(姓は固定)
第一章 女官編
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目が覚めた時、部屋は茜色に染まっていた。
いつの間にか日が傾いていたらしい。
じっと耳を澄ましてみても、近くに人の気配はない。
どうやら侍女たちは、言いつけどおりにおとなしく下がっているらしい。
呼べば飛んでくるだろうが、今は必要ではない。
躾けが行き届いた侍女たちは、若慧が休むと言った時点で水を張った桶と布と灰汁を用意してから下がっていった。
今日はもう誰とも会う予定のない若慧は、それらの道具を使ってまず化粧を落とす。
重い衣装を脱ぎ捨てて結い上げた髷もほどき、くつろいだ姿になった。
それから灯りを付け、ぼんやりと椅子に座り込んだ。
何も考えなくてもいい時間というものは貴重だ。
窓から空を見上げて、ため息をついた。
月が綺麗だ。これで葡萄酒でもあれば完璧なのに。と詮無いことを考える。
格子のはまった窓は、まるで牢獄の中にいるような気分にさせる。
それでも素顔でいる以上、両開きの窓を開けるわけにもいかない。
部屋は豪奢だが、まるで生活感がない。
上質な物、見栄えのするものを選んで置いた結果、高級品の見本市のようになってしまった。
しかしこれも必要なことだ。
今はまだ、若慧は紅明の妻ではない。
この禁城は、本来ならば皇族ではない人間が住めるような場所ではないのだが、四人の皇子たちが全員未婚で子供もいないということもあり、皇族との姻戚関係を狙うものたちが女官として自分の娘を押し込み、皇子たちにあてがったことで“お手付き”になった娘たちは禁城への滞在を許されている。
若慧は紅明の“お手付き”となった。昼間の女たちも同じだ。
表向きは紅明の衣服を管理する仕事を担っているが、それも実質的にはお飾りの役職に過ぎない。
実務は正規の女官がこなし、若慧達は式典や儀式の席に出席するのみ。
そして、望まれれば夜の相手をする。
だが皇子たちが女の元へ向かうのはある意味皇子としての義務故であり、女の後ろに控える父親たちの影響力を鑑みてのことに過ぎない。
皇子たちは女には興味がないらしく、一度関係を持つと二度と訪れない。
それでも関係を持ってしまえば、女の実家は多少の皇族とのつながりが持てる。
だから若慧の“父”は紅明とお近づきになれたし、紅明は若慧の“父”からいくらか融通してもらっている。
これで若慧が懐妊でもすれば正式に妃として召し上げられ、練家と姻戚関係になった若慧の“実家”西家は外戚としての権威を振りかざせるのである。
残念ながら紅明が若慧の元を訪れたのはもう一年以上前の話で、毎月の月の物も順調に来ている。
そしてそれ以来、紅明とはまともに顔を合わせてすらいない。つまりはそういうことだ。
文使いをしている沈華によれば“父”は大層憤っているようだが、若慧にとってはむしろありがたかった。
“父”の思い通りになってたまるか。それだけが“若慧”を“若慧”たらしめている。
格子窓からずいぶん高く上った月を見上げ、一つ溜息をついて視線を落とした。
禁城の一角にあてがわれた部屋は、決して良いものではない。
身分はあくまでも女官だ。本物の女官たちが住む部屋の近く、使用人棟と皇族たちの住む棟との境にこの部屋はある。
若慧はふらりと立ち上がると、ゆっくりと歩を進め、部屋を出てあてどなく歩き出した。
あまり遠くへは行けないが、自分の部屋から見える範囲であれば問題はないだろう。
もう夜も更けている。宿直の者以外は大方寝静まっている時間帯だ。
時たま、こうして夜の散歩に出かけては気分転換をしている。
今のところ誰にも見つかったことはない。
だから無意識に気持ちが大きくなっていたのだろう。
いつもは通らない道を通り、そして見つけてしまった。壁際にうずくまる影を。
よく見るとそれは人間だった。
髪が乱れて不気味に見えるが、時折うごめいている。
人を呼ぶべきかとあたりを見渡すが、当然のことながら誰もいない。
恐る恐る近寄って見ると、月明かりにも鮮やかな赤い長髪が絡まってふくらんでいるのだとわかった。
若慧は取り繕う間もなく顔を引きつらせる。
この禁城で赤い髪の人物と言えば限られている。
もちろん皇室の人間だ。
皇女の髪は長いが、こんな時間にこんなところで独り歩きをしているはずがないし、そもそもほとんどがすでに嫁いでいて、未婚の皇女には常に従者がべったり張り付いている。
ということは。中でも絡まって膨らむほど長い髪を持つのは一人しかいない。
「あの。もしや、紅明皇子では?」
控えめに小声で声をかけると、その人物はピタリと動きを止め、そしてゆっくりと顔を上げて若慧を見た。
若慧はあやうく悲鳴を上げるところだった。
髪が乱れているだけではない。
肌は荒れ、目の下には隈が浮かび、乾いた唇に伸びかけた髭と言い、着崩れた衣服と言い、尋常でないことは明らかである。
ぼーっとこちらを見ている様子からしておかしい。
確かにもともと兄皇子に比べるといささか精彩を欠く人物ではあったが、今のこの様子は異常だ。
「一体どうなさったのですか!」
「……いえ、ちょっと。軍議が長引いて」
若慧は眩暈を起こしてふらつくのをこらえられなかった。
何とか近くの柱に寄り掛かって体を支え、紅明を凝視する。
「軍議、とやらが長引いて、かようなお姿に?」
ええ、とか、まあ、とかいうようなことを口の中でもごもごという紅明を、若慧はまじまじと眺めた。
まともに口をきいたのは約一年ぶりだが、こんなに情けない人だっただろうか。
以前あったときは、少なくとも衣服はまともに来ていたし、髪もまとめていた。
表情は冴えない様子だったような気はするが、ここまでひどくはなかったはずだ。
それがいくら軍議が長引いたとはいえ、なんという身なりの荒れようだ。
若慧は肩をすくめて身震いをすると、そろりと近寄って紅明の傍に膝をついた。
「紅明様」
そっと声をかけてみると、眠そうな視線が追いかけてきた。
「お部屋に戻られませ。このようなところを誰かに見つかったら大変ですわ」
「……夜が明けたらまた会議があります。そんな暇はありませんよ」
言いながらふらふらと立ち上がろうとする。
これはダメだ。一国の皇子という以前に、人としていけない。このままでは死んでしまう。
若慧は決心して紅明の前に立ちはだかった。
「では紅明様。わたくしの部屋へおいでなさいませ。少しですがお食事をご用意いたしますわ。それから仮眠をお取りくださいまし」
また、ああ、とか、ええ、とかいうような返事を口の中でしている。
でも、と言っているような気もするが、このまま放っておくことはできなかった。
腕をつかんで支えながら、無理矢理付き添って歩き出す。
すえた匂いが漂ってきて眉をひそめた。この人はいったい何日身を清めていないのだろう。
仮眠や食事の前に、湯あみをさせるべきかもしれない。
国を代表するものがこのようなみすぼらしい格好をしているなど、国の威厳を損なうようなものだ。
紅炎皇子が堂々たる偉丈夫なだけに、対比されるような存在が近くにあってはいけない。
第二皇子の紅明は兄皇子の陰に隠れがちではあるが、それでも頻繁に軍議に出席するほどの実権はある。
万が一にも情けない姿をさらすわけにはいかない。
幸いにも彼は特に抵抗もなく、おとなしく若慧に連れられて歩いてくれた。
周囲に気を配りながら部屋へと到着すると、椅子に座らせて隠し持っていた包子を卓に並べる。
紅明が包子をもそもそ食べだしたのを確認してから、近くの井戸まで往復して、水を張った桶を用意した。
本当は湯が欲しいところだが、今はそんなことは言っていられない。
扉や窓をしっかりと締めて、包子を食べ終わって舟をこいでいる紅明を無理矢理立たせて衣服を剥ぎ取った。
水を含ませた布で丁寧に体を拭いていくが、紅明はされるがままになっている。
人に世話をされているのに慣れている皇族らしい様子に内心あきれ果てながらも、決して作業に手は抜かない。
やがて身を清め終わったものの、もともと来ていた衣裳を着せるわけにもいかず、仕方なく自分の衫を寝間着代わりに着せておいた。
この時点で紅明は既にほとんど目を開いていなかった。
仕方なく臥牀へ押し込むと、すぐに寝息が聞こえてきた。
ようやっと一息つけたことで若慧はまろぶように榻に腰かけ、横様に倒れ込んだ。
全身からじわじわと、まるで榻に吸い取られるように力が抜けていくのがわかる。疲れた。
◇◆◇
はっと気が付くと、灯したはずの明かりが消えていた。
窓に駆け寄って空を見上げると、月が随分低く淡く、東の空が白くなっている。
どうやらあのまま眠り込んでしまったらしい。
慌てて紅明を揺り起こした。
「紅明様。紅明様、起きてくださいまし」
朝の会議に出席すると言っていたから、きっと朝議の事だろう。
それまでに一度自分の部屋に返さなくてはならない。
なにより、こんなところを自分の侍女に見られるわけにはいかない。
「朝でございます。会議にご出席なさるのでしょう」
しかし紅明は身じろぎするだけで、一向に目覚める気配がない。
しかたなく若慧はまたもや細心の注意を払って桶の水を張り替え、衣裳をそろえてから気を取り直して紅明を起こしにかかった。
結局紅明が覚醒したのは、全ての身支度が終わってからである。
半ば強引に臥牀から引きずり出し、洗面を済ませ、髭を剃り、髪を梳き、衣装を着せてなんとか見られるようにした。
疲れ切って息を切らし、血走った目を向けている若慧に彼が気付いたのもこの頃である。
「あなたは」
若慧をまじまじと見て不思議そうに首をかしげる紅明に引きつった愛想笑いを返して、仕上げとばかりに胸元を勢いよく叩いた。
あまり力を入れたつもりはないがかなりの衝撃が伝わったらしく、呻いて軽く前のめりになる様子に留飲を下げて、引きつっていない愛想笑いを浮かべながら促した。
「さ、紅明様。お部屋にお戻りくださいまし。朝の早い女官が起きだしてくる前に、お早く」
そして有無を言わさず背を押し、部屋から追い出した。
紅明はまだ名残惜しそうにしていたが、部屋の入口に立ちふさがるようにして見送る姿勢を見せると、渋々背を向けて去っていった。