溌剌としていて大勢で話すことにも臆しない姉に打って変わり私はすぐに口ごもってしまう。田舎という小さなコミュニティの中で比べられるのも仕方ないことだとは思うけれど、私にはとても耐えられなかった。だから「とろい」「どんくさい」「空気が読めない」と言われないように努力をするのは必然だった。
授業中に問題を振られて、息詰まると視線が痛いので毎日予習復習を繰り返した。体育は先生になにをするのかを聞いて事前に少し練習できる範囲で試してみたり、とにかく同級生たちより先にすることを志した。
空気が読めないと言われる基準は正直良くわからなかった。私が良かれと思ってやったことも誰かは有難迷惑と思っている。姉がして感謝されることも私がすれば迷惑と思われる基準が難しい。だから周りに合わせることを一番に考えるようにした。
流石に授業をサボったり、校則違反などはついて行けなかったが、私が出来る範疇で。そうしているとある日、声を掛けられた。
「俺と付き合わない?」
中学生の時、高校生に声を掛けられた。姉と同じクラスで、仲が良く何度か顔を合わせたことがあった。
最初はかなり困惑した。正直、相手のことを好きでもなんでもなかったし、高校生が中学生を相手にすることがあるのか、という疑問も大きかった。それでも断れば何を言われるのかが怖かったから頷いた。これが、私の人生の中で一番の失敗だ。
高校生と中学生ということもあり、噂はすぐに回った。彼の周りにいる男子たちとも交流を持つようになったが、彼と二人きりになって話すことはもっぱら姉の話だった。
最初は共通の話題だからと思っていたがそうではない。彼は姉のことが好きで、告白して振られたから私に目を付けたのだと暫くして分かった。分かった途端に、特に好きでもなかったのに悲しさと悔しさが混じって泣いてしまった。姉の代替品でしかなくて、私に掛ける言葉も、優しさも姉を見て掛けるものだったことが、嫌で嫌で仕方ない。彼とはすぐに分かれた。そして姉を知る人物とは友達になる努力も彼氏にもしないと決めた。
高校は電車を乗り継いて行く、少し遠めの学校を選んだ。そこでも「どんくさい」とも「空気が読めない」と言われないように努めながら、告白をしてきた男性と付き合っていた。
実際、友達も出来たし、最終的にある一人とは一年以上交際が続いた。そんなある日のこと。
「真澄の姉ちゃんって可愛いよね」
「……誰から聞いたの」
彼が姉のことを聞いていた。姉のこと自体は嫌いではないのだが、姉が大学に入ったことで滅多に合わなくなった。結果的に周りから話題にされることが減ってすっかり警戒していなかった。
「この前、ケータイの画像欄みたときに写真があったじゃん。そんとき」
「そう」
「真澄も十分可愛いけど、姉ちゃんもすごい可愛いなって」
「姉と私を比べないで!!」
声と学校の机を叩いた音で相手がかなり驚いたのが分かった。彼の表情を見て我に戻った私は凄く顔色が悪かったんだと思う。驚いた彼だったけど私を心配してくれた。それでも、例え私を褒めていたとしても、どんな意味だとしても姉とだけは比べないでほしかった。長く付き合って、人柄を知って大好きになった彼だったが、姉と私と比べた彼とは一緒に居たくなくなった。
大学は上京して一人暮らしを始めた。この頃には前もって行動することも、周りをよく見ることも苦ではなくなっていたが、不意に寂しさを感じるようになった。一緒に居たいと思える人を探して様々な場所にいった。合コンにだって付き合ったり、クラブにも通った。けれど、そうして出来た恋人たちにとって私は都合の良い女だったのだろう。デートで暇を潰せればいい。セックスで欲を満たせればいい。運が悪いのか、はたまた私が空気を読むことをちゃんと理解していないからなのか、そんな人たちばかりと大学の四年間を棒に振った。
これでは駄目だ、と思い至ったのが就活も無事に終わり、卒業課題もクリアした大学四回生の冬。私は自分を表現する方法を考え始めた。よく言えばマイペース、悪く言えばどんくさくて、空気がいまいち読めなくても私を表現できるもの。
その時に偶々目に入ったのが本だった。アウトドアな姉に対しインドアな私は、勉強や体育の予習以外にしていたことがゲームと読書だった。プロゲーマーという言葉はまだあまり知られておらず、腕前も良い方ではなかったこともあり、私は本への関心を向けた。
学生や教授たちが読むような論文などは書けなくとも、創作物であるなら書けるかもしれないと私は思った。それから私は少しずつ、文章を学んで、また少しずつ話を書き綴り始めた。不思議と書いているときはぼんやりとした寂しさも、会社のセクハラパワハラ上司の事も忘れて没頭でき、完成した作品を編集社に投稿すると、なんと新人賞を受賞した。今まで何もかも姉に劣ってきた私が唯一、大成出来たことだった。
そんなときに熊谷くんと出会ったのだ。
前の会社を退職し、中途採用で新しい会社に就職をした。面接の際に前の会社を辞めた理由を話した時は、流石に空気を凍らせてしまったと思ったが、案外採用されて面喰らいはした。
「おはようございます、熊谷みつ夫さんですね。私は加計真澄と申します、こちらへどうぞ」
事前の電話で言われたとおりエントランスで待っていると名札を掛けた女性がやって来て俺の名前を確認した。
室長までの道を案内すると同時に、今日からの営業内容を軽く説明し、デスクを確認後、室長の元へ向かう。そこには大きな椅子にどっかり座りこんだ、頭髪に違和感のある中年男性がいた。
「室長、今日から異動してきた熊谷みつ夫さんです」
「……ああ、分かった。よろしく頼む」
「はい」
パソコンを見ているわけでもなく、よそ見をしていた男は、俺を見るわけでもなく、適当な返事をした。部署関係なくこの会社の上層部は相当だと言える。
その場を離れると、加計という案内をしてくれた人が資料を渡してきた。
「作業マニュアルです。公式で出されてるものではないんですけど、室長が滅多に説明をなさらないので作ったものですので不備があるかもしれませんが」
「これは貴女が?」
「はい……これまでにも人事移動で不備があったので。……熊谷さんは、私と一緒に外での営業なので何かあれば聞いてください」
彼女の言葉の間に、今までにあった問題が何となく想像がつく。彼女が自作したというマニュアルはとても精巧に作られいる。確かにこの会社で作業マニュアルというものは目にしたことが無いが、これは要点を捉えていて、社員が知りたいことであろうことをはっきりと明記している。おまけに読みやすい。
「それでは早速ですが、」
「真澄ちゃん」
随分と覇気のない声だったが先ほどの室長が手招きをして、俺の隣にいる彼女をまさかの「ちゃん」付けで呼んでいる。一瞬、彼女の口元が歪んだようにも見えたがすぐに彼女は笑みを向けた。
「はい!」
ロビーで待っていてくださいと言われ、言われた通りにオフィスを離れようとする直前に振り替えると、室長に肩などを触られながらもにこやかに話を聞いている彼女の姿が視界の端に移った。
十分程して彼女も降りて来た。「ごめんなさい」と謝る彼女に「大丈夫です」以外の言葉は見つからない。
「では行きましょう。車を手配しているので道中に企業さんの説明をさせていただきますね」
「はい、宜しくお願いします」
パンツスーツで、あまり高さのないヒールをカツカツと鳴らして歩く姿は、少し格好よく見えた。
用意された車に乗り込み、俺は助手席に付いた後、渡されたマニュアルと一緒にされた取引先の概要が書かれた紙を取り出した。加計が運転席に座り、車は会社を出発する。
「基本的に車で取引先へは移動します。熊谷さんは、前の部署で移動は何を使ってましたか?」
「車とか、電車ですかね。あ、運転は出来ます」
「それは良かった。ではこれからは交代で。今日は資料を読んでおいてください。あと道の確認も、一応地図をつけておいたので。名刺は初回だけなので忘れないように」
今までに無いほどに円滑に進む説明と仕事に溜息が漏れそうになる。仕事が出来る人が一人いるだけでこれだけ変わるのだと実感する。逆にこの人が居ないとあの部署はどうなるのだろうか。想像はしない。
その後、部署移動、初日の仕事は問題なく終了した。
次の日も、その次の日も、一週間後も、一か月後も、彼女との仕事の時間は良いものだったと言える。
加計真澄という人物は良く周りを見ている。周りを見て自分のすべきことやサポートを熟知している。その際の動きも細やかで、部署の誰もが彼女に助けられている。だから人望もあり、室長の〝お気に入り〟らしい。
だからこそ、なのだろうか、他人を見て自分の為に行動しない彼女のことは苦手だ。仕事をしている時の不便の無さも、誰にでも優しく接する態度も、悪く言えば自分が無い。裏で何を考えているか分からない。
これはタバコを吸うために喫煙ルームに入った時に聞いた話だ。
「熊谷って加計さんと一緒に外周りしてるんだっけ」
「そうですけど」
「なんかプライベートな話とかしない?」
「いや、仕事の話だけですね」
同じ部署の人に聞かれ、適当に答えていると少し雲行きが怪しくなっていく。
「室長ってあんなんじゃん、男の社員には厳しいし、雑だけど、女性社員には甘い」
「否定はしないですけど」
「……最近、特に加計さんへのセクハラが激しいんだよ。丁度、君が来たぐらいからかな」
言われる前から、露骨過ぎて知っていたが適当に答えた。嫌なんだろうけど、上司だから嫌がることも出来ないんだろうなと分かっていたから。
分かって居ながらも助けもせずに放置しているのは最早、俺含め同罪だろう。
「俺たちにも、彼女本当に彼氏いないのか、って聞いてくるから、君なら知ってるかなって」
「知らないです。そんなに仲が良いわけではないんで」
煙を吸って、吐いて、ふと窓の外を眺めると、初めて来た日、室長に呼ばれて返事をしたときの、彼女の引き攣った顔が思い浮かんだ。次に思い出すのはほぼ毎日目にする、彼女の堂々たる後ろ姿。
あの後ろ姿はきっと……
俺はもう一度、タバコの煙を吸い込んだ。
室長と加計の話を聞いた日、その日は部署の飲み会が行われた。名目は俺の就職から一か月経った祝いとされているが、実際にはこう言った飲み会は月一に開催されているという。十五人以下の社員数に対して少し狭く感じる宴会室に押し込められ、それぞれが席に着いた。
頻繁に開催されることもあり、席順などは大体決まっているという。室長の隣には当然のように彼女が配置され、反対側の隣は皆が目配せして誰が座るかを決めている。誰も座りたがらないのは分かる。
「俺が座りますよ。新任ですし」
「そうか」
室長は相変わらず、男性社員に一切関心がないようで、隣に座らせた加計にべったり付いている。
乾杯を終え、全員が飲み始めると加計が食べ物を取り分け始めた。手伝おうと声を掛けても「大丈夫」と言われ座っているように言われる。一瞬周りを見ても彼女を助けようとする人はいないのだろう。体のいい厄介払いというか、貧乏くじにもほどがある。
酒が進むと、絡みは更に悪化した。所感、彼女はそこまで酒に強くない、人並み程度という所だが、室長が執拗に進める。それにボディタッチも肩や腕から徐々に下がり、とうとう腰まで来て流石に加計も唾を飲んだのが分かった。
「室長、日本酒どうです?」
「お、ああ貰おうか」
幸い、相手も酒が進むと調子が良くなってくるのか進めた酒をどんどん飲み進めていく。
二時間後には、全員のペースは落ち、そろそろ帰ろうかという話になる。室長が潰れたのでタクシーで帰らせることにし、全員が各々帰路に付こうという所で、室長に絡まれ真っ青になった加計を全員が思い出す。
「加計さんまだお手洗いかな」
「今日も散々だったみたいだし」
他人事のように流れる会話をもう不思議とは感じなくなってきた。
「見てきます。皆さんは先に行ってください」
会計を済ませ、全員が店から離れるのを確認すると、恐らくまだ籠っているであろう女子トイレの入り口まで向かう。幸いにも男女ともに個室1つのトイレということもあり、入口まで入ってこれた。
「加計さん。大丈夫ですか」
ドアをノックし声を掛けると掠れた声が帰ってきた。
「……くま、たにさん? 他の皆さんは……?」
「もう帰りました。加計さんの分の会計も済んでます」
少しの間のあと、水の流れる音がしたあと、彼女は漸くトイレから顔を出した。顔面蒼白という言葉が一番に浮かぶほどに顔は青白く、やつれていた。恐らく相当吐いたのだろう。
「それは…もうしわけない……ことを……」
「構わないでしょう。厄介ごとを全て押し付けられているのは加計さんですよ」
彼女の荷物も持って店を出る。タクシーを拾おうとしたが見当たらなかったので最寄駅まで向かうことにした。そこでならタクシーも拾えると思ったのだが、途中で完全に彼女がダウンしてしまう。
「ごめ…………本当に、気持ち悪い……迷惑だったら置いて帰って……」
「今更ですし、こんな道のど真ん中で女性一人放置したら色々と危険すぎるので駄目です。そもそもなんでそんなに他人を一番に行動出来るんですか」
俺も酔ってるのか、つい思っていたことが口から出た。
仕事は出来るのに周りに足を引っ張られて、うざい上司に絡まれ、飲み会では吐くほど飲まされて、それでも同僚には全く労わって貰えない。いくら社会が理不尽でもここまで損する必要なんて彼女にはない。
動けなくなってしまった彼女を背負い、タクシーが見つかるまで歩いた。見つけても寝てしまった彼女の家も分からなければ、部屋にちゃんとたどり着けるかも心配になるほどだったので渋々俺の家に連れ帰ることにした。
アパートの前でタクシーから降り、再び彼女を担いで歩き始めた。途中、寝ぼけているのか起きているのか分からない呟きが背中から聞こえてくる。
「みんなのしせんがこわいの……とろいって、どんくさいって、くうきがよめないっておもわれるのがいやなの……ねえさんのように、きのまわる……ねえさんのようになりたい……」
俺の咄嗟に出てしまった問いの答えなのか、彼女の願いなのか判断の付かない言葉に、何か言えるような立場ではない。ただ、今まで会社で見て来た彼女の姿が虚勢だったことは分かった。
「わたしって、やっぱりどんくさいのかな……しらずしらずのうちに、みんなにいやなおもいをさせてるのかな……」
「他の人は知らないですけど、俺はそうは思わないです。何にそんなに拘っているんだろうとは思いますけどね」
「…………ありがと」
階段を上がり、漸く部屋の鍵を開ける頃には、彼女は再び眠りについていた。
この飲み屋から家までの数時間で彼女のへの印象が大きく変わった。
目が覚めた。けれど、ここはどこだ?
少なくとも私の部屋ではない。風景が全く違う。というか昨日の私はどうやって飲み屋から移動したんだ。
困ったことに全く記憶がない。微かに覚えていることが、一か月前に部署移動でやってきた熊谷さんにタクシーをお願いしたところまで。なんか、店の近くで見つからなくて肩を借りて駅まで歩くと聞いたところは何となく記憶している。
「起きましたか、おはようございます」
「っ!? く、くま、くっ!?」
「熊谷です」
何を考えているのかいまいち分からない無表情を貫く彼が、いつもの表情でキッチンから顔を出した。その時点でもうパニックで上手く声が出せない。なんで私が彼の家にいるのか、何か重大な間違いがあってしまったのか自分の身なりを確認するが、来ていたスーツの上着を着ていないぐらいしか違いが分からない。
「大丈夫ですよ、俺がしたのは靴と上着を脱がせ、コンタクトを取って布団に居れただけです」
「コンタクトを取られたことも気付かないぐらいに私は熟睡していた……?」
「ええ、今日が休みで良かったですね」
壁掛けの時計を指さした彼に従って目線を向けると、時刻は午前十一時。
穴があったら入りたいぐらいに恥ずかしい。というか彼の顔を見れない。何も無かったにしてもこれは痴態を晒しすぎたのではないか。優しい言葉が逆に辛い。
彼は私が寝ていたベッドの脇に荷物を移動させたあと、コンタクトはケースに片づけたものをベッドの前に置かれたローテーブルにそっと置いた。そして羞恥心で顔を隠す私の顔を一瞬で確認するとその場から離れて行った。
「味噌汁作ったので帰る前に取り合えず食べてください」
「……本当に申し訳ない」
「今更ですよ」
キッチンに戻る際に見せた彼の顔が少し笑っているように見えて、胸の奥の方がむず痒くなる。というか昨日も今と同じように返された気がする。…………本当に何にもなかったんだよね? 貞操ガバガバとか思われてないよね? 酔って記憶のないうちに、恋人でもない男性の家に上がった事実がある以上否定もしにくいけど。
「洗面台借りて良いかな? 顔面気持ち悪くて」
「はい、廊下左手のドアです」
自分の食事を作っているのか、目線は来なかった。が、今はその方が嬉しい。恐らく気を使ってコンタクトは取ってくれたけど流石に男性の家にメイク落としがあるとは思えない。頻繁に彼女が通っているのなら話は違ってくるが。
言われたドアをあけると、そこは洗面台があり、脱衣場と一体となっているのか更に奥には擦りガラス風のドアの向こうに風呂場。脱衣場を挟んで洗面台と反対の壁際には洗濯機がある。
「女性が使っても大丈夫かは知りませんが、洗顔料ならありますよ」
「じゃあちょっと分けてもらってもいいです?」
「どうぞ」
鏡を見るとそこには顔色の悪い、化粧が崩れまくった女と目が合った。我ながらブスを極めたような顔をしている。
ああ、この素顔を同僚に、しかも男性に見せるのか……私は既に社会的に死んでいるも同然なのかもしれない。
彼が言う洗顔を手に取ると男女関係なく使えるもののようだが流石にクレンジング効果はない。もしかしたら探せば元だか現だかの彼女のものがあるかも知れないが、流石に物色するのは申し訳ない。そもそも現カノならともかく、元カノの私物を置いておくようなタイプには見えない。
いつもより入念に洗ったあと、水で泡を流しタオルでそっと顔を拭く。そのあと鏡を見ると思ったより綺麗に化粧は取れていた。それに顔を洗ってさっぱりして漸く目が覚めて来た。すると今まで忘れていたことが段々と思い出されてくる。
「……き、昨日さ……私、酔った勢いで、なにか言わなかった……?」
「言ったら裸足で飛び出して行きそうなんで」
「そんなに!? 普段の私を見ても!?」
「今の貴方を見てそう思うだけだけど」
「今の私の顔はあまり見ないでブスだから!!」
「……」
洗面台前からキッチンまでにじり寄り彼に迫る。包丁を持っていた彼はそれをそっとまな板に置くと、無表情だったが少し眉間に皺を寄せていた。
「誰と自分を比べてるのか俺には分かりませんが、貴女は貴女でしょう。誰かみたいになりたいだとか、自分を下げて良いことがあるようには思えないです」
「…………下げてないよ」
「今の発言はそうとしか受け取れなかったですが」
「だって、だって私より姉さんの方が何倍も気が利いて何でもそつなく熟して、頭だって良くて、顔も可愛いんだよ!? 皆、私より姉さんの方が良いに決まってるじゃん!!」
言ってしまった。まだ知り合って一か月程度の同僚に。私のことを何も知らない彼に、助けてもらって、こんなに厚意に甘えたにも関わらず、私は彼を感情の掃きだめにしてしまった。彼は表情豊かではないけど無関心ではない、ちゃんと人を見る人だ。そんな彼に軽蔑されたら、一体どんな言葉が降りかかってくるのか、想像もしたくない。
後悔しても遅い。もう本当に顔を見れない。どんな顔をしているのか、思い出すのは過去に話てきた、姉を知っている人たち。あの人たちはいつも私越しに姉を見ていた。高校の時の彼氏だって、写真でしか見たことのない姉を私越しに見ている目をしていた。
熊谷さんは、私のいう姉の姿を私越しでどう見るのか。
「だから関係ないんですよ。貴女と姉はだたの姉妹でしょう。なんで真澄さんを見るのに貴女の姉を見ないといけないんですか」
頭が真っ白になった。逃げようとする私の腕を掴んで、彼は私の目をまっすぐに見た。
「……ぇ、だ、だってみんな、私と姉さんを比べて……」
「俺は貴方の姉を知りませんし、正直興味ないです」
腕が離され、視線が外れた。思いがけない言葉に私はどうしたら良いのか分からない。彼はもうこの話題をする気はないのか料理に戻ってしまう。
「て、手伝うことある……?」
「ふら付いて転ばれても困るので座って待っててください」
「あ、はいすみません」
すっかり毒気を抜かれた気分だ。なんというか、何十年も片づけて居なかった部屋を片付けたような、お風呂のカビを綺麗に取り除いたときのような、晴れやかな気分というか、そうとも言えないような、自分の今感じている感情を上手く表現出来ない。
「米も食べれますか?」
「う、うん。なんか食べれそう……」
起きた時は気持ち悪いし頭痛いしで食欲なんてなかったが、今は強烈にお腹が空いている。
ローテーブルに置かれたコンタクトを片付けると、丁度食事が運ばれてきた。豆腐とネギだけの簡単な味噌汁と白米、そして皿に分けられたサラダ。彼は自分の分に焼き魚を用意した。薄目に作られた味噌汁を飲むと、なんだか少しずつ元気が溢れるようだった。現金なやつかと思われるかもしれないが本当に。
でもやっぱり、恋人でもない人の家でお昼を共にするのはどうなんだ?
食事を終え、食器洗いをなんとか引き受け、少し他愛のない話をしているといつの間にか午後三時。帰る準備を始める。この家の場所が分からないので熊谷くんにタクシーを呼んでもらった。それと、幸いにもスーツ等に吐瀉物は付いていなかった。流石に吐いたものの世話までしてもらったとかだったら私は今すぐに仕事を止める。
「昨日今日と、本当にありがとうございました。なんか、もう……本当に色々と……うん」
「気にしないでください。こちらこそ、いつも有難うございます」
私が頭を下げると、彼は遠慮するような声を掛けた。他にも腕を強く握ってしまったことを謝られた。それに関してはほぼ私が悪いので、彼が謝ることではないと必死に弁明した。
腕時計を確認すると、もうタクシーが着く時間になる。私は目線を下げたことによって、コンタクトの代わりに掛けた眼鏡のブリッジをあげたあと、小さく彼に手を振った。
「また週明けにね。熊谷くん」
「はい……」
週明け、いつものように出勤するとまだ彼女は出勤していなかった。今日は月末ということもあり内勤日で気にする必要もなかったが、酒に酔い思いがけず本音を暴露してしまった様子を見るに、流石に申し訳なさが出てくる。
彼女が帰ったあと、出会ってまだ一か月の後輩に説教紛いなことを言われても不愉快なだけだろうと、後になって気が付いた。あんな泣き出してしまいそうな顔をさせるぐらいならカバンを漁って免許証でも見つけて家に送った方がまだマシだっただろう。
「おはよう、熊谷。あのあと加計さんはどうしたんだ?」
「ええ、あの後割と大丈夫そうだったのでタクシーで帰りましたよ」
本当のことを伝える必要もないので適当に嘘を言っておく。そうしているとあの後の室長の話になった。完全に酔いつぶれていた室長は、帰ると嫁に怒られたとかで今日は凄く機嫌が悪いらしい。
「家に居場所が無いヤツほど、会社では威張るっていうよな」
同僚の言葉は正確に当てはまるとは思えないが、少なくともあの室長はそうなんだろうと思う。そもそも妻子が居るのに社内の女性社員に手を出すのはかなり問題だ。
「おはようございます」
加計さんが出勤してきた。横目に確認するといつも通りそうだったが、この前の様子的に内情はどう思っているのか分からない。傍目から見るに、彼女はいつものように周りに笑みを振り撒いている。
同じ女性社員たちに仕事の相談をされ、彼女の視線はすぐにそちらを向いた。しかしふいに俺の方に目が向けられた。
目を微かに細め、口元は自然に笑みを浮かべる。そしてあの日の帰り際にしたように小さく手を振った。それはほんの刹那の間だけで、驚きを隠せない俺を窘めるように目線はまた資料に向けられた。
「ん? どうかした?」
「いえ……なんでも……」
ほんの、一つまみの下心でも見透かされているようでむず痒い。週末から感じる感情の変化に俺自身が付いていけない。あの人、空気が読めないと自称するわりに思っていることは感じ取れるのかと思えるほどに察しが良い。単に空気が読めないから人を見ているようにしているのかもしれないが。
昼休憩になり、食事を取るまえに一度タバコを吸おうと喫煙ルームに向かう途中で話声が聞こえて来た。室長と加計さんだ。
「なあ、本当に辞める気なのか」
「はい。もう一か月も前から言っていますよ」
辞めるという単語を聞いて俺は足を止めた。確かにこの会社の環境的に彼女は辞めても仕方がない。しかし一か月前というのは引っかかる。
「異動してきた熊谷くんも大分、慣れてきてますし、私より成績も出せますよ」
「そうではなくてだな」
室長はなんとかして彼女が辞めるのを止めたいらしく、よく分からない説得をしているが、折れることはないだろう。
「辞めるなら正式に付き合ってくれないか? もちろん嫁とも離縁する」
「は?」
とんでも発言をする室長に、流石に加計さんも素で驚愕している。
タバコを吸うのは諦めて俺は足を進めた。
「加計さん、お昼の時間無くなりますよ」
「えっ、あ……そうですね、室長、失礼いたします」
声を裏返らせたものの、俺の言葉に便乗してなんとかその場から離脱した。
走り出さないように必死に堪えて居るのか段々前傾していくが、それでも競歩に収まるように歩いている。とりあえずついて行くとたどり着いたのは清掃業者ぐらいしか来ない、オフォスより下階の避難階段前。
一度大きな深呼吸をしたあと、俺の方に振り向いた。
「本当にありがとう、一昨日も昨日も今日も」
「俺もさっきのは本当に驚いたんで」
一か月前から辞めるだとか、本当に交際を迫られてたとか、そんなこと以前に、今本当に彼女は言葉に出来ない嫌悪感と葛藤している。
「気持ち悪いっ、本当に気持ち悪いっ、なんなの、ちょっと優しくしたぐらいで好きなんか言って来て、私のこと全く理解もしようとしないくせに、――何が妻とは離縁するだよっ、簡単によその女を好きになるような男を信用できるか、子どもだっているだろ養育費はどうするんだよっ」
鳥肌が止まらないと言い、自分の腕を抱きしめて蹲る。俺も合わせてしゃがみこんだ。
「……もうやだぁ……空気を読んで行動したらいつの間にか知らない男に好意を持たれてるの……本当に気持ち悪い…私のこと、優しくて好きって言ってくるの……私を何でも察してやってくれる便利な子としか見てないの」
それはそうだろう。男なんて単純な生き物だし優しくされたら普通は簡単に女性に気を持つ。その優しさの奥にどんな意味を持っているかなんて男側には到底読み取れない。
けど、言い訳はしたい。最初の印象だったら、俺は家に入れようだなんて思わなかったし、さっきも助けようだなんて思わなかった。さっきの笑みに驚くこともきっとなかった。
「なんで頑張れば頑張るほど違う方向に皆は解釈していくんだろ」
「真面目に考え過ぎですよ」
「真面目じゃないよ。真面目なら熊谷くんの方だよ」
「俺はサボってるって思われたくないだけです」
この会話、前に裏道さんとしたな。
大学を卒業して、企業に入って、会社員になってもストイックな生き方への嫌悪感は変わらない。最初は真面目で堅苦しい、会社の枠に嵌った加計さんは、凄いとは思うけど、苦手だった。けど、一昨日、酔って本音を言う彼女を見て、真面目なのは変わらないけど、大真面目に型に嵌れない自分を、必死に型に嵌めようとしているんだと思った。そう思うと少し彼女を近く感じるようになった。
「……熊谷くんは優しいね。なんでそんなに優しいの?」
「加計さんが俺に優しいからそう思うだけですよ」
「なにそれ……そんなの…いやなんでもない」
俺は彼女が優しいと言われるのが嫌なのだと思っていたが、別にそういうことではないらしい。ただ優しさに漬け込まれてきただけなのだろう。
この人は大真面目に優しく接しようとしている良い人だ。
きっと今までも自分の身の振りと感情が合わなくて苦しかったのかもしれない。
落ち着いたのか、彼女は立ちあがって、腕を上にし、身体を伸ばした。
「……さて、そろそろお昼にしないと本格的にお昼を逃しそうだね。ところで熊谷くんお昼は?」
「俺は外で適当に食べます」
「じゃあ私もついて行っても良いかな?」
「はい、もちろん」
近くに良い定食屋があると、彼女が話題を広げて、俺は隣で相槌を打つ。途中で他の同僚に見られて、物凄い顔をしていたが彼女も特に何も気にしていないようだった。
昼を定食屋に決め、店内に入り、席に座ると一つ気になったことを聞いた。
「そういえば、辞めるって前から転職先を探していたとかですか?」
「え、ああ違うよ。今まで趣味で小説を書いてたんですけどそれが新人賞に受かって。それで連載しませんかってオファーが来て」
曰く、それ以前が今よりもセクハラや交際を迫るようなことも少なかったが、俺が採用された同時期に退職届を出したという。届けを出した途端セクハラが過激化したり、俺の教育係を押し付けたのだという。
「あと二週間で辞められることにはなってるんですけど、このままじゃ本当に室長が何するか怖くてもう」
「確かに。というか新人賞って凄いですね、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
昨日も少し話して思ったが、この人普段は凄く表情豊かに喋るんだなと思った。仕草が大きいわけでも大げさなわけでもないのだが、自然に笑みが零れる。そんな風に思う。
熊谷くんとの昼食を終え、オフィスに戻って来た。するとそのフロアが妙に騒がしい。
「どうかしたんですか?」
その場にいた社員の一人に声をかけると、その人が私の顔を見て顔を真っ青にして縋ってきた。
「今までどこにいたんです!?」
「え、お昼ご飯ですけど」
「室長が!」
嫌な予感が正しく的中している。隣にいた熊谷くんも溜息こそ吐かないが、心なしかうんざりした顔をしているような、気がする。
こんな仕事中に癇癪を起すなんて本当に社会人を何十年やっているとは到底思えないが、他の人が困っているのに原因である私が行かないわけはない。渋々オフィスと扉を開けると、他の社員を怒鳴り散らしている室長が入口の直線上、真ん前に仁王立ちしている。
「真澄!!」
鳥肌が凄い。ちゃん付け以上に気持ち悪いものはないと思っていたが呼び捨ても大概だ。
「俺がなんで怒っているか分かるだろ!」
分かんないよ。なんでそんなに怒ってるんだよ。私なにも悪くないよ。
「今まで散々俺との食事は断ってきたくせに新人とは行くのか!?」
私だって人間だから行く相手ぐらい選びますって。プライバシーを覗かないでください。というかこの状況が異常過ぎるんですが。なんで皆が仕事止めて貴方の癇癪に付き合わないといけないんですかね。
「室長、私は今まで仕事で、貴方と接してきましたが、それ以上を求められても困ります」
「俺を騙したのか!」
「騙してません。私はこの会社内で誰にも呼び捨てで呼んでいいなんて言ってませんし、部下だからって下の者を勝手に呼び捨てにしたりするような人はモラルが無いと思ってます。身体に触ってくるのも、今まではトラブルを避けるために言って来ませんでしたが、本当ならセクハラで訴えられるんですよ」
なんだか、私は今まで言いたかったことがボロボロと口から漏れ出してくる。
怒りで身体がブルブル震える、を文字通り見せてくれることだけはこれからの小説に役に立てそうなので、そこだけは評価したい。
室長が黙ってしまったので、私は手を二回叩いて号令を上げた。
「皆さん仕事に戻りましょう」
すると蜘蛛の子を散らすように他の社員たちが自分のデスクに戻っていく。
「あぶないっ」
振り向く余裕すらない。誰の声か分からないけど女性社員の声でやっと分かった。後ろの室長だと、見てないのに察してしまう。何も出来なくて咄嗟に目を強く瞑った。すると物がぶつかる音、物が落ちる音、そしてぶつかった何かを心配する声。
危ないと聞こえたからてっきり室長は私を殴るのだと思った。でもデスクにぶつかって床に倒れていたのは熊谷くんだった。
「熊谷くん!?」
「……大丈夫です、当たり所がちょっと悪かっただけなんで」
尻餅をついたような体制になってしまった彼に駆け寄ると、口元が切れて出血している。俯いていて表情は見えない。恐らく彼は私を咄嗟に庇った。
殴った本人は、彼の血が付いた拳を見て完全に震えてしまっている。咄嗟に怒りに任せて出てしまった手が信じられないと言っているかのように。
「室長、」
熊谷くんは案外とすぐに立ち上がって室長に向かっていく。私からでは熊谷くんの背中しか見えず、顔は見えない。
「俺も貴方に、この一か月間だけで相当言われましたよ。分かります、顧客を沢山取るのもノルマを達成するもの大事です。でも正論を言われたからって手を出すのは駄目ですよ。手を出したら、」
次の瞬間、室長の違和感のあり過ぎる頭髪と共に彼の身体は一瞬浮いた。頭髪は高く上がり、丸く円を描いて、最終的にカーペット敷の床にぽすんと落ちた。そして数センチ浮いた室長は反撃の言葉もないまま倒れた。
「手を出しても良いって受け止められても仕方ないですよ」
悲惨な乾燥地帯の頭をオフィスのライトが明るく照らすもんだから、ここは熊谷くんを咎めるべきなのに笑ってしまいそうで、必死に我慢した。
荒れてしまったオフィスを片付けているうちに室長を熊谷くんが殴ったことは会社中に伝わっていった。部屋の片づけが終わり、漸く仕事再開という頃に人事部の人が彼を迎えに来た。
「定時まで居れそうにないですね」
「うん、まあ向こうが先とはいえ、上司だし……」
「連載頑張ってください、応援してます」
「ありがとう……熊谷くんこそ転職頑張ってね、というかごめんなさい」
「気にしてませんよ。殴り返されて当然ですから」
彼は人事部に連れられ二度とこのオフィスに戻ってこなかった。
翌日、熊谷くんは自主的に退職届を提出し、室長も退職、妻とは離婚という話も聞いた。各いう私は予定通りに退職した。セクハラで訴えることも出来たが、関わりたくなかったのでやめることにした。
そして数か月の時間が過ぎた――――。
ある日の昼下がり、加計は編集社のあるオフィス街を歩いていた。私服でオフィス街を歩くことはまだ少し慣れないでいた彼女だったが、もう何度目かの編集社からの帰りということもあって近くの喫茶店にも入ろうと当たりを見渡す。
すると反対車線側に丁度カフェを見つけて、近くの横断歩道を渡り、カフェの前までやってきた。
「あれ……」
歩道から見える窓際の席に一人、数か月ぶりに見る男の姿を見つけた。
一瞬声を掛けるか迷うが、どうせカフェに入るのだからと、その窓を軽くコンコンと叩いた。すると彼は読んでいた本から目を離し、顔を加計のいる窓へ向けた。
熊谷も少し驚いたように加計を見た。軽く会釈したあと、窓越しに何かを言っている。
何を言っているか加計は分からなかったので、空いている彼の向かいの席を指さしたあと、店内に入った。コーヒーを注文し、店員から受け取り金額を払ったあと、熊谷の居る席に向かった。
「久しぶり熊谷くん。同席良いですか?」
「はい、良いですよ」
彼は読んでいた本に栞を挟むと本を閉じた。それにはカバーが付けられていて何を読んでいたのかは分からない。
「本当に久しぶりですね。会うなんて思いませんでした」
「確かに、仕事じゃないと中々連絡を送ろうなんて思わないもんね」
お互いに少し探るように会話を始めたが、その距離は少しずつ縮まっていく。
近況報告のような会話から、今の仕事がどう、あれから何をしていたかを話し込んだ。
「真澄さん、」
「あはいっ」
「って呼んでもいいですか?」
熊谷の問いかけに加計は言葉を失う。どういうつもりで聞いてきたのか分からなかったからだ。
「い、いいけど…というか、前に一回そう呼んだよね……一回だけだったからスルーしたけど」
「それもそうですね。俺のことは好きに呼んでください」
「え、うん。……というか敬語ももう良いよ。同い年だし、もう仕事も違うし」
加計は熊谷の顔が見ずらい状態だった。彼が全く視線を離さないのだ。偶には他の場所も見てほしいと思うぐらいに加計から視線を外さない。そんな熊谷に、やっぱり自主的とは言え退職届を出させたことを怒っているのではないかと想像してしまう。
「……ああ、そうする」
「うん、そうして」
沈黙の間もずっと見るのは辞めてほしいと思いながら加計は頼んだコーヒーを口にする。もう何時間も話し込んだこともあってそれはすっかり冷めてしまっていた。
「そろそろ時間なんで」
「あ、ごめんね引き留めて」
熊谷は「いや……」と加計の言葉を否定した。小首を傾げ彼の次の言葉を彼女は待った。何かを考えるような、葛藤するような数秒の間のあと、熊谷はまた口を開いた。
「今度予定の会う日に食事とかしたいんだけど、今日は全く足りなかったから」
彼の言葉に咄嗟に加計は立ち上がってしまった。勝手に動いてしまったことを後悔しながらも、湧き上がる喜びは隠せない。隠せなくても良いと思えるほどに嬉しかったから。
「うん! 行こう! 帰ったら連絡するよ!」
彼女の反応を見て、熊谷は安堵したように息を吐いた後、彼女に向かって少し微笑んだ。
子どもながらに同級生に言われたことが胸に刺さった感覚は、今でも忘れがたいものだ。そのあとに周りからの同調の笑い声を聞いて泣き出しそうになったことも鮮明に覚えている。
私には三つ離れた姉がいる。姉は私より良く出来た人で、気立てがよく、物事に良く気が付く。おまけに頭も良くて、容姿も可愛いこともあって、地元では良く知られていた。
そんな姉と比べられたのがこの私。同級生にこう言われてしまう程度に行動も遅い。いまいち空気が読めない。親が私たち姉妹を差別しなくとも周りはそうではなかった。
溌剌としていて大勢で話すことにも臆しない姉に打って変わり私はすぐに口ごもってしまう。田舎という小さなコミュニティの中で比べられるのも仕方ないことだとは思うけれど、私にはとても耐えられなかった。だから「とろい」「どんくさい」「空気が読めない」と言われないように努力をするのは必然だった。
授業中に問題を振られて、息詰まると視線が痛いので毎日予習復習を繰り返した。体育は先生になにをするのかを聞いて事前に少し練習できる範囲で試してみたり、とにかく同級生たちより先にすることを志した。
空気が読めないと言われる基準は正直良くわからなかった。私が良かれと思ってやったことも誰かは有難迷惑と思っている。姉がして感謝されることも私がすれば迷惑と思われる基準が難しい。だから周りに合わせることを一番に考えるようにした。
流石に授業をサボったり、校則違反などはついて行けなかったが、私が出来る範疇で。そうしているとある日、声を掛けられた。
「俺と付き合わない?」
中学生の時、高校生に声を掛けられた。姉と同じクラスで、仲が良く何度か顔を合わせたことがあった。
最初はかなり困惑した。正直、相手のことを好きでもなんでもなかったし、高校生が中学生を相手にすることがあるのか、という疑問も大きかった。それでも断れば何を言われるのかが怖かったから頷いた。これが、私の人生の中で一番の失敗だ。
高校生と中学生ということもあり、噂はすぐに回った。彼の周りにいる男子たちとも交流を持つようになったが、彼と二人きりになって話すことはもっぱら姉の話だった。
最初は共通の話題だからと思っていたがそうではない。彼は姉のことが好きで、告白して振られたから私に目を付けたのだと暫くして分かった。分かった途端に、特に好きでもなかったのに悲しさと悔しさが混じって泣いてしまった。姉の代替品でしかなくて、私に掛ける言葉も、優しさも姉を見て掛けるものだったことが、嫌で嫌で仕方ない。彼とはすぐに分かれた。そして姉を知る人物とは友達になる努力も彼氏にもしないと決めた。
高校は電車を乗り継いて行く、少し遠めの学校を選んだ。そこでも「どんくさい」とも「空気が読めない」と言われないように努めながら、告白をしてきた男性と付き合っていた。
実際、友達も出来たし、最終的にある一人とは一年以上交際が続いた。そんなある日のこと。
「真澄の姉ちゃんって可愛いよね」
「……誰から聞いたの」
彼が姉のことを聞いていた。姉のこと自体は嫌いではないのだが、姉が大学に入ったことで滅多に合わなくなった。結果的に周りから話題にされることが減ってすっかり警戒していなかった。
「この前、ケータイの画像欄みたときに写真があったじゃん。そんとき」
「そう」
「真澄も十分可愛いけど、姉ちゃんもすごい可愛いなって」
「姉と私を比べないで!!」
声と学校の机を叩いた音で相手がかなり驚いたのが分かった。彼の表情を見て我に戻った私は凄く顔色が悪かったんだと思う。驚いた彼だったけど私を心配してくれた。それでも、例え私を褒めていたとしても、どんな意味だとしても姉とだけは比べないでほしかった。長く付き合って、人柄を知って大好きになった彼だったが、姉と私と比べた彼とは一緒に居たくなくなった。
大学は上京して一人暮らしを始めた。この頃には前もって行動することも、周りをよく見ることも苦ではなくなっていたが、不意に寂しさを感じるようになった。一緒に居たいと思える人を探して様々な場所にいった。合コンにだって付き合ったり、クラブにも通った。けれど、そうして出来た恋人たちにとって私は都合の良い女だったのだろう。デートで暇を潰せればいい。セックスで欲を満たせればいい。運が悪いのか、はたまた私が空気を読むことをちゃんと理解していないからなのか、そんな人たちばかりと大学の四年間を棒に振った。
これでは駄目だ、と思い至ったのが就活も無事に終わり、卒業課題もクリアした大学四回生の冬。私は自分を表現する方法を考え始めた。よく言えばマイペース、悪く言えばどんくさくて、空気がいまいち読めなくても私を表現できるもの。
その時に偶々目に入ったのが本だった。アウトドアな姉に対しインドアな私は、勉強や体育の予習以外にしていたことがゲームと読書だった。プロゲーマーという言葉はまだあまり知られておらず、腕前も良い方ではなかったこともあり、私は本への関心を向けた。
学生や教授たちが読むような論文などは書けなくとも、創作物であるなら書けるかもしれないと私は思った。それから私は少しずつ、文章を学んで、また少しずつ話を書き綴り始めた。不思議と書いているときはぼんやりとした寂しさも、会社のセクハラパワハラ上司の事も忘れて没頭でき、完成した作品を編集社に投稿すると、なんと新人賞を受賞した。今まで何もかも姉に劣ってきた私が唯一、大成出来たことだった。
そんなときに熊谷くんと出会ったのだ。
前の会社を退職し、中途採用で新しい会社に就職をした。面接の際に前の会社を辞めた理由を話した時は、流石に空気を凍らせてしまったと思ったが、案外採用されて面喰らいはした。
「おはようございます、熊谷みつ夫さんですね。私は加計真澄と申します、こちらへどうぞ」
事前の電話で言われたとおりエントランスで待っていると名札を掛けた女性がやって来て俺の名前を確認した。
室長までの道を案内すると同時に、今日からの営業内容を軽く説明し、デスクを確認後、室長の元へ向かう。そこには大きな椅子にどっかり座りこんだ、頭髪に違和感のある中年男性がいた。
「室長、今日から異動してきた熊谷みつ夫さんです」
「……ああ、分かった。よろしく頼む」
「はい」
パソコンを見ているわけでもなく、よそ見をしていた男は、俺を見るわけでもなく、適当な返事をした。部署関係なくこの会社の上層部は相当だと言える。
その場を離れると、加計という案内をしてくれた人が資料を渡してきた。
「作業マニュアルです。公式で出されてるものではないんですけど、室長が滅多に説明をなさらないので作ったものですので不備があるかもしれませんが」
「これは貴女が?」
「はい……これまでにも人事移動で不備があったので。……熊谷さんは、私と一緒に外での営業なので何かあれば聞いてください」
彼女の言葉の間に、今までにあった問題が何となく想像がつく。彼女が自作したというマニュアルはとても精巧に作られいる。確かにこの会社で作業マニュアルというものは目にしたことが無いが、これは要点を捉えていて、社員が知りたいことであろうことをはっきりと明記している。おまけに読みやすい。
「それでは早速ですが、」
「真澄ちゃん」
随分と覇気のない声だったが先ほどの室長が手招きをして、俺の隣にいる彼女をまさかの「ちゃん」付けで呼んでいる。一瞬、彼女の口元が歪んだようにも見えたがすぐに彼女は笑みを向けた。
「はい!」
ロビーで待っていてくださいと言われ、言われた通りにオフィスを離れようとする直前に振り替えると、室長に肩などを触られながらもにこやかに話を聞いている彼女の姿が視界の端に移った。
十分程して彼女も降りて来た。「ごめんなさい」と謝る彼女に「大丈夫です」以外の言葉は見つからない。
「では行きましょう。車を手配しているので道中に企業さんの説明をさせていただきますね」
「はい、宜しくお願いします」
パンツスーツで、あまり高さのないヒールをカツカツと鳴らして歩く姿は、少し格好よく見えた。
用意された車に乗り込み、俺は助手席に付いた後、渡されたマニュアルと一緒にされた取引先の概要が書かれた紙を取り出した。加計が運転席に座り、車は会社を出発する。
「基本的に車で取引先へは移動します。熊谷さんは、前の部署で移動は何を使ってましたか?」
「車とか、電車ですかね。あ、運転は出来ます」
「それは良かった。ではこれからは交代で。今日は資料を読んでおいてください。あと道の確認も、一応地図をつけておいたので。名刺は初回だけなので忘れないように」
今までに無いほどに円滑に進む説明と仕事に溜息が漏れそうになる。仕事が出来る人が一人いるだけでこれだけ変わるのだと実感する。逆にこの人が居ないとあの部署はどうなるのだろうか。想像はしない。
その後、部署移動、初日の仕事は問題なく終了した。
次の日も、その次の日も、一週間後も、一か月後も、彼女との仕事の時間は良いものだったと言える。
加計真澄という人物は良く周りを見ている。周りを見て自分のすべきことやサポートを熟知している。その際の動きも細やかで、部署の誰もが彼女に助けられている。だから人望もあり、室長の〝お気に入り〟らしい。
だからこそ、なのだろうか、他人を見て自分の為に行動しない彼女のことは苦手だ。仕事をしている時の不便の無さも、誰にでも優しく接する態度も、悪く言えば自分が無い。裏で何を考えているか分からない。
これはタバコを吸うために喫煙ルームに入った時に聞いた話だ。
「熊谷って加計さんと一緒に外周りしてるんだっけ」
「そうですけど」
「なんかプライベートな話とかしない?」
「いや、仕事の話だけですね」
同じ部署の人に聞かれ、適当に答えていると少し雲行きが怪しくなっていく。
「室長ってあんなんじゃん、男の社員には厳しいし、雑だけど、女性社員には甘い」
「否定はしないですけど」
「……最近、特に加計さんへのセクハラが激しいんだよ。丁度、君が来たぐらいからかな」
言われる前から、露骨過ぎて知っていたが適当に答えた。嫌なんだろうけど、上司だから嫌がることも出来ないんだろうなと分かっていたから。
分かって居ながらも助けもせずに放置しているのは最早、俺含め同罪だろう。
「俺たちにも、彼女本当に彼氏いないのか、って聞いてくるから、君なら知ってるかなって」
「知らないです。そんなに仲が良いわけではないんで」
煙を吸って、吐いて、ふと窓の外を眺めると、初めて来た日、室長に呼ばれて返事をしたときの、彼女の引き攣った顔が思い浮かんだ。次に思い出すのはほぼ毎日目にする、彼女の堂々たる後ろ姿。
あの後ろ姿はきっと……
俺はもう一度、タバコの煙を吸い込んだ。
室長と加計の話を聞いた日、その日は部署の飲み会が行われた。名目は俺の就職から一か月経った祝いとされているが、実際にはこう言った飲み会は月一に開催されているという。十五人以下の社員数に対して少し狭く感じる宴会室に押し込められ、それぞれが席に着いた。
頻繁に開催されることもあり、席順などは大体決まっているという。室長の隣には当然のように彼女が配置され、反対側の隣は皆が目配せして誰が座るかを決めている。誰も座りたがらないのは分かる。
「俺が座りますよ。新任ですし」
「そうか」
室長は相変わらず、男性社員に一切関心がないようで、隣に座らせた加計にべったり付いている。
乾杯を終え、全員が飲み始めると加計が食べ物を取り分け始めた。手伝おうと声を掛けても「大丈夫」と言われ座っているように言われる。一瞬周りを見ても彼女を助けようとする人はいないのだろう。体のいい厄介払いというか、貧乏くじにもほどがある。
酒が進むと、絡みは更に悪化した。所感、彼女はそこまで酒に強くない、人並み程度という所だが、室長が執拗に進める。それにボディタッチも肩や腕から徐々に下がり、とうとう腰まで来て流石に加計も唾を飲んだのが分かった。
「室長、日本酒どうです?」
「お、ああ貰おうか」
幸い、相手も酒が進むと調子が良くなってくるのか進めた酒をどんどん飲み進めていく。
二時間後には、全員のペースは落ち、そろそろ帰ろうかという話になる。室長が潰れたのでタクシーで帰らせることにし、全員が各々帰路に付こうという所で、室長に絡まれ真っ青になった加計を全員が思い出す。
「加計さんまだお手洗いかな」
「今日も散々だったみたいだし」
他人事のように流れる会話をもう不思議とは感じなくなってきた。
「見てきます。皆さんは先に行ってください」
会計を済ませ、全員が店から離れるのを確認すると、恐らくまだ籠っているであろう女子トイレの入り口まで向かう。幸いにも男女ともに個室1つのトイレということもあり、入口まで入ってこれた。
「加計さん。大丈夫ですか」
ドアをノックし声を掛けると掠れた声が帰ってきた。
「……くま、たにさん? 他の皆さんは……?」
「もう帰りました。加計さんの分の会計も済んでます」
少しの間のあと、水の流れる音がしたあと、彼女は漸くトイレから顔を出した。顔面蒼白という言葉が一番に浮かぶほどに顔は青白く、やつれていた。恐らく相当吐いたのだろう。
「それは…もうしわけない……ことを……」
「構わないでしょう。厄介ごとを全て押し付けられているのは加計さんですよ」
彼女の荷物も持って店を出る。タクシーを拾おうとしたが見当たらなかったので最寄駅まで向かうことにした。そこでならタクシーも拾えると思ったのだが、途中で完全に彼女がダウンしてしまう。
「ごめ…………本当に、気持ち悪い……迷惑だったら置いて帰って……」
「今更ですし、こんな道のど真ん中で女性一人放置したら色々と危険すぎるので駄目です。そもそもなんでそんなに他人を一番に行動出来るんですか」
俺も酔ってるのか、つい思っていたことが口から出た。
仕事は出来るのに周りに足を引っ張られて、うざい上司に絡まれ、飲み会では吐くほど飲まされて、それでも同僚には全く労わって貰えない。いくら社会が理不尽でもここまで損する必要なんて彼女にはない。
動けなくなってしまった彼女を背負い、タクシーが見つかるまで歩いた。見つけても寝てしまった彼女の家も分からなければ、部屋にちゃんとたどり着けるかも心配になるほどだったので渋々俺の家に連れ帰ることにした。
アパートの前でタクシーから降り、再び彼女を担いで歩き始めた。途中、寝ぼけているのか起きているのか分からない呟きが背中から聞こえてくる。
「みんなのしせんがこわいの……とろいって、どんくさいって、くうきがよめないっておもわれるのがいやなの……ねえさんのように、きのまわる……ねえさんのようになりたい……」
俺の咄嗟に出てしまった問いの答えなのか、彼女の願いなのか判断の付かない言葉に、何か言えるような立場ではない。ただ、今まで会社で見て来た彼女の姿が虚勢だったことは分かった。
「わたしって、やっぱりどんくさいのかな……しらずしらずのうちに、みんなにいやなおもいをさせてるのかな……」
「他の人は知らないですけど、俺はそうは思わないです。何にそんなに拘っているんだろうとは思いますけどね」
「…………ありがと」
階段を上がり、漸く部屋の鍵を開ける頃には、彼女は再び眠りについていた。
この飲み屋から家までの数時間で彼女のへの印象が大きく変わった。
目が覚めた。けれど、ここはどこだ?
少なくとも私の部屋ではない。風景が全く違う。というか昨日の私はどうやって飲み屋から移動したんだ。
困ったことに全く記憶がない。微かに覚えていることが、一か月前に部署移動でやってきた熊谷さんにタクシーをお願いしたところまで。なんか、店の近くで見つからなくて肩を借りて駅まで歩くと聞いたところは何となく記憶している。
「起きましたか、おはようございます」
「っ!? く、くま、くっ!?」
「熊谷です」
何を考えているのかいまいち分からない無表情を貫く彼が、いつもの表情でキッチンから顔を出した。その時点でもうパニックで上手く声が出せない。なんで私が彼の家にいるのか、何か重大な間違いがあってしまったのか自分の身なりを確認するが、来ていたスーツの上着を着ていないぐらいしか違いが分からない。
「大丈夫ですよ、俺がしたのは靴と上着を脱がせ、コンタクトを取って布団に居れただけです」
「コンタクトを取られたことも気付かないぐらいに私は熟睡していた……?」
「ええ、今日が休みで良かったですね」
壁掛けの時計を指さした彼に従って目線を向けると、時刻は午前十一時。
穴があったら入りたいぐらいに恥ずかしい。というか彼の顔を見れない。何も無かったにしてもこれは痴態を晒しすぎたのではないか。優しい言葉が逆に辛い。
彼は私が寝ていたベッドの脇に荷物を移動させたあと、コンタクトはケースに片づけたものをベッドの前に置かれたローテーブルにそっと置いた。そして羞恥心で顔を隠す私の顔を一瞬で確認するとその場から離れて行った。
「味噌汁作ったので帰る前に取り合えず食べてください」
「……本当に申し訳ない」
「今更ですよ」
キッチンに戻る際に見せた彼の顔が少し笑っているように見えて、胸の奥の方がむず痒くなる。というか昨日も今と同じように返された気がする。…………本当に何にもなかったんだよね? 貞操ガバガバとか思われてないよね? 酔って記憶のないうちに、恋人でもない男性の家に上がった事実がある以上否定もしにくいけど。
「洗面台借りて良いかな? 顔面気持ち悪くて」
「はい、廊下左手のドアです」
自分の食事を作っているのか、目線は来なかった。が、今はその方が嬉しい。恐らく気を使ってコンタクトは取ってくれたけど流石に男性の家にメイク落としがあるとは思えない。頻繁に彼女が通っているのなら話は違ってくるが。
言われたドアをあけると、そこは洗面台があり、脱衣場と一体となっているのか更に奥には擦りガラス風のドアの向こうに風呂場。脱衣場を挟んで洗面台と反対の壁際には洗濯機がある。
「女性が使っても大丈夫かは知りませんが、洗顔料ならありますよ」
「じゃあちょっと分けてもらってもいいです?」
「どうぞ」
鏡を見るとそこには顔色の悪い、化粧が崩れまくった女と目が合った。我ながらブスを極めたような顔をしている。
ああ、この素顔を同僚に、しかも男性に見せるのか……私は既に社会的に死んでいるも同然なのかもしれない。
彼が言う洗顔を手に取ると男女関係なく使えるもののようだが流石にクレンジング効果はない。もしかしたら探せば元だか現だかの彼女のものがあるかも知れないが、流石に物色するのは申し訳ない。そもそも現カノならともかく、元カノの私物を置いておくようなタイプには見えない。
いつもより入念に洗ったあと、水で泡を流しタオルでそっと顔を拭く。そのあと鏡を見ると思ったより綺麗に化粧は取れていた。それに顔を洗ってさっぱりして漸く目が覚めて来た。すると今まで忘れていたことが段々と思い出されてくる。
「……き、昨日さ……私、酔った勢いで、なにか言わなかった……?」
「言ったら裸足で飛び出して行きそうなんで」
「そんなに!? 普段の私を見ても!?」
「今の貴方を見てそう思うだけだけど」
「今の私の顔はあまり見ないでブスだから!!」
「……」
洗面台前からキッチンまでにじり寄り彼に迫る。包丁を持っていた彼はそれをそっとまな板に置くと、無表情だったが少し眉間に皺を寄せていた。
「誰と自分を比べてるのか俺には分かりませんが、貴女は貴女でしょう。誰かみたいになりたいだとか、自分を下げて良いことがあるようには思えないです」
「…………下げてないよ」
「今の発言はそうとしか受け取れなかったですが」
「だって、だって私より姉さんの方が何倍も気が利いて何でもそつなく熟して、頭だって良くて、顔も可愛いんだよ!? 皆、私より姉さんの方が良いに決まってるじゃん!!」
言ってしまった。まだ知り合って一か月程度の同僚に。私のことを何も知らない彼に、助けてもらって、こんなに厚意に甘えたにも関わらず、私は彼を感情の掃きだめにしてしまった。彼は表情豊かではないけど無関心ではない、ちゃんと人を見る人だ。そんな彼に軽蔑されたら、一体どんな言葉が降りかかってくるのか、想像もしたくない。
後悔しても遅い。もう本当に顔を見れない。どんな顔をしているのか、思い出すのは過去に話てきた、姉を知っている人たち。あの人たちはいつも私越しに姉を見ていた。高校の時の彼氏だって、写真でしか見たことのない姉を私越しに見ている目をしていた。
熊谷さんは、私のいう姉の姿を私越しでどう見るのか。
「だから関係ないんですよ。貴女と姉はだたの姉妹でしょう。なんで真澄さんを見るのに貴女の姉を見ないといけないんですか」
頭が真っ白になった。逃げようとする私の腕を掴んで、彼は私の目をまっすぐに見た。
「……ぇ、だ、だってみんな、私と姉さんを比べて……」
「俺は貴方の姉を知りませんし、正直興味ないです」
腕が離され、視線が外れた。思いがけない言葉に私はどうしたら良いのか分からない。彼はもうこの話題をする気はないのか料理に戻ってしまう。
「て、手伝うことある……?」
「ふら付いて転ばれても困るので座って待っててください」
「あ、はいすみません」
すっかり毒気を抜かれた気分だ。なんというか、何十年も片づけて居なかった部屋を片付けたような、お風呂のカビを綺麗に取り除いたときのような、晴れやかな気分というか、そうとも言えないような、自分の今感じている感情を上手く表現出来ない。
「米も食べれますか?」
「う、うん。なんか食べれそう……」
起きた時は気持ち悪いし頭痛いしで食欲なんてなかったが、今は強烈にお腹が空いている。
ローテーブルに置かれたコンタクトを片付けると、丁度食事が運ばれてきた。豆腐とネギだけの簡単な味噌汁と白米、そして皿に分けられたサラダ。彼は自分の分に焼き魚を用意した。薄目に作られた味噌汁を飲むと、なんだか少しずつ元気が溢れるようだった。現金なやつかと思われるかもしれないが本当に。
でもやっぱり、恋人でもない人の家でお昼を共にするのはどうなんだ?
食事を終え、食器洗いをなんとか引き受け、少し他愛のない話をしているといつの間にか午後三時。帰る準備を始める。この家の場所が分からないので熊谷くんにタクシーを呼んでもらった。それと、幸いにもスーツ等に吐瀉物は付いていなかった。流石に吐いたものの世話までしてもらったとかだったら私は今すぐに仕事を止める。
「昨日今日と、本当にありがとうございました。なんか、もう……本当に色々と……うん」
「気にしないでください。こちらこそ、いつも有難うございます」
私が頭を下げると、彼は遠慮するような声を掛けた。他にも腕を強く握ってしまったことを謝られた。それに関してはほぼ私が悪いので、彼が謝ることではないと必死に弁明した。
腕時計を確認すると、もうタクシーが着く時間になる。私は目線を下げたことによって、コンタクトの代わりに掛けた眼鏡のブリッジをあげたあと、小さく彼に手を振った。
「また週明けにね。熊谷くん」
「はい……」
週明け、いつものように出勤するとまだ彼女は出勤していなかった。今日は月末ということもあり内勤日で気にする必要もなかったが、酒に酔い思いがけず本音を暴露してしまった様子を見るに、流石に申し訳なさが出てくる。
彼女が帰ったあと、出会ってまだ一か月の後輩に説教紛いなことを言われても不愉快なだけだろうと、後になって気が付いた。あんな泣き出してしまいそうな顔をさせるぐらいならカバンを漁って免許証でも見つけて家に送った方がまだマシだっただろう。
「おはよう、熊谷。あのあと加計さんはどうしたんだ?」
「ええ、あの後割と大丈夫そうだったのでタクシーで帰りましたよ」
本当のことを伝える必要もないので適当に嘘を言っておく。そうしているとあの後の室長の話になった。完全に酔いつぶれていた室長は、帰ると嫁に怒られたとかで今日は凄く機嫌が悪いらしい。
「家に居場所が無いヤツほど、会社では威張るっていうよな」
同僚の言葉は正確に当てはまるとは思えないが、少なくともあの室長はそうなんだろうと思う。そもそも妻子が居るのに社内の女性社員に手を出すのはかなり問題だ。
「おはようございます」
加計さんが出勤してきた。横目に確認するといつも通りそうだったが、この前の様子的に内情はどう思っているのか分からない。傍目から見るに、彼女はいつものように周りに笑みを振り撒いている。
同じ女性社員たちに仕事の相談をされ、彼女の視線はすぐにそちらを向いた。しかしふいに俺の方に目が向けられた。
目を微かに細め、口元は自然に笑みを浮かべる。そしてあの日の帰り際にしたように小さく手を振った。それはほんの刹那の間だけで、驚きを隠せない俺を窘めるように目線はまた資料に向けられた。
「ん? どうかした?」
「いえ……なんでも……」
ほんの、一つまみの下心でも見透かされているようでむず痒い。週末から感じる感情の変化に俺自身が付いていけない。あの人、空気が読めないと自称するわりに思っていることは感じ取れるのかと思えるほどに察しが良い。単に空気が読めないから人を見ているようにしているのかもしれないが。
昼休憩になり、食事を取るまえに一度タバコを吸おうと喫煙ルームに向かう途中で話声が聞こえて来た。室長と加計さんだ。
「なあ、本当に辞める気なのか」
「はい。もう一か月も前から言っていますよ」
辞めるという単語を聞いて俺は足を止めた。確かにこの会社の環境的に彼女は辞めても仕方がない。しかし一か月前というのは引っかかる。
「異動してきた熊谷くんも大分、慣れてきてますし、私より成績も出せますよ」
「そうではなくてだな」
室長はなんとかして彼女が辞めるのを止めたいらしく、よく分からない説得をしているが、折れることはないだろう。
「辞めるなら正式に付き合ってくれないか? もちろん嫁とも離縁する」
「は?」
とんでも発言をする室長に、流石に加計さんも素で驚愕している。
タバコを吸うのは諦めて俺は足を進めた。
「加計さん、お昼の時間無くなりますよ」
「えっ、あ……そうですね、室長、失礼いたします」
声を裏返らせたものの、俺の言葉に便乗してなんとかその場から離脱した。
走り出さないように必死に堪えて居るのか段々前傾していくが、それでも競歩に収まるように歩いている。とりあえずついて行くとたどり着いたのは清掃業者ぐらいしか来ない、オフォスより下階の避難階段前。
一度大きな深呼吸をしたあと、俺の方に振り向いた。
「本当にありがとう、一昨日も昨日も今日も」
「俺もさっきのは本当に驚いたんで」
一か月前から辞めるだとか、本当に交際を迫られてたとか、そんなこと以前に、今本当に彼女は言葉に出来ない嫌悪感と葛藤している。
「気持ち悪いっ、本当に気持ち悪いっ、なんなの、ちょっと優しくしたぐらいで好きなんか言って来て、私のこと全く理解もしようとしないくせに、――何が妻とは離縁するだよっ、簡単によその女を好きになるような男を信用できるか、子どもだっているだろ養育費はどうするんだよっ」
鳥肌が止まらないと言い、自分の腕を抱きしめて蹲る。俺も合わせてしゃがみこんだ。
「……もうやだぁ……空気を読んで行動したらいつの間にか知らない男に好意を持たれてるの……本当に気持ち悪い…私のこと、優しくて好きって言ってくるの……私を何でも察してやってくれる便利な子としか見てないの」
それはそうだろう。男なんて単純な生き物だし優しくされたら普通は簡単に女性に気を持つ。その優しさの奥にどんな意味を持っているかなんて男側には到底読み取れない。
けど、言い訳はしたい。最初の印象だったら、俺は家に入れようだなんて思わなかったし、さっきも助けようだなんて思わなかった。さっきの笑みに驚くこともきっとなかった。
「なんで頑張れば頑張るほど違う方向に皆は解釈していくんだろ」
「真面目に考え過ぎですよ」
「真面目じゃないよ。真面目なら熊谷くんの方だよ」
「俺はサボってるって思われたくないだけです」
この会話、前に裏道さんとしたな。
大学を卒業して、企業に入って、会社員になってもストイックな生き方への嫌悪感は変わらない。最初は真面目で堅苦しい、会社の枠に嵌った加計さんは、凄いとは思うけど、苦手だった。けど、一昨日、酔って本音を言う彼女を見て、真面目なのは変わらないけど、大真面目に型に嵌れない自分を、必死に型に嵌めようとしているんだと思った。そう思うと少し彼女を近く感じるようになった。
「……熊谷くんは優しいね。なんでそんなに優しいの?」
「加計さんが俺に優しいからそう思うだけですよ」
「なにそれ……そんなの…いやなんでもない」
俺は彼女が優しいと言われるのが嫌なのだと思っていたが、別にそういうことではないらしい。ただ優しさに漬け込まれてきただけなのだろう。
この人は大真面目に優しく接しようとしている良い人だ。
きっと今までも自分の身の振りと感情が合わなくて苦しかったのかもしれない。
落ち着いたのか、彼女は立ちあがって、腕を上にし、身体を伸ばした。
「……さて、そろそろお昼にしないと本格的にお昼を逃しそうだね。ところで熊谷くんお昼は?」
「俺は外で適当に食べます」
「じゃあ私もついて行っても良いかな?」
「はい、もちろん」
近くに良い定食屋があると、彼女が話題を広げて、俺は隣で相槌を打つ。途中で他の同僚に見られて、物凄い顔をしていたが彼女も特に何も気にしていないようだった。
昼を定食屋に決め、店内に入り、席に座ると一つ気になったことを聞いた。
「そういえば、辞めるって前から転職先を探していたとかですか?」
「え、ああ違うよ。今まで趣味で小説を書いてたんですけどそれが新人賞に受かって。それで連載しませんかってオファーが来て」
曰く、それ以前が今よりもセクハラや交際を迫るようなことも少なかったが、俺が採用された同時期に退職届を出したという。届けを出した途端セクハラが過激化したり、俺の教育係を押し付けたのだという。
「あと二週間で辞められることにはなってるんですけど、このままじゃ本当に室長が何するか怖くてもう」
「確かに。というか新人賞って凄いですね、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
昨日も少し話して思ったが、この人普段は凄く表情豊かに喋るんだなと思った。仕草が大きいわけでも大げさなわけでもないのだが、自然に笑みが零れる。そんな風に思う。
熊谷くんとの昼食を終え、オフィスに戻って来た。するとそのフロアが妙に騒がしい。
「どうかしたんですか?」
その場にいた社員の一人に声をかけると、その人が私の顔を見て顔を真っ青にして縋ってきた。
「今までどこにいたんです!?」
「え、お昼ご飯ですけど」
「室長が!」
嫌な予感が正しく的中している。隣にいた熊谷くんも溜息こそ吐かないが、心なしかうんざりした顔をしているような、気がする。
こんな仕事中に癇癪を起すなんて本当に社会人を何十年やっているとは到底思えないが、他の人が困っているのに原因である私が行かないわけはない。渋々オフィスと扉を開けると、他の社員を怒鳴り散らしている室長が入口の直線上、真ん前に仁王立ちしている。
「真澄!!」
鳥肌が凄い。ちゃん付け以上に気持ち悪いものはないと思っていたが呼び捨ても大概だ。
「俺がなんで怒っているか分かるだろ!」
分かんないよ。なんでそんなに怒ってるんだよ。私なにも悪くないよ。
「今まで散々俺との食事は断ってきたくせに新人とは行くのか!?」
私だって人間だから行く相手ぐらい選びますって。プライバシーを覗かないでください。というかこの状況が異常過ぎるんですが。なんで皆が仕事止めて貴方の癇癪に付き合わないといけないんですかね。
「室長、私は今まで仕事で、貴方と接してきましたが、それ以上を求められても困ります」
「俺を騙したのか!」
「騙してません。私はこの会社内で誰にも呼び捨てで呼んでいいなんて言ってませんし、部下だからって下の者を勝手に呼び捨てにしたりするような人はモラルが無いと思ってます。身体に触ってくるのも、今まではトラブルを避けるために言って来ませんでしたが、本当ならセクハラで訴えられるんですよ」
なんだか、私は今まで言いたかったことがボロボロと口から漏れ出してくる。
怒りで身体がブルブル震える、を文字通り見せてくれることだけはこれからの小説に役に立てそうなので、そこだけは評価したい。
室長が黙ってしまったので、私は手を二回叩いて号令を上げた。
「皆さん仕事に戻りましょう」
すると蜘蛛の子を散らすように他の社員たちが自分のデスクに戻っていく。
「あぶないっ」
振り向く余裕すらない。誰の声か分からないけど女性社員の声でやっと分かった。後ろの室長だと、見てないのに察してしまう。何も出来なくて咄嗟に目を強く瞑った。すると物がぶつかる音、物が落ちる音、そしてぶつかった何かを心配する声。
危ないと聞こえたからてっきり室長は私を殴るのだと思った。でもデスクにぶつかって床に倒れていたのは熊谷くんだった。
「熊谷くん!?」
「……大丈夫です、当たり所がちょっと悪かっただけなんで」
尻餅をついたような体制になってしまった彼に駆け寄ると、口元が切れて出血している。俯いていて表情は見えない。恐らく彼は私を咄嗟に庇った。
殴った本人は、彼の血が付いた拳を見て完全に震えてしまっている。咄嗟に怒りに任せて出てしまった手が信じられないと言っているかのように。
「室長、」
熊谷くんは案外とすぐに立ち上がって室長に向かっていく。私からでは熊谷くんの背中しか見えず、顔は見えない。
「俺も貴方に、この一か月間だけで相当言われましたよ。分かります、顧客を沢山取るのもノルマを達成するもの大事です。でも正論を言われたからって手を出すのは駄目ですよ。手を出したら、」
次の瞬間、室長の違和感のあり過ぎる頭髪と共に彼の身体は一瞬浮いた。頭髪は高く上がり、丸く円を描いて、最終的にカーペット敷の床にぽすんと落ちた。そして数センチ浮いた室長は反撃の言葉もないまま倒れた。
「手を出しても良いって受け止められても仕方ないですよ」
悲惨な乾燥地帯の頭をオフィスのライトが明るく照らすもんだから、ここは熊谷くんを咎めるべきなのに笑ってしまいそうで、必死に我慢した。
荒れてしまったオフィスを片付けているうちに室長を熊谷くんが殴ったことは会社中に伝わっていった。部屋の片づけが終わり、漸く仕事再開という頃に人事部の人が彼を迎えに来た。
「定時まで居れそうにないですね」
「うん、まあ向こうが先とはいえ、上司だし……」
「連載頑張ってください、応援してます」
「ありがとう……熊谷くんこそ転職頑張ってね、というかごめんなさい」
「気にしてませんよ。殴り返されて当然ですから」
彼は人事部に連れられ二度とこのオフィスに戻ってこなかった。
翌日、熊谷くんは自主的に退職届を提出し、室長も退職、妻とは離婚という話も聞いた。各いう私は予定通りに退職した。セクハラで訴えることも出来たが、関わりたくなかったのでやめることにした。
そして数か月の時間が過ぎた――――。
ある日の昼下がり、加計は編集社のあるオフィス街を歩いていた。私服でオフィス街を歩くことはまだ少し慣れないでいた彼女だったが、もう何度目かの編集社からの帰りということもあって近くの喫茶店にも入ろうと当たりを見渡す。
すると反対車線側に丁度カフェを見つけて、近くの横断歩道を渡り、カフェの前までやってきた。
「あれ……」
歩道から見える窓際の席に一人、数か月ぶりに見る男の姿を見つけた。
一瞬声を掛けるか迷うが、どうせカフェに入るのだからと、その窓を軽くコンコンと叩いた。すると彼は読んでいた本から目を離し、顔を加計のいる窓へ向けた。
熊谷も少し驚いたように加計を見た。軽く会釈したあと、窓越しに何かを言っている。
何を言っているか加計は分からなかったので、空いている彼の向かいの席を指さしたあと、店内に入った。コーヒーを注文し、店員から受け取り金額を払ったあと、熊谷の居る席に向かった。
「久しぶり熊谷くん。同席良いですか?」
「はい、良いですよ」
彼は読んでいた本に栞を挟むと本を閉じた。それにはカバーが付けられていて何を読んでいたのかは分からない。
「本当に久しぶりですね。会うなんて思いませんでした」
「確かに、仕事じゃないと中々連絡を送ろうなんて思わないもんね」
お互いに少し探るように会話を始めたが、その距離は少しずつ縮まっていく。
近況報告のような会話から、今の仕事がどう、あれから何をしていたかを話し込んだ。
「真澄さん、」
「あはいっ」
「って呼んでもいいですか?」
熊谷の問いかけに加計は言葉を失う。どういうつもりで聞いてきたのか分からなかったからだ。
「い、いいけど…というか、前に一回そう呼んだよね……一回だけだったからスルーしたけど」
「それもそうですね。俺のことは好きに呼んでください」
「え、うん。……というか敬語ももう良いよ。同い年だし、もう仕事も違うし」
加計は熊谷の顔が見ずらい状態だった。彼が全く視線を離さないのだ。偶には他の場所も見てほしいと思うぐらいに加計から視線を外さない。そんな熊谷に、やっぱり自主的とは言え退職届を出させたことを怒っているのではないかと想像してしまう。
「……ああ、そうする」
「うん、そうして」
沈黙の間もずっと見るのは辞めてほしいと思いながら加計は頼んだコーヒーを口にする。もう何時間も話し込んだこともあってそれはすっかり冷めてしまっていた。
「そろそろ時間なんで」
「あ、ごめんね引き留めて」
熊谷は「いや……」と加計の言葉を否定した。小首を傾げ彼の次の言葉を彼女は待った。何かを考えるような、葛藤するような数秒の間のあと、熊谷はまた口を開いた。
「今度予定の会う日に食事とかしたいんだけど、今日は全く足りなかったから」
彼の言葉に咄嗟に加計は立ち上がってしまった。勝手に動いてしまったことを後悔しながらも、湧き上がる喜びは隠せない。隠せなくても良いと思えるほどに嬉しかったから。
「うん! 行こう! 帰ったら連絡するよ!」
彼女の反応を見て、熊谷は安堵したように息を吐いた後、彼女に向かって少し微笑んだ。
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