【羽とシーツと体温と】ドフロ、コラロ
ここ数日の間、陸海問わず賊の襲撃が頻繁にあった。
狙いは数週間前にドフラミンゴが手に入れた新薬だ。当然、善良な類のものではない。闇から生まれたものには持ち主の言い値で売れるほどの価値があるが、それに群がるハイエナだっている。
新薬をいち早くドンキホーテ海賊団が入手したという情報を聞きつけた近辺の賊は、ファミリーが所有する港の倉庫を執拗に狙った。
たが、大人からそれこそ子どもまで好戦的で戦闘に特化したファミリーの幹部たちにとって敵襲の応戦など造作もなく、どの戦いも一時間も満たずに決着がついた。勿論、商品はおろか倉庫の扉すら傷一つつけずにだ。そして、応戦だけで済まさないのがこの海賊である。報復という形で敵組織へ赴き、奪えるものを全て奪い尽くした。
『薬』を手に入れてからというもの、火薬や武器の消費といった損はあれど、それ以上に利になることの方が大きかった。
それでも戦闘になれば幹部と言えど軽傷ながらも負傷することはある。まだ戦闘要因に含まれていないローは、前線に立たない(正確には立たせてもらえない)代わりに、そうした仲間たちの傷の処置に回っていた。
だが、今日はそうはいかなかった。
戦いが終わりいつものように手当てに回っていたローが、血で汚れた桶の水を変えようと一人仲間から離れた隙に、生き残った敵の一人に襲われたのだ。
男はローを背後から羽交い締めにし、ナイフを突きつけながらグラディウス達に向かって「このガキの命が惜しかったら」云々の脅し文句を叫んだが、結局最後まで言い切ることができずに絶命した。天から降りてきたピンクの大きな鳥によって。
結果的に、ローは殺されることも人質にされることもなく、腕に薄い切り傷を作った程度の怪我で済んだ。
仲間と共にアジトへ帰還してすぐ、ローはボスの私室へ行けとグラディウスに告げられた。そこで傷の手当をしろとの、ボスからのお達しだった。
ドフラミンゴの大きなベッドにちょこんと座り、棚から引っ張り出した救急箱の中身を脇に広げる。二の腕の患部を消毒し、包帯の端を噛み、もう片方の端は手で持ってくるくると巻いて傷口を塞いでいく。
「くそ…」
片腕しか使えないやりづらさに、痛みと相まってローは一人毒づいた。他人の手当をしている時の方がまだやりやすい。
いつになく四苦八苦している様子を、椅子に座ってニヤニヤと笑いながら眺めてくるドフラミンゴの視線も鬱陶しい。
「どうだ?自分で自分の怪我の手当をする気分は」
「良いもんでは無ェ。痛みが先行して患部を客観的に診れねェ」
「診るもなにも、その程度の傷なら適当に押さえときゃ数日で治るだろう」
「俺は元々そのつもりだったんだ。お前がしっかり処置をしろと言って俺をこの部屋に呼んだんだろう」
「フッフッ…俺はただ、お前が血まみれの傷口を自分で塞いでいるところが見たかっただけだ」
「……………」
ローは会話を放棄した。ドフラミンゴという男は、派手な見た目の割に普段は理にかなった現実的な物言いをするが、ディアマンテに「頭のネジが飛んだガキだ」と定評のあるローですら引くほど、時たまこうして人として軸がぶれた発言をする。だが男の機嫌は、この場に酒があったらそのまま全部空けるだろうというくらいにはすこぶる良かった。気味は悪いがこのまま放っておくことにしよう。そう判断するものの、肝心のドフラミンゴの方がローを放っておかなかった。
「フッフッフ、痛いか?ロー」
「当たり前だ」
「痛みを和らげる薬をやろうか?和らぐどころか一発で天国へ行けるほど気持ち良くなれるぜ」
「三下のヤク中売人みたいなこと言ってんじゃねぇよ。もともとそんな『薬』なんて手に入れてなんかいねぇくせに」
ずれた包帯を巻き直しながら素っ気なく言うと、ドフラミンゴはニタリと笑った。
そもそも新薬を入手したという『虚偽』の情報を流すと言い出したのは、他ならぬこの男自身だった。
情報を信じ存在しない薬を狙ってきた愚かな賊を返り討ちにし、人から宝まで金目になるもの全て奪った。だが、それはただの時間稼ぎに過ぎなかった。ファミリーが空の倉庫を守っているその裏で、ドフラミンゴは単価数億の価値になる自然系の悪魔の実の取引をしていた。高値で成立した商品を契約先に無事輸送するまでの間、『目くらまし』が必要だった。それが今回の嘘の情報だったのだが、ローには何かが引っ掛かって仕方なかった。
その違和感は、数週間前の会議の時から日を追うごとに大きくなっていった。今だってそうだ。
包帯の端をしっかりと留めてから、ローは窓際の椅子に悠然と腰掛けるドフラミンゴを見据えた。
「気に食わねぇことと、聞きたいことと、気になることがある」
「要領を得ねェな。簡潔にまとめろ」
形容し難い違和感を抱えたままのローに、ドフラミンゴは思考の整理を命じた。ローは数秒、黙考した。
「………なら、気になることに絞る」
「ああ、言ってみな」
「お前は今回の商品(悪魔の実)の輸送をコラソンに任せた。その間、俺達はいかに『薬があるように見せかける』ために、火薬と戦力を費やして空の倉庫を守っていた」
ただ守るだけじゃない。薬を奪うためにファミリーに歯向かった、或いはそれを企てようとした組織は尽く潰していった。事前に戦力外通知を出されている俺は落胆もそこそこに湯水のように湧くクランケの治療や死体の解剖に没頭した。初めて新鮮な死体の内臓を見たが、あれは本当に良かった。充実した数日間だったが、何故か気に食わなかった。何故そう思ったのか?今の俺達のやり方が他の凡庸な海賊と変わりなかったからだ。ありもしない薬を守るという建前で略奪を尽くすなど、ドンキホーテ・ドフラミンゴらしくねェと思ったからだ。そこで漸く気が付いた。手元の『クランケ』が足りないことに。それだけじゃねぇ。どうでも良すぎて全く意識していなかったが、コラソンの帰りも遅すぎやしねぇか?ルートが正しければ、どれだけドジな奴でも2日で取引を終えて帰ってこれる筈だ。だが、もうあれから一週間近く経っている。ドフラミンゴ、俺はお前を見てきたが、お前がコラソンの電伝虫をとった様子は無かった。それなのにその余裕はなんだ?ひょっとして今回の取引そのものがフェイクだったのか?もしそうだとしたら、そこまでしてお前が本当にしたかったことは、隠したかったものは何なのか。
「そう言えば、『開かずの部屋』が現れてから明日で一週間になるな?」
急旋回したローの話に、ドフラミンゴは 否定もしなければ頷きもしないままただ楽しげに耳を傾けていた。
入ってはいけない部屋がある。
一年に一度、決められた時期の、決められた日数の間だけ、決して入ってはいけない部屋がある。
夏を終えて秋の半ばに差し掛かる時期、ボスが一言「あの部屋に近付くな」と告げた時が合図だ。その日から一週間、ファミリーの誰一人として『開かずの部屋』に近付くことは許されない。
「たしか、コラソンが出掛けた次の日だったな?お前が『あの部屋に近付くな』と言ったのは。俺にはどうしてもそれが偶然とは思えねぇ」
執拗に戦闘を繰り返した一週間。
俺の前からいつの間にかなくなった、負傷した敵のクランケ。
薬でも悪魔の実でもない、嘘に嘘を重ねて本当にドフラミンゴが隠したかった存在。
海賊同士の争いだ。人間の一人や二人いなくなったっておかしいと思う奴なんていない。
その上で、聞きたいことがある。
「答えろ、ドフラミンゴ。俺の患者達に何をした?何故コラソンの存在を隠そうとする?お前たちは一体『あの部屋』で何をしているんだ」
「フッフッフ、前振りが長ェ」
簡潔にまとめろと言った筈だが?と言いながらも、ドフラミンゴはローが独演をしている間、一切口を挟まずにむしろ頬杖をつきながらまるで音楽観賞でもしているかのように聞き入っていた。実際、ローが今回の作戦の本当の目的を紐解いていく様子を見て楽しんでいたのだ。
だが、ローはそんなドフラミンゴの意図には気付かず、最初に言われた指示に添えなかったことに少し視線を下げて反省していた。
「考えをまとめながら話していたら長くなってしまった」
「普段から決定的に言葉が足りねぇお前にしては珍しいじゃねぇか」
「筋立てて言わねぇと、お前は俺に教えないと思ったからだ」
「フフフッ、そんなにコラソンのことが気になるのか?」
妬けるじゃねェか、と嘯きながらドフラミンゴはゆったりとした所作で長い足を組み替えた。
「今日の俺は機嫌が良い。特別に全部教えてやろう。――来い、ロー」
「………」
指先で手招きされ、命令されるのが嫌いなローはほんの少し口を曲げて渋々ベッドから降りた。ドフラミンゴが座る椅子の傍まで歩み寄って足を止める。すると、男のイトの能力で軽々と体を持ち上げられ、傍らの樽にストンと座らされた。男と対峙して座る形になり、度々連れられてきた取引きの仕事現場を思い出す。まるで自分がドフラミンゴを相手取っているようで、ぐっと強まる緊張感にローは内心で少し興奮していた。
そのことに気付いているドフラミンゴは、頬杖を解いて肘掛けに両肘を置いたまま胸元の前で両手を組んで『仕事』の姿勢を取った。その姿に、膝に置いた手をぎゅっと握りしめながら息を呑んで前傾するローが可笑しくて可愛くて、なんとか笑いを噛み殺して「さて、」とわざと重たく前置きする。
「お前の話は大筋その通りだが、二つ間違っている箇所がある」
「それはなんだ?」
手の甲を向けて人差し指と中指を立てて見せる男に、ローはその長い指を見詰めながら眉を寄せた。仮説とはいえ、熟考しただけに自分の考えに二つも誤りがあったことが気に入らないからだ。
年齢の割に大人びているローがそうして子どもらしく感情を表す様子を見るのがドフラミンゴの密かな楽しみだった。
「まず一つは、悪魔の実の取引はフェイクじゃねェ。実際に商談し、コラソンが商品を運んで成立させた。二つ目は、俺は別にコラソンを隠しているわけじゃねェ」
「……どういうことだ?」
「フッフッフ、まぁそう急くな。言っただろう、全部教えてやると」
悪魔の実の取引は実際に行ったが今回の作戦の本当の目的は、そいつを無事に運ぶことの他に、お前が気に食わないと言った、あの略奪の中にある。
「血だよ。生きた人間の新鮮な血さ」
「血?」
「ああ。体から吹き出たばかりの、まだ生温かいソイツが大量に必要だった。その為にお前のクランケも何人か使った」
「………献血が必要な奴でもいたのか?」
「フッフッフ…まァ、そんなようなものだ」
「ふざけるな。俺の患者を勝手にくすねるんじゃねェ」
「途中まで死体に夢中で、自分のものが減っていることにも気付かなかった奴が何言ってやがる」
ローは口を噤んだ。腹は立つが事実は事実だ。本当に自分のものだと思っているなら、意識の端だけでも気にかけるべきだった。ファミリーに身を置いて気持ちを緩めすぎたのだ。己の隙の多さに嫌悪さえしてくるが、ローは視線を下げることなくじっとサングラスを見据えた。
「それで、そこまでしてお前が血を欲したのは何故だ。そのことと、コラソンがいないこととあの部屋がどう関係している?」
その言葉を待っていたとばかりに、ドフラミンゴは満悦な笑みを作る。
「今回、何故コラソンが悪魔の実を運ぶことになったか分かるか?」
「お前が命令したからじゃねぇのか?」
「いや、違う。作戦の本来の目的を知ったアイツは、自ら血の戦場から離れることを望んだのさ。もうすぐ発作が起きると分かっていたからなァ」
「?」
「俺とアイツが予想していた通り、取引先へ出掛けたその日、発作は始まった。だから、取引を終えて帰ってきてからも、アイツは誰の目にも触れないよう、直ぐに『あの部屋』に閉じ籠った」
「待て、ちょっと待て。発作ってなんだ?コラソンは病気なのか?」
「病気と言やァ病気だな。少なくとも、アイツにとっては」
「はぐらかすんじゃねェ、ドフラミンゴ。ちゃんと説明しろ」
どれもこれも決定的な言葉をよこさないことに苛立ちが募る。眉間に皺を寄せて睨むが、ドフラミンゴは薄ら寒い笑顔を貼り付けたまま肩を震わせるだけだった。
「フッフッフ…ロー、お前は吸血鬼の存在を信じるか?」
「は?」
「コラソンがその吸血鬼だ」
「…………」
…吸血鬼、ヴァンパイア、ドラキュラ。人の生き血を糧とする創作や伝説などに登場する架空の怪物。不死者。人間と、かけ離れた力を持ち得る。コウモリに変身する。日光が苦手。銀が苦手。エトセトラエトセトラ…
「ふざけているのか?」
「そう思うのはお前の自由だが、事実を柔軟に受け止めることも見識を広げるには重要なことだぞ、ロー?」
「……………」
ありえるのか、そんなことが?それとも、これもドフラミンゴの嘘なのか?子どものローをからかって楽しんでいるのか?この男なら考えられる。だが、それなら何故、この男らしからぬ方法で略奪紛いのことを繰り返して血を集めていた?何故コラソンは姿を現さない?何故、目の前の男の静かな笑顔が、こんなにも真に迫っているように見えてしまうのか。
答えは簡単だ。
「………コラソンは、吸血鬼なのか?」
「フフフッ…アイツもガキの頃に自分の正体を知った時はそんな顔をしていたなァ。お前と違うのは、未だに自分は普通の人間だと信じているところだが」
「さっき言っていた発作っていうのはなんだ?」
「簡単に言やァ、吸血衝動だ。普段は人間と同じ食事を摂るだけで事足りるが…」
一拍間を置いた後、男はいやにねっとりとした口調で続けた。
「一年に一回、一週間の間だけ、ひたすら生きた人間の血が欲しくてたまらなくなる。その間、普通の食事も受け付けねェ。俺達はこれを『発作』と呼んでいる」
「……症状は?」
「最初はただの空腹程度から始まる。だが段々と喉が渇くように血への欲求が強くなっていき、その内激しい衝動で動悸息切れもしてくるようになる。日が経つにつれ強烈な飢餓状態に苛まれ、最後には我知らず目に入る人間を見境なく襲いかかろうとする」
ここまでくるとただの獣だなァ?と、ドフラミンゴはクツクツと笑った。自分の弟のことだというのに、実に楽しそうである。
「本能に任せれば楽になるものを、アイツは昔から発作が出る度に、一週間の間、部屋に閉じ籠って必死に衝動を圧し殺していやがる。あくまで自分は普通の人間だと思いたいんだろう。フッフッフッ、まったく愚かな弟だ」
「…それが、あの『開かずの部屋』なんだな」
ドフラミンゴは口端を釣り上げたまま頷いた。この軽薄な男に対する表現ではないかもしれないが、嘲笑った物言いや表情にどこか愛情が垣間見えて仕方が無い。今回の作戦の根幹がその愚かな弟の為にあると知ったからなのだろうと、ローは冷静に解釈した。
「……たしか、発作が始まって明日で7日目だったな?」
「ああ」
ドフラミンゴの話が本当ならば、今コラソンの吸血衝動はピークに達している頃だ。
吸血鬼の発作とは、果たして肉体にどのように表れるのか。ローが持つ医療の知識は『普通の人間』に対して有効であって、能力者やましてや人外が相手では正しく診ることはできない。だからこそ、興味があった。医療は科学だとはよく言ったものだ。ローもつい最近までそう信じていた。だが、ファミリーに入り、能力者をこの目で見た瞬間からローの中にあった凝り固まった概念が全てひっくり返り、同時に視野が明るく広まった。生き物の体、その皮の内側には、血と内臓と骨だけじゃない、科学では説明できないものが詰め込まれている。ローはその全てが見たかった。何故ならば生物が持つ肉体、能力、可能性の全てを把握し、手中に収め、支配出来れば、この腐った世界をぶち壊す力になり得ると思ったからに他ならないからだ。
「フッフッフッフッフッ…」
不敵な笑い声に思考を妨げられ、いつの間にか落としていた視線を上げた。肘掛けに悠々と頬杖をついているドフラミンゴと目が合う。考え事に夢中になっていたローを観察しているようにも見える姿勢が気に食わない。が、それと同時にこの男に何もかも見透かされているような気がして居心地が悪かった。
「……コラソンは今どうしている」
「フフフッ、さぁなァ?様子を見に行こうなんて思うなよ。今のアイツには血の掟なんて頭に入っちゃいねェからなぁ」
まァ、どちらにしろ部屋は鍵で施錠して入れねぇが。そう言ってドフラミンゴはまた喉を鳴らして笑った。
「さぁて、お前の質問には全て答えたつもりだが。どうだ?満足したか?」
大仰に両腕を広げて訊ねる男に、ローは唇を引き結んでベッドの方へ視線を遣る。先程まで腰掛けて自分の傷の手当をしていたその足元の床に、血で汚した綿布と包帯が落ちていた。
「……血を飲む以外に、発作を鎮める方法はあるのか?」
「まぁ、あるにはある」
「はっきりしねぇな。どっちなんだ」
「どうだろうなァ?」
のらりくらりと躱すような物言いに苛立ち、ローは樽から降りて男から離れた。話は充分聞けた。手当も済んでいる。もうこの部屋に用は無い。ベッドの上と床に落としたそれらを手早く片付け、無言のまま入り口へ向かう。
「おい、ロー」
不意に男に呼ばれ、部屋のドアに手を掛けたまま振り返る。
男は相変わらずソファに腰掛けて、人を食ったような笑いを浮かべていた。
「お前、もう精通は迎えたのか?」
「は?」
本日二度目の素っ頓狂な声が出た。突拍子が無いにもほどがある。
だがどうせまた男の気紛れの戯れ言だと思い直し、ローは特に何も考えずに頷いた。
「一ヶ月前に、夢精で」
「フッフッフ…なんだ、ハジメテの相手がシーツってか?寂しいなぁ?」
「何を言っているのか知らねぇが、余計なお世話だ」
ドフラミンゴの意図する言葉がいまいち理解できない幼いローだったが、下らないことだというのだけは分かる。これ以上話を続けるのも面倒で、早々に部屋を出ていった。
この時、ロー自身にもっとドフラミンゴという男に対する危機管理能力があれば、或いはこの先自分の身に起こるあまりにも耐え難い仕打ちから免れたかもしれない。そんなことなど露知らず、ローはアジトの薄暗い通路を歩きながら『開かずの部屋』に侵入する算段を考えるのだった。
狙いは数週間前にドフラミンゴが手に入れた新薬だ。当然、善良な類のものではない。闇から生まれたものには持ち主の言い値で売れるほどの価値があるが、それに群がるハイエナだっている。
新薬をいち早くドンキホーテ海賊団が入手したという情報を聞きつけた近辺の賊は、ファミリーが所有する港の倉庫を執拗に狙った。
たが、大人からそれこそ子どもまで好戦的で戦闘に特化したファミリーの幹部たちにとって敵襲の応戦など造作もなく、どの戦いも一時間も満たずに決着がついた。勿論、商品はおろか倉庫の扉すら傷一つつけずにだ。そして、応戦だけで済まさないのがこの海賊である。報復という形で敵組織へ赴き、奪えるものを全て奪い尽くした。
『薬』を手に入れてからというもの、火薬や武器の消費といった損はあれど、それ以上に利になることの方が大きかった。
それでも戦闘になれば幹部と言えど軽傷ながらも負傷することはある。まだ戦闘要因に含まれていないローは、前線に立たない(正確には立たせてもらえない)代わりに、そうした仲間たちの傷の処置に回っていた。
だが、今日はそうはいかなかった。
戦いが終わりいつものように手当てに回っていたローが、血で汚れた桶の水を変えようと一人仲間から離れた隙に、生き残った敵の一人に襲われたのだ。
男はローを背後から羽交い締めにし、ナイフを突きつけながらグラディウス達に向かって「このガキの命が惜しかったら」云々の脅し文句を叫んだが、結局最後まで言い切ることができずに絶命した。天から降りてきたピンクの大きな鳥によって。
結果的に、ローは殺されることも人質にされることもなく、腕に薄い切り傷を作った程度の怪我で済んだ。
仲間と共にアジトへ帰還してすぐ、ローはボスの私室へ行けとグラディウスに告げられた。そこで傷の手当をしろとの、ボスからのお達しだった。
ドフラミンゴの大きなベッドにちょこんと座り、棚から引っ張り出した救急箱の中身を脇に広げる。二の腕の患部を消毒し、包帯の端を噛み、もう片方の端は手で持ってくるくると巻いて傷口を塞いでいく。
「くそ…」
片腕しか使えないやりづらさに、痛みと相まってローは一人毒づいた。他人の手当をしている時の方がまだやりやすい。
いつになく四苦八苦している様子を、椅子に座ってニヤニヤと笑いながら眺めてくるドフラミンゴの視線も鬱陶しい。
「どうだ?自分で自分の怪我の手当をする気分は」
「良いもんでは無ェ。痛みが先行して患部を客観的に診れねェ」
「診るもなにも、その程度の傷なら適当に押さえときゃ数日で治るだろう」
「俺は元々そのつもりだったんだ。お前がしっかり処置をしろと言って俺をこの部屋に呼んだんだろう」
「フッフッ…俺はただ、お前が血まみれの傷口を自分で塞いでいるところが見たかっただけだ」
「……………」
ローは会話を放棄した。ドフラミンゴという男は、派手な見た目の割に普段は理にかなった現実的な物言いをするが、ディアマンテに「頭のネジが飛んだガキだ」と定評のあるローですら引くほど、時たまこうして人として軸がぶれた発言をする。だが男の機嫌は、この場に酒があったらそのまま全部空けるだろうというくらいにはすこぶる良かった。気味は悪いがこのまま放っておくことにしよう。そう判断するものの、肝心のドフラミンゴの方がローを放っておかなかった。
「フッフッフ、痛いか?ロー」
「当たり前だ」
「痛みを和らげる薬をやろうか?和らぐどころか一発で天国へ行けるほど気持ち良くなれるぜ」
「三下のヤク中売人みたいなこと言ってんじゃねぇよ。もともとそんな『薬』なんて手に入れてなんかいねぇくせに」
ずれた包帯を巻き直しながら素っ気なく言うと、ドフラミンゴはニタリと笑った。
そもそも新薬を入手したという『虚偽』の情報を流すと言い出したのは、他ならぬこの男自身だった。
情報を信じ存在しない薬を狙ってきた愚かな賊を返り討ちにし、人から宝まで金目になるもの全て奪った。だが、それはただの時間稼ぎに過ぎなかった。ファミリーが空の倉庫を守っているその裏で、ドフラミンゴは単価数億の価値になる自然系の悪魔の実の取引をしていた。高値で成立した商品を契約先に無事輸送するまでの間、『目くらまし』が必要だった。それが今回の嘘の情報だったのだが、ローには何かが引っ掛かって仕方なかった。
その違和感は、数週間前の会議の時から日を追うごとに大きくなっていった。今だってそうだ。
包帯の端をしっかりと留めてから、ローは窓際の椅子に悠然と腰掛けるドフラミンゴを見据えた。
「気に食わねぇことと、聞きたいことと、気になることがある」
「要領を得ねェな。簡潔にまとめろ」
形容し難い違和感を抱えたままのローに、ドフラミンゴは思考の整理を命じた。ローは数秒、黙考した。
「………なら、気になることに絞る」
「ああ、言ってみな」
「お前は今回の商品(悪魔の実)の輸送をコラソンに任せた。その間、俺達はいかに『薬があるように見せかける』ために、火薬と戦力を費やして空の倉庫を守っていた」
ただ守るだけじゃない。薬を奪うためにファミリーに歯向かった、或いはそれを企てようとした組織は尽く潰していった。事前に戦力外通知を出されている俺は落胆もそこそこに湯水のように湧くクランケの治療や死体の解剖に没頭した。初めて新鮮な死体の内臓を見たが、あれは本当に良かった。充実した数日間だったが、何故か気に食わなかった。何故そう思ったのか?今の俺達のやり方が他の凡庸な海賊と変わりなかったからだ。ありもしない薬を守るという建前で略奪を尽くすなど、ドンキホーテ・ドフラミンゴらしくねェと思ったからだ。そこで漸く気が付いた。手元の『クランケ』が足りないことに。それだけじゃねぇ。どうでも良すぎて全く意識していなかったが、コラソンの帰りも遅すぎやしねぇか?ルートが正しければ、どれだけドジな奴でも2日で取引を終えて帰ってこれる筈だ。だが、もうあれから一週間近く経っている。ドフラミンゴ、俺はお前を見てきたが、お前がコラソンの電伝虫をとった様子は無かった。それなのにその余裕はなんだ?ひょっとして今回の取引そのものがフェイクだったのか?もしそうだとしたら、そこまでしてお前が本当にしたかったことは、隠したかったものは何なのか。
「そう言えば、『開かずの部屋』が現れてから明日で一週間になるな?」
急旋回したローの話に、ドフラミンゴは 否定もしなければ頷きもしないままただ楽しげに耳を傾けていた。
入ってはいけない部屋がある。
一年に一度、決められた時期の、決められた日数の間だけ、決して入ってはいけない部屋がある。
夏を終えて秋の半ばに差し掛かる時期、ボスが一言「あの部屋に近付くな」と告げた時が合図だ。その日から一週間、ファミリーの誰一人として『開かずの部屋』に近付くことは許されない。
「たしか、コラソンが出掛けた次の日だったな?お前が『あの部屋に近付くな』と言ったのは。俺にはどうしてもそれが偶然とは思えねぇ」
執拗に戦闘を繰り返した一週間。
俺の前からいつの間にかなくなった、負傷した敵のクランケ。
薬でも悪魔の実でもない、嘘に嘘を重ねて本当にドフラミンゴが隠したかった存在。
海賊同士の争いだ。人間の一人や二人いなくなったっておかしいと思う奴なんていない。
その上で、聞きたいことがある。
「答えろ、ドフラミンゴ。俺の患者達に何をした?何故コラソンの存在を隠そうとする?お前たちは一体『あの部屋』で何をしているんだ」
「フッフッフ、前振りが長ェ」
簡潔にまとめろと言った筈だが?と言いながらも、ドフラミンゴはローが独演をしている間、一切口を挟まずにむしろ頬杖をつきながらまるで音楽観賞でもしているかのように聞き入っていた。実際、ローが今回の作戦の本当の目的を紐解いていく様子を見て楽しんでいたのだ。
だが、ローはそんなドフラミンゴの意図には気付かず、最初に言われた指示に添えなかったことに少し視線を下げて反省していた。
「考えをまとめながら話していたら長くなってしまった」
「普段から決定的に言葉が足りねぇお前にしては珍しいじゃねぇか」
「筋立てて言わねぇと、お前は俺に教えないと思ったからだ」
「フフフッ、そんなにコラソンのことが気になるのか?」
妬けるじゃねェか、と嘯きながらドフラミンゴはゆったりとした所作で長い足を組み替えた。
「今日の俺は機嫌が良い。特別に全部教えてやろう。――来い、ロー」
「………」
指先で手招きされ、命令されるのが嫌いなローはほんの少し口を曲げて渋々ベッドから降りた。ドフラミンゴが座る椅子の傍まで歩み寄って足を止める。すると、男のイトの能力で軽々と体を持ち上げられ、傍らの樽にストンと座らされた。男と対峙して座る形になり、度々連れられてきた取引きの仕事現場を思い出す。まるで自分がドフラミンゴを相手取っているようで、ぐっと強まる緊張感にローは内心で少し興奮していた。
そのことに気付いているドフラミンゴは、頬杖を解いて肘掛けに両肘を置いたまま胸元の前で両手を組んで『仕事』の姿勢を取った。その姿に、膝に置いた手をぎゅっと握りしめながら息を呑んで前傾するローが可笑しくて可愛くて、なんとか笑いを噛み殺して「さて、」とわざと重たく前置きする。
「お前の話は大筋その通りだが、二つ間違っている箇所がある」
「それはなんだ?」
手の甲を向けて人差し指と中指を立てて見せる男に、ローはその長い指を見詰めながら眉を寄せた。仮説とはいえ、熟考しただけに自分の考えに二つも誤りがあったことが気に入らないからだ。
年齢の割に大人びているローがそうして子どもらしく感情を表す様子を見るのがドフラミンゴの密かな楽しみだった。
「まず一つは、悪魔の実の取引はフェイクじゃねェ。実際に商談し、コラソンが商品を運んで成立させた。二つ目は、俺は別にコラソンを隠しているわけじゃねェ」
「……どういうことだ?」
「フッフッフ、まぁそう急くな。言っただろう、全部教えてやると」
悪魔の実の取引は実際に行ったが今回の作戦の本当の目的は、そいつを無事に運ぶことの他に、お前が気に食わないと言った、あの略奪の中にある。
「血だよ。生きた人間の新鮮な血さ」
「血?」
「ああ。体から吹き出たばかりの、まだ生温かいソイツが大量に必要だった。その為にお前のクランケも何人か使った」
「………献血が必要な奴でもいたのか?」
「フッフッフ…まァ、そんなようなものだ」
「ふざけるな。俺の患者を勝手にくすねるんじゃねェ」
「途中まで死体に夢中で、自分のものが減っていることにも気付かなかった奴が何言ってやがる」
ローは口を噤んだ。腹は立つが事実は事実だ。本当に自分のものだと思っているなら、意識の端だけでも気にかけるべきだった。ファミリーに身を置いて気持ちを緩めすぎたのだ。己の隙の多さに嫌悪さえしてくるが、ローは視線を下げることなくじっとサングラスを見据えた。
「それで、そこまでしてお前が血を欲したのは何故だ。そのことと、コラソンがいないこととあの部屋がどう関係している?」
その言葉を待っていたとばかりに、ドフラミンゴは満悦な笑みを作る。
「今回、何故コラソンが悪魔の実を運ぶことになったか分かるか?」
「お前が命令したからじゃねぇのか?」
「いや、違う。作戦の本来の目的を知ったアイツは、自ら血の戦場から離れることを望んだのさ。もうすぐ発作が起きると分かっていたからなァ」
「?」
「俺とアイツが予想していた通り、取引先へ出掛けたその日、発作は始まった。だから、取引を終えて帰ってきてからも、アイツは誰の目にも触れないよう、直ぐに『あの部屋』に閉じ籠った」
「待て、ちょっと待て。発作ってなんだ?コラソンは病気なのか?」
「病気と言やァ病気だな。少なくとも、アイツにとっては」
「はぐらかすんじゃねェ、ドフラミンゴ。ちゃんと説明しろ」
どれもこれも決定的な言葉をよこさないことに苛立ちが募る。眉間に皺を寄せて睨むが、ドフラミンゴは薄ら寒い笑顔を貼り付けたまま肩を震わせるだけだった。
「フッフッフ…ロー、お前は吸血鬼の存在を信じるか?」
「は?」
「コラソンがその吸血鬼だ」
「…………」
…吸血鬼、ヴァンパイア、ドラキュラ。人の生き血を糧とする創作や伝説などに登場する架空の怪物。不死者。人間と、かけ離れた力を持ち得る。コウモリに変身する。日光が苦手。銀が苦手。エトセトラエトセトラ…
「ふざけているのか?」
「そう思うのはお前の自由だが、事実を柔軟に受け止めることも見識を広げるには重要なことだぞ、ロー?」
「……………」
ありえるのか、そんなことが?それとも、これもドフラミンゴの嘘なのか?子どものローをからかって楽しんでいるのか?この男なら考えられる。だが、それなら何故、この男らしからぬ方法で略奪紛いのことを繰り返して血を集めていた?何故コラソンは姿を現さない?何故、目の前の男の静かな笑顔が、こんなにも真に迫っているように見えてしまうのか。
答えは簡単だ。
「………コラソンは、吸血鬼なのか?」
「フフフッ…アイツもガキの頃に自分の正体を知った時はそんな顔をしていたなァ。お前と違うのは、未だに自分は普通の人間だと信じているところだが」
「さっき言っていた発作っていうのはなんだ?」
「簡単に言やァ、吸血衝動だ。普段は人間と同じ食事を摂るだけで事足りるが…」
一拍間を置いた後、男はいやにねっとりとした口調で続けた。
「一年に一回、一週間の間だけ、ひたすら生きた人間の血が欲しくてたまらなくなる。その間、普通の食事も受け付けねェ。俺達はこれを『発作』と呼んでいる」
「……症状は?」
「最初はただの空腹程度から始まる。だが段々と喉が渇くように血への欲求が強くなっていき、その内激しい衝動で動悸息切れもしてくるようになる。日が経つにつれ強烈な飢餓状態に苛まれ、最後には我知らず目に入る人間を見境なく襲いかかろうとする」
ここまでくるとただの獣だなァ?と、ドフラミンゴはクツクツと笑った。自分の弟のことだというのに、実に楽しそうである。
「本能に任せれば楽になるものを、アイツは昔から発作が出る度に、一週間の間、部屋に閉じ籠って必死に衝動を圧し殺していやがる。あくまで自分は普通の人間だと思いたいんだろう。フッフッフッ、まったく愚かな弟だ」
「…それが、あの『開かずの部屋』なんだな」
ドフラミンゴは口端を釣り上げたまま頷いた。この軽薄な男に対する表現ではないかもしれないが、嘲笑った物言いや表情にどこか愛情が垣間見えて仕方が無い。今回の作戦の根幹がその愚かな弟の為にあると知ったからなのだろうと、ローは冷静に解釈した。
「……たしか、発作が始まって明日で7日目だったな?」
「ああ」
ドフラミンゴの話が本当ならば、今コラソンの吸血衝動はピークに達している頃だ。
吸血鬼の発作とは、果たして肉体にどのように表れるのか。ローが持つ医療の知識は『普通の人間』に対して有効であって、能力者やましてや人外が相手では正しく診ることはできない。だからこそ、興味があった。医療は科学だとはよく言ったものだ。ローもつい最近までそう信じていた。だが、ファミリーに入り、能力者をこの目で見た瞬間からローの中にあった凝り固まった概念が全てひっくり返り、同時に視野が明るく広まった。生き物の体、その皮の内側には、血と内臓と骨だけじゃない、科学では説明できないものが詰め込まれている。ローはその全てが見たかった。何故ならば生物が持つ肉体、能力、可能性の全てを把握し、手中に収め、支配出来れば、この腐った世界をぶち壊す力になり得ると思ったからに他ならないからだ。
「フッフッフッフッフッ…」
不敵な笑い声に思考を妨げられ、いつの間にか落としていた視線を上げた。肘掛けに悠々と頬杖をついているドフラミンゴと目が合う。考え事に夢中になっていたローを観察しているようにも見える姿勢が気に食わない。が、それと同時にこの男に何もかも見透かされているような気がして居心地が悪かった。
「……コラソンは今どうしている」
「フフフッ、さぁなァ?様子を見に行こうなんて思うなよ。今のアイツには血の掟なんて頭に入っちゃいねェからなぁ」
まァ、どちらにしろ部屋は鍵で施錠して入れねぇが。そう言ってドフラミンゴはまた喉を鳴らして笑った。
「さぁて、お前の質問には全て答えたつもりだが。どうだ?満足したか?」
大仰に両腕を広げて訊ねる男に、ローは唇を引き結んでベッドの方へ視線を遣る。先程まで腰掛けて自分の傷の手当をしていたその足元の床に、血で汚した綿布と包帯が落ちていた。
「……血を飲む以外に、発作を鎮める方法はあるのか?」
「まぁ、あるにはある」
「はっきりしねぇな。どっちなんだ」
「どうだろうなァ?」
のらりくらりと躱すような物言いに苛立ち、ローは樽から降りて男から離れた。話は充分聞けた。手当も済んでいる。もうこの部屋に用は無い。ベッドの上と床に落としたそれらを手早く片付け、無言のまま入り口へ向かう。
「おい、ロー」
不意に男に呼ばれ、部屋のドアに手を掛けたまま振り返る。
男は相変わらずソファに腰掛けて、人を食ったような笑いを浮かべていた。
「お前、もう精通は迎えたのか?」
「は?」
本日二度目の素っ頓狂な声が出た。突拍子が無いにもほどがある。
だがどうせまた男の気紛れの戯れ言だと思い直し、ローは特に何も考えずに頷いた。
「一ヶ月前に、夢精で」
「フッフッフ…なんだ、ハジメテの相手がシーツってか?寂しいなぁ?」
「何を言っているのか知らねぇが、余計なお世話だ」
ドフラミンゴの意図する言葉がいまいち理解できない幼いローだったが、下らないことだというのだけは分かる。これ以上話を続けるのも面倒で、早々に部屋を出ていった。
この時、ロー自身にもっとドフラミンゴという男に対する危機管理能力があれば、或いはこの先自分の身に起こるあまりにも耐え難い仕打ちから免れたかもしれない。そんなことなど露知らず、ローはアジトの薄暗い通路を歩きながら『開かずの部屋』に侵入する算段を考えるのだった。