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第一章 女官編
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「お前は紅明皇子の妃になることが内定している」
慶淑のその言葉に、若慧は目を見開いて驚いた。それはもう、心臓が止まるかと思うほどに驚いた。
「お待ちを、それは一体どういうことですか?」
動揺のあまり、茶器を使う手に力がこもる。
卓に置いた茶器が品を欠いた音を立てた。
「どういうことも何も、お前は年が明け次第、紅明皇子の妃として輿入れするのだ。西家としては一度失ったものを再び得られた幸運にして、これ以上ない良縁だからな。奴隷とはいえ、お前を無碍にすることは出来んだろう。それを考えれば、今のこの扱いも当然のことだと思うが?」
「わたくしがどうして宮中を出されることになったのか、よもやご存じないわけではないでしょう。皇子の子を殺し、“実の姉”との醜い諍いごとで宮中を騒がせて、療養という名目で厄介払いをされたのですよ。おまけに、わたくしは二度と子を成すことができないと言われております。それは他でもない、皇后様の侍医殿から告げられたことですわ。子を産めない女が皇子の妃になるなど、そんなことが許されるはずがありません」
慶淑の答えが信用できず、重ねて言い募る。
しかし彼は少し眉根を寄せたものの、鼻息一つで彼女の訴えを跳ねのけた。
「もちろん、反対意見も多かった。しかし、煌帝国はこれからさらに国の外へと侵攻を続けてゆくという時に、成人した一国の皇子が未だ妃の一人も娶らずに独り身でいるのは、他国への外聞も悪いだろう」
「しかし、わたくしでは西氏の後ろ盾を得ることはできても、血筋を残すことはできませんわ。皇族が血筋を残すのは最重要事項のはずです。妃候補者ならば他にもいらっしゃるでしょうに、なぜ」
「当然、皇室としては西氏の権威を引き入れることこそが目的だろう。それに、妃と言っても側妃だ。今回は正妃は立たない上に、お前は第二妃。第一妃は杜巨望様のご息女で、杜貴桜という娘だ。この娘に子を産ませれば、皇室としては何も問題はないだろう。そもそも、お前をもう一人の妃に推薦したのは杜貴桜だ。過去の史料を漁って、不生女と言われていた女が子を産んだ例を山ほど引っ張り出してきた」
杜貴桜のことはよく覚えている。
直接会う機会こそ少なかったが、博識で頭がよく、紅明からも気に入られている女である。
若慧のところに来ない日は、杜貴桜の元へ行っていたと侍女たちからは聞いている。
彼女からすれば若慧は敵対するべき相手であるはずだが、なぜ彼女は若慧を宮中に呼び戻そうとするのだろうか。
「どうしてまた、わざわざそのようなことを」
「紅明皇子が正妃を迎えることを拒んだせいだと聞いている。紅炎皇子が結婚したばかりでまだお子様もいらっしゃらないのに、自分が正妃を迎えることはできないと。……お前が身ごもったとき、諸侯から似たようなことを言われていらっしゃったからな。もし今後、紅炎皇子にお子が生まれたら、その時は杜貴桜が正妃として立つことになっている。お前は万に一つの可能性に掛けられた、いわば予備だ」
若慧は呆れ返ってしまった。
仮にも一国の皇子の婚姻に、どうしてまたそんなこじ付けのような理由がまかり通ってしまったのか。
脱力して息を吐くと、慶淑は唐突に表情を引き締めて声を低めた。
「今、西一族では内内に福達伯父上を排除しようという動きがある。伯父上の代わりに私の父を代わりに家長に据え、政よりも貿易事業に力を入れようという意見が出ているのだ」
若慧は困惑した。話の流れが見えない。
おまけに、なぜこの男はそんな話を自分に聞かせるのか。
「お話が見えませんわ。わたくしにそのようなお話を聞かせて、一体どうしろとおっしゃるのですか」
眉を顰める若慧に、慶淑はさらに続けた。
「そもそも西氏は、今でこそ伯父上の威光で宮中でも高官として働くものが多いが、元は資料室の片隅でこそこそと書類を整理していた一介の下級官吏に過ぎなかった。そして、西家の家長は代々、有力な商人の家から妻を迎えることで独自に諸外国との貿易事業を進め、富を得てきた。むしろそちらが本業と言っても差し支えないほどに。……商品として何を扱っていたかは、お前もよく知っているだろう」
若慧は苦虫を数百匹は噛み潰したような表情を作る。
聞いていて気持ちの良い話ではない。
しかし慶淑は、構わずに話を続けた。
「ところが最近になって、伯父上が出世しすぎたがために朝廷が西家に目をつけ始めた。その件で長老たちから不信の声が上がったのだ。今までは日陰で目立たぬよう息をひそめていたからこそうまくいっていたものを、このままでは家業を隠し通すことは難しくなるだろう。伯父上は確かに有能だ。自身は宰相に手が届くところまで出世し、娘を後宮に入れることで信用を得て、一族の者たちの地位をどんどん上げていったのだからな。だがその後宮でお前と若麗は身内の恥を晒すような不祥事を起こし、隠蔽もうまくいかず、今や伯父上の権威は揺らぎ始めている。伯父上個人が有能なだけで、もともと西氏そのものに何らかのうま味があるわけではない。方々に恨みを買っている伯父上に味方するものは少なく、家業がばれればうまく逃れられるはずもない。一族皆殺しは避けられないだろう」
そこで慶淑は息をつき、茶をあおった。
酒を出した覚えはないのに、その姿はまるで酔っているかのようである。
「そもそも私は、あんな稼業はとっととやめるべきだと思ってるんだ。最近、煌帝国では紅明皇子が奴隷に関する法を整備したせいで、奴隷貿易に対する締め付けが厳しくなっている。新興国のシンドリアは交易にすら応じないし、これまで一番の得意先だったレームでは、近年とある貴族がファナリスを好んで買い集め、実質的に保護していると聞く。ファナリスだぞ! 戦闘民族ファナリスだ! 連中を集めているということは即ち、レームは軍備を整えているも同然だ。ファナリスならば当然、僅かではあるが以前に何度か扱ったことがある故、奴らの危険性はよくわかっている。ならばわざわざ敵国に塩を送ってやる必要もない。こんな危険で非効率な商売は早々に廃業して、健全に正規の品を取り扱うほうがよほど安全で確実というものだろう?」
机を叩いてまで熱弁して見せたが、話が進むごとに若慧の気分は冷めていった。
若慧を奴隷として売り払ったのは故郷にいる元婚約者の男であるため、直接彼らは関係ない。
彼らが若慧を買い取らなかったところで、別の誰かが彼女を買い取っただろう。その誰かが彼女をどういう扱いをしたかも、若い女の奴隷の行く先など想像に難くない。
そうとわかってはいても、なぜもっと早くその可能性に気付かなかったのだろうか、と思わずにはいられないのだ。
自然と尋ねる声がひどく冷たいものとなる。
「それで、具体的にはどのようになさるおつもりですの。わたくしにそのようなお話を聞かせるということは、紅明皇子の妃となり、何かしらの利益をもぎ取って来いということなのでしょう。わたくしが紅明皇子に嫁いでしまえば、もう奴隷の身分ではなくなってしまいますわ。事と次第によっては、西氏を裏切って皇子に味方するやも」
脅すように揶揄するが、対する慶淑はなぜか意味ありげな表情で言い切った。
「お前は裏切らない」
そうしてはっきりと宣言した。
「なぜなら、我ら西氏は今後、バルバッド貿易に関する独占権を得るからだ」
若慧の心臓が大きく跳ねた。
彼女が目を見開いて息を飲んだのを見て、慶淑はしてやったりとばかりに鼻の穴を膨らませる。
「今、バルバッド国内では混乱が起きつつある。ラシッド王が病床にあり先は長くないのをいいことに、第一皇子と第三王子が次期国王の座を争っているらしい。ラシッド王が推す第三王子は妾腹だが出来の良いともっぱらの評判で、対する第一王子は、王妃の子という血筋を重視する連中によって家臣団が真っ二つに割れているらしい。国王が臥せっている現在、第一皇子が国政を任されているんだが、これがまた絵に描いたような暗君でな。第一王子が出来損ないだという話は以前から周辺国の間でも有名だったが、海洋貿易の要ともいえるバルバッドも、君主が愚鈍では国は立ち行かない。当然、煌帝国としては第一王子が王位につくことを望んでいる。そこにこそ、介入する隙があるというものだ」
若慧は胸に手を当てて大きく喘いだ。今度こそ話の内容についていけない。
ラシッド王が病にかかり、国が不安定になっている。
第一王子アブマドの不出来など他国の者に言われるまでもなく、バルバッドの王宮に近い者であれば誰もが知っている話だ。
父は大丈夫だろうか?
真面目な父のことだから、アブマド王子の我儘に付き合ってさぞ苦労していることだろう。
老齢の祖母は体調を崩していないだろうか?
慶淑の口ぶりから、バルバッドの混乱は以前からあったのだろう。
宮中を出たことにより、若慧の元へ情報が届かなくなってしまった弊害が、このようなところに出てくるとは。
己の不甲斐なさと、どうすることもできないもどかしさに、ただただ歯を噛みしめる。
そんな彼女の混乱をどう受け取ったのか、慶淑は上機嫌で話を続けた。
「西氏は、煌帝国の西域進出に乗じようと思う。とはいっても、西氏の本業は文官だ。実際に動くのは私の母の実家になる。鄭氏は国内でも有数の商家だぞ。陰で奴隷商に手を染めてきた伯父上の妻である伯母上の実家と違って、代々真っ当な取引をしてきたおかげで、国からの信用も計り知れん。取引の品は塩や布、香辛料、宝石などが主になるだろうが、バルバッドには他にも世界各国から珍しい品々が集まるだろう? だからお前を紅明皇子の妃にして、西家が独占権を得られるようするのだ。何、既に根回しは済んでいる。お前の役目は西氏と朝廷の橋渡し役となり、皇族との関係を確たるものにすることだ」
立て続けに聞かされる内容に、冷静さを取り戻すのには少しかかったが、慶淑の話が長いおかげですぐに頭を切り替えることができた。
大きく深呼吸して、頭を高速で回転させる。
上手い話には裏がある。気になるところは全て確認し、損得はしっかりと見極めておかなければならない。
「わたくしには、紅明皇子がそのように簡単に懐柔できる方だとはどうしても思えないのですけれど。もし仮にうまくいったとして、国策として動くのであれば、西氏が付け入る隙はないのではありませんか?」
「ふん、いくら国の方針とはいえ、役人が直接商売をするはずもない。肝心な部分で動くのは結局のところ商人だ。都の豪商を集めて委託するのも一つの手ではあるが、それでは商家ごとの利益に偏りがでて争いになるのは目に見えている。ならばまとめて西家が手配を請け負おうというのだ。塩も布も香辛料も宝石も、全て普段から母の実家が商品として取り扱っているものばかり。国としても複数ではなく一か所に全てを任せることができるのであれば、これほど楽なこともあるまい」
そこまで言って、彼は彼女に最後のとどめを刺す。
「バルバッドはお前の故郷だろう? うまくいけば、故郷に帰れるかもしれんぞ」
若慧の心が大きく揺れ動いた。
故郷に帰れる! なんと喜ばしいのだろう!
もし成功すれば、あれほどまでに望み焦がれた故郷にようやく帰ることができるのだ!
父や祖母はどうしているだろうか。幼い頃から世話をしてくれた乳母や使用人たちは元気だろうか。
屋敷のバルコニーから毎日のように眺めていた海辺の景色は、まだ変わっていないのだろうか。屋敷の表通りで果物を売っていた商人たちの掛け声は、今でもはっきりと思い出せる。
故郷に帰れる! ああ、なんと嬉しい響きだろう!
一瞬目の前が白く染まり、顔が熱く火照ったが、一方で、心の片隅で冷静になれと叱咤する自分がいた。
感情に流されるな、その前に目の前の問題を見直せ、他者に感情を気取られるなと、宮中で培った理性が必死で高揚する感情を制止している。
案の定、慶淑は傲慢な視線で若慧を品定めするように眺めていた。
若慧が感情を隠すように微笑むと、つまらなさそうに鼻を鳴らして、中身の冷めた茶器を手の中で弄びながら言う。
「まあ、そういうことだ。福達伯父はこちらでどうにかするから、お前は紅明皇子を篭絡することだけを考えろ。細かい指示は連絡係を通して伝えよう。お前、誰か信用のできる侍女はいないか?」
若慧は新しい茶を淹れながら、少し考えて応えた。
「一人おりますわ。“お父さま”からつけられた侍女ではなく、わたくしが自分で拾い雇った者です。仕事もできますし、少なくとも沈華よりかは信用できるかと」
「ほう。それは重畳。では、何かあればその侍女に手紙を持たせて後宮の東門まで来させろ。門を守る兵士を買収しておく。それから、分かっているとは思うが奇沈華には注意しろよ。あれは凱国の出でありながら、伯父貴に言い寄ってうまく取り入った女だ。使用人の中には伯父上の愛人だと噂する者もいるほどで、伯父上もなにかとあの女に重要な案件を任せている。お前の監視もその一つだ。あの女にバレれば伯父上まで筒抜けになるぞ」
「ええ、もちろん、心得ておりますわ」
沈華が凱国の出身であることは初耳だったが、正直そんなことはどうでもいい。福達の愛人と言われた方が納得がいくというものだ。
いずれにせよ、今まで通りに不自然に思われない程度に警戒するに越したことはない。
慶淑は茶菓子を口に放り込むと、用は済んだとばかりに席を立った。
「それから、これだけはよく覚えておけ。確かに皇室へ輿入れすることでお前は奴隷の身分ではなくなるが、西氏はお前を一族の娘と認めたわけではない。あくまでもお前は我らの駒であることを忘れるな。もし失敗すれば、たとえ西氏が目的を果たしたとしても、お前は二度と故郷の土を踏むことはかなわんぞ。故郷に帰りたくば、お前は自分に与えられた役目の事だけを考えていればいい。うまく立ち回って紅明皇子に取り入るのだ。所詮、女など、そのくらいしか使い道がないのだからな」
最後に慶淑は余計な一言を置いて行ったが、元よりそう簡単に自由にしてくれるはずもないことは分かっている。
若慧は手ずから部屋の扉を開けて慶淑を送り出し、その背を見送りながら目を細めてこらえきれない笑みを袖で隠した。