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第一章 女官編
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若慧は大抵、朝は早く起きて日が上りきる頃には全て身支度を済ませるのが習慣になっている。
しかしこの日、外が明るくなっても起きてこない主を不審に思った侍女たちが部屋を訪れると、若慧はまだ休んでいた。
正直、昼まで寝たい気分ではあった。
未明に紅明を追い出して、もとい、送り出してから、後片付けという名の証拠隠滅に奔走し、臥牀にもぐりこんだ時には空は薄明るくなっていた。
侍女に起こされて渋々起き上がったものの、寝不足で頭が重い。
その上、いつものように濃い化粧と重い頭飾りを付けなければならない。
とてつもなく憂鬱だ。それもこれもみな紅明のせいだ。昨夜、あんなところで紅明を見つけてしまった己が憎い。
もちろん、そんな事情などおくびにも出さないのが西若慧という女である。
普段より少し寝坊はしたものの、身支度が終わるころにはいつも通りの自信に満ちた居丈高な女がそこにいた。
「若慧様、お耳に入れておきたいお話が」
鏡を覗き込んで今日の化粧の出来栄えを確認していると、侍女の一人がひそりと耳打ちをしてきた。
無言で耳を澄ますと、
「紅明皇子が、昨夜いずこかの女性のお部屋にお泊りになったそうです」
若慧は目を細めた。
たったそれだけで、室内の空気が凍る。
「お相手は」
訊ねると、侍女は静かに首を横に振る。
耳ざとい若慧の侍女たちは、時折こうして主人のために噂話を拾ってくる。
当然、その中には主の最大の関心事であろう紅明の動向も含まれる。
今朝方、紅明の身支度を手伝った時点で、いずれこのような噂が流れるであろうことは分かっていた。
通常、身を清めたり髪を整えるといった仕事は紅明付きの女官の仕事である。それが、女官が仕事を始めるころには全て終わっていたというのだ。
紅明が自分で身支度をしたとは考えにくい。
それは、一度でも彼の身辺の世話をしたことがあるものであればわかるだろう。
紅明には生活能力は皆無と言ってもいい。それなのに朝から完璧に等しい姿でいれば、誰だって怪しむ。
宮中は秘密の多い場所ではあるが、生活環境を整え実質機能させているのは女だ。
口さがない女たちが集まれば、必然的に噂話も流れやすい。
いくら紅明の女官たちの口が堅くとも、どこからか漏れるものはある。
幸いにも若慧の部屋にいたことまではばれていないようだが、それにしても噂になるのが早い。
気を付けなければならないのは、このまま気付かれてはならないということだ。
紅明は昨夜、若慧の部屋を訪れてはいない。
これを事実にするには、誰かを生贄にするのが一番手っ取り早い。
さて誰を捧げたものか。若慧は思案を巡らせた。
若慧の侍女たちは常に新しい噂を集めてくる。
そのように命じているし、彼女たちも嫌いではないらしく、嬉々として仕事をこなす。
所詮女とは噂好きな生き物だ。
上手く誘導してやれば面白く踊ってくれる。
静かに口角を上げた若慧を見て、侍女たちは満足げな様子でほほ笑んだ。
◆◇◆
その日の昼過ぎのことだった。
部屋で刺繍をしていた若慧の元に、侍女の一人が転がるようにして飛び込んできた。
「若慧様、若慧様!」
バタバタとせわしない様子に眉を寄せると、沈華が主の意を汲んで嗜める。
「なんです、騒がしい」
「若慧様、急ぎお支度をなさいませ。紅明皇子がおいでです」
部屋にいた侍女たちが息を飲んだ。
若慧も見開いた目を細めて、真っ赤に塗った唇で弧を描く。
「まあ、随分ご無沙汰だこと」
この一言で、驚き固まっていた侍女たちの縛が解けた。
慌てて、しかし決して騒ぐことなく皇子を迎える準備を整える。
部屋を片付けて清め、主の髪と化粧を直す。
仕上げに香炉に火を入れ、しずしずと衝立の後ろに下がっていった。
この部屋が公式に紅明を迎えるのはおよそ一年ぶりだ。
若慧がこの禁城にやってきた時。紅明の“お手付き”となった夜。それが最後の訪れ。
以来、一度もこの部屋にやってくるどころか、公の場以外で若慧と顔を合わせることもない。
たとえ顔を合わせても、彼はいつも目の前を通り過ぎていくばかりで、淑やかに頭を下げる彼女には目もくれない。
だからこそ若慧は、内心で非常に焦っていた。
彼はいったい何をしに来たのだろう。
よもや先日の礼を言いに来たわけではあるまい。
あのときの彼は寝ぼけていて、この部屋の記憶もまともに残っていないはずだ。
ぜひ、そうであってほしい。
もし彼が先日のことを覚えていたとしたら、若慧のこれまでの努力が無駄になる。
この一年を必死で過ごしてきたというのに、今更崩れてしまうなんてあまりにも虚しいではないか。
故に若慧は、紅明が部屋に入ってくるなり顔を笑み崩れさせ、しどけなく寄り掛かったのである。
「あぁん、紅明様ぁ」
甘い声で呼びかけると案の定、紅明は驚いたように目を丸くして硬直してしまった。
「うれしい。やっと会いに来てくださった。わたくし、寂しゅうございましたわぁ」
胸元に取りすがるように身を寄せ、目を潤ませて彼を見上げる。
顔をひきつらせた紅明は明らかに引いている様子だった。
後ろに控える彼の従者など、あからさまに腰が引けて今すぐ帰りたそうにしている。
「わたくし、ずぅっとお待ちしておりましたのよぉ。あまりにも長い間いらっしゃらないから、てっきり嫌われたのかとぉ」
言いながらわざとらしく手巾で目元を抑える。
よよと泣き真似をする若慧の肩を、紅明ががしりとつかんだ。
おや、と思って手巾の陰から顔を伺い見ると、苦々し気な表情のままで若慧の顔をまっすぐに見て言った。
「あなたが、この部屋の主ですか?」
何をいまさら。と思ったのは若慧だけではないはずだ。
女官の身分と言えど、部屋を与えられているのは皇子と夜を共にしたから。
いくら暗がりだとしても、多少は相手のことを覚えているものだろうに。
それとも、皇子としての義務感から一緒になった女など、いちいち覚えていられないということだろうか。
だが、そこを深く突っ込まないのが女としての務め。
若慧は笑みを悲しみに切り替えて紅明に縋り付いた。
「酷い。わたくしを、この若慧をお忘れになってしまうなんて。あぁ、わたくし、悲しくなってまいりましたわぁ」
化粧が崩れるので涙こそ流さないが、手巾を小道具においおいと泣き声を上げると、案外それっぽく見えるものである。
この先をどう乗り切ろうと考えをめぐらせた時、紅明が意外な行動に打って出た。
「みな、下がりなさい」
衝立の陰で侍女たちが無言でざわめいたのが伝わってきた。
動揺したのは侍女たちだけではない。
若慧も大いに焦った。
なぜここで皆を下がらせる。
話をするだけならこのままでも出来るはずだ。
女を求めているのであれば、夜伽を命じるだけで後は侍女たちが良いように取り計らう。
なにも二人きりになる必要はないし、むしろ二人きりになれば人手がなくなる分、不便しかないはずなのに。
「紅明様、何を」
紅明の従者が戸惑って声をかけるが、紅明は断固として言い放った。
「下がりなさい。私はこの人と二人で話がしたい」
急な展開に若慧も言葉を失い、唖然としている間に侍女たちは頭を垂れたまま衝立の陰から姿を現し、そしてしずしずと部屋から下がっていった。
紅明が連れてきた従者も渋々と言った様子で退出したため、部屋には紅明と若慧の二人きり。
どうしてよいのかわからず、若慧はただ紅明にすがった体制のままで呆然と顔を見上げるしかない。
一方で紅明はと言えば、自分を見上げる若慧の顔をまじまじと見つめていた。
近距離で互いの顔を見つめ合うなどそうあることではない。
若慧も同じように紅明の顔を見ることになるわけで、髪が痛んでいるなとか、頬に痘痕が残っているのだなとか、相変わらず覇気が薄いなとか、そんなことしか考えられなかった。
どれほどそうしていたのだろう。
やがて紅明が、重々しく口を開いた。
「とりあえず、座りませんか」
なんだそれは。と脱力しそうになるのをこらえ、若慧はそろりと紅明から体を離す。
紅明もこれ幸いと若慧から離れ、一人でさっさと近くにあった椅子に座ってしまった。
一人残された若慧も盛大に戸惑ったまま椅子に腰かける。あまりの展開に茶菓子を振る舞うのも忘れていた。
「噂では、『西若慧』という女性は煌帝国始まって以来の悪女だそうです」
淡々と語りだす紅明の表情は疲れていた。
「父親の権力を笠に着て、自らの美貌を鼻にかけ、贅を尽くし、嫉妬深く、気に入らない女を陥れることに余念がないとか、私の寵を得るためには手段を選ばないとか、そんな話を聞きました」
「そんなぁ、ただの噂ですわぁ。わたくしはそのような醜い人間ではありません」
はっと我に返って慌ててしなをつくりなおした。
信じてくださいと、椅子に座る紅明の足元に身を投げ出して手を合わせて拝む。
我ながら見苦しい演技だ。そしておそらく、紅明もそれを見透かしている。
「喉が渇きました。お茶を淹れてください」
紅明の注文に慌てて若慧は立ち上がり、先の準備を始めた。
どうも最近、慌ててばかりいるような気がする。
なぜこうも翻弄されなければならないのだろう。
被った猫がはがれかかった若慧の背に向かって、紅明がもう一つ注文を付けた。
「小腹も空きました。先日いただいた包子がおいしかったので、できればもう一度食べたいのですが」
「えぇ、はい。ございますとも」
答えてから後悔したがもう遅い。
紅明は素知らぬ顔をしているが、若慧の頭の中ではぐるぐるとこの一年間のことが渦巻き流れている。
父親の権力を笠に着て自らの美貌を鼻にかけ、贅を尽くし、嫉妬深く振る舞って気に入らない女たちは遠慮なく追い落とした。
特に紅明に近づく女には容赦なく制裁を加えた。
『西若慧』という女は噂通りの人物だ。陰で煌帝国始まって以来の悪女と言われているのも知っている。
この一年、そのように立ちまわってきた。
なんとか理性を総動員して茶と包子を準備し、紅明に振る舞うが、手が震えるのは抑えられなかった。
紅明は包子を一口齧って、そうして深々とため息をついた。
「昨夜、連日の軍議で疲れ切っていた私を部屋に招き入れ、介抱してくれた女性がいました。あなたですよね、西若慧殿」
「一体、何のことやら」
「この部屋と言い、この包子と言い、すべて私の記憶にあるものと一致します。唯一一致しないのがあなた自身の事なのですが、あなた、猫を被っているのでしょう」
もう全てばれている。
彼は今日、先日のことを確かめるためにやってきたのだ。
シラを切るのは無理だろう。
だが、だからと言って認める理由もない。
媚を売るのはやめにして、あきらめた面持ちで椅子に腰かけた。
「どうして嫌われ者のふりをするのです?」
「まあ、嫌われているだなんてひどいおっしゃりよう。決して噂をお信じにならないでくださいませ。わたくしはただ、紅明様にお近づきになりたいだけですわ。美しく着飾るのは女として当然のことです。贅沢と言われますが、全て父がわたくしにと与えてくれたものですもの。わたくしが他の女性をいじめているという噂があるようですが、それも誤解ですわ。わたくしはただ、楽しくお話をしているだけですのに」
「それも建前ですね」
あっさりと看破される。
「分からないのは、なぜ私かということです。所詮私は第二皇子。国を背負う立場ではありますが、将来皇帝になるわけでもありません。権力が欲しいのであれば私ではなく、皇帝や第一皇子に取り入ればよいものを」
彼は自分の価値を知らなさすぎる。
その頭脳、軍議での発言力、そしてなにより、迷宮攻略者という事実。
次期皇帝が現太子紅炎皇子であることを考えれば、たとえ皇帝にはならずとも、将来重用されるのは火を見るよりも明らかだ。
「西家が真に欲しているのは富であって、名声ではありませんわ。富さえ手に入れれば、必然的に権力も手にはいることでしょう。それに、陛下の後宮には“西若麗”という娘がおります。ご存知でしょうか」
「なるほど、すでに皇帝には手をまわし済みというわけですか。そして兄王様は、西家が富を得るには適さないと、そういうことですね」
「紅炎皇子は武人でいらっしゃいます。しかし西家は代々文官の家系。故に、あなたさまに」
紅明は後ろ頭をがしがしと掻き、再びため息をついた。
「わかりませんね。どうも先ほどからあなたの言っていることが一切信用できない。西家の利益のためと言いながら、あなたの行動は矛盾しています。私の関心を引きたいようですが、心象が悪ければ西家を盛り上げるどころではないでしょうに」
「ですから、さきほどから申し上げておりますでしょう。紅明様にお近づきになりたいのだと。ですが、なぜか皆様には勘違いされてしまうので、わたくしも心を痛めているのです。決してわざとではありませんわ」
「なるほど、よくわかりました」
紅明は三度溜息をつく。
「これ以上話しても埒があきません。あなたはあくまでも被った猫を脱ぐ気はないようだ。昨夜のことも、私に取り入るための策であったということですね。残念ながら、私はあなたたち西家の期待には応えられそうにありません。どうしてもというのであれば、他をあたってください」
「とんでもない。西家が将来を見出したのが、紅炎皇子ではなく紅明様であっただけの事。もし紅明様がわたくしを選んでくだされば、西家は紅明様にとって有力な後ろ盾となりましょう」
真っ赤に塗った唇で弧を描き、能面のような笑みを浮かべる。
紅明は黙って首を横に振ると、立ち上がって言った。
「それでは、あなたでは役者不足です。本気で私に取り入るつもりであれば、もっとましな人選をしたほうがいいですよ。西福達にもそう伝えておきなさい」
そうして軽蔑した表情のままで、若慧の部屋から去っていった。
◆◇◆
紅明が去って行ってほっとしたのは若慧だけではないはずだ。
部屋の外に控えていた紅明の従者も、去り際に安堵した様子が扉の合間からちらと見えた。
沈華だけが妙に不満そうな顔をしていたが、若慧にとってはとにかくやり過ごしたという達成感があった。
本音と建前は使い分けなければならない。
たとえ相手が一国の皇子であっても。