【羽とシーツと体温と】ドフロ、コラロ
コラソンの秘密を聞いてから一日が経った。ドフラミンゴは新事業立ち上げのために、今朝からセニョールとグラディウスを連れて視察に出ている。本当ならばここで例の如くローも同行する筈だったが、枕から頭も上げられない程の頭痛を訴えて辞退した。勿論仮病だ。
時刻は夜9時。
ドフラミンゴからローの看病を言い渡され、鬱陶しいほど世話を焼いてきたジョーラはデリンジャーを寝かしつける為に部屋に戻った。ベッドの周りをちょろちょろしていたベビー5とバッファローは早々に眠くなってそれぞれのベッドへ入っていった。他の幹部たちも、交代で外回りをしながらそれぞれの時間を過ごしている。
アジトの中に夜の静寂が降りたのを見計らい、ローはそっと自室を後にした。
階段を上がった建物の最上階。 ボスの私室と対を成すように真反対に位置する角部屋が『開かずの部屋』だ。ヒヤリとした真っ暗な廊下を手探りで進み、ローは今、 ボス以外の誰一人として近付くことの許されないその部屋のドアの前に立っていた。
「…………」
開かずの部屋と言っても、そのドアは物々しくも仰々しくもない、ひどく簡素なものだった。
耳を澄ましても、中から物音は全く聞こえてこない。それどころか人がいる気配すら感じず、ただの木板に釘を打っただけの凡庸な扉が逆に嫌に不気味に見えた。
おもむろにハーフパンツのポケットを探り、一本の鍵を引っ張り出す。ドフラミンゴが出掛けた後、書斎の机の中から無断で探し出したのだ。
ハートの形をした頭を摘み、じっと鍵を見つめてから意を決して鍵穴に差し込む。ゆっくりとシリンダーを回すと、やたら大きな音を立てて施錠が開いた。思わず辺りに目をやるが、暗い回廊の向こうから人がやってくる様子は無く、相変わらずの静寂が漂っていた。
ほっと息をつき、改めてドアに向き直る。冷たく汗ばむ手のひらでノブを握ってそっと捻れば、仮締が外れる軽い音と共にあっさりと開いた。
ギィィィ…と軋むような音を立てて押し開けた時には、耳の後ろから自分の心臓の音が聞こえてくるほど緊張が高まった。
当然の如く、部屋の中は真っ暗だった。ただ、ドフラミンゴの私室と同じくらい奥行きのある広い空間だということは分かる。
入った時と同じように静かにドアを閉め、暗闇の中で目を凝らして慎重に足を運ぶ。すると、直ぐ先に大きなベッドがあるのが伺えた。その中に、人が蹲ったような陰が見える。黒いインクを垂らしたような真っ黒なその気配に、無意識に息を飲んだ。
「……コラソン?」
普段の自分ではまず有り得ない弱々しい声が出たが、震えなかっただけ上出来である。
返事は無い。微動だにしない陰に、なんだか無性に不安になった。
「おい、コラ…」
パキリと音を立てて何かを踏んだ感触に、言葉を飲み込んだ。ゆっくりと足を戻すと、何やら砕かれた硬い破片がジャリジャリと靴底を擦る。目を凝らさずとも分かった。硝子の破片だ。そこで、はっとして視線を巡らせる。漸く暗闇に慣れた目でよくよく見れば、部屋の中は随分と荒れているのが分かり、途端にローの中に根付いていた不安が微かな恐怖に移り変わった。慌てて、しかし慎重に来た場所を戻り、壁伝いに手を這わせて灯りのスイッチを探る。
「コラソン、電気点けるぞ」
念のためベッドの中の人物に声を掛けてから、ローは部屋の灯りを点けた。
一瞬の間の後、散乱した部屋とベッドに淡い橙色の光が降りる。
ドフラミンゴの部屋がシンプルな造りでできているのに対し、ここはシックで気品ある調度品が取り揃えられた王宮の一室と見紛うほどきらびやかな部屋……の、筈だった。倒された本棚や文机、床に散らかった書籍、引き倒された観葉植物、インクボトルを投げつけられたのか、真っ黒な花火を咲かせた壁。どれもこれも一般庶民には到底手が出せないような家具を収めた一室は見るも無残に荒れ果てていた。発作による耐え難い吸血衝動を、それでも抑え込もうとするコラソンの本能と理性との強烈な葛藤が体現されたようなその空間に、ローは息を飲んだ。
ぐっと顎を引き、明瞭になった視界で改めてベッドの傍へと歩み寄る。踏み出すたびに割れた皿やグラスが音を上げるが、もう気にすることはしなかった。
「……………」
ビリビリに引き裂かれたシルクのシーツとピローから飛び出した柔らかな羽根の海の中に、その怪物はいた。
白いジーンズのパンツに、白いシャツ。横向きに蹲るようにして白いシーツと白い羽根に埋もれた長い四肢、服から覗く手や素足の肌でさえ白いのに、目元を隠し無造作に乱れた柔らかそうな髪だけが唯一艶やかな金色を帯びて輝いていた。
(……これが、あのコラソン?)
品格を破壊し尽くした部屋の中、荒れたベッドの中で見目の整った一人の美丈夫が横たわり静かに呼吸を繰り返すその有様に、世界の終わりを彷彿とした。そんな退廃的な錯覚に陥るほど、目の前の光景は異常でいて、そして何よりも甘美だったのだ。
呆然と立ち尽くしていると、不意に目の前の肩がぴくりと身じろいだ。
息を潜めて見守る先で、金糸の房の隙間からゆっくりと赤い瞳が花開き、ローの姿を捉える。
(………獣だ)
ローをじっと見据えながらむくりと重たく起き上がるその男の様相は、まさに飢えた猛獣だった。
「ドフラミンゴから聞いた。コラソン、お前…吸血鬼なんだってな?」
「……………」
唐突な問い掛けなのは自覚しているが、この部屋に入ってしまった時点で回りくどい言い訳など無意味だ。
「率直に言う。お前らの言う発作とやらを確かめる為にここへ来た。俺にお前の症状を診させろ」
ぞっとするほど表情の無かった赤い瞳に、明らかに剣呑な色が射し込む。
じっとりと背筋に冷たい汗が伝うが、ここで退くなどという選択肢はローの中に存在しなかった。
ドフラミンゴは言っていた。吸血衝動が末期を迎えると我を失い見境なく人を襲うようになると。野獣となったコラソンを前に、ローは大人しく殺されるつもりは毛頭無かった。ただ、見てみたいのだ。吸血鬼に関する伝説や逸話は諸説ある。様々な見解がある中でゆいいつ一貫して共通する特徴は、吸血行為だった。本来ならば、血液の要素に霊長類が糧とする充分な養分など含まれていない。だからローは吸血鬼の存在など信じていなかった。だが、今はどうだ。有り得ないと思っていた架空の存在が、目の前にいる。
とはいえ、コラソンは物語のように日の光を浴びても灰になったりはしない。ドフラミンゴが言う『発作』が起きる時以外は、人間と同じ食事も摂っている。だが、今、確かに目の前のこの男は人間の生きた血を求めて獣と化している。これほどまでに心躍ることなどそうそう無いではないか。
「……………」
コラソンの視線が、ローの腕の包帯に止まった。瞬き一つせず、まるで魅入られているかのように腕を凝視する男に、内心でほくそ笑む。
「…これは、昨日の戦闘でうっかり負っちまった。傷自体は大したことねぇが、そこそこ出血した」
赤い瞳が小刻みに震えている。明らかに動揺しているのが分かった。ああそうだ、この薄っぺらい布の下に、お前が望むものがあるんだ。我慢なんてする必要は無ェ。
俺は見たいんだ。物語の中でしかない筈の化物が、本当に存在するのだという証拠が。
俺に見せてみろ。空腹がもたらす欲望のままに、お前が血を貪るその瞬間を。
「飲めよ、俺の血を」
「ッ…!」
「どうした?腹が減って仕方無ぇんだろ?」
乱暴に包帯を毟り取り、腕の傷を見せつけるようにしながら靴を脱いでベッドに乗り上げる。
途端に、荒い息を繰り返しながらコラソンが己の腕を掻き抱いた。暴れ狂う本能を体の中で抑え込むように長い足をぎゅうっと折り畳んで縮こまる姿は、ローですら見ていて痛々しく思った。だが、それで退いてやるつもりは無い。
膝でにじり寄り、そっとコラソンの腕に触れる。
「ッ!!」
小さな手を振り払うように勢い良く上体を捻ったコラソンが、初めてその面差しをローの眼前に晒した。数日ぶりに男の顔を見たが、ピエロの化粧を施していないだけでこんなにも別人に見えるものなのか。いや、あるいは今のコラソンは別人なのかもしれない。ローは真正面からその顔をじっと見つめた。
「…興奮による動悸息切れ、目も充血している。顔色も血の気が失せているな。下瞼の裏…真っ白だ。お前がベッドから動かないのは立ちくらみが酷いからだろう?鉄分が不足してんだ」
あろうことか親指の腹で男の目の下を軽く引き下げて下瞼の色を見ながら淡々と診察していくローに、男は最初こそ大人しくしていたが、ついに黙れと言わんばかりにその手首を掴んだ。
本来は天使のようであろう素顔を悪魔のように歪め、血走った双眼が幼いローを射抜く。
いつも以上に大きく恐ろしく見える男に身を竦ませながらも、それでもローは目を離さなかった。離せなかった。ギリギリと食い縛る男の歯に、長い、牙があったのだ。
(ああ…)
思わず手を伸ばそうとしたが、手首を捕まれていることを思い出し、試しに振り払ってみる。意外に拘束はすんなりと解かれ、解放されたその手でローはおもむろに自分のシャツのボタンをいくつか外した。胸元を寛げ、生白い首筋を見せつけるように大きく開ける。これにはコラソンも一瞬たじろいだのが見て取れた。
「悪いな、フィクションは専門外なもんで。たしか、吸血鬼は首筋から血を吸うんだったな?」
「……………」
幼い子どもの細い首筋が、果たして吸血鬼にどう映るのか。こんなことなら医学書だけではなくファンタジーでも何でもちゃんと読んでおくんだった。
どうであれ、7日間絶食をし続けていたコラソンには、目の前の首はさぞご馳走に見えることだろう。赤い瞳がローの首筋を捉えたまま、ぐっと苦しげに細まった。
「…空腹は辛いだろう?」
動こうとしない男の袖を両手で握り、縋るように身を寄せた。端から見れば小さな子どもが一方的に大きな大人を抱きしめているようにも見える。そうして牙を持ったその唇に首筋を曝け出し、必然的に近付いた男の耳元に静かに囁きかけた。
「俺も、ファミリーに入るまでの間、食いものが無くてずっと腹を空かせていた」
空腹は生き物の最たる欲求だ。お前は自分の吸血衝動は化物と同等だと否定し、恐れているが、生きている以上それからは一生逃れられない。
だから、もう諦めて俺に証明しろ。お前は紛れもなく、人ならざる、化物なのだと。
「早く食え、コラソン」
そうしたら、俺がお前という存在を肯定してやるから。
「………バカヤロウが」
ほんの微かに耳に触れた、低く掠れた声に、え…と顔を上げたのも束の間。痛いほどに両肩を捕まれたかと思えば、息もつかせぬ間にベッドに叩きつけられた。
ふわりと舞い上がる羽根。
あまりの勢いに僅かに噎せて目を白黒させながら見上げる。そこには、黒々とした陰を顔に落としてローを見下ろす獣がいた。全身で闇を称えつつ爛々と底光りする赤い瞳。その目を見詰めた途端、悪寒と甘い喜悦が混ざりあったような複雑な感情が体中を駆け巡った。
「コラ、ソ……ッ、」
胸元を乱暴に肌蹴られ、弾みでシャツのボタンが勢い良く弾け飛ぶ。突然のことに言葉を失うが、すぐさま覆いかぶさるように首筋に顔を埋められて息を呑んだ。コラソンの体躯がローの体をすっぽりと隠し、改めて自分とこの大男の体格の差を思い知る。
頬に触れる金糸の髪はわたあめのように柔らかく心地良いのに、肩から首筋にかけて熱い舌にねっとりと舐め上げられるその感触の落差に震え上がった。
首にかかる湿った吐息が灼熱のように熱い。壊れるんじゃないかというほど高鳴る心臓が煩い。
ハリのある若い肌の感触を楽しむかのように這っていた舌が不意に離れ、大きく開けた唇がピッタリと首筋についた。ほんの少しの間が空いたかと思えば、肌に鋭利な硬い何かが当たり、はっと息を呑んだ直後――
ブツリッ
皮膚を貫く鋭い激痛に声も無く硬直する。が、その痛みはほんの一瞬で過ぎ去った。
「あ……ぁ……あ……」
体から血が抜けていく寒気にも似た感覚がリアルに分かる。頭が真っ白になって手足の力も無くなってきているのに、噛まれたそこから吸われる度に腰の辺りがジンと痺れるように疼いた。体が、この男に支配されている。そう感じると同時に、肌に唇を合わせたままじゅるじゅると音を立てて貪るように傷口から血を啜るコラソンが何故かたまらなく愛しく思えた。男が喉を鳴らして血を飲み下す音が、気持ち良かった。
「は……ふ、コラソ、ン…」
そっとコラソンの頭が離れ、朦朧としながら見上げる。真っ赤な血をべっとりとつけた唇が恐ろしかったが、それと同時にローを見詰める静かな目元と相まって美しかった。この色こそがコラソンという男なのだと、漠然と確信した。
ぼうっと見惚れていた唇が、不意にまた首筋へと降りてきて反射的に体が強張る。顔を背けて無意識に息を詰めると、熱い呼気と共に首の傷口を舐め上げられ、震え上がった。
まるでミルクを必死に飲む空腹の子猫のように執拗に同じ場所を舐られ、患部が甘く痺れる。いや、子猫というよりはネコ科の肉食獣だろうか。そんなことをぼんやりと考えていると不意に本当の猫のように耳元に頬擦りされた。
――― あ ま い ……。
鼓膜を震わせる熱い熱い吐息の中に織り交ぜられた恍惚の言葉に、身体の奥がズクリと重たく疼いた。何だこれは。何だ、この感覚は。コラソンの唇が、吐息が、舌が。皮膚に触れるたびに頭の中がぼんやりして気持ちいい。血を吸われることがこんなにも背徳的で甘美だなんて。冷静に分析したいのに、コラソンの舌のリアルな感触が邪魔をする。首筋の噛み傷と言わず、顎先からこめかみ、額にかけてねっとりと舐め上げられ、もうわけが分からなかった。このまま自分はこの男に骨までしゃぶり尽くされるのではないか。命の危機に晒されているというのに、まるでそれが当たり前だとばかりに体は抵抗を放棄する。
「あっ…ぅ、うっ……」
広い舌が耳裏を舐め上げ、穴の中を嬲られる。ぐちゅぐちゅと出し入れする濡れた音が直接頭の中に流し込まれて、もうどうして良いか分からない。
ローの二の腕を掴んで押さえ付けていた大きな手の平が脇腹を直に撫でさすり、脇の下をまさぐるようにグリグリと押し上げてくる。その動きすら熱くなるようなおかしな刺激を生んで息が乱れた。
たまらずシーツを蹴ってずり上がるようにして逃げようとすると、その足首を捕まれて安々と引き戻されてしまう。そのままハーフパンツに手を掛けられたかと思いきや、腰を僅かに浮かされ一気に脱がされた。 あまりにあっという間の手際で取り上げられたズボンをおざなりに背後へ放り投げられ、唖然とそれを見送ったローは蒼白した。
「えっ…ぇ、コラソンっ…ちょっ、なに…?」
右の腿裏を捕まれ、強引に股を開かれる。コラソンの突飛過ぎる行動から逃れたくてなんとか藻掻こうとするが、体に力が入らない。
身じろぐローを宥めるように片手で脇の下を撫でられ、もう片方の手は腿裏をマッサージするように揉まれる。親指を押しこまれる度に股の間に熱が集まってきて、ローはいやだいやだと首を振りながら力無くコラソンの胸を押した。
だがそれだけでこの男の暴走が止まる筈が無く。腿を揉んでいた熱い手のひらが滑り降り、親指を下着の裾の下にまで潜らせて足の付け根をぐいと刺激してきたのだ。
「やっ…め、コラソ…コラソン…!」
あられもない格好で股を開かれるだけでなく、恥ずかしい場所を無遠慮に触られ、あまりの情けなさと羞恥に目眩がした。
ゆっくりと股関節を揉み込む手付きは力強くていやらしく、嫌で嫌で仕方ないのにローは自分の腕で顔を覆い隠しながら無意識にコラソンの手の動きに合わせてゆるゆると腰を揺らしていた。
閉ざした視界で暫くされるがままでいると、不意に脇の下を弄っていた手が離れ、今度はその手で左足を大きく開かれた。驚いてコラソンを見たローは、息を呑んだ。
ローの目の先で、あろうことかコラソンがローの股間に顔を埋めたのだ。一気に顔に血が昇る。
「待っ…コ、ラ…ッ、」
親指で下着の裾を捲られ、あらわになった足の付け根の皮膚をねっとりと熱い舌が這う。
「はっ…ァ、アッ…あ…」
異常な光景だった。柔らかな金髪の頭が自分の足の間で蠢いている。それが、あの、コラソンなのだ。初めて出会った時、突然頭を鷲掴んでくるなり建物からローを鉄のゴミ山に投げ捨てたイカれた男が、今、ベッドの上でローの股を割り開いて信じられない場所を舐めている。あまりに衝撃的過ぎる光景に幼いローはついていけずにいた。
局部ではなくその付近の薄い皮膚を刺激され、より一層コラソンの舌を感じる。唾液を多く纏った舌がぬるぬると這う感触が凄まじくて足を閉じたいのに、大人の容赦無い力で抑えられてしまう。どうすることもできないもどかしさに、ローは成すすべもなく両手で金糸を掴んで耐えた。
「ッ、」
一層熱い吐息を感じた途端、散々嬲られていた薄く敏感な皮膚に鋭利な牙が触れた。
そこでローは漸く理解した。脇の下。足の付け根。それまで執拗にコラソンが触れていた場所はいずれも太い血管が通っている。この獣はそれをずっと狙っていたのだと気付き、慄いた。こんな場所から血を吸われてしまえば、本当に失血死してしまう。
「コ、ラ…ソン…!コラソン!待て!落ち着け…!」
頭を押し返そうとするが、全くビクともしない。それどころか腰を捕まれて更に引き寄せられ、頭の中で警鐘が鳴る。
マズい、マズいマズいマズい…!
肩に乗せられた足をばたつかせるが、血のような真っ赤な瞳はうっとりと細まるばかり。
熱い呼気と共に立てられた牙が皮膚に喰いこみ、たまらずぎゅっと目を閉じた時だった。
「―――何をしている」
時刻は夜9時。
ドフラミンゴからローの看病を言い渡され、鬱陶しいほど世話を焼いてきたジョーラはデリンジャーを寝かしつける為に部屋に戻った。ベッドの周りをちょろちょろしていたベビー5とバッファローは早々に眠くなってそれぞれのベッドへ入っていった。他の幹部たちも、交代で外回りをしながらそれぞれの時間を過ごしている。
アジトの中に夜の静寂が降りたのを見計らい、ローはそっと自室を後にした。
階段を上がった建物の最上階。 ボスの私室と対を成すように真反対に位置する角部屋が『開かずの部屋』だ。ヒヤリとした真っ暗な廊下を手探りで進み、ローは今、 ボス以外の誰一人として近付くことの許されないその部屋のドアの前に立っていた。
「…………」
開かずの部屋と言っても、そのドアは物々しくも仰々しくもない、ひどく簡素なものだった。
耳を澄ましても、中から物音は全く聞こえてこない。それどころか人がいる気配すら感じず、ただの木板に釘を打っただけの凡庸な扉が逆に嫌に不気味に見えた。
おもむろにハーフパンツのポケットを探り、一本の鍵を引っ張り出す。ドフラミンゴが出掛けた後、書斎の机の中から無断で探し出したのだ。
ハートの形をした頭を摘み、じっと鍵を見つめてから意を決して鍵穴に差し込む。ゆっくりとシリンダーを回すと、やたら大きな音を立てて施錠が開いた。思わず辺りに目をやるが、暗い回廊の向こうから人がやってくる様子は無く、相変わらずの静寂が漂っていた。
ほっと息をつき、改めてドアに向き直る。冷たく汗ばむ手のひらでノブを握ってそっと捻れば、仮締が外れる軽い音と共にあっさりと開いた。
ギィィィ…と軋むような音を立てて押し開けた時には、耳の後ろから自分の心臓の音が聞こえてくるほど緊張が高まった。
当然の如く、部屋の中は真っ暗だった。ただ、ドフラミンゴの私室と同じくらい奥行きのある広い空間だということは分かる。
入った時と同じように静かにドアを閉め、暗闇の中で目を凝らして慎重に足を運ぶ。すると、直ぐ先に大きなベッドがあるのが伺えた。その中に、人が蹲ったような陰が見える。黒いインクを垂らしたような真っ黒なその気配に、無意識に息を飲んだ。
「……コラソン?」
普段の自分ではまず有り得ない弱々しい声が出たが、震えなかっただけ上出来である。
返事は無い。微動だにしない陰に、なんだか無性に不安になった。
「おい、コラ…」
パキリと音を立てて何かを踏んだ感触に、言葉を飲み込んだ。ゆっくりと足を戻すと、何やら砕かれた硬い破片がジャリジャリと靴底を擦る。目を凝らさずとも分かった。硝子の破片だ。そこで、はっとして視線を巡らせる。漸く暗闇に慣れた目でよくよく見れば、部屋の中は随分と荒れているのが分かり、途端にローの中に根付いていた不安が微かな恐怖に移り変わった。慌てて、しかし慎重に来た場所を戻り、壁伝いに手を這わせて灯りのスイッチを探る。
「コラソン、電気点けるぞ」
念のためベッドの中の人物に声を掛けてから、ローは部屋の灯りを点けた。
一瞬の間の後、散乱した部屋とベッドに淡い橙色の光が降りる。
ドフラミンゴの部屋がシンプルな造りでできているのに対し、ここはシックで気品ある調度品が取り揃えられた王宮の一室と見紛うほどきらびやかな部屋……の、筈だった。倒された本棚や文机、床に散らかった書籍、引き倒された観葉植物、インクボトルを投げつけられたのか、真っ黒な花火を咲かせた壁。どれもこれも一般庶民には到底手が出せないような家具を収めた一室は見るも無残に荒れ果てていた。発作による耐え難い吸血衝動を、それでも抑え込もうとするコラソンの本能と理性との強烈な葛藤が体現されたようなその空間に、ローは息を飲んだ。
ぐっと顎を引き、明瞭になった視界で改めてベッドの傍へと歩み寄る。踏み出すたびに割れた皿やグラスが音を上げるが、もう気にすることはしなかった。
「……………」
ビリビリに引き裂かれたシルクのシーツとピローから飛び出した柔らかな羽根の海の中に、その怪物はいた。
白いジーンズのパンツに、白いシャツ。横向きに蹲るようにして白いシーツと白い羽根に埋もれた長い四肢、服から覗く手や素足の肌でさえ白いのに、目元を隠し無造作に乱れた柔らかそうな髪だけが唯一艶やかな金色を帯びて輝いていた。
(……これが、あのコラソン?)
品格を破壊し尽くした部屋の中、荒れたベッドの中で見目の整った一人の美丈夫が横たわり静かに呼吸を繰り返すその有様に、世界の終わりを彷彿とした。そんな退廃的な錯覚に陥るほど、目の前の光景は異常でいて、そして何よりも甘美だったのだ。
呆然と立ち尽くしていると、不意に目の前の肩がぴくりと身じろいだ。
息を潜めて見守る先で、金糸の房の隙間からゆっくりと赤い瞳が花開き、ローの姿を捉える。
(………獣だ)
ローをじっと見据えながらむくりと重たく起き上がるその男の様相は、まさに飢えた猛獣だった。
「ドフラミンゴから聞いた。コラソン、お前…吸血鬼なんだってな?」
「……………」
唐突な問い掛けなのは自覚しているが、この部屋に入ってしまった時点で回りくどい言い訳など無意味だ。
「率直に言う。お前らの言う発作とやらを確かめる為にここへ来た。俺にお前の症状を診させろ」
ぞっとするほど表情の無かった赤い瞳に、明らかに剣呑な色が射し込む。
じっとりと背筋に冷たい汗が伝うが、ここで退くなどという選択肢はローの中に存在しなかった。
ドフラミンゴは言っていた。吸血衝動が末期を迎えると我を失い見境なく人を襲うようになると。野獣となったコラソンを前に、ローは大人しく殺されるつもりは毛頭無かった。ただ、見てみたいのだ。吸血鬼に関する伝説や逸話は諸説ある。様々な見解がある中でゆいいつ一貫して共通する特徴は、吸血行為だった。本来ならば、血液の要素に霊長類が糧とする充分な養分など含まれていない。だからローは吸血鬼の存在など信じていなかった。だが、今はどうだ。有り得ないと思っていた架空の存在が、目の前にいる。
とはいえ、コラソンは物語のように日の光を浴びても灰になったりはしない。ドフラミンゴが言う『発作』が起きる時以外は、人間と同じ食事も摂っている。だが、今、確かに目の前のこの男は人間の生きた血を求めて獣と化している。これほどまでに心躍ることなどそうそう無いではないか。
「……………」
コラソンの視線が、ローの腕の包帯に止まった。瞬き一つせず、まるで魅入られているかのように腕を凝視する男に、内心でほくそ笑む。
「…これは、昨日の戦闘でうっかり負っちまった。傷自体は大したことねぇが、そこそこ出血した」
赤い瞳が小刻みに震えている。明らかに動揺しているのが分かった。ああそうだ、この薄っぺらい布の下に、お前が望むものがあるんだ。我慢なんてする必要は無ェ。
俺は見たいんだ。物語の中でしかない筈の化物が、本当に存在するのだという証拠が。
俺に見せてみろ。空腹がもたらす欲望のままに、お前が血を貪るその瞬間を。
「飲めよ、俺の血を」
「ッ…!」
「どうした?腹が減って仕方無ぇんだろ?」
乱暴に包帯を毟り取り、腕の傷を見せつけるようにしながら靴を脱いでベッドに乗り上げる。
途端に、荒い息を繰り返しながらコラソンが己の腕を掻き抱いた。暴れ狂う本能を体の中で抑え込むように長い足をぎゅうっと折り畳んで縮こまる姿は、ローですら見ていて痛々しく思った。だが、それで退いてやるつもりは無い。
膝でにじり寄り、そっとコラソンの腕に触れる。
「ッ!!」
小さな手を振り払うように勢い良く上体を捻ったコラソンが、初めてその面差しをローの眼前に晒した。数日ぶりに男の顔を見たが、ピエロの化粧を施していないだけでこんなにも別人に見えるものなのか。いや、あるいは今のコラソンは別人なのかもしれない。ローは真正面からその顔をじっと見つめた。
「…興奮による動悸息切れ、目も充血している。顔色も血の気が失せているな。下瞼の裏…真っ白だ。お前がベッドから動かないのは立ちくらみが酷いからだろう?鉄分が不足してんだ」
あろうことか親指の腹で男の目の下を軽く引き下げて下瞼の色を見ながら淡々と診察していくローに、男は最初こそ大人しくしていたが、ついに黙れと言わんばかりにその手首を掴んだ。
本来は天使のようであろう素顔を悪魔のように歪め、血走った双眼が幼いローを射抜く。
いつも以上に大きく恐ろしく見える男に身を竦ませながらも、それでもローは目を離さなかった。離せなかった。ギリギリと食い縛る男の歯に、長い、牙があったのだ。
(ああ…)
思わず手を伸ばそうとしたが、手首を捕まれていることを思い出し、試しに振り払ってみる。意外に拘束はすんなりと解かれ、解放されたその手でローはおもむろに自分のシャツのボタンをいくつか外した。胸元を寛げ、生白い首筋を見せつけるように大きく開ける。これにはコラソンも一瞬たじろいだのが見て取れた。
「悪いな、フィクションは専門外なもんで。たしか、吸血鬼は首筋から血を吸うんだったな?」
「……………」
幼い子どもの細い首筋が、果たして吸血鬼にどう映るのか。こんなことなら医学書だけではなくファンタジーでも何でもちゃんと読んでおくんだった。
どうであれ、7日間絶食をし続けていたコラソンには、目の前の首はさぞご馳走に見えることだろう。赤い瞳がローの首筋を捉えたまま、ぐっと苦しげに細まった。
「…空腹は辛いだろう?」
動こうとしない男の袖を両手で握り、縋るように身を寄せた。端から見れば小さな子どもが一方的に大きな大人を抱きしめているようにも見える。そうして牙を持ったその唇に首筋を曝け出し、必然的に近付いた男の耳元に静かに囁きかけた。
「俺も、ファミリーに入るまでの間、食いものが無くてずっと腹を空かせていた」
空腹は生き物の最たる欲求だ。お前は自分の吸血衝動は化物と同等だと否定し、恐れているが、生きている以上それからは一生逃れられない。
だから、もう諦めて俺に証明しろ。お前は紛れもなく、人ならざる、化物なのだと。
「早く食え、コラソン」
そうしたら、俺がお前という存在を肯定してやるから。
「………バカヤロウが」
ほんの微かに耳に触れた、低く掠れた声に、え…と顔を上げたのも束の間。痛いほどに両肩を捕まれたかと思えば、息もつかせぬ間にベッドに叩きつけられた。
ふわりと舞い上がる羽根。
あまりの勢いに僅かに噎せて目を白黒させながら見上げる。そこには、黒々とした陰を顔に落としてローを見下ろす獣がいた。全身で闇を称えつつ爛々と底光りする赤い瞳。その目を見詰めた途端、悪寒と甘い喜悦が混ざりあったような複雑な感情が体中を駆け巡った。
「コラ、ソ……ッ、」
胸元を乱暴に肌蹴られ、弾みでシャツのボタンが勢い良く弾け飛ぶ。突然のことに言葉を失うが、すぐさま覆いかぶさるように首筋に顔を埋められて息を呑んだ。コラソンの体躯がローの体をすっぽりと隠し、改めて自分とこの大男の体格の差を思い知る。
頬に触れる金糸の髪はわたあめのように柔らかく心地良いのに、肩から首筋にかけて熱い舌にねっとりと舐め上げられるその感触の落差に震え上がった。
首にかかる湿った吐息が灼熱のように熱い。壊れるんじゃないかというほど高鳴る心臓が煩い。
ハリのある若い肌の感触を楽しむかのように這っていた舌が不意に離れ、大きく開けた唇がピッタリと首筋についた。ほんの少しの間が空いたかと思えば、肌に鋭利な硬い何かが当たり、はっと息を呑んだ直後――
ブツリッ
皮膚を貫く鋭い激痛に声も無く硬直する。が、その痛みはほんの一瞬で過ぎ去った。
「あ……ぁ……あ……」
体から血が抜けていく寒気にも似た感覚がリアルに分かる。頭が真っ白になって手足の力も無くなってきているのに、噛まれたそこから吸われる度に腰の辺りがジンと痺れるように疼いた。体が、この男に支配されている。そう感じると同時に、肌に唇を合わせたままじゅるじゅると音を立てて貪るように傷口から血を啜るコラソンが何故かたまらなく愛しく思えた。男が喉を鳴らして血を飲み下す音が、気持ち良かった。
「は……ふ、コラソ、ン…」
そっとコラソンの頭が離れ、朦朧としながら見上げる。真っ赤な血をべっとりとつけた唇が恐ろしかったが、それと同時にローを見詰める静かな目元と相まって美しかった。この色こそがコラソンという男なのだと、漠然と確信した。
ぼうっと見惚れていた唇が、不意にまた首筋へと降りてきて反射的に体が強張る。顔を背けて無意識に息を詰めると、熱い呼気と共に首の傷口を舐め上げられ、震え上がった。
まるでミルクを必死に飲む空腹の子猫のように執拗に同じ場所を舐られ、患部が甘く痺れる。いや、子猫というよりはネコ科の肉食獣だろうか。そんなことをぼんやりと考えていると不意に本当の猫のように耳元に頬擦りされた。
――― あ ま い ……。
鼓膜を震わせる熱い熱い吐息の中に織り交ぜられた恍惚の言葉に、身体の奥がズクリと重たく疼いた。何だこれは。何だ、この感覚は。コラソンの唇が、吐息が、舌が。皮膚に触れるたびに頭の中がぼんやりして気持ちいい。血を吸われることがこんなにも背徳的で甘美だなんて。冷静に分析したいのに、コラソンの舌のリアルな感触が邪魔をする。首筋の噛み傷と言わず、顎先からこめかみ、額にかけてねっとりと舐め上げられ、もうわけが分からなかった。このまま自分はこの男に骨までしゃぶり尽くされるのではないか。命の危機に晒されているというのに、まるでそれが当たり前だとばかりに体は抵抗を放棄する。
「あっ…ぅ、うっ……」
広い舌が耳裏を舐め上げ、穴の中を嬲られる。ぐちゅぐちゅと出し入れする濡れた音が直接頭の中に流し込まれて、もうどうして良いか分からない。
ローの二の腕を掴んで押さえ付けていた大きな手の平が脇腹を直に撫でさすり、脇の下をまさぐるようにグリグリと押し上げてくる。その動きすら熱くなるようなおかしな刺激を生んで息が乱れた。
たまらずシーツを蹴ってずり上がるようにして逃げようとすると、その足首を捕まれて安々と引き戻されてしまう。そのままハーフパンツに手を掛けられたかと思いきや、腰を僅かに浮かされ一気に脱がされた。 あまりにあっという間の手際で取り上げられたズボンをおざなりに背後へ放り投げられ、唖然とそれを見送ったローは蒼白した。
「えっ…ぇ、コラソンっ…ちょっ、なに…?」
右の腿裏を捕まれ、強引に股を開かれる。コラソンの突飛過ぎる行動から逃れたくてなんとか藻掻こうとするが、体に力が入らない。
身じろぐローを宥めるように片手で脇の下を撫でられ、もう片方の手は腿裏をマッサージするように揉まれる。親指を押しこまれる度に股の間に熱が集まってきて、ローはいやだいやだと首を振りながら力無くコラソンの胸を押した。
だがそれだけでこの男の暴走が止まる筈が無く。腿を揉んでいた熱い手のひらが滑り降り、親指を下着の裾の下にまで潜らせて足の付け根をぐいと刺激してきたのだ。
「やっ…め、コラソ…コラソン…!」
あられもない格好で股を開かれるだけでなく、恥ずかしい場所を無遠慮に触られ、あまりの情けなさと羞恥に目眩がした。
ゆっくりと股関節を揉み込む手付きは力強くていやらしく、嫌で嫌で仕方ないのにローは自分の腕で顔を覆い隠しながら無意識にコラソンの手の動きに合わせてゆるゆると腰を揺らしていた。
閉ざした視界で暫くされるがままでいると、不意に脇の下を弄っていた手が離れ、今度はその手で左足を大きく開かれた。驚いてコラソンを見たローは、息を呑んだ。
ローの目の先で、あろうことかコラソンがローの股間に顔を埋めたのだ。一気に顔に血が昇る。
「待っ…コ、ラ…ッ、」
親指で下着の裾を捲られ、あらわになった足の付け根の皮膚をねっとりと熱い舌が這う。
「はっ…ァ、アッ…あ…」
異常な光景だった。柔らかな金髪の頭が自分の足の間で蠢いている。それが、あの、コラソンなのだ。初めて出会った時、突然頭を鷲掴んでくるなり建物からローを鉄のゴミ山に投げ捨てたイカれた男が、今、ベッドの上でローの股を割り開いて信じられない場所を舐めている。あまりに衝撃的過ぎる光景に幼いローはついていけずにいた。
局部ではなくその付近の薄い皮膚を刺激され、より一層コラソンの舌を感じる。唾液を多く纏った舌がぬるぬると這う感触が凄まじくて足を閉じたいのに、大人の容赦無い力で抑えられてしまう。どうすることもできないもどかしさに、ローは成すすべもなく両手で金糸を掴んで耐えた。
「ッ、」
一層熱い吐息を感じた途端、散々嬲られていた薄く敏感な皮膚に鋭利な牙が触れた。
そこでローは漸く理解した。脇の下。足の付け根。それまで執拗にコラソンが触れていた場所はいずれも太い血管が通っている。この獣はそれをずっと狙っていたのだと気付き、慄いた。こんな場所から血を吸われてしまえば、本当に失血死してしまう。
「コ、ラ…ソン…!コラソン!待て!落ち着け…!」
頭を押し返そうとするが、全くビクともしない。それどころか腰を捕まれて更に引き寄せられ、頭の中で警鐘が鳴る。
マズい、マズいマズいマズい…!
肩に乗せられた足をばたつかせるが、血のような真っ赤な瞳はうっとりと細まるばかり。
熱い呼気と共に立てられた牙が皮膚に喰いこみ、たまらずぎゅっと目を閉じた時だった。
「―――何をしている」