(姓は固定)
第二章 復讐編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「ちょっと! いったいどういうことなの!?」
「無礼な! 何事ですか!」
夏も終わろうかという季節の昼下がりである。
うだるような夏の熱気は一向に引く気配を見せず、涼を求めて水辺に近い木陰で一休みしていたところだった。
侍女を引き連れて庭を散歩していた若慧の元に、女官が一人、鼻息も荒く乗り込んできた。
とっさに鳳娥と沈華が主の前に立ちはだかったが、彼女はむしろ、自分を詰問した沈華に食って掛かっている。
「侍女は下がってらっしゃい!」
「お黙り、女官風情が! 皇子妃殿下を何と心得るか!」
沈華の一括にもひるむ気配がない。淑女にあるまじき勢いである。
しかし若慧は、目の前に立つ鳳蛾の背を見ながら、むしろそっと息を吐いた。
ようやく来たか。
あれから若慧は、春琴を通さずに直接陵舞に仕事を命じていたし、陵舞も上司に報告することなく仕事を進めていた。
元より、部下からの報告もまともに聞かずに言われるがままに承認や指示を出していたようなので、事後報告になったとしても気付いていなかったようである。
自分を通さずに仕事が回っていると気づいたのは、恐らく、数日前に第二皇子府で開かれた小規模な宴の時だろう。
春琴が宴の話を聞いて準備のために部下を集めた時には、彼女よりも早くに若慧から直接指示を与えられた陵舞達によって、既に準備が進められていたのである。
ちなみに女官長は、一連の企みを全て黙認していた。
「下がりなさい、沈華。その者の目的は分かっています。おおかた、自分の仕事に取り上げられたとでも思っているのでしょう」
若慧は春琴に冷ややかな視線を向けながら、気色ばむ侍女たちを少し手を上げるだけで制し、主を守るように立ちふさがる沈華と鳳娥も無理やり下がらせた。
沈華は眉間にしわを寄せて渋ったが、若慧は構わずに半歩程前に出る。それだけで彼女は観念したように少し頭を下げて後ろに下がっていった。鳳蛾だけが、納得しきれないのか主のすぐ後ろにぴたりと張り付くようにして控えている。
鼻息の荒い春琴は、胸を反らして顎を突き上げ、見下げるように若慧を睨み付けていた。
「話が早くて結構ですわ。さあ、一体どういうことなのか説明してくださるかしら。あなたの差し金なのでしょう? どうしてわたくしの仕事を取り上げるような真似をなさるの?」
「人聞きの悪いことを。先日の宴の準備のことを言っているのであれば、あなたがあまりにも無能だからではありませんか」
春琴には婉曲な言い回しが通じないということはよくわかっている。
故に、あえて身も蓋もない言い方をすると、彼女は目を大きく見開いて声を高めた。
「あなたが不祥事を起こして役目を退いてから、これまでずっと殿下のお衣裳を管理してきたのはわたくしなのよ。大きな行事も立派にやり遂げて見せたし、殿下から直接お褒めの言葉を賜ったこともあったわ。それを、言うに事欠いて“無能”だなんて!」
「あなたが自分をどう評価するかは勝手ですが、少なくともわたくしにはあなたが優秀であるようには見えませんでしたよ。そもそも、部下の所業を把握していない時点であなたの能力など知れているようですが」
語気が荒くなる春琴に対して、若慧はどこまでも泰然と接する。
春琴の仕事ぶりに関しては、実際に陵舞が直訴に来るくらいである。
粛清のために侍女に命じて幾分か誇張した悪い噂を流しはしたが、そもそも若慧が手を回す前から、方々に使いに出た侍女たちがかき集めてくる春琴に関する評判は良いものではなかった。
なまじ家柄がいいだけに役職を取り上げると具合が悪いというのであれば、地位はそのままにしながら実権だけを若慧に譲るよう仕向ければよい。権力におもねるのが得意な女官長にそう提案すると、彼女は不承不承ながらも諸々を押し殺したような固い表情で承諾した。
「馬鹿なことを言わないで! あなたがわたくしを陥れるために悪い噂を流したのでしょう? そうに決まってる。なんてひどい女なの!」
甲高い声で喚く姿は、まるで幼子が癇癪を起したようである。
「おかしいとは思っていたのよ! 最近、陵舞たちが全くわたくしに指示を仰ぎに来ないし、命令は無視されているし、許可を出した覚えのない衣裳が作られていたりするし。陵舞たちがわたくしのあずかり知らぬところで何やら企んでいるのは知っていたけれど、冗談じゃないわ! 紅明様のお衣裳の責任者はわたくしですのよ! 責任者を通さずに仕事を進めるなんて、あっていいはずないじゃない!」
「馬鹿なことを言っているのはあなたではなくて。どうしてわたくしがあなたを陥れなければならないのかしら。あなたごときを陥れたところで、わたくしに何の得があって」
「何を白々しい! そんなの、わたくしの若さを妬んでいるからに決まっているでしょう? わたくしが紅明様に気に入られているから、自分の地位が危うくなることを恐れたのでしょう!」
その言いざまに、若慧は心底呆れ返ってしまった。
気持ちはわからないでもない。若い頃は無意味に自分に自信があるものだ。それが美しい娘であればなおさらだろう。
背後では侍女たちが押し殺した怒りの声を上げている。
「いい加減に事実を受け入れなさい。こんなところで一人騒ぎたてたところで、現状が覆ることはないのだから。地位を取り上げられなかっただけでもありがたいと思いなさいな」
「『ありがたいと思いなさい』ですって? あなたにそんなこと言われる謂われはないわ! 子供も産めない癖に、偉そうに命令しないでくださる!?」
甲高い大きな声に、その場が一瞬で静まり返った。
その反応にようやく若慧の優位に立てると思ったのか、春琴は胸を張り、顔をひきつらせながらも嘲りの笑みを浮かべる。
「宮中では有名な話ですわ。紅明皇子の第二妃は、まだ女官だった昨年の春に流産して以来、二度と子供を産めない体になったんですって? それなのに、よくも恥じらいもなく堂々と殿下のお傍にいられるわね。わたくしなら情けなくて、二度と殿下の閨に侍ることなんてできないわ! お役目も果たさずに殿下の寵愛だけを得ようだなんて、なんて図々しいのかしら。女として使い物にならないのだから、出しゃばらずに引っ込んでてくださる!」
その言葉に、背後に控えていた侍女たちが息巻いた。しかし若慧は手を上げて侍女たちを制する。
不生女でありながらもそれを容認されている若慧が特殊なだけであって、貴人の妻には本来そのような役割があるのも事実である。むしろ落ち着き払って応えた。
「ええ、そうですよ。確かにわたくしは不生女です。ですが、それでもかまわないと紅明様はおっしゃってくださいましたよ。何も夫の子を産むことだけが妻の役目ではありませんからね。わたくしは、子を産む以外のことを求められて妃となったのです」
「ああ、なるほど。では、さぞ
春琴の言葉に、今度こそ若慧は愕然として目をむいた。
この女は今、何と言った?
若慧も宮中暮らしは長い。
皇帝の後宮ほどではないにしても、競争相手を蹴落とすことに熱心な女たちの口さがない噂話などは珍しくはないし、女ばかりが集まる場所ならではの下世話な話もよく耳にする。
若慧の体のことや、紅明との関係を邪推されるのも初めてではない。
しかし、さすがに今の発言には問題がありすぎる。
自分の悪口だけならば受け流される。
どれほどひどい謗りを受けたところで、所詮は女官の戯言よと一蹴してしまえる。
だがこの女は今、何と言った? 紅明を貶しはしなかったか。
この女は無礼にも、若慧を貶すように見せかけて、一国の皇子にして自身の仕えるべき主を侮辱したのだ。
売り言葉に買い言葉だとしても言っていいことと悪いことがある。
侍女たちは絶句し、沈華でさえも息をのんだ気配が伝わってきた。
「閔春琴、今の台詞は聞き捨てなりませんね。わたくしを謗るだけならばともかく、紅明皇子まで侮辱する気ですか。曲がりなりにも皇子にお仕えする女官の分際でなんという口を利くのです。不敬ではありませんか」
自分で思っているよりも低い声だったと思う。
激高するような激しい怒りではなく、腹の底から湧き上がるような怒りで全身が震え出しそうになる。
しかし春琴は、若慧の怒りに気圧されながらも、それに負けまいとむきになって言い返す。
「不敬ですって? ふん、何よ、本当のことじゃない! 紅明皇子がどれほどのものだっていうの? あんな根暗な皇子、所詮は紅炎皇子の予備じゃない。帝位を継げる保証もないのに、どうしてわざわざわたくしが媚を売らなければならないの? わたくしだって、好き好んでこんなところに来たわけじゃないわ!」
怒りが頂点に達すると、むしろ冷静になるという。
なるほどその通りで、若慧は怒りにまみれながらも頭の芯だけがすうっと冷えていくのを感じた。
「そう」
一つ呟いただけの言葉は、事の他よく響いた。
侍女たちの間に、先程とはまた違った緊張感が走る。
若慧は今にも噛み付かんばかりの様子の春琴を真正面から見据え、すっと目を細めた。
「なるほど、そうですか。ではあなたは、ここを出たいと……根暗な皇子に媚を売るのが嫌なので一刻も早くここを出て行きたいと、そう言いたいのですね」
ならば、と若慧は腕に絡めていた披帛を剥ぎ取り、真上に向かって投げ上げた。
ほとんど衝動的なものである。
腸が煮えくり返っているのをどうにか己の内に抑え込み、無理やり笑みを作ることで感情が爆発しそうになるのを堪える。
宙に舞いあがった披帛は頭上に張り出した木の枝に引っかかり、そのままだらりとぶら下がった。
「宮中を出る方法ならば、限られてはいますがいくつか方法がありますよ。あなたは今すぐここから出たいのでしょう。ならば微力ではありますが、わたくしがお手伝いして差し上げましょう」
「ちょ、ちょっと何? 何するのよ!」
若慧が言い終わるなり、鳳娥と薔滴が春琴の両腕を取って力ずくで押さえつける。
当然のことながら春琴は抵抗して暴れたが、二人の侍女は構うことなく彼女を引きずって木の傍まで連れてゆく。
そこでは沈華が、木の枝から垂れ下がった披帛の片端を輪っかに結んで待ち構えていた。
ここまでくると、自分が何をされるのかわからない程春琴も馬鹿ではない。
「いや! 嫌よ、離して! やめて!」
しかし若慧は、暴れる春琴の耳元に口を寄せて優しく囁く。
「宮中を出たいのでしょう。ならば手っ取り早くて確実なのは、この方法しかありませんわ」
とっさに助けを求めようとした春琴だったが、鳳娥によって口の中に手巾を詰め込まれて声を封じられる。
周囲を見渡しても返ってくるのは怒りの込められた冷ややかな視線と嘲笑のみ。
若慧は、侍女たちが自分の意図を組んで動いてくれたことに満足感を覚え、無理に作ったものではない笑みを浮かべる。
両腕を封じられた春琴の首には披帛の輪が掛けられ、沈華の号令によって数名の侍女がもう片方の端を引こうとした瞬間だった。