(姓は固定)
第二章 復讐編
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「何事ですか?」
場違いなほど落ち着いた女の声が庭に響く。
鳳娥がとっさに持っていた小刀で春琴の首に掛かっていた輪を切り裂き、沈華が反対側から披帛を回収した。
支える者もなくなり、地面に投げ出された春琴は、首を押さえながら激しく咳き込んでいる。
小径の向こうから、若慧に比べると地味な装いでありながらも、青白い顔と眼鏡が特徴的な女が姿を現した。
紅明皇子が第一妃 杜貴桜であった。
侍女を引き連れてゆっくりと歩いてくる貴桜の姿を認めるなり、春琴は地面を這うように進み、その足元に縋り付いて懇願する。
「助けてください貴桜様! あの女がわたくしを殺そうとしたのです!」
その見苦しい姿と物言いに、若慧のみならず貴桜までもが眉をひそめた。
取り乱していることを加味したとしても、春琴の立場から若慧を『あの女』と呼ぶのは無礼に当たる。
「この者はこのように言っていますが、本当ですか?」
一応公正を期すつもりなのか、貴桜は春琴を一瞥すると面倒臭そうに若慧に尋ねる。
若慧は、袖で口元を隠しながら困ったように眉尻を下げてみせた。
「まあ。殺すだなんて人聞きの悪いことを。わたくしはただ、風で飛ばされて木に絡まってしまった披帛を取ってくるように命じただけですわ」
「ああ、確かに。今日は風が強いですからね」
「ええ。それで、始めはこの者も命令に従って披帛を取ろうとしたのですけれど、なにせ今日は風が強いでしょう。風にあおられた披帛がこの者の首に絡まってしまって、それで恐慌してしまったのですわ」
若慧の言い分に、貴桜は納得するそぶりを見せる。
貴桜とて、若慧の話が真実だとは思っていないだろう。
それでも、無理に真実を暴き立てて騒ぎを起こすよりかは、偽りの言い分でも場を丸く収める方がましだと判断したに違いない。
事実はどうであれ、要はこの状況を矛盾なく説明できれば良いのだ。
しかし、春琴にはそのような駆け引きは理解できない。
若慧を指差して、犬のようにぎゃんぎゃんと吠えたてる。
「よくもいけしゃあしゃあと! そんな言い訳、通用するはずないじゃない!」
「披帛が少しまとわりついたくらいで大袈裟なこと」
逆上して大騒ぎする春琴に対し、あくまでも若慧は平然としらを切り通す。
そのような状況でも、貴桜は冷静だった。
「その市井の者のような物言いはおやめなさい。里が知れますよ」
しっかりと春琴の言葉遣いに釘を刺し、若慧に向き直る。
「要は、若慧殿が何やら女官に言いがかりをつけられていらっしゃる?」
貴桜の言葉には容赦がない。
確かに間違ってはいないが、言いがかりをつけたことにされた春琴は、怒りですっかり顔を赤くしている。
「そんな、貴桜様! 言いがかりなんかじゃありません! この女は本当にわたくしを殺そうとっ」
「いい加減お黙りなさい、閔春琴。貴女に発言を許した覚えはありません」
なおも食い下がる春琴を、貴桜がすげなくあしらう。
貴桜の侍女によって足元から引きはがされた春琴は、どうして自分がそのような扱いをされるのかわからず、地面に投げ出されて狼狽していた。
「それで、この者を若慧殿はいかがされますか?」
春琴が静かになったことを確認した貴桜は、再び若慧に向き直る。
貴桜の無気力ともとれる表情から感情を読み取るのは難しかった。
実は若慧は、未だにこの妃が自分の敵か味方かを決めかねている。
そこで、少し考えた結果、比較的無難な答えを導き出した。
「わたくしのせいで怖い思いをさせてしまいましたから、披帛の件は不問にしようと思います。ただ、わたくしのみならず貴桜様にまで無礼を働いたことは見過ごせませぬゆえ、何らかの罰を与えるべきではないかと」
「そうですね、それが良いでしょう。以前から思ってはいましたが、この者にはぜひとも目上の者に対する礼節を覚えてもらいたいものです。よって、一月の謹慎に加えてその間に
「ええ、賛成ですわ。わざわざ貴桜様のお手を煩わせてしまって申し訳ありません。この者はわたくしの配下も同然ですから、わたくしが責任を持って監督いたしますわ」
すぐに二人の間で処分が決定する。
しかし、春琴は納得できないようだった。
「なんで? どうしてわたくしが罰を受けなければならないの!? わたくしは殺されかけたのよ!」
喉も裂けんばかりの大声で訴える。
その姿に、若慧が無言で宙を睨み、貴桜がため息をついた。
二人の侍女たちの間からも、くすくすと失笑がこぼれ出る。
ここまでくるとむしろ滑稽だ。
「悪いのは西若慧でしょう! 罰を受けるならばこの女よ。どうしてわたくしが罰されるのよ!」
「それがわからないようだから礼記を書写せよと命じているのですよ、閔春琴。これ以上醜態を晒して、さらに罰を増やされたいのですか?」
貴桜が淡々と告げると、さすがの春琴も言葉に詰まり、顔を歪ませながらも沈黙する。
それでもやはり納得は出来ないらしく、若慧を睨み付けて吐き捨てるように言う。
「これで勝ったなんて思わない事ね!」
若慧は逆に呆れ返ってしまった。
妃二人から顰蹙を買い、罰を受けてもなお懲りずに彼女を敵視してくるとは。呆れを通り越して感嘆の念すら抱く。
未だ鼻息も荒く若慧を睨み付けている春琴を一つ鼻で笑うと、往生際の悪い彼女に引導を渡してやることにした。
「閔春琴。あなたがどうしてわたくしを目の敵にするのか、分からないわけではありません。もしあなたが同じ女としてわたくしに挑もうというのであれば喜んで受けて立ちましょう。ただし、一介の女官と皇子の妃ではどちらに利があるかは、いかにあなたと言えどもおわかりでしょう。たとえあなたの兄君が紅炎皇子の部下だとしても、決して容赦はしませんよ。方法はいくらでもあります。しかと覚悟なさい」
底冷えのするような声で窘められて、可哀想に、春琴は蛇に睨まれた蛙のように顔を青くして居すくんでしまった。
ようやく静かになった春琴に一瞥をくれると、若慧は貴桜に騒がせてしまったお詫びとお礼を述べ、ところで、と続けた。
「そういえば貴桜様。要らぬ心配かもしれませんが、近頃殿下のお足が遠いようにお見受けいたしますが、何かございましたか。わたくしのかわりに御子を授からなければならないのでしょう。わたくしのせいで貴桜様には必要以上のご負担をおかけしているのですもの。わたくしで力になれるようなことがございましたら、なんなりと仰ってくださいませ」
「心遣いありがとうございます。心配には及びませんよ。殿下とはきちんとお話しておりますから」
皮肉を受けながらもにこりと笑い躱してしまう貴桜には、ある種の貫録がある。
女同士の諍い事など、しょせんはこんなものだ。
水面下で根を張り、じわじわと相手を弱らせながら長い時間をかけて権謀術数を巡らせてこそ思惑は遂行される。
正面からぶつかるなど愚の骨頂だ。大勢を巻き込む割には得られるものも少なく、後始末にも手間がかかる。
そうですか、と若慧が頷き、場が鎮まったことで立ち去ろうとする貴桜に礼をとる。
ところが、部屋に戻ろうと踵を返した貴桜は、ふと立ち止まって地面にへたり込んだままの春琴を肩越しに見下ろした。
そうして、数度瞬きをして口を開く。
「貴女はまず、己の身の程を知りなさい」
ただ一言だけ告げられた言葉に、春琴は雷で打たれたかのように体を震わせた。
眼鏡が陽の光を反射して、若慧からは貴桜の表情がよく見えない。
それでも、春琴を怯えさせるほどの何かを与えることはできたらしい。
春琴は目に涙を浮かべるほど怯え震えていたが、貴桜は興味を失ったかのようにすっと春琴から視線を逸らすと、まっすぐ前を向いて今度こそ部屋へと戻っていった。
去っていく貴桜の後姿を見送りながら、若慧は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
以前から彼女のことは認めていたが、どうやら彼女の才能は知性だけではなかったらしい。若慧を押さえて紅明の第一妃に選ばれるだけはある。
この時、若慧は改めて杜貴桜を敵に回してはいけない相手だと自覚したのであった。
なお、これは余談だが、貴桜が春琴に与えた罰は、皇子妃に対する無礼を戒めるためのものだった。
若慧は貴桜に「披帛の件は不問に処す」とは伝えたが、紅明皇子に対する不敬については報告もしなかった。
したがって、春琴への罰は一か月の謹慎と礼記の書写に加え、若慧の指示・監督の元、笞刑五十回が追加されたのであった。
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