真桐
遺影
桐生一馬が死んだ。例年のように東城会のもめ事に巻き込まれた彼は、ついに広島との抗争でその命を散らした。詳細はわからない。広島の抗争は自組織である大道寺一派も多いに関り、情報工作を重ねた結果、真実はごく少数の身にしか把握できないほど複雑化したそうだ。大道寺一派が桐生の死に関わったわけではないが、彼の起こした騒動は自組織も手を焼いていた。――妙な縁のようなものを感じる。まさかこんなところでも桐生の名前を聞くとは思わなかった。
真島は数年前に『死んだ』。近江連合との抗争のさなか、捕虜にされた真島に怪しい影がささやいた。「一派に入れば東城会を勝たせる」と。大道寺一派のエージェントだった。どうも大道寺一派は近江連合が優勢になることで極道の均衡が崩れると危惧したらしく、介入して調整をこころみたらしい。正直東城会のことはどうでもよかった。それらは自分たち東城会の人間が解決することであり、外部に頼るのはスジが通らない。
ただ、真島には懸念材料があった。澤村遥だ。彼女は過去幾度も近江との抗争に巻き込まれ、今回もまた渦中の人物になってしまった。遥がいる以上、桐生はその身をいくらでもさしだす。彼女を守ることが結果的に桐生を助けることになる。なら、真島が命を差し出す理由はそれしかなかった。
「澤村遥のコンサートを成功させろ。したらあんたらの犬になったるわ」
そうして真島吾朗は死んだ。
「桐生ちゃんの刺青もらってええ?」
紫煙をくゆらせる中、真島が静かにたずねた。口では許可をとっているようだが、彼は桐生の返答なんて気にせず思うがままに実行するだろう。だがいくつか言葉が足りないような気がしたので桐生は詳細を聞くことにした。
「スミって、なんだ。増やすのか?」
応龍を新たに入れるのだろうか。それなら許可をとるのは自分ではなく歌彫だ。
「ううん。桐生ちゃんが死んだら剥ぐの」
「毛皮かよ」
刺青を残すために人の皮を剥いで鞣す――まだ極道にいたころ、倉庫の整理をしていたら額縁に納められた刺青を見つけたことがある。おどろおどろしい牛鬼の刺青は、戦火をくぐりぬけ東城会繁栄に尽くした男のものだと聞いた。昔はそういった立役者をたたえるために皮を剥いで保管したらしい。あまり趣味がいいとは言えないし暴力沙汰に慣れているヤクザにとってもグロテスクなものであるため、最近では耳にすることもない。
「でかい額縁に入れて飾るん」
「あんたが好きなのは俺の応龍か?」
遺骨にしろ遺品にしろ、本人にまつわるものを遺族や知人が欲しがるのは珍しくないが、よりによって刺青を欲しがるとは意外だ。
よく背中の応龍にキスをしていたし、それなりに好きなのは桐生も察していた。しかし剥ぐほどの執着があるとは思えなかったのだ。
「そうでもないが?」
「ならなんでほしいんだよ」
「遺品は嬢ちゃんにあげたいし、遺骨は墓にいれとくもんやろ」
「で、刺青が欲しいって?」
「うん」
まともな感性をもちつつもイカれた考えに、桐生は困ったように息をついた。
遺品というほどたいしたものは持ち合わせていないが、財布などが遥に渡ればいいと思う。遥は困るだろうが、遺品が彼女のもとにいけるのなら安らかに眠れそうな気がする。
「まあ、好きにすればいいが…そう刺青が残る死に方ができるもんかね」
昔から過激な抗争に巻き込まれてきた。爆死しかけたこともあるし、五体満足の状態で死ねるかは約束できない。
「そこは頑張ってなんとかしい」
「頑張る、って…。ていうか、現役ヤクザで俺より年上の男が先に死ぬ可能性はないのかよ」
なんとなく真島が先に死ぬという想像はつかなかった。爆発だろうが突き落とされようが、強運のもとで生き残りそうな生命力にあふれている。たしかに先に死ぬのは自分だろうなと苦笑してしまったが、何が起きるかなんて誰にも予想付かない。
「じゃあ桐生ちゃん、遺言状つくっといて。骨は真島吾朗の墓にいれてくれって」
いったい誰が読んで誰が実行することになるのやら。俺は自分の墓を持てないのかと思いつつも、それもいいかもなと笑ってやった。
タバコを取り出しライターを擦るも火がつかない。ガス欠ではない。震えた指がうまくホイールを回せないのだ。爪を引っかけても小さな火花が散るだけで火をともすことはなく、真島はライターを怒りに任せて地面に投げつけた。
「くそっ…!」
歯が小刻みに鳴る。桐生が死んだ。死んでしまった。事もあろうにまた東城会が絡み、極道の抗争の中で死んだ。彼にはカタギとしてまっとうに生きようとしていた。しかし、地獄の使者が絡みつき、過酷な生き方を強制させたかのように、平穏は瞬きの間しか許されず幾度も命の危険にさらされてきた。
そんなことにならないように東城会で目を光らせていた自分が『先に死んでしまった』から『桐生が死んでしまった』。ああ、まったく。どうしてこうなのだろう。自分の選択はいつもいい方向へと転ばない。大道寺一派を振り払い、あのまま生きていれば桐生は死なずにすんだのではないのか。もし。万が一。そんな絶え間ない後悔にうち震える。
意味のない後悔だ。たらればなんてなんの価値もない不毛なこと。そうとわかっていながらも、桐生が抗争で死ぬことは避けなければならなかったのだ。彼は家族に看取られるべき人だった。
「桐生ちゃん…」
あの男が死んだなんて信じられない。実はどこかに隠れて生きているのではないか。願望のような思いを抱きながら脳裏に焼き付いた応龍に目を細めた。
「凶蛇」
足音を立てて現れた黒服に舌を打つ。自分に指示を出す管理者だ。大道寺一派では幹部からの命令を管理者が受け取り担当するエージェントに仕事をおろす。管理者は床に転がったライターを拾い「敷地内でゴミを捨てるな」と真島に投げ渡した。
凶蛇。なんとも不吉な名前だ。大道寺一派では新たな名前を渡される。いわゆるコードネームというもので、真島もまた大道寺一派に入るとその名前を渡された。
「ガジェットの調整をたのむ」
「わかった」
高い身体能力を買われた真島は、大道寺一派が開発を進めるガジェットの実験台としてよく使われていた。いま開発中の『蜘蛛』も現段階で活用できるのは真島くらいしかおらず、他のエージェントでも扱えるよう調整中だ。
アクション映画ででてくるような『蜘蛛』はなかなか楽しい。あちこちに引っかけられるし、人間を掴んで放り投げられるのも爽快だ。これを他のエージェントも扱えるようになれば仕事の幅が広がるだろう。真島は近くの大木に『蜘蛛』を伸ばした。あっという間に樹頭に足を下ろした真島は当たりを見渡した。どこかの山奥にある寺が大道寺一派の住処だ。木の頂にたどり着いたところで麓の様子などわかりやしない。ましてやすっかり日が暮れて月明りでしか視界が開けてない。ぬるい夜風に髪がなびく。
(――このまま)
ふんと鼻を鳴らす。ばかばかしい。このまま脱走してなにをするというのだ。監視されているとはいえ逃げようと思えば逃げられる、けれど逃げる理由がない。大道寺一派の下っ端はそういった人間の集まりだ。真島もまたそのうちの一人である。
『蜘蛛』を与えられた日から毎日木に登り、下界を見下ろした。この先のどこかに桐生がいる。そう思うだけで安心して寺にこもることができた。死んだ甲斐があったと、あの日、姿を消してよかったと、嘘偽りなく言い切れた。悪くない死後だとも思っていたのだ。
「凶蛇。今日はもういい。部屋でやすむように」
管理者が真島を見上げながら声をかける。
「…はいはい」
大道寺一派は思っている以上に扱いがよかった。一人一部屋くれるし、タバコや酒等の趣向品も欲しいと言えば渋々用意してくれる。食事が精進料理なのは気が滅入るときもあったが、任務で外出したときは外食も許されたので大したストレスはたまらなかった。
部屋に戻り洗面所で手を洗う。鏡に映る自分にはいまだに慣れない。
青二才の自分を思い出す。ヤクザに入りたての策謀なんて気づかない若造の自分だ。こんな姿にされては自分を見て真島だと気づくのは兄弟の冴島くらいだろう。
隻眼は目立つからと義眼を入れられ、髭は剃り髪の毛は伸ばせとまで言われた。とにかく悪目立ちするなと管理者から執拗に注意されて、ああ、真島吾朗は本当に死んだのだと自覚させられる。
真島吾朗の要素を剥奪されれば残るのは死体のみ。大道寺一派はその死体に『凶蛇』と名付けた。
この姿だと若く見られるのかよく他のエージェントに絡まれる。問答無用で殴りかかっては管理者から説教を食らったが、大道寺一派の中でも自分が実力者だと知れたのは気分がいい。死んだとはいえ舐められるのはごめんだ。おとなしくする理由もない。面倒になって髪の毛を切るのはやめた。髭を剃るのも億劫なので脱毛したいと言えば医療脱毛までしてくれた。必要とあれば整形手術もいとわない連中ゆえに、外見操作は勝手がきく。
「ふ」
肩が震える。こみあげてくる愉快な気分に体をゆだねた。
「ふ、ふっふふ…」
桐生一馬が死んだ。桐生のために真島吾朗は死んだというのに、この死体はいつまで動くつもりなのだ。
桐生は遺言状を作ったのだろうか。空の自分の墓に彼の骨が眠るなんて滑稽だ。
最近の組織はあわただしくあった。桐生の死亡前後で組織の名前でもある大道寺稔もまた息を引き取り、今後の組織の方針や編成で忙しいらしい。トップがいなくなると混乱するのは、どの組織でも共通事項でも同じようだ。こういうとき命令を待つだけのエージェントは気が楽だ。武器職人のもとに顔でも出すかと敷地内をうろついていると同期がいた。
「おう、花輪」
「これは凶蛇さん」
同時期に入った花輪は大道寺一派入りするまえからの付き合いだ。しかしお互いにその話題は口にせず、茶番をはじめる。ここは死人の組織だ。生前の身分など塵芥に等しい。以前とずいぶん印象が変わった花輪は、分厚い書類束を片手にメールの確認もしていて忙しない。上層部との調整もあるのだろう。
「ずいぶんと忙しいようやなあ」
「ええ、まあ。仕方ありません。エージェントの方々には退屈でしょうが」
「細かい仕事ならちょいちょいきとるし、そうでもないわ」
用心棒や見張り、偵察などの短期間の仕事は以前と変わらずおりてくる。政界や財閥、裏社会とのつながりも強いゆえに顧客も多い。単純な仕事だがないよりはましだった。
「いっつも思うが、なんでお前が管理者で俺はエージェントなんや」
「それは凶蛇さんが武闘派だからでしょう。ああ、でも貴方なら管理者もできそうですねえ」
極道の組長だった真島ならばエージェントを操ることなど造作もない。ただ本人の性格や肉体からエージェント向きと判断されたのだ。
「最近、管理者の受け持ち人数が増えているんです。凶蛇さんが管理者なら負担も減りそうなんですが」
「え。掛け持ちってできるん」
「出来ないことはないでしょう。凶蛇さんが興味あるのでしたら上に報告しますが、いかがされます」
「せやなあ」
仕事が忙しくなるくらいがいまの自分にはちょうどいいのかもしれない。なにも考えたくない。仕事をしていない時は余計なことを考えてしまう。自殺なんて考えたことはないが、それを選んだ者たちの心境が理解できる気がした。
後日、さっそく管理者としての仕事が割り振られた。先任の管理者から情報収取やエージェントの割り当てなどを教わる。大体の流れは想像通りだった。真島自身エージェントとして活動していたため、指示の仕方や作戦を考えるのは難しくない。地味な仕事だ。しかしやることが多いのは助かった。休む必要もないくらい働いて、流れ弾でも食らって死にたい。時にはエージェントにガジェットの扱い方をレクチャーするようになると、組織内での評価が上がっていった。忠誠心はないが貢献度は真島がずば抜けているからと単独の任務もふられる。上司から与えられた任務を自分で調べ自分でこなす。分業制ではないのかと悪態をつきながら、根がまともゆえに淡々と任務を終わらせる。
「凶蛇」
「ああ?」
義眼の調子が悪い。はめ込んでいるだけの義眼はふとした拍子に落ちやすい。たまに左目跡がゆるむのか外れやすい時期があった。少々苛つきながら敷地内を歩いていると縁側に立つ寺の住職が静かに呼び止めた。他のエージェントや管理者とはまた違った役割を持つ男だ。穏やかそうな風貌で容赦ない命令を下したこともある。生臭いこともこなしてきたのだろう。上司たちもこの男に意見するのは気をつかうらしく、長いこと大道寺一派に貢献してきたのだと察していた。
「なんやねん」
しかし真島はあまり好きではないし、背景も知らないので不遜な態度をとる。住職もなれているのか気にも留めない様子で、縁側に上がるよう指示し、バインダーを手渡した。任務の詳細がこのバインダーには詰まっている。住職が直接渡すあたり厄介な仕事だろうかと小首を傾げた。
「なんや。ややこしい案件か。そんなら俺よりもベテランにすればええやろ」
「他に手が空いている人がいないんですよ」
「人使いが荒いのお」
「任務ではなく教育をお願いします。ほかにガジェットの教育できるエージェントがいないので」
扱いにくいガジェットの利用者は少ない。使いこなせれば任務の幅が広がるし、速やかな任務遂行が可能になるのだが、クセの強いガジェットは人を選ぶ。真島が何度か人に教えても使い物にはならなかった。
「浄龍」
奥からのそりと姿を現す男に、真島は目を見開いた。
――どうでもいい。
二年前に真島が死んだ。近江連合の跡目争いの糧にされた桐生はすべてが終わってからそれを知らされた。福岡で聞かされたフェイクなどではない。黒澤の捕虜にされた真島は燃やされて死体となった。黒澤は知らないと否定したが心底どうでもよかった。大吾も冴島も違うと必死に否定するも、燃えカスから見つかったカフスボタンはかつて桐生が贈ったものだ。それがすべてだろう。
自死は選べなかった。桐生の帰りを待つ子供たちがいるから。家族と呼んでくれる遥がいるから、死ぬわけにはいかなかった。呆けているうちに刑務所に入れらて、出所した時にその家族も姿を消したと知った。なにもかも遅い自分を呪った。いつも選択を間違える。どうしてうまくできない。どうしてまわりの人を傷つけてしまうのだろう。そこまでして生きたいと願ったことなんて一度もないのに。
意識不明のこん睡状態の遥のかわりに、ハルトの父親をさがすこと。遥を狙った運転手を探すこと。遥とハルトと一緒にアサガオに帰ること。それだけを考えた。それしか生きがいがなかった。ふとした拍子に膝が崩れて絶叫してしまいそうだった。緊張の糸が切れてなにもできなくなってしまう焦燥感が桐生のそばでケタケタと笑っていた。
――死んでもいい。
自分が生きている限り周りが死んでいくのなら、もう終わりにしていい。遥も子供をつくった。あんなにも幼かった子が子供を産むほど成長した。彼女のそばには勇太がいてくれるだろう。これ以上生き延びて、また彼女が、いや、彼女たちが命の危険にさらされるのはごめんだ。
そのつもりで受けた銃撃ですら生き延びてしまった。地獄にすら嫌われているのか。それでも自殺は選べなかった。そんなことをすれば最後まで生きて死んでいった恩人や友人たちに顔向けできない。だからこの世での死を選んだ。
昔の約束を思い出す。一緒の墓に入るという寝物語だ。大道寺一派は適当に死体を用意して桐生一馬だと言い張ってくれるだろう。真島の墓にどこの馬の骨かもわからない遺骨が入ってしまうのは気分が悪いので自分名義の墓を用意してもらった。
「…約束を破っちまったな」
一度くらい墓参りをしてやればよかった。それだけが心残りだった。
大道寺一派の教育を一通り受けた桐生は管理者よりもエージェント向きだと組織が独自開発したガジェットを渡された。『蜘蛛』とよばれる腕時計のようなガジェットは極細のワイヤーを射出してつかう。まだ開発されたばかりで使い手も少なく、組織内で一番うまく使える男から教わるようにと紹介された。
「……」
お互いに目を見張る。
髪を伸ばし両目をもつ目の前の男は、紛れもない真島だった。髭もないし特徴的な刺青もきちりと身にまとうエージェント服によって確認できない。しかしその輪郭もまなざしも目に焼き付けた、恋焦がれた男だった。
「…じょうりゅう?」
真島が顔をしかめて、住職を横目でにらんだ。
「俺には凶蛇っちゅう名前をつけといて、ずいぶんとええ名前をつけたなあ?」
「よく似合ってると思ったのですがねえ」
「ヘビっちゅうのは神様の使いやろ。なんでそれに運の悪そうな言葉を頭につけるんや」
「それは神道の話でしょう。ここは寺ですから、価値観が違います」
声も、口調もなにもかも、真島吾朗だった。しかし彼はこちらを見ようともせず住職との話を続ける。彼もまたこの住職に新たな名前を貰ったらしい。
「凶から吉に変えろや!」
「これでも私なりに意味を込めているのですがねえ」
「ほーう?」
小首を傾げて睨む姿に違和感があった。そもそもなぜ左目があるのだろうと、桐生は無遠慮に手を伸ばした。素早く目玉を狙う。生きていた歓喜とこちらを見ない怒りが桐生の動きを本気にさせた。
「うおっ」
すんでのところで殺気に気づいた真島が体を仰け反らせる。その際にきらりと光る何かが放射状に飛んでいった。真島の顔が奇妙に歪み、慌てて左目を手で覆い隠した。何かを確認しているようだ。それでもまだこちらを見ない真島に桐生は舌を打ち距離を詰める。
「あー!外れよったァ!壊れたらどうしてくれんねん!」
「その時は給料から差し引いて新しいものを支給しますよ」
「うっさいわ!ナマクサ坊主!こいつにもおっかない名前つけとけ!」
「詳細はそのバインダーに。教育はまかせましたよ、凶蛇」
にこりと笑う住職に真島は鼻をならして桐生と間をとる。つまらなそうに右手にバインダーをもち、空いている左手は苛つきを発散するように頭をかいた。
――素早い足さばきは見慣れたもののはずだった。ヒュンと風を切る音をならして真島は姿をくらます。ほんの瞬きの間に目の前から消え、あたりを見渡すと真島は中庭からこちらを見据えて立っていた。こんな素早い動きをできるはずがない。目を丸くして呆ける桐生に、その答えを教えるべく真島は左手を振った。
「俺はいちいち説明なんかせえへんで。技は見て盗めっちゅうやろ。ついてこれるもんならついてこい」
左手から光が走る。いや、鈍く光るワイヤーだった。近くの杉の木にワイヤーをのばして浮上する真島を見て、渡されたガジェットのことを思い出した。支給時の説明通り腕時計のスイッチをいれて飛び出すワイヤーを確認する。これを使って移動したのか。ならあとは追いかけるだけだ。
意を決して自分も外に飛び出す。見よう見真似で近くの木に向かってワイヤーを伸ばすと、狙い通りの枝に絡まってくれた。もう一度スイッチを押してワイヤーを操作すれば、自身の体が浮いてあっという間に枝に飛び移れる。浮遊感には驚いたが不快感はないし慣れるだろう。そう感動している内にも木から屋根へ、屋根から屋根へ飛び移る真島を目で追いかけた。
聞きたいことが沢山ある。話したいことも沢山ある。だから桐生も追いかけた。かつて追い掛け回されたときとは逆だ。今度は自分が追いかける。必ず捕まえてみせる。――今度こそ取りこぼしたりはしない。
真島を追いかけているうちにガジェットの使い勝手に慣れ始めていた。実にシンプルな機能だが、ワイヤーを戻す際に絡まったり手に当たったりと、怪我をしやすく万人受けはしない代物だ。左手を酷使するので肩も痛めやすい。本来は移動手段として使うのではなく、遠方のものをとったり相手の自由を奪うのを目的に作られたのだろう。そんなことを無視して真島は敷地内の中でもとりわけ背の高い木に登り始めた。がさがさと葉をおとしながら頂上を目指しているのがはたからでもわかり、桐生もそれを目指した。
上に行くにつれて貧弱なか細い枝に変化していき、誤って折らないよう、慎重に真島を探した。ふと煙のにおいがした。特徴的なハイライトの香りだ。服に引っ掛かる小枝を折りながら匂いの先に振り返る。
横に伸びた太めの枝にもたれかかりながら、のんびりとタバコをふかしバインダーに目を通す真島がいた。似たような景色を見たことがある。
朝日を浴びながらタバコ片手にベッドで新聞を読む彼に、灰が落ちると文句をつけた。そんな埃がかぶりかけた記憶が鮮明によみがえり、視界が歪んでいく。生きている。生きていた。あの焼死体を見た時からずっと、悪夢ならさめてくれと心の内で叫び続けた。真島が死ぬはずないと、殺されるわけがないと否定しきりたかった。しかし残されたカフスボタンを思い出すたびに絶望に落とされて、認めざる得なかった。
「…にいさん」
葉とともに涙が落ちていく。
「お前、よお聞いとけよ」
バインダーから視線をあげた真島は、思っている以上に桐生が近いところにいて驚くものの、片眉を上げる程度ですませた。それよりも泣いている桐生に罪悪感を覚えた。当たり前か。死んだと思っていた人間が生きていた。それは真島とて同じ思いなのだが、先に残された方は苦痛だったことだろう。もう少しそばに来るよう引き寄せると、桐生はその手を離すまいと力強く握りしめてきた。
「ここは死人の組織や。生きていたころのことは忘れろ」
「…あんたはなんでここにいるんだ」
「そういう生きていたころの話を聞くのもタブーや。ま、たまに揶揄ってくる奴もおるがな」
桐生がなぜここにいるのか。その詳細はバインダーに挟まれた書類に記されていた。大道寺一派が隠蔽し世の中に出回っていない情報まで事細やかであり、きっと桐生一馬もそのすべてを知っていることは予想できた。それゆえ一派は口封じに近寄った。逆に桐生の交渉を受けるとは思ってもなかっただろうが、エージェントの不足が続いている上、大道寺稔の死によって一派の力が衰えるのを危惧していたなか、『堂島の龍』を手駒にする好機を逃すはずがない。桐生一馬の願いはささやかなものだった。大吾の釈放、たったそれだけだ。最後の最後まで東城会のために身を尽くした男に苦笑する。
多くの策略の結果、ボロボロになってしまった東城会を建て直すには大吾は必要不可欠であるし、陽銘連合会と戦争を避けることも六代目なら遂行できるだろう。
そして自分が死ねば、澤村遥が利用されることは今後一切ないという期待もにじみ出ていた。思い返せば100億円事件のころから彼女は大人たちの血と金の争いに巻き込まれ、ときには桐生一馬をおびき出すための道具として扱われた。桐生一馬にとって最愛の家族が利用されるのは耐えがたい苦痛であり、遥が巻き込まれるたびに自分の存在について考えたことだろう。
自死を選ばなくても、存在を消すことに躊躇しない。姿を消すべきだと選んでしまった。それを咎めることは真島にだってできやしない。
「でもまあ、みんな似たり寄ったりやな。忠誠心バリバリのやつ、命を助けてもらったやつもおれば、お前みたいに条件をつけて死んだやつもおる」
桐生は訝しげに眉間にしわをよせ、真島の左目跡に手を伸ばす。以前と比べ凹みがあり、傷跡も薄くなっている。
「これは?」
「さっきお前のせいで義眼が飛んだ。壊れてたら弁償せえ」
「ああ、義眼だったのか」
両眼揃っていたが違和感はあったはずだ。はめ込んだだけの義眼は視線が動くことはないし、瞬きすらしない。それでも多少のメイクや眼鏡をかけるだけで一般人をごまかすことはできたので、これ以上の改良は必要ないと判断した。まさか桐生と鉢合わせるとは思ってもなかった。
「お前も多少顔を変えるなり、髪の毛いじるなりするべきなんやろォなあ」
このままではすぐに堂島の龍が生きていることがばれるだろうに、上層部はなにを考えているのだ。自分にはあれこれ言ってきたくせに桐生だけ特別待遇なのか。
「嫌だっつったらどうなるんだ」
「どーもせんよ。まあ組織に反抗的って思われる程度で、こき使われるのは変わらん。従順なやつもせかせか働いとるからのお。ブラック企業もええところや」
死人に人権などない。過労死しても改善はされないだろう。
「じゃあ、なんであんたは」
左目跡から輪郭をなぞり、顎でとまる。髭剃りが必要のなくなった顎は指を引っかけることなくつるりと指を這わせた。
義眼を仕込み、髭を剃って、髪の毛を伸ばした。――真島吾朗は死んだ。その面影は誰も必要としない。大道寺一派はそういう組織だ。
「ま、こんなふうにばれてたら意味なかったかもな」
目立たないことのほかに、万一知人と会ったときはうまいこと誤魔化さなければならない。整形したくなければ他人の空似程度まで以前の顔から印象を遠ざける必要がある。大道寺一派も馬鹿ではないから東城会からみの仕事を振ってくることはなかったが、同じ死人同士なら問題ないとでも判断したのだろう。東城会の人間だった花輪とも普通に接触できるのだ。案外ゆるい組織なのかもと内心笑ってしまう。
「なんや、おまえ。やつれたなあ」
二年会わないだけでこんなにも人は変わるものなのか。銃撃を食らったとはいえ、昔は少し入院すれば元気に退院していたはずだ。少しこけた頬をなでながら、伝説の極道でも老いるのかと年下に苦笑する。目じりに皺が見えるし、肌にも張りがない。
――それでもようやく再会できたこの瞬間を、きっと忘れることはないだろう。寂れた風景が鮮やかな色を思い出し、真っすぐこちらをとらえる瞳が自分だけを映している。在りし日の光景を再び手に入れた。
死人の組織とはいえそこそこの自由は許されている。組織に申請すれば外出できるし旅行にだって行ける。忠誠、恩義、条件、各々につけられた首輪は頑丈で締め付けることをいとわない。
「んで、ケジメとかつけてくれんのか」
真島が組織に命を掲げたのは澤村遥のためだ。それなのに事故で意識不明だったことを教わったのは何もかも終わったあとで、真島はこの際つつくことにした。あの時は桐生の死で頭がいっぱいだったので責めるのを忘れていたが、これは重大な契約違反のはずだ。真島の条件が「コンサートの成功」だったとはいえ、真島につけられた首輪は「澤村遥の安全」だった。少しでも反抗の色を見せればそれを脅しに使われてきたのだ。
強い抗議に住職も重くうなずく。
「言い訳のしようがありません。我々は彼女に最高の医者を当てるくらいしかできませんでした」
「病院に不届きもんが乗り込んだらしいなあ。警備とかしてなかったんかい」
「上層部でも意見が割れていたんです。尾道の秘密を暴いた堂島の龍の人質として使うべきと過激派が騒ぎましてね」
「ほお」
蚊帳の外にいた自分を呪う。もう少しこの組織を怪しんでおけば自分が乗り込んでいけたのに。舌打ちすると住職はにこりと笑った。
「ですから、そのような人たちは処分しました。――これでケジメにはなりませんか」
「…ヤクザよりエグイことしよる」
「貴方を怒らせるよりも、片づけたほうが利になると判断されたのです。おかげで随分とエージェントが減りました。活躍には期待してますよ」
何故急激にエージェント不足が発生した理由がようやくわかった。大道寺稔の死と、組織に不利益な人間の片づけに伴い組織編制を行ったからだ。真島にも経験がある。東城会は何度も内乱が起きては立て直し、整理を行ってきた。粛清も珍しくない。
「俺と浄龍の首輪って同じやん?もし俺が離反して澤村遥の命が危ぶまれたら、浄龍の条件を裏切ることになるよなあ?」
「…そうですねえ。それは困りました。あなたにはまだ働いてもらいたいですし。これまでの貢献から考えても、もう少し褒美をあげてもいいかもしれませんね」
上層部を通さずこんなことを一人で決めてしまうとは、やはりこの住職は組織の中でもかなり上の人間らしい。なら都合よく使わせてもらう。むこうもそうなのだからお互い様だ。
「じゃあ俺と浄龍の部屋一緒にして」
「おやおや」
渡された調書には記されてなかったが、大道寺一派の諜報活動を見ると調べつくしていてもおかしくない。住職の反応からそれは断定できた。
「どうせ調べついとるんやろ」
「まあそうですね」
「相互監視になるし、先輩として教えることはいくらでもある。あんたなら適当な理由つけることなんて大したことないやろ」
「そうですねえ。安上がりですし、まあいいでしょう。あまり騒がなければ問題ありません」
厳しい仕事を負う職場ゆえに、性に関することは甘く見られがちだ。休日を使ってソープに行くのもキャバクラで遊ぶのも黙認されている。男同士のにおいもいくつか感じられた。
それを咎めるものはいないし揶揄うものもいない。病気や騒音など、自分に危害が来なければ文句もない。
「盗聴器しかけるなよ」
「浄龍のしつけをたのみますよ」
「むちゃくちゃいいよって」
何十年の付き合いだがあの性格はいまだに読めないのを知ってて言っているだろう。悪態をつきながら、改名の要望も一緒にすればよかったとため息をついた。
とっくに焼却処分されていただろう応龍に手を這わせる。長いこと色を入れなおしてないせいで発色が悪い。それでも鋭い睨みをきかせ、見るものを慄かせる迫力は健在だった。
住職に話をしてすぐに2人部屋をもらった。しばらくは盗聴器がしこまれる。元は同じ組織に所属し、親しい中となれば組織の裏切りを危惧するのも納得だ。自分たち用の監視も何人かいるだろう。桐生のしつけが終わるまでお預けだなと、風呂上りでソファにくつろぐ浄龍の背中を撫でまわす。
「…ボタンを」
タバコを片手に桐生がつぶやいた。
「ん?」
「ボタンをアサガオに置いたままだ」
何のこだと小首を傾げてから、自分が偽装死のために残したカフスボタンのことだと察した。桐生からの贈り物を置いていくのは心苦しかったが、それさえあれば騙しとおせると踏んだ。案の定、まんまと信じたようだったので作戦は成功といえる。信じた分だけ彼を苦しめたと思うと罪悪感があり、何か慰める言葉を探したがやめた。やはりあの時の選択を間違えたとは思えなかったからだ。
「墓にいれようと思ったが、墓参りもできなくて…――入れなくてよかった」
「薄情なやつや。墓参りくらいしろ」
「しらねえ奴が入ってるのになんでしなきゃいけねえんだよ」
「俺の墓にいれるよう遺言状つくとっけって言ったのに、墓たてよって」
桐生は自分の墓に入った。正確には遺骨を受け取ったアサガオの子供たちが、近しい大人に頼って用意してもらったのだ。大吾に残された遺言状にも真島の墓に入れてほしい等の要望は記さなかったらしい。
居心地悪そうに煙を吐き、桐生はタバコを灰皿に押し付けた。
「…やっぱり、死んだことを認めたくなかったんだろうな」
「ふうん」
「どこかでしぶとく生きてるって思いたかった」
「ほおか」
こちらも同じだ。東城会も極道も関係のない場所で健やかに暮らしている。そんなおとぎ話を何度も夢見た。まさか同じ組織に所属することになるとは思いもしなかったせいで、再会時は住職に八つ当たりもした。冷静になるために意識をそらさなければ、きっと要注意人物としてマークされ、このような同室の要望も通らなかった。住職の、あの癪に障るくらい冷静に返されたのは予測されていたと見ていい。テストされていたのだろう。悪趣味な組織だ。
「俺らの骨は共同墓地か、適当な場所に散骨されるんやって。海にでも撒いてもらうか」
「しばらく死んだときの話はよしてくれねえか」
せっかく生きている喜びをかみしめているのに気が滅入る。桐生の拗ねた顔にプッと噴き出した。死線を抜けてきたやつが子供のような拗ね方をするな。幾つになったんだ、お前は。そう内心で突っ込みながら、真島もタバコを取り出してため息をついた。
「割とぽんぽん同僚がいなくなる職場や。お前が死んだら今度こそこの背中を剥いでやるからな」
「好きにしろよ。どうせ、もうあんたしか見ねえんだから」
凶。これ以上悪いことが起きない状態のこと。
蛇。脱皮し、古い皮を捨て去ること。
「いま身にまとう不幸を脱皮する吉兆として名付けたのですがねえ…」
「わっかりにくいねん」
SpecialThanks:いなずまさん
桐生一馬が死んだ。例年のように東城会のもめ事に巻き込まれた彼は、ついに広島との抗争でその命を散らした。詳細はわからない。広島の抗争は自組織である大道寺一派も多いに関り、情報工作を重ねた結果、真実はごく少数の身にしか把握できないほど複雑化したそうだ。大道寺一派が桐生の死に関わったわけではないが、彼の起こした騒動は自組織も手を焼いていた。――妙な縁のようなものを感じる。まさかこんなところでも桐生の名前を聞くとは思わなかった。
真島は数年前に『死んだ』。近江連合との抗争のさなか、捕虜にされた真島に怪しい影がささやいた。「一派に入れば東城会を勝たせる」と。大道寺一派のエージェントだった。どうも大道寺一派は近江連合が優勢になることで極道の均衡が崩れると危惧したらしく、介入して調整をこころみたらしい。正直東城会のことはどうでもよかった。それらは自分たち東城会の人間が解決することであり、外部に頼るのはスジが通らない。
ただ、真島には懸念材料があった。澤村遥だ。彼女は過去幾度も近江との抗争に巻き込まれ、今回もまた渦中の人物になってしまった。遥がいる以上、桐生はその身をいくらでもさしだす。彼女を守ることが結果的に桐生を助けることになる。なら、真島が命を差し出す理由はそれしかなかった。
「澤村遥のコンサートを成功させろ。したらあんたらの犬になったるわ」
そうして真島吾朗は死んだ。
「桐生ちゃんの刺青もらってええ?」
紫煙をくゆらせる中、真島が静かにたずねた。口では許可をとっているようだが、彼は桐生の返答なんて気にせず思うがままに実行するだろう。だがいくつか言葉が足りないような気がしたので桐生は詳細を聞くことにした。
「スミって、なんだ。増やすのか?」
応龍を新たに入れるのだろうか。それなら許可をとるのは自分ではなく歌彫だ。
「ううん。桐生ちゃんが死んだら剥ぐの」
「毛皮かよ」
刺青を残すために人の皮を剥いで鞣す――まだ極道にいたころ、倉庫の整理をしていたら額縁に納められた刺青を見つけたことがある。おどろおどろしい牛鬼の刺青は、戦火をくぐりぬけ東城会繁栄に尽くした男のものだと聞いた。昔はそういった立役者をたたえるために皮を剥いで保管したらしい。あまり趣味がいいとは言えないし暴力沙汰に慣れているヤクザにとってもグロテスクなものであるため、最近では耳にすることもない。
「でかい額縁に入れて飾るん」
「あんたが好きなのは俺の応龍か?」
遺骨にしろ遺品にしろ、本人にまつわるものを遺族や知人が欲しがるのは珍しくないが、よりによって刺青を欲しがるとは意外だ。
よく背中の応龍にキスをしていたし、それなりに好きなのは桐生も察していた。しかし剥ぐほどの執着があるとは思えなかったのだ。
「そうでもないが?」
「ならなんでほしいんだよ」
「遺品は嬢ちゃんにあげたいし、遺骨は墓にいれとくもんやろ」
「で、刺青が欲しいって?」
「うん」
まともな感性をもちつつもイカれた考えに、桐生は困ったように息をついた。
遺品というほどたいしたものは持ち合わせていないが、財布などが遥に渡ればいいと思う。遥は困るだろうが、遺品が彼女のもとにいけるのなら安らかに眠れそうな気がする。
「まあ、好きにすればいいが…そう刺青が残る死に方ができるもんかね」
昔から過激な抗争に巻き込まれてきた。爆死しかけたこともあるし、五体満足の状態で死ねるかは約束できない。
「そこは頑張ってなんとかしい」
「頑張る、って…。ていうか、現役ヤクザで俺より年上の男が先に死ぬ可能性はないのかよ」
なんとなく真島が先に死ぬという想像はつかなかった。爆発だろうが突き落とされようが、強運のもとで生き残りそうな生命力にあふれている。たしかに先に死ぬのは自分だろうなと苦笑してしまったが、何が起きるかなんて誰にも予想付かない。
「じゃあ桐生ちゃん、遺言状つくっといて。骨は真島吾朗の墓にいれてくれって」
いったい誰が読んで誰が実行することになるのやら。俺は自分の墓を持てないのかと思いつつも、それもいいかもなと笑ってやった。
タバコを取り出しライターを擦るも火がつかない。ガス欠ではない。震えた指がうまくホイールを回せないのだ。爪を引っかけても小さな火花が散るだけで火をともすことはなく、真島はライターを怒りに任せて地面に投げつけた。
「くそっ…!」
歯が小刻みに鳴る。桐生が死んだ。死んでしまった。事もあろうにまた東城会が絡み、極道の抗争の中で死んだ。彼にはカタギとしてまっとうに生きようとしていた。しかし、地獄の使者が絡みつき、過酷な生き方を強制させたかのように、平穏は瞬きの間しか許されず幾度も命の危険にさらされてきた。
そんなことにならないように東城会で目を光らせていた自分が『先に死んでしまった』から『桐生が死んでしまった』。ああ、まったく。どうしてこうなのだろう。自分の選択はいつもいい方向へと転ばない。大道寺一派を振り払い、あのまま生きていれば桐生は死なずにすんだのではないのか。もし。万が一。そんな絶え間ない後悔にうち震える。
意味のない後悔だ。たらればなんてなんの価値もない不毛なこと。そうとわかっていながらも、桐生が抗争で死ぬことは避けなければならなかったのだ。彼は家族に看取られるべき人だった。
「桐生ちゃん…」
あの男が死んだなんて信じられない。実はどこかに隠れて生きているのではないか。願望のような思いを抱きながら脳裏に焼き付いた応龍に目を細めた。
「凶蛇」
足音を立てて現れた黒服に舌を打つ。自分に指示を出す管理者だ。大道寺一派では幹部からの命令を管理者が受け取り担当するエージェントに仕事をおろす。管理者は床に転がったライターを拾い「敷地内でゴミを捨てるな」と真島に投げ渡した。
凶蛇。なんとも不吉な名前だ。大道寺一派では新たな名前を渡される。いわゆるコードネームというもので、真島もまた大道寺一派に入るとその名前を渡された。
「ガジェットの調整をたのむ」
「わかった」
高い身体能力を買われた真島は、大道寺一派が開発を進めるガジェットの実験台としてよく使われていた。いま開発中の『蜘蛛』も現段階で活用できるのは真島くらいしかおらず、他のエージェントでも扱えるよう調整中だ。
アクション映画ででてくるような『蜘蛛』はなかなか楽しい。あちこちに引っかけられるし、人間を掴んで放り投げられるのも爽快だ。これを他のエージェントも扱えるようになれば仕事の幅が広がるだろう。真島は近くの大木に『蜘蛛』を伸ばした。あっという間に樹頭に足を下ろした真島は当たりを見渡した。どこかの山奥にある寺が大道寺一派の住処だ。木の頂にたどり着いたところで麓の様子などわかりやしない。ましてやすっかり日が暮れて月明りでしか視界が開けてない。ぬるい夜風に髪がなびく。
(――このまま)
ふんと鼻を鳴らす。ばかばかしい。このまま脱走してなにをするというのだ。監視されているとはいえ逃げようと思えば逃げられる、けれど逃げる理由がない。大道寺一派の下っ端はそういった人間の集まりだ。真島もまたそのうちの一人である。
『蜘蛛』を与えられた日から毎日木に登り、下界を見下ろした。この先のどこかに桐生がいる。そう思うだけで安心して寺にこもることができた。死んだ甲斐があったと、あの日、姿を消してよかったと、嘘偽りなく言い切れた。悪くない死後だとも思っていたのだ。
「凶蛇。今日はもういい。部屋でやすむように」
管理者が真島を見上げながら声をかける。
「…はいはい」
大道寺一派は思っている以上に扱いがよかった。一人一部屋くれるし、タバコや酒等の趣向品も欲しいと言えば渋々用意してくれる。食事が精進料理なのは気が滅入るときもあったが、任務で外出したときは外食も許されたので大したストレスはたまらなかった。
部屋に戻り洗面所で手を洗う。鏡に映る自分にはいまだに慣れない。
青二才の自分を思い出す。ヤクザに入りたての策謀なんて気づかない若造の自分だ。こんな姿にされては自分を見て真島だと気づくのは兄弟の冴島くらいだろう。
隻眼は目立つからと義眼を入れられ、髭は剃り髪の毛は伸ばせとまで言われた。とにかく悪目立ちするなと管理者から執拗に注意されて、ああ、真島吾朗は本当に死んだのだと自覚させられる。
真島吾朗の要素を剥奪されれば残るのは死体のみ。大道寺一派はその死体に『凶蛇』と名付けた。
この姿だと若く見られるのかよく他のエージェントに絡まれる。問答無用で殴りかかっては管理者から説教を食らったが、大道寺一派の中でも自分が実力者だと知れたのは気分がいい。死んだとはいえ舐められるのはごめんだ。おとなしくする理由もない。面倒になって髪の毛を切るのはやめた。髭を剃るのも億劫なので脱毛したいと言えば医療脱毛までしてくれた。必要とあれば整形手術もいとわない連中ゆえに、外見操作は勝手がきく。
「ふ」
肩が震える。こみあげてくる愉快な気分に体をゆだねた。
「ふ、ふっふふ…」
桐生一馬が死んだ。桐生のために真島吾朗は死んだというのに、この死体はいつまで動くつもりなのだ。
桐生は遺言状を作ったのだろうか。空の自分の墓に彼の骨が眠るなんて滑稽だ。
最近の組織はあわただしくあった。桐生の死亡前後で組織の名前でもある大道寺稔もまた息を引き取り、今後の組織の方針や編成で忙しいらしい。トップがいなくなると混乱するのは、どの組織でも共通事項でも同じようだ。こういうとき命令を待つだけのエージェントは気が楽だ。武器職人のもとに顔でも出すかと敷地内をうろついていると同期がいた。
「おう、花輪」
「これは凶蛇さん」
同時期に入った花輪は大道寺一派入りするまえからの付き合いだ。しかしお互いにその話題は口にせず、茶番をはじめる。ここは死人の組織だ。生前の身分など塵芥に等しい。以前とずいぶん印象が変わった花輪は、分厚い書類束を片手にメールの確認もしていて忙しない。上層部との調整もあるのだろう。
「ずいぶんと忙しいようやなあ」
「ええ、まあ。仕方ありません。エージェントの方々には退屈でしょうが」
「細かい仕事ならちょいちょいきとるし、そうでもないわ」
用心棒や見張り、偵察などの短期間の仕事は以前と変わらずおりてくる。政界や財閥、裏社会とのつながりも強いゆえに顧客も多い。単純な仕事だがないよりはましだった。
「いっつも思うが、なんでお前が管理者で俺はエージェントなんや」
「それは凶蛇さんが武闘派だからでしょう。ああ、でも貴方なら管理者もできそうですねえ」
極道の組長だった真島ならばエージェントを操ることなど造作もない。ただ本人の性格や肉体からエージェント向きと判断されたのだ。
「最近、管理者の受け持ち人数が増えているんです。凶蛇さんが管理者なら負担も減りそうなんですが」
「え。掛け持ちってできるん」
「出来ないことはないでしょう。凶蛇さんが興味あるのでしたら上に報告しますが、いかがされます」
「せやなあ」
仕事が忙しくなるくらいがいまの自分にはちょうどいいのかもしれない。なにも考えたくない。仕事をしていない時は余計なことを考えてしまう。自殺なんて考えたことはないが、それを選んだ者たちの心境が理解できる気がした。
後日、さっそく管理者としての仕事が割り振られた。先任の管理者から情報収取やエージェントの割り当てなどを教わる。大体の流れは想像通りだった。真島自身エージェントとして活動していたため、指示の仕方や作戦を考えるのは難しくない。地味な仕事だ。しかしやることが多いのは助かった。休む必要もないくらい働いて、流れ弾でも食らって死にたい。時にはエージェントにガジェットの扱い方をレクチャーするようになると、組織内での評価が上がっていった。忠誠心はないが貢献度は真島がずば抜けているからと単独の任務もふられる。上司から与えられた任務を自分で調べ自分でこなす。分業制ではないのかと悪態をつきながら、根がまともゆえに淡々と任務を終わらせる。
「凶蛇」
「ああ?」
義眼の調子が悪い。はめ込んでいるだけの義眼はふとした拍子に落ちやすい。たまに左目跡がゆるむのか外れやすい時期があった。少々苛つきながら敷地内を歩いていると縁側に立つ寺の住職が静かに呼び止めた。他のエージェントや管理者とはまた違った役割を持つ男だ。穏やかそうな風貌で容赦ない命令を下したこともある。生臭いこともこなしてきたのだろう。上司たちもこの男に意見するのは気をつかうらしく、長いこと大道寺一派に貢献してきたのだと察していた。
「なんやねん」
しかし真島はあまり好きではないし、背景も知らないので不遜な態度をとる。住職もなれているのか気にも留めない様子で、縁側に上がるよう指示し、バインダーを手渡した。任務の詳細がこのバインダーには詰まっている。住職が直接渡すあたり厄介な仕事だろうかと小首を傾げた。
「なんや。ややこしい案件か。そんなら俺よりもベテランにすればええやろ」
「他に手が空いている人がいないんですよ」
「人使いが荒いのお」
「任務ではなく教育をお願いします。ほかにガジェットの教育できるエージェントがいないので」
扱いにくいガジェットの利用者は少ない。使いこなせれば任務の幅が広がるし、速やかな任務遂行が可能になるのだが、クセの強いガジェットは人を選ぶ。真島が何度か人に教えても使い物にはならなかった。
「浄龍」
奥からのそりと姿を現す男に、真島は目を見開いた。
――どうでもいい。
二年前に真島が死んだ。近江連合の跡目争いの糧にされた桐生はすべてが終わってからそれを知らされた。福岡で聞かされたフェイクなどではない。黒澤の捕虜にされた真島は燃やされて死体となった。黒澤は知らないと否定したが心底どうでもよかった。大吾も冴島も違うと必死に否定するも、燃えカスから見つかったカフスボタンはかつて桐生が贈ったものだ。それがすべてだろう。
自死は選べなかった。桐生の帰りを待つ子供たちがいるから。家族と呼んでくれる遥がいるから、死ぬわけにはいかなかった。呆けているうちに刑務所に入れらて、出所した時にその家族も姿を消したと知った。なにもかも遅い自分を呪った。いつも選択を間違える。どうしてうまくできない。どうしてまわりの人を傷つけてしまうのだろう。そこまでして生きたいと願ったことなんて一度もないのに。
意識不明のこん睡状態の遥のかわりに、ハルトの父親をさがすこと。遥を狙った運転手を探すこと。遥とハルトと一緒にアサガオに帰ること。それだけを考えた。それしか生きがいがなかった。ふとした拍子に膝が崩れて絶叫してしまいそうだった。緊張の糸が切れてなにもできなくなってしまう焦燥感が桐生のそばでケタケタと笑っていた。
――死んでもいい。
自分が生きている限り周りが死んでいくのなら、もう終わりにしていい。遥も子供をつくった。あんなにも幼かった子が子供を産むほど成長した。彼女のそばには勇太がいてくれるだろう。これ以上生き延びて、また彼女が、いや、彼女たちが命の危険にさらされるのはごめんだ。
そのつもりで受けた銃撃ですら生き延びてしまった。地獄にすら嫌われているのか。それでも自殺は選べなかった。そんなことをすれば最後まで生きて死んでいった恩人や友人たちに顔向けできない。だからこの世での死を選んだ。
昔の約束を思い出す。一緒の墓に入るという寝物語だ。大道寺一派は適当に死体を用意して桐生一馬だと言い張ってくれるだろう。真島の墓にどこの馬の骨かもわからない遺骨が入ってしまうのは気分が悪いので自分名義の墓を用意してもらった。
「…約束を破っちまったな」
一度くらい墓参りをしてやればよかった。それだけが心残りだった。
大道寺一派の教育を一通り受けた桐生は管理者よりもエージェント向きだと組織が独自開発したガジェットを渡された。『蜘蛛』とよばれる腕時計のようなガジェットは極細のワイヤーを射出してつかう。まだ開発されたばかりで使い手も少なく、組織内で一番うまく使える男から教わるようにと紹介された。
「……」
お互いに目を見張る。
髪を伸ばし両目をもつ目の前の男は、紛れもない真島だった。髭もないし特徴的な刺青もきちりと身にまとうエージェント服によって確認できない。しかしその輪郭もまなざしも目に焼き付けた、恋焦がれた男だった。
「…じょうりゅう?」
真島が顔をしかめて、住職を横目でにらんだ。
「俺には凶蛇っちゅう名前をつけといて、ずいぶんとええ名前をつけたなあ?」
「よく似合ってると思ったのですがねえ」
「ヘビっちゅうのは神様の使いやろ。なんでそれに運の悪そうな言葉を頭につけるんや」
「それは神道の話でしょう。ここは寺ですから、価値観が違います」
声も、口調もなにもかも、真島吾朗だった。しかし彼はこちらを見ようともせず住職との話を続ける。彼もまたこの住職に新たな名前を貰ったらしい。
「凶から吉に変えろや!」
「これでも私なりに意味を込めているのですがねえ」
「ほーう?」
小首を傾げて睨む姿に違和感があった。そもそもなぜ左目があるのだろうと、桐生は無遠慮に手を伸ばした。素早く目玉を狙う。生きていた歓喜とこちらを見ない怒りが桐生の動きを本気にさせた。
「うおっ」
すんでのところで殺気に気づいた真島が体を仰け反らせる。その際にきらりと光る何かが放射状に飛んでいった。真島の顔が奇妙に歪み、慌てて左目を手で覆い隠した。何かを確認しているようだ。それでもまだこちらを見ない真島に桐生は舌を打ち距離を詰める。
「あー!外れよったァ!壊れたらどうしてくれんねん!」
「その時は給料から差し引いて新しいものを支給しますよ」
「うっさいわ!ナマクサ坊主!こいつにもおっかない名前つけとけ!」
「詳細はそのバインダーに。教育はまかせましたよ、凶蛇」
にこりと笑う住職に真島は鼻をならして桐生と間をとる。つまらなそうに右手にバインダーをもち、空いている左手は苛つきを発散するように頭をかいた。
――素早い足さばきは見慣れたもののはずだった。ヒュンと風を切る音をならして真島は姿をくらます。ほんの瞬きの間に目の前から消え、あたりを見渡すと真島は中庭からこちらを見据えて立っていた。こんな素早い動きをできるはずがない。目を丸くして呆ける桐生に、その答えを教えるべく真島は左手を振った。
「俺はいちいち説明なんかせえへんで。技は見て盗めっちゅうやろ。ついてこれるもんならついてこい」
左手から光が走る。いや、鈍く光るワイヤーだった。近くの杉の木にワイヤーをのばして浮上する真島を見て、渡されたガジェットのことを思い出した。支給時の説明通り腕時計のスイッチをいれて飛び出すワイヤーを確認する。これを使って移動したのか。ならあとは追いかけるだけだ。
意を決して自分も外に飛び出す。見よう見真似で近くの木に向かってワイヤーを伸ばすと、狙い通りの枝に絡まってくれた。もう一度スイッチを押してワイヤーを操作すれば、自身の体が浮いてあっという間に枝に飛び移れる。浮遊感には驚いたが不快感はないし慣れるだろう。そう感動している内にも木から屋根へ、屋根から屋根へ飛び移る真島を目で追いかけた。
聞きたいことが沢山ある。話したいことも沢山ある。だから桐生も追いかけた。かつて追い掛け回されたときとは逆だ。今度は自分が追いかける。必ず捕まえてみせる。――今度こそ取りこぼしたりはしない。
真島を追いかけているうちにガジェットの使い勝手に慣れ始めていた。実にシンプルな機能だが、ワイヤーを戻す際に絡まったり手に当たったりと、怪我をしやすく万人受けはしない代物だ。左手を酷使するので肩も痛めやすい。本来は移動手段として使うのではなく、遠方のものをとったり相手の自由を奪うのを目的に作られたのだろう。そんなことを無視して真島は敷地内の中でもとりわけ背の高い木に登り始めた。がさがさと葉をおとしながら頂上を目指しているのがはたからでもわかり、桐生もそれを目指した。
上に行くにつれて貧弱なか細い枝に変化していき、誤って折らないよう、慎重に真島を探した。ふと煙のにおいがした。特徴的なハイライトの香りだ。服に引っ掛かる小枝を折りながら匂いの先に振り返る。
横に伸びた太めの枝にもたれかかりながら、のんびりとタバコをふかしバインダーに目を通す真島がいた。似たような景色を見たことがある。
朝日を浴びながらタバコ片手にベッドで新聞を読む彼に、灰が落ちると文句をつけた。そんな埃がかぶりかけた記憶が鮮明によみがえり、視界が歪んでいく。生きている。生きていた。あの焼死体を見た時からずっと、悪夢ならさめてくれと心の内で叫び続けた。真島が死ぬはずないと、殺されるわけがないと否定しきりたかった。しかし残されたカフスボタンを思い出すたびに絶望に落とされて、認めざる得なかった。
「…にいさん」
葉とともに涙が落ちていく。
「お前、よお聞いとけよ」
バインダーから視線をあげた真島は、思っている以上に桐生が近いところにいて驚くものの、片眉を上げる程度ですませた。それよりも泣いている桐生に罪悪感を覚えた。当たり前か。死んだと思っていた人間が生きていた。それは真島とて同じ思いなのだが、先に残された方は苦痛だったことだろう。もう少しそばに来るよう引き寄せると、桐生はその手を離すまいと力強く握りしめてきた。
「ここは死人の組織や。生きていたころのことは忘れろ」
「…あんたはなんでここにいるんだ」
「そういう生きていたころの話を聞くのもタブーや。ま、たまに揶揄ってくる奴もおるがな」
桐生がなぜここにいるのか。その詳細はバインダーに挟まれた書類に記されていた。大道寺一派が隠蔽し世の中に出回っていない情報まで事細やかであり、きっと桐生一馬もそのすべてを知っていることは予想できた。それゆえ一派は口封じに近寄った。逆に桐生の交渉を受けるとは思ってもなかっただろうが、エージェントの不足が続いている上、大道寺稔の死によって一派の力が衰えるのを危惧していたなか、『堂島の龍』を手駒にする好機を逃すはずがない。桐生一馬の願いはささやかなものだった。大吾の釈放、たったそれだけだ。最後の最後まで東城会のために身を尽くした男に苦笑する。
多くの策略の結果、ボロボロになってしまった東城会を建て直すには大吾は必要不可欠であるし、陽銘連合会と戦争を避けることも六代目なら遂行できるだろう。
そして自分が死ねば、澤村遥が利用されることは今後一切ないという期待もにじみ出ていた。思い返せば100億円事件のころから彼女は大人たちの血と金の争いに巻き込まれ、ときには桐生一馬をおびき出すための道具として扱われた。桐生一馬にとって最愛の家族が利用されるのは耐えがたい苦痛であり、遥が巻き込まれるたびに自分の存在について考えたことだろう。
自死を選ばなくても、存在を消すことに躊躇しない。姿を消すべきだと選んでしまった。それを咎めることは真島にだってできやしない。
「でもまあ、みんな似たり寄ったりやな。忠誠心バリバリのやつ、命を助けてもらったやつもおれば、お前みたいに条件をつけて死んだやつもおる」
桐生は訝しげに眉間にしわをよせ、真島の左目跡に手を伸ばす。以前と比べ凹みがあり、傷跡も薄くなっている。
「これは?」
「さっきお前のせいで義眼が飛んだ。壊れてたら弁償せえ」
「ああ、義眼だったのか」
両眼揃っていたが違和感はあったはずだ。はめ込んだだけの義眼は視線が動くことはないし、瞬きすらしない。それでも多少のメイクや眼鏡をかけるだけで一般人をごまかすことはできたので、これ以上の改良は必要ないと判断した。まさか桐生と鉢合わせるとは思ってもなかった。
「お前も多少顔を変えるなり、髪の毛いじるなりするべきなんやろォなあ」
このままではすぐに堂島の龍が生きていることがばれるだろうに、上層部はなにを考えているのだ。自分にはあれこれ言ってきたくせに桐生だけ特別待遇なのか。
「嫌だっつったらどうなるんだ」
「どーもせんよ。まあ組織に反抗的って思われる程度で、こき使われるのは変わらん。従順なやつもせかせか働いとるからのお。ブラック企業もええところや」
死人に人権などない。過労死しても改善はされないだろう。
「じゃあ、なんであんたは」
左目跡から輪郭をなぞり、顎でとまる。髭剃りが必要のなくなった顎は指を引っかけることなくつるりと指を這わせた。
義眼を仕込み、髭を剃って、髪の毛を伸ばした。――真島吾朗は死んだ。その面影は誰も必要としない。大道寺一派はそういう組織だ。
「ま、こんなふうにばれてたら意味なかったかもな」
目立たないことのほかに、万一知人と会ったときはうまいこと誤魔化さなければならない。整形したくなければ他人の空似程度まで以前の顔から印象を遠ざける必要がある。大道寺一派も馬鹿ではないから東城会からみの仕事を振ってくることはなかったが、同じ死人同士なら問題ないとでも判断したのだろう。東城会の人間だった花輪とも普通に接触できるのだ。案外ゆるい組織なのかもと内心笑ってしまう。
「なんや、おまえ。やつれたなあ」
二年会わないだけでこんなにも人は変わるものなのか。銃撃を食らったとはいえ、昔は少し入院すれば元気に退院していたはずだ。少しこけた頬をなでながら、伝説の極道でも老いるのかと年下に苦笑する。目じりに皺が見えるし、肌にも張りがない。
――それでもようやく再会できたこの瞬間を、きっと忘れることはないだろう。寂れた風景が鮮やかな色を思い出し、真っすぐこちらをとらえる瞳が自分だけを映している。在りし日の光景を再び手に入れた。
死人の組織とはいえそこそこの自由は許されている。組織に申請すれば外出できるし旅行にだって行ける。忠誠、恩義、条件、各々につけられた首輪は頑丈で締め付けることをいとわない。
「んで、ケジメとかつけてくれんのか」
真島が組織に命を掲げたのは澤村遥のためだ。それなのに事故で意識不明だったことを教わったのは何もかも終わったあとで、真島はこの際つつくことにした。あの時は桐生の死で頭がいっぱいだったので責めるのを忘れていたが、これは重大な契約違反のはずだ。真島の条件が「コンサートの成功」だったとはいえ、真島につけられた首輪は「澤村遥の安全」だった。少しでも反抗の色を見せればそれを脅しに使われてきたのだ。
強い抗議に住職も重くうなずく。
「言い訳のしようがありません。我々は彼女に最高の医者を当てるくらいしかできませんでした」
「病院に不届きもんが乗り込んだらしいなあ。警備とかしてなかったんかい」
「上層部でも意見が割れていたんです。尾道の秘密を暴いた堂島の龍の人質として使うべきと過激派が騒ぎましてね」
「ほお」
蚊帳の外にいた自分を呪う。もう少しこの組織を怪しんでおけば自分が乗り込んでいけたのに。舌打ちすると住職はにこりと笑った。
「ですから、そのような人たちは処分しました。――これでケジメにはなりませんか」
「…ヤクザよりエグイことしよる」
「貴方を怒らせるよりも、片づけたほうが利になると判断されたのです。おかげで随分とエージェントが減りました。活躍には期待してますよ」
何故急激にエージェント不足が発生した理由がようやくわかった。大道寺稔の死と、組織に不利益な人間の片づけに伴い組織編制を行ったからだ。真島にも経験がある。東城会は何度も内乱が起きては立て直し、整理を行ってきた。粛清も珍しくない。
「俺と浄龍の首輪って同じやん?もし俺が離反して澤村遥の命が危ぶまれたら、浄龍の条件を裏切ることになるよなあ?」
「…そうですねえ。それは困りました。あなたにはまだ働いてもらいたいですし。これまでの貢献から考えても、もう少し褒美をあげてもいいかもしれませんね」
上層部を通さずこんなことを一人で決めてしまうとは、やはりこの住職は組織の中でもかなり上の人間らしい。なら都合よく使わせてもらう。むこうもそうなのだからお互い様だ。
「じゃあ俺と浄龍の部屋一緒にして」
「おやおや」
渡された調書には記されてなかったが、大道寺一派の諜報活動を見ると調べつくしていてもおかしくない。住職の反応からそれは断定できた。
「どうせ調べついとるんやろ」
「まあそうですね」
「相互監視になるし、先輩として教えることはいくらでもある。あんたなら適当な理由つけることなんて大したことないやろ」
「そうですねえ。安上がりですし、まあいいでしょう。あまり騒がなければ問題ありません」
厳しい仕事を負う職場ゆえに、性に関することは甘く見られがちだ。休日を使ってソープに行くのもキャバクラで遊ぶのも黙認されている。男同士のにおいもいくつか感じられた。
それを咎めるものはいないし揶揄うものもいない。病気や騒音など、自分に危害が来なければ文句もない。
「盗聴器しかけるなよ」
「浄龍のしつけをたのみますよ」
「むちゃくちゃいいよって」
何十年の付き合いだがあの性格はいまだに読めないのを知ってて言っているだろう。悪態をつきながら、改名の要望も一緒にすればよかったとため息をついた。
とっくに焼却処分されていただろう応龍に手を這わせる。長いこと色を入れなおしてないせいで発色が悪い。それでも鋭い睨みをきかせ、見るものを慄かせる迫力は健在だった。
住職に話をしてすぐに2人部屋をもらった。しばらくは盗聴器がしこまれる。元は同じ組織に所属し、親しい中となれば組織の裏切りを危惧するのも納得だ。自分たち用の監視も何人かいるだろう。桐生のしつけが終わるまでお預けだなと、風呂上りでソファにくつろぐ浄龍の背中を撫でまわす。
「…ボタンを」
タバコを片手に桐生がつぶやいた。
「ん?」
「ボタンをアサガオに置いたままだ」
何のこだと小首を傾げてから、自分が偽装死のために残したカフスボタンのことだと察した。桐生からの贈り物を置いていくのは心苦しかったが、それさえあれば騙しとおせると踏んだ。案の定、まんまと信じたようだったので作戦は成功といえる。信じた分だけ彼を苦しめたと思うと罪悪感があり、何か慰める言葉を探したがやめた。やはりあの時の選択を間違えたとは思えなかったからだ。
「墓にいれようと思ったが、墓参りもできなくて…――入れなくてよかった」
「薄情なやつや。墓参りくらいしろ」
「しらねえ奴が入ってるのになんでしなきゃいけねえんだよ」
「俺の墓にいれるよう遺言状つくとっけって言ったのに、墓たてよって」
桐生は自分の墓に入った。正確には遺骨を受け取ったアサガオの子供たちが、近しい大人に頼って用意してもらったのだ。大吾に残された遺言状にも真島の墓に入れてほしい等の要望は記さなかったらしい。
居心地悪そうに煙を吐き、桐生はタバコを灰皿に押し付けた。
「…やっぱり、死んだことを認めたくなかったんだろうな」
「ふうん」
「どこかでしぶとく生きてるって思いたかった」
「ほおか」
こちらも同じだ。東城会も極道も関係のない場所で健やかに暮らしている。そんなおとぎ話を何度も夢見た。まさか同じ組織に所属することになるとは思いもしなかったせいで、再会時は住職に八つ当たりもした。冷静になるために意識をそらさなければ、きっと要注意人物としてマークされ、このような同室の要望も通らなかった。住職の、あの癪に障るくらい冷静に返されたのは予測されていたと見ていい。テストされていたのだろう。悪趣味な組織だ。
「俺らの骨は共同墓地か、適当な場所に散骨されるんやって。海にでも撒いてもらうか」
「しばらく死んだときの話はよしてくれねえか」
せっかく生きている喜びをかみしめているのに気が滅入る。桐生の拗ねた顔にプッと噴き出した。死線を抜けてきたやつが子供のような拗ね方をするな。幾つになったんだ、お前は。そう内心で突っ込みながら、真島もタバコを取り出してため息をついた。
「割とぽんぽん同僚がいなくなる職場や。お前が死んだら今度こそこの背中を剥いでやるからな」
「好きにしろよ。どうせ、もうあんたしか見ねえんだから」
凶。これ以上悪いことが起きない状態のこと。
蛇。脱皮し、古い皮を捨て去ること。
「いま身にまとう不幸を脱皮する吉兆として名付けたのですがねえ…」
「わっかりにくいねん」
SpecialThanks:いなずまさん
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