(姓は固定)
第一章 女官編
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朝の見送りに若慧は出てこなかった。
彼女は相変わらず部屋に引きこもっている。
一晩中さめざめと泣き続ける彼女にどうしてよいかわからず、ただそばにいる事しかできなかった己が情けない。
寝不足の目をこすりながら侍女の手を借りて身支度を整え、朝食を終えると、紅明の前に一人の侍女が進み出た。
「お帰りのところを申し訳ございません。若慧様のことでお話がございます」
西若慧の筆頭侍女、
最も若慧の近くにいる侍女で、仕事ぶりを窺い知る限りでは非常に有能な人物である。
丁度、彼も彼女に尋ねたいことがあったので、部下には出発が遅れる旨を伝え、屋敷の使用人に命じて一室を設けさせた。
「それで、話というのは?」
部屋は人払いをしてある。
禁城へ戻ることを考えるとあまり時間は割けないため単刀直入に問いかけると、沈華は突然彼の前に膝立ちになって頭を垂れた。
「ご無礼を承知でお願いがございます。わたくし、奇沈華を、どうか紅明皇子の配下に加えて頂きたく」
紅明は目を細めて床に跪く沈華を見た。
三十路に差し掛かったくらいの女である。宮廷に勤めるだけあってどちらかというと美人ではあるが、さして目を引くほどでもない。
「なぜ?」
問いかけると、彼女はしっかりとした声で応える。
「若慧様にお仕えするわたくしが、紅明皇子のお力になれると愚考した次第です」
「若慧のことで話があるのではなかったのですか?」
「その若慧様をお支えするために、わたくしは紅明様にお仕えしたく存じます」
なかなか噛み合わない話に、紅明は苛立ちを紛らわせるように羽扇を一つ煽いだ。
「それは西福達の指示ですか?」
「いいえ、若慧様が宮中をお出になられてよりこちら、西家からはお給金の類は一切頂いておりません」
「なるほど」
彼女の魂胆が見えたと、紅明は一つ頷く。
「己を見捨てた西家を見切り、新たな主を探しているということか」
「そのように取っていただいても構いません」
どうあっても話をはぐらかしたいらしい。
有能であるということはすなわち、狸でもあるということである。自分を売り込むはずの今ですら、婉曲に話を進めたがる。
神妙な表情で目線を下げる様子からは一切の感情が伺えない。
彼女の真意が読み取れない以上、迂闊に信用するわけにもいかないだろう。
「なるほど。では、具体的には私にどのように仕えるというのです?」
問いかければ、変わらない表情のままで淡々と応えを述べてゆく。
「ご存知の通り、わたくしは殿下のご寵愛される女官 西若慧が筆頭侍女。かのお方に関する動向、思惑、嗜好、その他諸々の諸事を把握しております。配下に加えて頂いた暁には、わたくしの知り得る若慧様に関することの全てを、随時、殿下にお伝えいたします」
「寵愛している? 私が、彼女を……?」
なにやら奇妙な話を聞いた気がして、紅明は思わず反覆した。
沈華を見ると、こちらも怪訝そうな顔で彼を見上げている。
「違いますか。皆、そう思っておりますが」
「いや」
答える紅明は戸惑いを隠せない。
西若慧という女を憎からず思っているのは確かだが、『寵愛している』といわれると、どこか妙な心持になる。
彼は羽扇を揺らしながらしばし思案した。
夜な夜な彼女の下に通い、子まで成し、体調を崩せば療養と称して禁城の外に屋敷を用意した。『寵愛している』ように見せかけてはいたが、それは互いの利害が一致したからである。
思いがけずに利害を無視した感情を抱いていたことは認めるが、改めて指摘されるとどうにもむず痒い。
結局、後ろ頭をガシガシと掻いて誤魔化した。
「いや、まあ、いいでしょう。では、貴女は見返りに何を求むのですか?」
この質問に、沈華は深々と頭を下げて述べた。
「どうか、殿下のご威光で以て、若慧様をお守りくださいませ」
「あなた自身の保護ではなく?」
「わたくしのことはどうなっても構いません。ですから、若慧様の保護を求めます」
「なるほど」
紅明は一つ頷く。
狸と見せかけて実は狐だったということか。
真に紅明に仕えるのではなく、若慧を守る為に紅明を利用することで己を守る。“西若慧”と見せかけて“皇帝国第二皇子 練紅明”という虎の威を借る狐。
全く持って喰えない女である。実にしたたかだ。
しばらく思案した後、紅明は後ろ手を組んで沈華を見下ろし。
「話にならない」
と一蹴した。
「たかだかそれだけの理由で私を引き留めたのですか? 私が若慧の考えていることや好みを気にするとでも? たとえ気にしたとして、わざわざ侍女を抱え込んでまで知りたいことではない。その程度のお粗末な条件で私の配下に下ろうとは、こちらから願い下げだ」
冷やかに言い放つと、愕然とする沈華をしり目に、彼は部屋を立ち去ろうとすらする。
その衣の裾に、沈華は取りすがった。
「お待ちを! それではせめて、若慧様だけでもお守りください! このままではあの方は、あの男に殺されてしまう!」
悲鳴のような沈華の声に、紅明は驚いて振り返る。
「若慧が殺される? あの男というのは、もしや西福達ですか?」
「西福達は、宮中を出された若慧様を用済みとみなして処分しようとしています。私は若慧様の食事に毒を混ぜるように命じられました。もちろんそんなことは致しません。お仕えする主に毒を盛るなど、考えただけでもおぞましい。しかし私が動かないと知れば、あの男は、次は賊を雇ってこの屋敷を襲わせるでしょう。数年前、宮中に侵入して白徳帝を弑逆した賊を手引きしたのと同じように」
今度は紅明が愕然とする番だった。
「それはどういう意味です? 西福達が、白徳帝の崩御に関わっていると?」
沈華は唇をわななかせながら頷いた。
「証拠は?」
紅明の詰問に、沈華は小さく首を横に振る。
「物的証拠はございません。ただ、私の兄が丁度そのころに、祖国の……凱国の敗残兵を集めるよう福達より指示を受けて、そのまま行方不明になっております」
「……あなたは、凱国の出か」
呆然と呟く紅明に、沈華は床に額をこすりつけて懇願する。
「どうか、どうかお願い申し上げます。私にはもう、あの方しかおられないのです! 父は煌国との戦で兵士として徴兵され、二度と帰ってきませんでした。母は戦続きで食料の乏しい中、私たち兄妹を生かすために崖から身を投げ、兄も恐らくあの男に口封じのため殺されてしまったのでしょう。あの男は煌人以外の者を、まるで捨て駒のように扱うのです。私とあの方とは血のつながりがある訳ではありません。しかし、私の主はあの方です! 親兄弟を亡くした今、私にとってはあの方だけが唯一無二の存在なのです。どうか、どうかお願いします。私はどうなっても構いませんから、どうかあの方だけでもお守りくださいませ!」
その姿に、紅明はかつての戦場を思い出していた。
あの頃はまだ彼も幼かったこともあり、直接戦場へ赴くことこそ少なかったものの、もしかしたら煌軍が屠ったあの凱軍の中に彼女の父親はいたかもしれない。
長く続いた戦で命を落とした兵士は数知れず、また、遺された家族は徴兵によって働き手を失っただけでなく、侵略者によって蹂躙されて女子供は奴隷にされてしまった。たとえ生き残ったとしても、度重なる戦で荒らされた畑では作物を育てることもできず、多くの民が飢えて死んでいった。
天井を仰いで思案する。
どうも話の流れが変わってきた。
若慧を保護するという話をしていたはずなのに、先帝暗殺の糸口がつかめそうだ。
彼女は自分の売り込み方を間違っているのではないだろうか。
有能だと思っていたが、案外抜けているのかもしれない。
紅明は気持ちを切り替えるように頭を一つ振った。
「貴女は今、彼女の事情を把握していると言っていましたが、どこまで知っているのですか」
この問いかけに対し沈華は少し考え込むようなしぐさをした後、慎重に言葉を選んで答えた。
「それは、あの方が西家においてどのような方でいらっしゃるか、ということでよろしいでしょうか」
紅明は無言で首肯する。
すると彼女は逡巡したが、すぐに頷いた。
「私が知るのは、あの方が西域にて仕入れられた“商品”である、ということだけです。お顔立ちや立ち居振る舞い、それから他国の事情にもお詳しいことから、おそらくは商人の多い中央砂漠か、その周辺の都市国家の方だとは思うのですが……申し訳ありません。はっきりとした出自は私には分かりかねます」
「それでは、彼女の出自は福達に吐かせるしかなさそうですね」
ひとりごちると、沈華はなぜかいいえ、と首を横に振る。
「福達はあくまでも商会にとっては代表者であって、商人たちの取りまとめ役でしかありません。総括的な事しか知らないのではないかと思います。“商品”に関しては、出荷された国は知っているでしょうが、詳しい事情まで把握しているかどうか」
「誰か詳しい者はいないのか」
「西家の家令で伯子郷という男がおります。西家に来た客は全てその者を通す決まりになっているのですが、商品の売買にも関わっているようですし、買い付けてきた商人から直接話を聞くことも多いでしょうから、或いは」
「『伯』? どこかで……」
「先日処刑された、西妃様の筆頭侍女 伯子露の叔父にあたる男です」
紅明は思わず舌打ちをする。なかなかに厄介な話になってきた。
捉えて尋問した所で、姪を殺された叔父が素直に自白するとは思えない。今のままでも特に不便はないのだし、そこまでして彼女の素性を明かすべきではないのかもしれない。
黙して考え込む紅明に、沈華はさらに続けた。
「若慧様は、西家にいらした時にはすでに高い教養と礼儀作法を身につけていらっしゃったので、それに目を付けた福達によって西家の妾腹の子として仕立て上げられてしまったのです」
「なるほど。では、『西若慧』とい人間は、初めからいなかったということですね」
「いいえ。これは私も噂に聞いた話なのですが、昔、福達が妾に産ませた子で同じ名前の娘がいたようです。体が弱く、夭折したという話を聞きました」
ここで沈華は、さらに声を低めて訴える。
「西家は若麗様と若慧様のいずれかを使って皇室と縁続きになることによって、“家業”ともいえる仕事をより大きくしようとしているのです」
「人身売買は“家業”か」
忌々し気な紅明の独り言に、沈華は律儀に頷く。
「西家は代々文官の家系ですが、当主やその近親者の妻は、国内外に貿易路を持つ商人から迎えております。この煌帝国で“商品”を集めるとなると大きな危険が伴いますので、近頃はもっぱら海外から仕入れているようです」
紅明が喉の奥で唸る。外道め、という言葉を、確かに沈華は聞いた気がした。
主に見せるのとはまるで違う“練紅明”としての姿に戦慄していると、彼が沈華を見下ろして言った。
「結構」
冷ややかな視線は、“侍女”ではなく“配下”を見る目だった。
「分かりました。あなたを私の配下に加えましょう。ただし、その役目は西福達への密偵とします。あなたの若慧への忠誠心は分かりましたが、私はあなたを信用したわけではない。あなたが私に忠実である限り若慧は保護しますが、裏切ればその命はないと思いなさい」
「ありがとう存じます。私が殿下を裏切ることは決してございません。誠心誠意、このみを捧げてお仕えいたします」
沈華はその場に、深々と平伏した。