(姓は固定)
第一章 女官編
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泣くな、と、彼女は必死で自分に言い聞かせた。
これしきの事で泣いてはいけない、と。
ほんの数日前に、何が起ころうとも耐えてみせると誓ったばかりである。
今までの人生において、思い通りになったことなど一度もない。
婚約者に売られ、奴隷に落とされ、西家の駒として利用され、我が子を失い、そのたびに己の無力さを呪ってきた。
これまでにも、嫌という程世の不条理というものを味わってきたつもりだったが、今まさに、それを上回るほどの絶望に襲われている。
療養中の屋敷を出て、西家の屋敷へ向かう
同乗するのは沈華と薔滴。他の侍女は後続の軒車に乗っている。徒歩で続く者もいる。
彼女たちを護衛の兵士が取り囲むが、しかしその中に、彼女の見知った姿はない。
ことの始まりは数日前まで遡る。
紅明が最後に屋敷を訪れてから半月が経とうとしていたが、それ以降、心身ともに回復を果たしつつあった若慧は、本来の目的を果たすべく、禁城へ戻るために頭を悩ませていた。
範瑛児の件はもちろんすぐに報告をした。
白昼堂々と屋敷に侵入されて襲われたことはもちろんの事、逃げた脱走犯がまだ捕らえられていない以上、このまま屋敷に滞在し続けるのは恐ろしい。体調も回復したため、一刻も早く禁城へ戻りたいと書き添えた文を送ったのだが、答えを持ってきたのは紅明ではなく、彼の遣いだという一人の士大夫だった。
彼の命令書を読み上げて曰く、
『西若慧は直ちに実家に戻り、住み慣れた屋敷で引き続き療養するように。しかるべき時に必ず呼び戻す故、それまでに心身を完全に回復させておくべし』
その命令を聞いて若慧が絶句したのは言うまでもない。
西家と言えば若慧にとっては仇も同然である。
禁城では紅明に仕える女官であり、類稀なる美姫として良くも悪くも名を馳せていたとしても、あの家では彼女はただの奴隷に過ぎず、当主である福達との不仲は紅明も知っているはず。
つまり、彼女は紅明から見限られたということである。
お前はもう不要だと、言外に言い渡されたに等しい。
紅明本人ではなくわざわざ部下を遣わせるなど、いかにもわざとらしいではないか。
ああ、これほどの絶望があろうか。
寵を失ったばかりか禁城に戻ることも許されず、おめおめと戻ってきた彼女を西家の人々がどう扱うかなど目に見えている。
すぐに殺されるのであればまだいい方で、下働きとして家畜以下の扱いを受けるか、慰み者にされるか、もしくは他国へ売りとばされるか。
いずれにせよ、人間らしい扱いをされないことだけは目に見えている。
かつて彼女が西家に買われてきたときは、すぐに福達の目に留まって妃教育を施されたおかげで最低限の人としての生活は許されたものの、同じころに屋敷にいた奴隷たちは酷い状態だった。
それだけではない。
そもそも、西一族自体が煌帝国建国以前から煌王に仕えていたことに対して誇りを持っており、煌人以外を見下す傾向がある。
使用人の中にはかつて呉や凱に住んでいた者たちもいたが、他の煌人の使用人に比べると明らかに冷遇されていた。
そんな中に、胡人の奴隷である若慧が戻ったらどうなるか。
絶句して呆然と立ち尽くす若慧を尻目に、素早く荷造りをして他の侍女たちに指示を出していたのは沈華であった。
迎えに来た西家の軒車に荷物を積み込み、若慧を連れて共に乗り込んだ。
ほとんどの侍女は後続の軒車や徒歩で付き従っているが、沈華と薔滴は若慧の世話をするために、共に車に乗っている。
だから泣いてはいけないのだと、若慧は自分自身に必死に言い聞かせる。
泣けば沈華に怪しまれる。
ここで泣いて、無様な様を福達に報告されるわけにはいかない。
薔滴も心配するだろう。
ただでさえ、引っ越しが決まってから目に見えて体調を崩していく主をずっと心配していたのだ。
涙もろく心配性の侍女の心を痛めるのは忍びない。
故に彼女は、膝の上で重ねた両手をきつく握りしめながら必死に耐えた。
この程度のことで泣いてたまるか、と。
今後、事態はさらに悪くなるのは分かり切っている。
だから、まだ泣くわけにはいかないのだ。
それよりも、もう二度と紅明には会えないだろうという、その覚悟を決めなければならない。
後ろ盾を失った女の末路は悲惨だ。
西家に嬲り殺しにされるくらいならば、潔く舌を噛んで死ぬ覚悟も必要か。
それでも、何がいけなかったのだろうか、と自問自答せずにはいられなかった。
このまま紅明に会えないまま終わってしまうのだろうか。どうして彼は会いに来てくれないのだろうか。
やはり、痣だらけの醜い顔を見て興が覚めたのか。それとも、あの夜、彼にすがりついて泣き明かしたことで失望されたのか。
それでも構わないと思っていたはずなのに、いざその時になってみると、思っていた以上に心に重くのしかかる。
泣くな。泣くな。泣いてはいけない。
ずっと自分に言い聞かせていても、この今にも溢れそうになる涙を、一体いつまでこらえることができるだろうか。
せっかく薔滴が綺麗に化粧をしてくれたのだから、涙で崩すのは申し訳ない。
沈華は試すような視線を向けてくるが、睨み返すのも癪である。
そうだ。今はもう、何も考えるのをよそう。
何も考えず、ただ目の前の事実を黙って受け入れよう。
分からないことは恐ろしい。だから、分かるまで待つ。
いったい今何が起こっているのか、自分は西家でどうなってしまうのか。
本当に絶望するのは全てが詳らかになってからでいい。
第一、泣いてどうする。
この状況は、幼子のように泣きわめいて駄々をこねてどうにかなるものでもない。
耐えろ。耐えなければならない。
心を強く持て。気を確かにしろ。
俯くな。顔を上げて前を見ろ。
胸を張り、堂々として最後まで矜持を保て。
若慧は一度だけきつく目を閉じると、ゆっくりと瞼を開いて二人の侍女の視線を受け止めた。
その表情は、先ほどまで青ざめていた人物とはまるで思えない。
沈華が満足そうに小さく頷き、薔滴はわずかに目を見開いて放心した。
軒車が鈍い音を立てて動きを止めた。
西福達の屋敷の前であった。