(姓は固定)
第一章 女官編
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男を恐ろしいと思ったことは、実は何度もある。
部下を大声で怒鳴りつける仕事中の父や、彼女を売り払った時の婚約者、彼女の心を折るために酷く当たった奴隷商人。
大きな体と強い力、特有の低い声は女にはない威圧感がある。
福達はこれまで、折檻はしても八つ当たりをすることはなかった。
手駒として利用できる若慧に価値を見出していた為であるが、此度の一件では流石に腹に据えかねたのだろう。
あるいは、若慧にかけていた期待が大きかった分、失望も大きかったのかもしれない。
あの男がことあるごとに口にする『奴隷風情が』という言葉には、奴隷への蔑みと、その奴隷を娘として扱わなければならない忌々しさが含まれていた。
これまでは利用価値があったからこその扱いであったのが、頻繁に問題を起こした挙句に実娘をも巻き込んだ事態には許し難かったに違いない。
若慧が一番恐ろしかったのが、大きな声と絶え間ない暴力だった。
暴力を受けたのは身体ではない、顔だ。
十日も経ったというのに未だ顔の腫れは引かず、常に鈍く疼いている。沈華によると、福達が帰った直後は人相が変わっていたと言うではないか。
髪を力いっぱい掴まれた頭も痛い。薔滴に見てもらうと、ところどころ赤く腫れて血が出ているという。
最も酷かったころの己の顔を、若慧は見ていない。
侍女たちは若慧から鏡を取り上げた。そうしなければ自分で首を掻き切りかねない程の取り乱しようだったのである。
水鏡ですら近づけない程の徹底ぶりだった。それほど己の顔が醜いのだろうと自嘲した若慧が、さらに落ち込んでしまうとも気付かずに。
そうまでして見せたがらない己の顔を見るために、よく磨かれた漆器をこっそり覗き込んで愕然とした。
あれほど白く滑らかだった肌は赤黒く変色し、顔中を斑に覆っている。片方の瞼は腫れあがって目を半分ほど塞いでおり、切れた唇には血の跡が残る。
そこにかつての美貌の面影はない。
手に持っていた漆器を放り投げて臥床に突っ伏し、一晩中を泣き明かした。
それだけでも気落ちするには十分なのに、何よりも傷ついたのは、その醜い顔を紅明に見られてしまったことだった。
暴力を振るわれたのであればすぐに言えと言われた。言えるわけがない。
美しさこそが彼女の自慢だったのに、自慢の顔が醜く崩れているのを一体誰が見せたいなどと思うだろうか。
彼が彼女に対して大声で怒鳴ったのも初めてだった。
会いたくないと、来ないでほしいと懇願したのに、彼は彼女の願いを力ずくで跳ね除けたのである。
恐怖と衝撃で涙する若慧に、紅明はただ呆然と寄り添うだけだった。
福達に襲われた直後に報告していれば、本当に彼は彼女の元へやって来たのであろうか。
否。それはないだろう。
彼は公人。私事は常に後回しだ。
口先だけの慰めなどいらない。
若慧はただ、故郷へ帰りたかっただけだ。
自分を不幸にした者たちに報いを受けさせて、バルバッドに帰る。ただそれだけの願いの為に彼女は我が子を失い、居場所を失った。
紅明が用意してくれた居場所は心地よかった。
夜更けに二人で酒を飲みながら語り合うのは楽しかった。
失って初めてあのときの幸福がつくづくと甦る。
この醜い顔を見て、彼は失望しただろうか。
美しい自分だけを覚えていてほしかったのに、その願いは叶わなかった。
もう彼は二度と彼女の前に現れないかもしれない。
父親の恩恵も受けられず、醜いばかりの彼女を見放してしまうかもしれない。
臥床に腰掛けてうなだれる背中を見て、若慧は口を開きかけてやめた。
「わたくしのことを愛していますか?」
と聞こうとしてやめた。
「愛していない」と言われたら、今度こそ立ち直れる自信がない。
情を期待しているつもりはなかったが、いつの間にかこれほど彼に心を寄せてしまった。
そんな自分が惨めで、情けなくて、若慧は再び涙する。
泣きすぎて目尻がひどくひりついたが、構わずに涙を流し続けた。
細いが広い背中に手を伸ばし、指先で袖をからめ捕り、引き寄せ、彼の手に頬を押しつけた。
紅明は驚いて振り返ったが、すすり泣く若慧に口をつぐみ、黙ってされるがままになっていた。
「ありがとうございます」
と涙ながらに彼女は呟いた。
紅明からは困惑する気配が伝わってきたが、構うまい。
彼が彼女に飽きようとも構わない。嫌われようともかまわない。もう以前のような関係に戻れなくても構わない。
実は来てくれて嬉しかった。ずっとずっと会いたかったのに、宮中を出てから会いに来てくれなくて寂しかった。
それなのに、せっかく会いに来てくれたのに、ここにきて素直になれない自分が憎らしい。
彼は公人。私事は常に後回し。
だから余計な期待はしていないはずだった。心を寄せすぎないように距離を置き、虚勢を張って自分の心をごまかし続けて、そうしていつしか摩耗した心が耐え切れなくなっていた。
これでは孫蓬簫を笑えないではないか。
紅明にすり寄って、その細い腰に腕をからめる。
今なら蓬簫の気持ちが理解できる。
あのおとなしい女を凶行に走らせた、この男を己のものにしたいというどうしようもないほど利己的なこの感情も。
今だけ。今だけ彼はわたしのもの。
今を過ごせば、あとはいくらでも耐えられる。
だからほんの少しだけ。
彼女の言葉にしない願いが通じたのか、その日紅明は、一晩中若慧の傍にいてくれた。