(姓は固定)
第二章 復讐編
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若慧が紅明皇子の第二妃となってからほとんど毎晩、彼は若慧の部屋へ泊ってゆく。
若慧の元へ来ないときは、第一妃である杜貴桜の元へ行っているか、自室へ帰っているらしい。
杜貴桜の元へ泊るときも、自ら足を向けるというよりは、ともに公務をしていた流れで朝まで過ごすことが多いと聞いた。第二妃の彼女が言うことではないかもしれないが、もう少し色気のようなものがあっても良いのではないだろうか。
この時も、数日ぶりに訪れた紅明を目の前にして、彼女は盛大に顔をひきつらせた。
夜も更けたころ、公務が終わって直接来たのだろう。朝服はよれよれで、微かに据えた匂いが漂っている。
髪も肌も荒れ放題。唇はかさつき、充血した目の下にはくっきりと隈ができている。かろうじて髭が伸びすぎていないことだけが救いだろうか。
とりあえずは湯あみをさせなければならない。
女官を呼び、湯の用意を急がせる。
彼女を不快にさせた仕返しとして、ほんの少しの嫌がらせに、たっぷりと湯を張った湯船にはたくさんの花びらを浮かべるよう指示を付け足しておいた。
しばらくたって良い香りを漂わせながら戻ってきた紅明は奇妙な顔をしていたが、若慧はにっこり笑って問答無用で彼を椅子に座らせ、髪を梳って香油を塗り、肌には馬油を塗り込んだ。
紅明は、特に顔の周りに様々な臭いが付くのを嫌がったが、どんな抗議も笑顔で黙殺され、結局は言いなりになっているのだった。
手の爪も整え、ささくれも処理して香油を混ぜた蜜蝋でしっかりと保湿をする。
どんなに華奢で運動とは程遠い生活をしている紅明でも、男性である以上、肩幅は広く手足は筋張っている。
その、彼女よりも幾分か大きな手に軟膏を塗りながら、若慧は思わず口元をほころばせた。
手が荒れるのは常に紙を触っているからである。爪の間には墨が入り込んでいて、彼が日ごろから政務に励んでいるのがわかる。
皇帝を支え、国政を、ひいては国を支えている手だ。その手を手入れしていると、彼女も一緒になって政務を手伝っているような心持になる。
我ながら、のぼせ上った若い娘のように浮ついた考えだと自覚しながらも、決して口には出さずに黙々と自分の仕事をこなしてゆく。
紅明は片手を若慧に預けたまま、もう片方の腕は肘をつき、拳で頭を支えながらうたた寝をしている。
それでも体は支えきれずに、拳から頭ががくりと落ちた。
反射的に目を覚ました紅明は、隣でくすくすと笑う若慧に気付き、気まずそうに視線を背ける。
「お疲れですのね、紅明様。お夜食はいかがなさいますか?」
「……食べます」
疲れてはいるが、腹も空いているらしい。
侍女が持ってきた夜食は、いつもの包子と茶である。
常に忙しい彼が安らげるようにと、部屋には疲れが取れるという香を焚いている。
妃となって良かったと思うことは、紅明と深く関わる機会が増えたことである。
おまけに、権力におもねる連中から世の中の情勢も探ることができる。
そうなれば必然的に、公私ともに紅明を知ることが多くなった。
「相変わらず、ここは何も変わりませんわね」
侍女や女官たちを下がらせて、紅明の茶碗に手ずから茶を注ぎながら言うと、早速包子を食んでいた彼は目線でどういうことかと問うてきた。
「顔ぶれこそ変われども、人の営みは変わらない。女たちは嫉妬と憎悪に狂い、男たちは陰謀を巡らし賂を送り合う」
そうでございましょう? と問いかけると、彼は苦笑して肩をすくめる。
あまりに当たり前のことすぎて、言葉を返すのも馬鹿らしくなる。
しかし、それから、と前置きされて問いかけられた言葉に対して、紅明の表情が固まった。
「紅明様、最後にお食事を召しあがったのはいつですか?」
おかしなことに、なぜか彼と視線が合わない。
食事は毎回準備されているはずだ。会議などで手が離せない時は、簡単に食べられる点心を用意するよう手配してある。
女官だった頃にはできなかった。これも妃の特権である。
若慧の元を四日ぶりに訪れた紅明は、二日前には貴桜の元へ泊ったと聞いている。
ということは、どうかすると昨日から何も食べていないことになるのではないだろうか。
一国の皇子ともあろうものが十分に食事もできないとは、どうにも贅沢且つ不可解な現象である。
「紅明様。確かにご公務は大切かもしれません。けれども、それ以上に紅明様のお体も大切ですわ。きちんとお休みになって、お食事も召し上がってくださいませ」
「分かっています。分かってはいるのですが」
「紅明様が重要なお仕事をなさっているのは重々承知しております。でも、休息が必要なのは紅明様だけではありませんわ。部下の方々も、紅明様がお休みならなければ休めないでしょう。皆さまがお疲れであれば、それだけお仕事の能率も下がりましょうに。何も無理にわたくしの元にいらっしゃらなくとも良いのです。貴桜様の元でも構いません。お願いですから、休息とお食事は欠かさずにとってくださいませ」
これで何度目の懇願かわからない。
それでも紅明の生活はほとんど変わらず、一向に改まる気配がないのだから、彼も相当な仕事中毒者である。
何度説得してもまるで手ごたえがない。努力します、という口先だけの答えが返ってくるだけである。
小さくため息をつきながら眉尻を下げると、今度は紅明が苦笑する気配がした。
笑いごとではないと軽く睨むと、再び視線を逸らされる。
「ここでの生活はどうですか? といっても、女官だった頃と大して変わらない暮らしをしているようですが」
紅明が部屋の中を見渡しながら言う。
女官として伺候していた頃も、福達の半ば強制的な支援もあって分不相応に贅沢な暮らしをしていたが、今はれっきとした“妃”である。
変わったことと言えば、女官用の小さな個室から妃用の棟を一つ与えられたくらいである。
大仰な肩書がついた分、以前にも増して多くの侍女や女官や宮女たちに傅かれる生活を送っている。
「ええ、おかげさまで恙なく。ああ、でも」
と、若慧は不意に言葉を切った。
「何と言いましたかしら。わたくしの後任の、確か
そうして彼女は口元に指先を添えて、わずかにほほ笑んだ。
「わたくしに何やら思うところがあるようで、初顔合わせの際にはひどく睨まれましたわ」
くすくすと笑う彼女に、紅明は疲れたように嘆息する。
「ああ、
「あら、お分かりになりません?」
袖で口元を隠してくすりと笑いながら意味ありげに視線を向けてみるが、相変わらず朴念仁な紅明はどうやら本気で気づいていないらしい。
身分も才能も申し分なく、おまけにまだ子供もいない彼を、若い女たちが放っておくはずがないというのに。
大方、彼女自身の希望と言うよりも、彼女の親族によって送り込まれてきたのだろう。
早速紅明に秋波を送っているようだから、熱心なことである。
「私としては、仕事をきちんとしてくれれば構わないんですけどね。今のところは何の問題もありませんから」
「わたくしも気にかけておきますわ。陵舞がうまく補佐してくれるでしょうけれど、経験が浅い分、不慣れなことも多いでしょうから」
「そういうことはあなたにお任せします。人間関係の調整や適性の見極めは、貴桜よりも得意でしょう?」
この場で他の女を持ち出すところが朴念仁だと思うのだが、紅明にそんなことを言っても仕方がない。
わかりました、と了承して、紅明の茶碗に茶を注ぎ足す。
毎度のことながら、艶めいた話題などとは縁遠い二人である。
人払いしているため、若慧も福達に報告されるのを恐れてわざとらしく紅明にしなだれかかるようなことはしない。
それでも夜も更けてきたので、二人でそろって臥牀へ向かったのであった。