短編
日の暮れた煌帝国ではあちこちで明かりが灯され、人々が酒や肴を片手に歓談し、昼間とはまた違う賑わいを見せていた。
禁城の第二皇子の居所でもまた、静寂に響く雅やかな琵琶の音が、禁城の一角をさらに華やかに彩っていた。
奏でる美姫は琵琶をかき鳴らしながら僅かに眉根を寄せて、なんとも悩ましげな表情をしている。紅明はそれを、酒を嘗めながら眺めていた。
美味い肴があるわけでもなく、美しく着飾った妓女たちが艶めかしい踊りを披露しているでもない。
ただ二人だけのささやかな宴だったが、彼らにはそれで十分だった。
最後の一音を鳴らし終えると、彼女は無意識にほっと溜息をつく。
曲の余韻が消えた頃、紅明が苦笑しながら乾いた拍手を数回贈った。
「相変わらず、微妙な腕前ですね」
その一言に、先ほどよりもより深い皺を眉間に寄せて、彼女はふいと横を向く。
「琵琶は苦手だと申しておりますのに、聞きたいとおっしゃったのは紅明様ではございませんか」
「いやいや、決して馬鹿にしているわけではありませんよ。むしろあなたの琵琶はこう、聞き慣れると味があるというか、微妙に癖になるというか」
笑いながら言い訳のようなことを言う紅明は、その実ちっとも言い訳になっていない。
彼女は口元を袖で隠しながら、横目で恨みがましく紅明を睨み付けた。
「ひどい。わたくしを笑いものにしようとなさるなんて」
しかし紅明は彼女の恨み言をものともせず、さらりとかわしてのたまう。
「まあ、そう拗ねないでください。しかし、これほど練習しても一向に上達しないとは、ある意味これも一種の才能でしょうね」
「だから楽士を呼びましょうと言ったではありませんか。わたくしの下手な演奏よりも、よほどすばらしい調べを奏でてくれますわ」
「しかし楽士を呼ぶと、あなたは猫を被ってしまって今のように気安く口を利いてはくれなくなるではありませんか」
あなたとお話がしたいのですと言われてしまうと、彼女には返す術がない。
仕方なしに、彼女は持っていた琵琶をぐいと紅明に押し付けた。
「ならば、次は紅明様がお弾きくださいませ」
「え?」
紅明が眠たげな眼を見開いて驚いた。
「それほど立派なことを仰るのですもの。紅明様こそ、さぞかし琵琶がお得意なのでしょう。毎夜わたくしばかりが演奏してずるうございますわ。たまには紅明様の奏でる琵琶も聞きとうございます」
「いや、私は……」
「ねえ、紅明様。紅明様は、宴などで名だたる名人たちの演奏を聞き慣れていらっしゃるのでしょう。わたくしにもその片鱗をお聞かせくださいまし。ぜひ、今後の練習の手本にさせていただきとう存じます」
えええ、などと情けない声を上げながら、彼は結局押し付けられた琵琶を受け取った。
崩していた足を直して姿勢を正し、ぎこちないながらも慣れた様子で楽器を構える。
そうしてちらりと彼女を見た。
そのまま彼女を見つめてじっと固まっているので、最後の抵抗だろうかと察して、早く弾けとばかりに彼女が片眉を吊り上げると、彼は渋々と言った様子で絃に指先を当てる。
姿に似合わぬ力強い音が鳴り響いた。
曲を弾き終わると、紅明は心なしか誇らしげな顔をして見せた。
決して彼の演奏は名人という程ではない。しかし、下手でもない。正直、彼女に比べるとよほど上手い。
「まあ、これくらいなら嗜みの範疇ですので」
彼女に楽器を返しながら何でもないように言う。
「ここ最近は公務が忙しくてろくに弾いていませんでしたが、意外と体が覚えているものですね」
対する彼女は、楽器を受け取りながら絶句している。
引き籠って書物ばかり睨んでいるから、てっきり歌舞音曲には疎いものとばかり思っていた。
なにせ着替えも一人でできないほど不器用な男なのだ。楽器の演奏のような繊細なことはできないと踏んでいたのに。
そういえば彼は皇族であった。
当然のことながら、琵琶の演奏は教養の範囲内であろう。本当に今更である。
受け取った楽器を抱えたまま悔しさに肩を震わせている彼女に、紅明は優しい笑みを浮かべながら声をかけた。
「よろしければ、教えて差し上げましょうか?」
「いいえ、結構です!」
きっぱりと断ると、彼女は紅明を一睨みし、ふいとそっぽを向いた。
「ああ、悔しいこと! 毎夜のように弾いているわたくしよりも、久方ぶりに琵琶に触れた紅明様の方がお上手だなんて。紅明様のために必死に練習した己が情けないではありませんか!」
「私のために練習したのですか?」
紅明は驚きに目を見開き、彼女はそっぽを向いたまま意図せずして赤面した。
そんな彼女の様子を見て、紅明は思わずにやけそうになる口元を手で隠す。
彼女は赤面したのを誤魔化すように、頬や額に手を当てて必死に熱を冷まそうとする。
滅多に取り乱すことのない彼女の珍しい姿に、彼の顔も思わずほころんだ。
「ならば、もう一曲聞かせてください」
頼んだ声は、自分でも驚くほど甘かった。
彼女は顔を仰ぐ手を止めて、潤んだ瞳で彼を見る。
腕を伸ばして彼女の髪を撫でながら、宥めるように語りかけた。
「毎晩練習していれば、いつかその努力はきっと実るでしょう。ですからもう一度、あなたの琵琶を聞かせてください」
「お耳汚しですわ」
「決して名人にならなくてもよいのです。私のために練習しているのでしょう? ならばまた、私のために演奏してください」
いつだったか、名人が言っていた。
楽の音には必ず、奏者の心が現れるのだと。
奏者の気分だけではない。その人の辿ったこれまでの人生が、演奏に浮き出てくるのだと。
だから彼女の奏でる複雑な音色は、そのまま彼女の人生そのものなのだろう。
故に、彼は彼女の琵琶が好きだった。
「あなたが私のために弾いてくださると言うのならば、私はあなたの琵琶に合わせる詩を作りましょう」
「紅明様は、詩までお書きになるのですか」
驚いて問う彼女に、紅明はやや視線を泳がせた。
「まあ、基本は知っていますよ。嗜みの内でしたからね。上手いかどうかはともかく……」
困ったように言う紅明を見て、この日初めて彼女の顔に笑みが弾けた。
ほほほ、と楽し気に笑う彼女の笑い声を聞きながら、紅明は気まずそうに後ろ頭を掻いた。
そうして、いつしか夜も更けていったのであった。
今夜聞君琵琶語
如聴仙楽耳暫明
莫辞更坐弾一曲
為君翻作琵琶行
今夜 君の奏でる琵琶の音を聞いて
仙人の楽を聞くかのように 耳が清められていった
立ち去らずに座ってもう一曲弾いてくれ
君のために 琵琶の歌を書いてやろう
――白居易『琵琶行』より