(姓は固定)
第一章 女官編
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身を清めるのは気持ちがいい。体と共に心まで洗われるような気がする。
沐浴の後、鏡の前に座って髪を梳いていた。
顔の痣はまだ残っていたが、化粧で何とか隠せるほどには薄くなっていた。
薄く白粉を塗り、眉には薄墨、唇に紅を差して、必要最低限の身だしなみを整えると、決して派手ではないが十分に美しいと言える顔が出来上がる。
ここでは“西若慧”という仮面をかぶる必要がない。けばけばしい化け物のような化粧は不要だ。まるで絵でも描くかのように、元の素材を捻じ曲げてまで作り込む必要はない。
若慧の顔に化粧を施す薔滴の、ため息でも零れんばかりの表情が印象的だった。
鬱屈した気持ちを垢と共に洗い流し、久しぶりにすっきりとした気分になる。
心なしか、室の雰囲気も明るくなったような気がした。
梳った髪を最後にするりと撫でて、櫛を鏡の前に置く。
鈍く輝く金の鏡の中の自分に微笑みかけて、同時に睨みつけもする。
そうだ、この顔だ。と。
これからどうにかして再び禁城に舞い戻り、本来の目的を果たさなければならない。
復讐心は決して衰えてはおらず、むしろ増してすらいる。
あの西家の連中を蹴落とし、最後に笑ってやらなければ気が済まない。福達の、憎悪と絶望に染まった顔を肴に酒を呑むのも良いだろう。
そのためにも、一刻も早くこの弱り切った体を回復させなければならないのだ。
故に、彼女はここ数日、常に頭を悩ませていた。
不思議なことに、ばらばらになりつつあった侍女たちも、若慧の回復とともに再び英気を取り戻し、何食わぬ顔で元のように若慧に仕えるようになった。
その何事もなかったかのような態度に、沈華と薔滴が冷ややかな目を向けていたが、若慧は特に構わなかった。
仕える主人を決めるのは彼女たち自身だ。それは、どこから給料が支払われていようと変わらない。
侍女たちの態度は己自信の鏡であると自戒して、若慧は彼女たちの変わり身を許した。
ただし、信用するかどうかは別であるため、今後の仕事の割り振りには注意することにする。
沈華は沐浴後の軽食を取りに厨房に出かけており、薔滴は化粧道具の後片付けをするため席を外していて、室内は若慧一人だった。
屋敷は相変わらず閑散としていたが、以前のような澱んだ倦怠感はない。
広い敷地の割には人が少なく、その為、人の気配には敏感になる。
侍女の誰かが部屋に戻ってきたのもすぐに分かった。
開け放たれた扉からわずかな衣擦れの音と共に入ってきた気配は、なぜかその場で立ち止まっている。
「何をしているの」
若慧は振り向きもせず、ため息交じりに声をかけた。
「誰もお前を呼んでいないわ。用がないなら出てお行き。自分の仕事に戻りなさい」
信用もしていないものを、わざわざ身近に置いておくことはない。
近頃、若慧が沈華と薔滴以外の侍女を遠ざけるせいで、他の侍女たちが自分も主の信頼を得ようと、やけに胡麻をすってくるようになった。
今回もその類だろうと思って無視を決め込んでいたのだが、なにやら様子がおかしい。
若慧の声掛けに対して何の反応もない。
不審に思って振り向こうとした時だった。
突然、二の腕を強くつかまれる。
「無礼な、何を!」
とっさに叫んで腕を振りほどこうとするが、思うように解けない。
がばりと顔を上げると、浅黒い肌の痩せた女が不気味な笑みを浮かべながら若慧を見下ろしていた。
年のころは三十余り。
普段は外で野良仕事でもしているのだろうか。よく日に焼けた肌も、作業効率を重視して簡単にまとめられた髪も、特にこれといった特徴はない。
比較的整った顔立ちをしていたので、娘自分はよく言う評判の美人だったのだろう。
だが、これは誰だ? こんな女は若慧の侍女にはいない。
目を見開いて絶句する若慧に対して、女は薄く笑いながら乾いた唇を開いた。
「いい気味だわ、西若慧。なんて無様なのかしら」
やや擦れてはいるが、姿に似合わぬ美しい声だった。さらに、その言葉は流れるようで、庶民特有の潔さがない。
どうやら女は若慧のことを知っているらしい。
目を眇めて相手を睨みながら記憶を手繰り寄せるが、なかなか思い当たる人物がいない。
「お前は誰?」
「おや、もうお忘れに? まあ、あなたにとってはすでに過去の事なのでしょうけれど、自分が追い落とした女のことなど、覚えてはいらっしゃらないのでしょうね。わたくしは昨日のことのように思い出せるというのに」
そこで何かが若慧の記憶を刺激した。この顔をどこかで見たことがある様な気がする。
そうして記憶をたどり、はっと思い当ってしまった。
「まさか……。まさか、瑛児さん?」
女がにやりと笑う。
そこに、かつての面影はどこにもなかった。
以前は念入りに手入れしていた肌は日に焼けて荒れ放題。髪は傷んで変色し、若慧の腕をつかんだ手の爪は割れていた。
彼女の年齢は若慧とそう変わらないはずだったが、刑地での苦労のためか、ずっと老けて見えた。
恐らくこれでも精一杯の身づくろいをしたのだろう。
髪は梳って纏めてあるし、顔に垢がこびりついているでもない。ただ、彼女の纏う雰囲気は、若慧の故郷の下町で見かけた女たちと同じ匂いがした。
服はどこかでくすねてきたものなのか、手入れを怠った身に綺麗に洗濯された絹の衣裳だけがひどく不釣合いだった。
かつて、若慧と同じように女官として紅明に仕え、姦計に嵌って徒刑になったはずの範瑛児がそこにいた。
突然の事態に絶句してしまった若慧だったが、はっと我に返ると瑛児を見据え、不遜な態度で笑う。
「おかしなこと。どうしてお前のような者がここにいるのやら」
挑発したつもりだったが、瑛児は口の端を吊り上げて不敵な笑みを浮かべた。
「強がりはおやめ。あなたも今のわたくしと大して変わらないでしょう。不祥事を起こして宮中を追い出された、同じ丘に住む狢。そうでしょう、西若慧?」
「お前などと一緒にしないでちょうだい、範瑛児。罪を犯して刑に処されたお前が、どうしてこのようなところにいるのかと聞いているのです。もしや、刑場から脱走してきたのではないでしょうね」
「おやまあ。もしや、罪人が恐ろしいの? ご安心なさいな。わたくしは罪など犯していないのだから、罪人ではないのよ。むしろ本当に罪深きは若慧さん、あなたでしょうに」
勝ち誇ったように嫌な笑みを浮かべる瑛児に、若慧は訝しんで眉を顰める。
「何を言っているの?」
「おほほ、とぼけても無駄よ。わたくしを陥れたこと、忘れたとは言わせないわ。あなたのおかげでわたくしがどのような目にあったのか、思い知らせてあげましょう」
瑛児はそう言って、若慧の腕を掴む手に力を込めた。
療養中でやせ細った彼女の腕が、みしりと嫌な音を立てた。
痛みで顔を歪める彼女を見て、瑛児は下品にも歯を見せてさらに笑みを深める。
しかし若慧も負けてはいなかった。
痛みをこらえながら顎を上げ、口の端を持ち上げて見せる。
「ほほほ、おかしなこと。何も知らずに、逆恨みもいいところですわ」
「なんですって?」
途端に瑛児の顔色が変わる。
まさか反論されることを想定していなかったのか、動揺したように先ほどまでの余裕ぶった笑みが消え、声色を固くした。
そんな瑛児を鼻で笑うと、彼女はゆっくりと椅子から立ち上がる。
背筋をまっすぐ伸ばして対峙する若慧に気圧されたのか、瑛児が心持ち半歩後退さった。
「わたくしがお前を陥れたですって? どうしてそのようなことを考え付いたものやら。わたくしがお前を陥れることに何の益があるというのです。身分も容姿もわたくしには遠く及ばないお前など、取るに足らない存在ですらあったのに。まったく、思い上がりも甚だしい」
「なんっ……!」
若慧の挑発に引っかかった瑛児は、怒りで反論すらままならないらしい。
怒りで顔を赤く染め、目を見開いて絶句している。
何か反論をしようとしているが、口を開閉させるばかりで言葉が出てこない。
「お前が本当に罪を犯したかどうかなど、このさい関係ありませんわ。刑地脱走は立派な罪でしてよ、範瑛児。『同じ丘に住む貉』ですって? わたくしは何の罪も犯していないというのに、わたくしとお前を同列に語るなど、笑止千万。身の程をわきまえなさい」
若慧が迫るように一歩踏み出すと、瑛児は同じだけ後退さる。
「憐れな範瑛児。自分がいったい誰に陥れられたのかも知らずに、ただ恨みだけを募らせて。わざわざ刑地を脱走してまでわたくしに復讐しに来たのでしょうけれど、残念、あてが外れてしまいましたわね」
後退りし続ける瑛児は、とうとう壁にぶち当たってしまった。
瑛児はまだ若慧の腕を掴んだままだったが、若慧は掴まれた方の腕を瑛児の喉元に当て、壁に押し付ける。
瑛児の口から唸り声にも似た低い声が漏れたが、若慧は気にせず体重をかけて瑛児に顔を近づけた。
「もしよろしければ、あなたをこのような目に合わせた犯人を教えて差し上げましょうか」
そういって若慧は瑛児に優しく微笑みかける。
瑛児は若慧から顔を背けようとしながらも、必死で若慧を睥睨し、
「とっととお言い! わたくしを陥れたのは誰なの!?」
噛みつくように叫ぶ。
そんな瑛児に憐れむような視線を向けた後、若慧は彼女の耳元に口を寄せてそっと囁いた。
「孫蓬簫」
瑛児の体がびくりと震え、信じられないという風に若慧を見る。
若慧は優しく微笑みながらも小さく頷いて見せた。
「信じられないでしょう。わたくしも初めは同じでしたわ。あの物静かでお優しい蓬簫さんが、そのようなことをするはずがないと思いましたもの。ですが、事実なのですよ。あの事件は全て、孫蓬簫がわたくしと瑛児さんを陥れるために仕組んだこと。彼女こそが、あの事件の黒幕なのです」
「なんの、ために?」
「紅明皇子の気を引きたいがためにですわ。騒ぎを起こせば紅明皇子の関心は彼女へ向かうと同時に、競争相手を追い落とすこともできる。一見おとなしそうなふりをして、あの女は虎視眈々とわたくしたちを罠に掛けようと狙っていたのです」
瑛児は目を見開いて青ざめたまま固まっている。
そんな彼女に、若慧はさらに囁き続けた。
「ねえ、悔しいと思いませんこと。家の利益のためでもなく、己の保身のためでもなく、ただ思い人に振り向いてほしいという身勝手な願いのために、わたくしたちはあの女の犠牲になったのですわ。ですから、わたくしへの復讐はお門違いというもの。お前は、恨む相手を間違えている」
今の瑛児は怒りと復讐心で周りが見えていない。
若慧が瑛児の侍女を買収したことなど、まるで頭にないだろう。強い感情に支配された人間というものは操りやすい。
嘘をうまくつくコツは、ほんの少しの事実を混ぜることだ。
案の定、瑛児は呆然と放心してしまっている。
もう大丈夫だろうと判断して壁に押さえつけていた力を緩めると、若慧の腕を掴んでいた手も力なく離れた。
「本当に、お可哀そうな瑛児さん」
言葉に反して楽しげに笑う若慧を、瑛児はどのような思いで見ているのだろうか。
大きく息をしながら壁にもたれかかっていた体を起こし、おぼつかない足取りで歩き始める。
壁を伝うようにして、手で体を支えながら扉に向かってふらふらと歩いていたが、戸口でふと立ち止まって肩ごしに若慧を振り返った。
「西若慧。お前は最後だ。孫蓬簫を潰した後、必ずお前も追い落としてやる」
真実を告げたとて、若慧への復讐心は変わらないらしい。
そんな彼女に、若慧は艶やかに笑って告げた。
「楽しみにしておりますわ」
その返事を聞き終わるか否かのうちに、範瑛児は走り出す。
直後に若慧は大声を上げて侍女たちを呼び集め、脱走犯を捕らえるよう指示を出したが、逃げる範瑛児の姿を見かけたものは複数いたにもかかわらず、彼女が捕らえられることはついになかった。
後日屋敷を訪れた士大夫から一連の報告を聞きながら、もしかしたらあの時訪れた範瑛児は、己の境遇に復讐心を抱く若慧自身の亡霊だったのかもしれないと思うのだった。