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第一章 女官編
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秋の庭は春とはまた違った美しさがある。
春のような生命力に満ち溢れた心浮き立つような華やかさはなくとも、夏の暑さを乗り越えて冬を迎えんとする草花が熟した果実をたわわに実らせ、老成した落ち着きを伴って風情ある雰囲気を醸し出していた。
煌帝国第二皇子練紅明が通されたのは、西福達の屋敷の庭にある池のほとりの四阿だった。
夏が終わったばかりで、日中はまだ熱がこもる日々が続く。水辺で涼みながらお茶でも飲みましょうと提案したのは、この家の娘である。
白い肌に赤く紅を引き、額には上品な朱色の花鈿。眉は細く書いて、目元は墨と青丹で縁どりされ、睫には孔雀の羽の欠片が乗っている。
高く結い上げた髪には、翡翠と珊瑚をあしらった金の簪に混じって、白と赤のつまみ細工の菊の髪飾りが揺れていた。耳と首、腕には、髪飾りと揃えて珊瑚をはめ込んだ金の飾りを。
衣裳はというと、象牙色の襦と紅色の裙に深緑色の半臂を重ね、翡翠色の帯を締めている。そして腕には薄藍色の被帛を掛けていた。
派手すぎるが故に禁城では一部の者達から眉を顰められるような装いだったが、なぜかその姿を見るなり紅明はほっと息をつく。
一方で若慧も、いつもと変わらぬ様子の紅明の姿に肩の力が抜けたような気がした。
手入れの行き届いていない紅い長い髪も、吹き出物の痕が残る顔も、どうあっても着崩れてしまう服の感じも、今は全てが懐かしく馴染みのあるものだった。
「お久しゅうございます、紅明皇子。先だっては細やかなお心遣いをありがとうございました。おかげさまで、もうすっかり良くなりましたわ」
「それは何よりです。本当に、以前に比べて見違えるように顔色もよくなりましたね。安心しました」
若慧が微笑んで礼をすると、紅明も鷹揚に頷いた。
煌帝国で栽培された茶を淹れ、伝統的な茶菓子を振る舞う。
最後に会ったのはまだ若慧が憔悴して寝込んでいた頃で、無様な姿を見せてしまった為、できれば会いたくないというのが本音ではあったが、現在二人は婚約中の身。会いたいと言われれば応えざるを得ないのが憎たらしい。
案の定、紅明はどこかよそよそしい様子で若慧が差し出した茶を飲んでいる。
いつもは鬱陶しいほど彼女につきっきりで張り付いている沈華も、珍しく気を利かせたのか、四阿から少し離れた木陰で他の侍女と共におとなしく控えていた。
何か話題を探さなければならないのだろうが、どうしたものかこの日に限って、こういう時のために普段から用意しているどの話題も適さないような気がしてならない。
彼はどのような話題を好んでいただろうか?
若慧は政治や軍事に関しては紅明よりも疎く、若慧が得意な流行に関しては紅明は疎いどころの話ではない。
以前は一体何の話をしていたのだったか。なぜ彼との会話が楽しいと思えたのだろうか。
今更ながらに紅明と話すことに戸惑いを感じてしまう。
仕方なくしばらく無言で茶を飲んでいた二人だったが、やがてこの空気に耐えかねた若慧が先に口を開いた。
「あのお約束を、守ってくださったのですね」
ずいぶん前に、紅明は若慧を妃にすると約束した。
あの時は他の女を寄せ付けない為の口実としての約束だったはずだが、今、その約束は違った意味で果たされようとしている。
紅明は一瞬きょとんとしていたが、後ろ頭をガシガシと掻きながら、口の中でもごもごと返事をした。
「ええ、まあ、あれから随分時間は経ってしまいましたが。遅くなってすみません」
「まあ、なにをおっしゃるのですか。わたくし、先日初めて輿入れのお話を聞いて、嬉しゅうございましたのよ。まさか、本当に紅明様がお約束を守ってくださるとは思いませんでしたもの。あの時とは随分状況は変わりましたが、まだわたくしを妃にしてくださるのですね」
「すみません。あなたの意志を確認せず、こちらの都合で勝手に決めてしまいましたが」
「おやめください。どうしてお謝りになるのですか」
謝ってばかりの紅明に、若慧は軽く苛立ちを覚える。
「家同士の婚姻など、本人の意志どころか婚礼の当日まで互いに顔も知らないことが普通でしょうに。わたくしの事など、紅明様がお気になさる必要はないのですよ」
視線を逸らしてしまった紅明に、若慧は困惑して逆に問いかけた。
「それよりもお聞かせくださいませんか。どうしてわたくしなのですか。家柄はともかく、子も産めない惨めな女を妻にしたいと望む者はいないでしょう。そのようなお話があったとしても、どこぞの好色な男の後添いになるのがせいぜいだと思っておりましたものを、まさか再び皇子殿下へ嫁ぐことができようとは思ってもみませんでした。わたくしなどのために、杜妃様までもがお力をお貸しくださったとか。どうしてですか、紅明様? どうしてそこまで」
「そのような言い方をしてはいけません!」
突然、紅明が若慧の言葉を強く遮った。
「『わたくしなど』と、そのような言い方をしてはいけません。あなたは自分の価値を甘く見すぎている。家の格や力だけが全てではありません。他に、あなた自身に価値があると判断されたからこそ重臣たちも説得できたし、貴桜も協力してくれたのです。ですから、あなたは二度と自分を卑下するような事を言ってはいけません。いいですね?」
「も、申し訳ありません」
あまりにも紅明が怖い顔をするので、思わず反射のように謝ってしまった。
なぜ怒られたのかもわからず、途方に暮れて黙りこむ。
それを見て紅明は言い過ぎたとでも思ったのだろうか。仏頂面をしながら「すみません」と謝ってくる。
「こ、紅明様!」
「はい、何でしょう!」
なぜか先ほどからあまりにも何度も謝られる。
彼女が謝ったことに対しても謝られて、なぜこうもやたらと謝られなければならないのかと、彼は謝るために来たのだろうかと、無性に腹が立った。
じれったくなって、つい語気が強くなる。
「もうございませんか?」
「は、何がですか?」
「謝ることでございます。紅明様ときたら、先ほどから何かと謝ってばかり。おかげで、わたくしまで謝る羽目になったではありませんか」
「え、それは私のせいなのですか?」
自分のことを棚に上げて攻め立てると、さすがに紅明も目を白黒させて反論する。
しかし勢いづいた若慧が、そこで止まるはずがなかった。
「『すみません』だなんて、わたくし、いい加減聞き飽きましたわ。せっかく気持ちの良い日ですのに、辛気臭いお話はあまり聞きたくありませんの。そろそろやめにしたいのですけれど、もう他にはございませんこと?」
「いえ、それは、その」
先ほどの反論はどこへやら、口の中でもごもご言って、何やら歯切れが悪い。
これはあるなと思って視線で促すと、彼は視線をそらしながら小声で言う。
「あの、若慧」
「はい、何でございましょう」
どうしても辛辣な受け答えになってしまうのは許してもらいたい。
彼女を苛立たせた彼が悪いということにしておこう。
「ええと、実はもう一つ、あなたに謝らなければならないことが」
「もう一つ? まあ、なんですの?」
心当たりがなくて首をかしげていると、彼は非常に言いにくそうに眉根を寄せる。
「あなたを西家に戻してしまったことです。あなたと福達の関係を知っていながら、重臣たちを納得させるためにもそうせざるを得ませんでした。一応、福達には私からも念押しをしておきましたが、不快な思いをしたのではありませんか?」
「まあ、そのようなこと……」
ない、とは言い切れないのが残念である。
しかし、それこそ彼に誤ってもらうようなものではない。
若慧が紅明の立場でも同じことをしただろう。
輿入れ前の娘が実家に住むのはごく自然なことであり、別の屋敷にいるほうがおかしい。
重臣たちの言うことももっともである。このことについて彼を責めることはできなかった。
「それももう、どうかお気になさらず。わたくしと父のことにまでお気遣いいただかなくても大丈夫ですわ。西家のことは西家でなんとかいたしますもの。それに、紅明様がお考えのほどひどくはありませんでしたのよ。むしろ、丁重に扱われて戸惑ったくらいなのです。輿入れのお話を聞いて、ようやく納得いたしましたけれど。重臣たちの言い分も、何もおかしなことはありませんわ。紅明様は当然のことをなさったまでですもの」
「すみません」
小さな声で紅明はまた謝った。
若慧はそっと嘆息して立ち上がると、紅明の隣に座り直してその二の腕に手を添える。
「さあ、もう、これで終わりですわね。もしまだあったとしても、わたくしは聞きませんことよ。せっかくの良いお話ですもの。重苦しいお話は不釣り合いですわ」
互いに謝り合うような話をしたいわけではないし、謝るたびに二人で顔を顰めるのも奇妙な話である。
宥める様に紅明の腕をさすっていると、彼は小さくふっと息を吐いて笑った。
「やれやれ、やはりあなたにはかないませんね」
紅明が首の後ろを撫でながら苦笑して言う。
「もったいないことでございますわ。わたくしの方こそ、紅明様にはいつもご迷惑ばかりおかけしておりますものを」
謙遜すると、彼はゆるゆると首を横に振った。
「いいえ、そういう意味ではなく。今、無性にあなたの包子が食べたくなったんです」
話の脈絡はなかったが、そう言った声が本当にほっとしたようだったので、若慧も思わず目を伏せて眉尻を下げた。
「あのようなものでよろしければ、次にいらっしゃるときに沢山ご用意しておきますわ」
なにやら照れ臭くなって小声で答えると、紅明からは「楽しみにしています」と返事があった。
ああ、本当に、自分たちは何の話をしているのだろうか。
先ほどから頭がぼんやりしたようで、何を話しているのかわからない。
紅明は卓に肘をついて、すっかり油断しきった様子で若慧を眺めている。
「若慧」
「はい」
思いのほか優しい声で名前を呼ばれて、若慧は思わず息を飲んだ。
顔を上げると、こちらを眺める紅明と目が合う。
「何か、望みはありませんか?」
「望み、でございますか?」
「ええ。例えば、欲しい物とか、行きたい所とか」
「そう、ですね」
彼はどうしてそんなことを聞くのだろう。
どぎまぎしながら少し考えはしたものの、何気なく視線をやった池の水面を見て、ふと言葉が浮かんできた。
「海が、見とうございます」
「海、ですか?」
おちついて耳を澄ませてみると、そよいだ風が水面を波立たせ、微かな潮騒に似た音がする。
「ええ。紅明様の紅色の御髪と同じ色に染まった夕焼けの海を、見てみとうございます」
故郷で見た海は美しかったが、あの風景は今も変わらないのだろうか。
彼はといえば、妙なことを聞いたとばかりにきょとんとしている。
「貴女は海を見たことがないのですか?」
「あら。紅明様とは、一度も見たことがありませんわ」
からかうように微笑みながら言うと、なぜか紅明は黙りこくってしまった。
卓に肘をついたまま口元を覆って、顔を逸らしてしまう。
昔、父の目を盗んで港まで海を見に行ったことがある。
屋敷のバルコニーから見えるのとは違って、間近で見る海はとても雄大で荒々しかった。
あの光景をもう一度、今度は紅明と一緒に見たいと思ったのだ。
何も故郷に帰らなくてもいい。もし今後、彼が船に乗って国外へ出ることがあったなら、港まで見送りに行ってみたいと思うのだ。
自分は意外と楽観的で、かつ欲が深いらしい。
福達がどうにかなりそうだとわかった途端、今度は欲しいものがどんどん増えてくる。
「では、紅明様は、何をお望みですか」
人に聞いておいて自分が言わないのはずるい、と試しに聞いてみると、一瞬紅明が固まった。
両手で顔を覆い、大きく息を吐いている。
かと思うと、突然両腕を伸ばして隣に座る彼女の体を引き寄せ、覆いかぶさるように抱き込める。
「一応、今一番欲しいものは叶いました」
彼女の肩口で紅明がもごもご言う。
この時彼女は、彼に顔が見えていなくてよかったと無意識にほっと息を吐いた。
顔が熱いのだ。おまけに心臓がうるさいほど鳴っている。
こんなみっともない姿を見られるのは、彼女の矜持が許さない。
この自分が他人に翻弄されているなんて!
彼女は混乱しながらも、自分を落ち着かせる方法と、自分を抱きしめて動かなくなった紅明を離す方法を必死に考えなければならなかった。
そんな主達のほほえましい姿を、沈華は四阿から離れたところで一部始終を見ていた。
距離があるので声までは聞こえなかったが、お仕えする主の表情が、これまでにないほどくるくる変わる。
隣に控える薔滴などは、距離があることをいいことにすっかり主達が戯れ合う様子に見入っている様子である。
最近ふさぎ込むことが多かった主が楽し気に皇子と語り合う姿を見られるのは本当に嬉しいことだが、仕事を忘れて浮かれる薔滴には後で仕置きをしないといけない。
センスの良さと化粧の腕を高く買われて側付の侍女として仕えてはいるものの、この娘はいつまでたっても己の立場を自覚しようとしない。
皇子の妃の侍女という面では、禁城に残っている溥泰鳳娥の方がよほど信用に値する。
新しい侍女も加わったことであるし、今は彼女たちの教育で手いっぱいなのが現状である。
おまけに福達と紅明皇子の命令を両立させるのは、正直簡単なことではなかった。
しかし彼女にとって、西若慧という主の安寧が何よりも優先すべきことである。
主が幸せであればそれでよい。主を悩ませるものは全て排除すればよいだけだ。
思惑はそれぞれにあれど、秋の盛りはすぐに過ぎてゆく。
翌年の初め、煌帝国第二皇子練紅明と、西福達が娘西若慧の婚礼が盛大に開かれ、洛昌の街は華やいだのであった。