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短編


 肩に何かを掛けられた気配で目が覚めた。
 びくりと体を震わせて振り返ると、目を丸くした紅明と目が合った。

「まあ、紅明様。いつお戻りに?」

「たった今です。それよりも、こんな時間まで何をしているのですか、灯りもなしに」

 珍しく機嫌が悪いようで、眉間にしわを寄せて顔を顰めている。
 彼が帰ってくるまでのつもりで書を読みはじめたら、いつの間にか眠ってしまったらしい。
 月が明るい夜だったので、窓辺でも十分に文字を追うことができた。
 目の前に立つ紅明の服装にどこか物足りなさを感じたのと、肩に掛けられた上着から温もりが伝わってきて、どうも紅明が自分の背子を居眠りしている彼女に掛けたらしいということが分かった。

 「おかえりなさいませ」と微笑むと、彼は不機嫌に只今戻りましたとだけ返して、彼女の周囲を見渡す。
 榻の端からは巻物がこぼれ落ちて、長く床に広がっていた。
 それを拾い上げて片付けようとするので、彼女が慌てて押しとどめる。

「わたくしがやりますわ。紅明様は休んでいてくださいまし。今日も一日ご公務でお疲れでしょう」

 彼が苦手なのは身の回りの事だけではない。特に片付けなどは、彼女がやった方が早いし確実だった。
 しかし紅明は、そんな彼女を横目で睨んで声を尖らせる。

「いいえ、あなたこそお疲れでしょうに。臥牀に行く余裕もなく、このようなところでうたた寝をするほどには」

 どうやら、彼女がこんなところで居眠りしていることに怒っているらしい。
 肩をすくめて「申し訳ありません」と謝ると、彼はため息をついた。

「疲れているのであれば、私を待たずに先に休んでいてもよかったのに」

 腹の虫がおさまらない様子の紅明に、彼女は眉尻を下げる。

「紅明様を待っていたかったのです。お召し替えや就寝の準備のお手伝いもできますでしょう」

 夕食は済ませたと聞いている。
 だから、せめて一緒に酒でも飲もうと待っていたのだが、まさか居眠りをして叱られるとは思わなかった。
 とりあえず急いで灯りを灯し、読んでいた巻物を片付ける。

「そのようなことは女官たちにさせればよろしい」

「彼女たちなら、先に休ませました」

 紅明に背を向けたまま、手を休めずに言う。

「彼女たちは明日も朝早いのに、こんな夜更けまで起きていろと言うのは酷でしょう。紅明様の身の回りのお世話くらいであればわたくし一人で十分ですし、それに、お戻りになったら『おかえりなさいませ』と言って差し上げられるでしょう?」

 しかし、床に落ちていた巻物を拾い上げて紅明を振り返ると、彼は榻に座り、彼女が卓に積み上げていた書簡を読んでいた。
 まだ仕事をするつもりなのかと呆れたが、彼の手にある竹簡に気づいてふと思いついた。

「あの、紅明様。お聞きしたいことがあるのですけれど、よろしいでしょうか?」

「何でしょう?」

「その巻物の内容についてですわ。読んでいて、よくわからないところがありましたの」

 顔も上げずに彼女の声に応えた紅明だったが、思いがけない質問をされて思わず顔を上げて彼女を凝視した。

「この巻物を読んだのですか? あなたが?」

「いけませんでしたか?」

「いいえ、とんでもない。まさかあなたが、このような書を読むとは思わなかったので。大昔の律令に関する注釈書ですよ」

 まるで、どこか非難する様なその口調に、彼女の頬にさっと朱がさした。

「女のくせにとお思いになりますか? 女に学は必要ないと」

 女は家政を取り仕切り、子を産み育てるのが仕事であって、女が学問をするべきではないという風潮は、どの時代のどこの国にも少なからず存在する。
 祖国バルバッドでも、同年代の友人たちの間で兵法や律令まで学んでいるのは彼女だけだった。たいていは自国の歴史を知り、読み書きと計算ができればよいとされている。
 彼女が兵法や律令を学び、剣の鍛錬に励んでいる間、友人たちは裁縫や詩作や歌舞音曲の稽古にいそしんでいたのである。
 彼女が気分を害したのが伝わったのか、紅明は慌てて首を横に振った。

「そんなことは言っていません。純粋に、あなたが法律なんぞに興味があることに驚いたのです」

 彼女は腕に抱えた巻物の束に視線を落として、そっと指先を這わせた。

「法律に限らず、書は好きですわ。様々な知識を得ることができますもの。故郷の祖母もよく申しておりました。『学べる時に充分に学んでおきなさい』と」

「至言ですね。私も似たような言葉を聞いたことがありますよ。『頭の柔らかい、若い内に充分楽しんでおきなさい』と。ただ、私はこの言葉を儒学の教師から教わったので、果たして本当に『楽しんで』いいものか、裏を返して『勉学に励め』という意味なのかは、未だにわからずじまいなのですが」

 したり顔で頷いた紅明は、少し笑って、自分が据わる榻の隣を軽くたたいた。

「こちらへどうぞ。それで、どこが分からないのですか?」

 その言葉に、彼女は驚いて見開いた目を瞬かせた。

「よろしいのですか? ご公務でお疲れでは? もう夜も遅いですし、明日の朝でも」

「『学べる時に充分学んで』おくのでしょう? 明日は私も朝から次の視察の準備をしなければいけませんし、それにきっと、明日の朝になったら今わからないところがもっとわからなくなりますよ。分からないことは、疑問が新鮮なうちに解決しておくことです。その代り、もう私を待つために遅くまで起きて勉強するのはやめてください。いいですね」

 戸惑う彼女に、紅明は微笑んで言い聞かせた。
 彼女はゆっくり頷くと、恐る恐る彼の隣に座り、「実は」と紅明の膝の上に広がる竹簡の一部を指さした。

 そうして二人の穏やかな時間がゆっくりと過ぎてゆく。
 竹簡の内容に熱中するあまり、夜更かしが過ぎて翌朝寝坊しそうになってしまったのはまた別の話である。



 盛年不重來
 一日難再晨
 及時富勉励
 歳月不待人

 若い元気な年は再び来ない
 一日のうちの朝も再び来ることは難しい
 だから、楽しめるときに充分楽しんでおこう
 歳月は人を待ってはくれないのだから
 ――陶淵明『勧学』より

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