(姓は固定)
第二章 復讐編
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第二皇子練紅明との婚儀をいよいよ数日後に控えたある日、夜も更けた時間に若慧を呼び出した者がいた。
悪趣味な極彩色の衣裳を身にまとい、歪な肉塊のような体を牀にめり込ませるようにして座っている。
あまりにも肉が付きすぎて、どうやら立っていることすら辛いらしい。贅沢が過ぎてぶくぶくに肥え太った体は、自重に耐えかねて広い牀の上に大きく広がっていた。
口に出すのもおぞましい、“西若慧”の“父親”である西福達であった。
「全くもって忌々しい」
福達は部屋の扉が閉められるなり、「お呼びでしょうか」と挨拶をした“娘”に対して開口一番に吐き捨てるように言った。手に持った酒杯を片手に、尋常ではない目で若慧を睨んでいる。
室内は、強い香の煙と酒精と脂の臭いに満ちていた。
仄かに女物の白粉の香りも交じっていて、側には酒器を持った若い女が一人、及び腰になりながら控えていた。
見目もよく身なりこそ小奇麗にしているが、挙動不審なその様子と裳の裾からわずかに見える鎖から、彼女も西家の所有する奴隷の一人であるとわかった。
奴隷の処遇は主人の気分次第。若慧を目の前にして福達の機嫌が最悪な今、その怒りがいつ自分に飛び火するか気が気ではないのだろう。可哀そうに、はた目にも分かるほど細かく体を震わせていた。
おまけに若慧は西家に戻ってから一度も母屋を訪れることがなかったため、彼女とは初対面である。彼女は若慧が何者かわからず、どう機嫌を取ればよいか迷っているようだった。
若慧もちらりと彼女を一瞥はしたものの、すぐに視線を逸らした。残念ながら、彼女には関わる理由も同情してやる余裕もない。無いものとして扱うのが一番だ。
それにしても福達は、若慧が部屋に入ってきてもこの女奴隷を遠ざける様子がない。
どちらにせよ処分される運命なのか、この女が言いつけをきちんと守る従順な奴隷なのか。
部屋には福達と若慧と、それから福達が従える女奴隷と、若慧を監視する名目でついてきた沈華だけである。
若慧は背中に流れる冷や汗を感じながら、渾身の思いで福達に対峙していた。
この男を目の前にするだけで、否が応でも過去に受けた仕打ちの数々が思い出され、心臓は鼓動が早くなり呼吸は乱れる。
こればかりはいつまでたっても慣れない。
しかし、弱みを見せればすぐに付け込まれる。
しっかりと背筋を伸ばし、視線は伏せ気味にして極力福達を見ないようにしながら、決して臆さぬように立った。
そうして一向に動じない様子の若慧に、福達から盛大な舌打ちが漏れる。
「相変わらず忌々しい女だ。いったい自分を何様だと思っておるのか」
酒が入っているからか呂律が十分に回っておらず、思考と独り言の区別がついていない様子だった。
福達は酒杯を持った腕を掲げて、若慧を指さしながらどら声をあげた。
「貴様ぁ! 皇子の妃になるからと言っていい気になるなよ! 貴様など、所詮は生まれの卑しい貧乏人に過ぎんのだ。そうやって綺麗な服を着て贅沢な暮らしができるのも、全て儂の恩恵あってこそ! 奴隷にならねば野垂れ死にするしかなかったところを救ってやったのだから、貴様は儂に感謝すべきなのだぞ! 分かっているのかぁ!」
酔って叫びながら酒杯を投げつける。
まだ酒が入ったままの杯は若慧の脚に当たり、淡色の裳裾を赤く濡らした。
杯が床に落ちた甲高い音に一瞬尻込みしそうになるのをぐっとこらえ、動じていない風を装う。
酔っ払いには何を言っても焼け石に水。若慧はただひたすら福達の気が済むまで耐えていた。
しばらく罵詈雑言を吐き出し続け、散々に悪態をついていた福達だったが、やがて酔いが深く回ったのか、ぐったりと項垂れたまま動かなくなった。
ぐぶごぶと鼾にも鼻息にも似た音を漏らしていたが、ふと静かになったかと思うと、ゆっくりと顔を上げる。
そしてやけに濁った眼で低く呟いた。
「太子紅炎を廃し、第二皇子である紅明皇子を帝位に付ける」
告げられた言葉に、若慧は答える間もなく絶句する。
「じきに西域は荒れるだろう。そうなればこの国も本格的に西方侵攻へと乗り出し、征西軍を率いるは恐らく紅炎が選ばれる。かの皇子が遠征先で死んでくれれば、穏便に太子の座を紅明皇子へ明け渡すことができよう。我が西家は次期皇帝の外戚となるのだ」
一体この男は何をしようとしているのだろうか。
まさか、遠征に合わせて太子暗殺を企んでいるのではあるまいか。
「なんと……なんと恐ろしいことを!」
福達の言わんとしていることを察し、若慧は胸元を抑えて大きく喘ぎ、めまいを覚えてふらりと傾いた。それを後ろから支える沈華は、まるで彼女を逃がすまいと目を光らせる獄卒のようにも思える。
その姿を見て福達は笑声を漏らした。
「何が恐ろしいものか。あの紅徳とて、兄である白徳大帝を弑して今の玉座に座っているのだ。二代続けて同じことが起こったところで、なんら不思議はなかろうよ」
若慧は頭が真っ白になった。
確か白徳大帝は、敗戦国の残党に殺されたはずだ。しかしそれをこの男は、紅徳帝の仕業だと言っているのか。もしそれが本当なら大変なことである。
いいや、福達は今、酒に酔っている。酒の上の戯言かもしれない。そうに違いないのだ。
愕然とする若慧に、福達はうっそりと笑う。
「貴様の戸籍はまだ儂が握っておる。皇室へ籍を移したからと言って、儂から逃れられると思うなよ。良いな。男児を産め。不生女が子を産んだという先例を引っ張り出してきたのは他でもない杜貴桜だ。その万に一つの可能性をお前が果たさなければ意味がないのだぞ。努々忘れるな。所詮、貴様は儂の所有物に過ぎんのだ」
言い終わるなり福達は、用は済んだと手を振った。そうして傍らに控えていた女奴隷を引き寄せ、体をまさぐり始める。
沈華に促されて退出しようとした若慧は一瞬、女が助けを求めるような、縋り付くような視線を向けてきた気がしたが、気づかなかったふりをしてすぐに顔をそらしてしまった。
薄い紗の衣裳を身にまとった彼女の仕事など、想像したくもない。
しかし若慧自身にとって、彼女は他人ごとではなかった。一歩間違えれば、あそこにいたのは若慧自身であったかもしれないのだ。
今しがた直接釘を刺されたように、簡単に福達から逃れられるとは思っていない。
あの女奴隷の姿は、若慧の中に、自戒と軽蔑と安堵を生み出すには十分だった。教養を身に着けておくよう教えてくれた祖母はやはり全く間違ってはいなかったのだと、あそこにいるのが自分でなくてよかったと、自分よりも下位の者がいるというだけで安心感を得られる自分は、つくづく嫌な人間だと自嘲した。
ただ、なまじ教養があるだけに、先ほど福達が言っていたことも気にかかる。
紅明に報告するにしても、情報を集めて精度を上げ、真実を見極め、伝える時期を見計らわなければならない。
業腹だが、福達に関しては先日尋ねてきた慶淑を信じるしかない。
若慧が今やらなければならないことは、西氏がバルバッドの独占貿易権を得られるようにすること。
しかし、福達の企みをそのまま紅明に告げ口すれば、西氏そのものが危ない。この国には「連座」という厄介な習慣がある。何事も慎重に動かなければならないのだ。
福達の部屋を退出した若慧は、自分の部屋に戻ってもなお、しばらくの間緊張を解くことができなかった。