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第一章 女官編
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煌帝国第二皇子練紅明が訪れた時、その屋敷は奇妙な空気に包まれていた。
厭世的とも退廃的ともいえない、どこか諦念を含んだよそよそしいともいえる雰囲気に満ちた屋敷は、働く使用人たちの顔にもまるで生気がない。
それでいて、紅明の訪れに俄かに発揮したとしか思えないような虚ろな空元気が、その屋敷の抱える奇妙な空気の正体だった。
出迎えに出てきた妙に朗らかな使用人に眉根を寄せて、彼は何も言わずに目的の部屋へと向かった。
この屋敷は彼の母親の実家が所有する屋敷だが、現在は彼の身近な女性を主として迎えている。
心身共に追った傷を癒してほしくて、謀略術数の渦巻く宮中から避難させるつもりで用意した場所だったが、数日前、この屋敷を彼女の父親が訪ねてきたと聞いて慌てて飛んできたのであった。
女性――西若慧と、その父親――西福達の仲は、人が思う以上によろしくない。
二人の正しい関係を知る人間はほんの一握りだが、ただし、その中に紅明は含まれていない。
否。推測でよければ彼は限りなく核心に近い部分まで知っていることになるが、確たる証拠や本人たちからの証言があるはずもなく、なかなか確信を得られない為に非常に歯がゆい思いをしているのが現状である。
紅明が若慧をこの屋敷に連れてきたのは、心身の療養とは別に西福達からの保護の意味も含んでいた。
ところが福達の影響力が思いのほか強く、事前に彼が使用人に言いつけておいた若慧への面会謝絶をいとも簡単に突破されてしまったのである。十日近く前のことであった。
彼の下に、あの日何があったのかまでの報告はなかった。
ただ、若慧と福達が顔を合わせて穏便に済むはずがないという予感に基づいた胸騒ぎの下、彼はこの日、屋敷を訪れたのである。
案の定、この屋敷の現在の女主人である西若慧は、あの日以来、部屋に籠りきりで一度も外に出てこないのだという。
二人の侍女がべったり貼りつくようにして世話をしているらしいが、それ以外の侍女たちは特に仕事を言いつかることもなく、一連の騒ぎから締め出されてしまったことにひどく困惑している様子だった。回廊を歩く紅明を縋るような目で見送っている。
目的の部屋の扉は開け放たれていたが室内は暗かった。
部屋の前で声を掛けると顔見知りの侍女が出てきたが、確か丹薔滴と言う名の侍女は紅明の訪れに笑顔で対応した物の、いつもの天真爛漫な様子は息をひそめ、堅い声と繕い損ねたような表情が印象的だった。
薔滴は紅明を部屋に招き入れ、奥へと誘う。
紗帳のかかった臥床の前にはもう一人侍女がいて、紅明の姿を見て礼をしたものの、しきりに紗帳の中を気にしていた。
そうして二人もまた、他の侍女と同じように彼のことを縋るような目で見てくる。
「若慧様」
奇沈華という侍女が紗帳の中に向かって声をかけるが、返ってくるのは沈黙ばかり。
「若慧様。紅明皇子がお見えです」
辛抱強く声をかけるとようやく返事が返ってくる。
「そう。それで?」
しかしその言葉は決して彼を歓迎するものではなかった。
若慧の言葉に紅明の顔が歪む。
拒絶されるよりも無関心でいられるほうが辛いものだ。
沈華がちらりと紅明の顔色を窺って、三度紗帳の中へ声をかけた。
「若慧様。殿下はお忙しい中わざわざお時間を作ってお越しくださったのです。そのようなことを仰らずに、お二人でお話しなさってはいかがでしょうか。さすれば少しは気も晴れましょう」
「そんな気分じゃないの。帰っていただいて」
「若慧様」
「嫌よ。会いたくないわ」
若慧のはっきりとした拒絶に、沈華は我儘をいう幼子に言い聞かせるようにいう。
「せっかくお見舞いに来てくださったというのに、それはあまりにも失礼では?」
「何を話すというの。お話しすることなど何もないわ」
紅明はそのやり取りをただ無言で眺めていた。
若慧は断固として彼と会う気はないらしい。
彼は一つため息をついて彼女に声をかけた。
「思ったよりも元気そうですね、若慧。西福達がこの屋敷を訪れたと聞いて落ち込んでいるのではないかと心配していたのですが、そうやって私を拒否するだけの気力があるとは。むしろ安心しましたよ」
反応は紗帳の中からではなく、室内にいた侍女二人から返ってきた。
青ざめた顔で紅明を凝視し、沈華は慌てて紗帳の端を少し持ち上げて中を覗き込む。
薔滴はおろおろと部屋を見渡し、入口の扉に飛びついた。紅明を帰すまいとしているのだろうか。
「会いたくないというのであれば今回はあなたの意志を尊重しましょう。今日は本当にあなたのご機嫌を伺いに来ただけですのでね。落ち着いたら連絡をください。私の予定が空いていればまた来ましょう」
そう言って紅明は踵を返して歩き出し、しかし扉に取り付いて立ちふさがる薔滴の前で足を止めた。
「もう用事は済みました。そこをどきなさい」
「い、嫌です!」
侍女の返答に、紅明の眉根が寄せられる。仮にも皇族に対する態度ではない。
おまけに、それまで臥床の傍についていた沈華までもがよろめきながらも駆け寄ってきて、身を投げ出すようにして紅明の足元に平伏する。
「殿下! どうかお願いいたします。今の若慧様のお心を和らげることができるのは殿下しかおられません!」
彼女たちが必死なのは認めるが、恥も外聞もかなぐり捨てた懇願には軽蔑を覚える。
無理矢理にもどかそうと口を開いた時だった。
「おやめなさい、見苦しい」
部屋の奥から声が響く。
見ると、臥床の上に上半身を起こしたと思しき若慧が、紗帳の中から三人を睨んでいた。
「そのお方をどなたと心得ますか。お前たちが気安く言葉を交わしてよい相手ではなくてよ」
その叱咤の声に、侍女たちの目が大きく見開かれる。薔滴に至っては明らかな安堵の表情が見て取れた。
「お下がり」
ただその一言だけだったが、二人の侍女がすぐさま背筋を伸ばして姿勢を正し、完璧な礼をとった。まるで禁城でいつも見ていた光景である。
若慧は侍女たちの躾には厳しい。特に礼儀作法の関しては、いつ皇族の前に出てもよいように徹底的に躾けられている。
意外に思われるが、若慧の侍女たちは常に仕事に忠実で、決して紅明たち皇族に対して媚を売ってくるようなことはない。
普段はどうか知らないが、紅明の見ている前では常に気配を殺し、主人の邪魔にならないように控えている。
用を言いつけられればすぐさま動き、無駄口など一切叩かずに機械的ともいえる正確さでもって速やかに命令を実行する。
軍隊とはまた異なる訓練された動きは、見ていて清々しさすら覚える。
紅明にとっては、この屋敷で見せる侍女たちの感情的な姿の方が違和感があったのである。
それが、主人の一声で元に戻った。
彼は、静々と部屋を出ていく二人の姿を妙な感心でもって見送ると同時に、無意識にほっと息を吐いたのだった。
侍女たちを見送った紅明が振り向くと、若慧は再び臥床に横たわっていた。先程の覇気は既にどこにもない。
紅明はゆっくりと奥へ近づき、紗帳を持ち上げて臥床の端に腰掛けた。
「若慧」
そっと声を掛けると、壁を向いて横たわる肩がわずかに揺れた。
「何をしにいらしたのですか」
彼女がかすれた声で言う。
「こちらを向いてはくださらないのですか?」
問いかけると、彼女は無言で顔を敷布へ押しつけた。
その髪を遠慮がちに撫でながら、紅明はなおも続ける。
「福達と何があったのですか?」
若慧は、敷布を握りしめながら震える声で答えた。
「十日も前ですわ」
「遅くなってしまって申し訳ありません。至急処理しなければならない案件が続いて」
「もう、結構ですわ」
若慧が紅明の言葉を遮った。
それでも紅明は辛抱強く声をかけ続ける。
「若慧」
「お願いですから、もう放っておいて」
取りつく間もないとはこのことである。
とうとう紅明は閉口し、無意識に溜息をついた。
髪を撫でる手も止め、二人の間にしばらくの沈黙が落ちる。
「若慧……若慧、いい加減こちらを向いてください」
華奢な肩に手をかけ、無理やりに振り向かせて彼は息を飲んで絶句した。
「その顔は、まさか福達にやられたのですか!?」
顔全体が赤黒い痣で覆われていた。
頬やこめかみのあたりが最もひどく、まだ完全に腫れが引いてもいない。
「いやぁ!」
若慧は叫んで暴れたが、紅明は肩を押さえつけて離さなかった。
それどころか、必死に抵抗しようとする手首を抑えて臥床に縫い付けてしまう。
「いや、放してぇ!」
「何事ですか、若慧様!」
室内のただならぬ様子を聞きつけて、侍女が部屋へ飛び込んでくる。
「下がっていろ!」
紅明も思わず反射的に怒鳴った。
入り口で立ちすくむ侍女を睨み付ければ、二人は不安そうな険しい顔を見合わせた。
「あなたたちに用はない。下がりなさい!」
遠目にも侍女たちが唇を噛みしめているのが見える。
主人に半ば馬乗りになった彼の姿は、今まさに主人を襲おうとしているように見えるのだろう。
それでも今の紅明には他人にかかずらっている余裕はなかった。
「下がれ!」
一喝すると、彼女は顔を歪めながらも渋々部屋を出ていった。
「どうしてもっと早くに言わなかったのですかっ!」
侍女たちが部屋の扉を閉め切るのを確認する間もなく、彼は若慧の上に体重をかけてのしかかり、真上から怒鳴りつけた。
「文でも早馬でもいい、なぜ福達に乱暴されたとすぐに報告しなかったのですか!」
「言えばすぐに来てくださったのですか!?」
紅明の大声に、若慧も絶叫に近い声を張り上げる。
「当たり前でしょう!」
紅明が叫び返し、そうして目を怒らせて肩で息をしながら若慧を見下ろし、そして愕然とした。
その目に浮かぶのは恐怖と怯え、そしてはっきりとした拒絶。
なぜ彼女はそんな顔をするのだ。
混乱しているうちに彼女は目じりから涙をあふれさせて彼を睨み返した後、すぐに唇を噛みしめて顔を背けてしまう。長い髪が涙で濡れた頬に張り付いていた。
「私はそんなに信用なりませんか」
彼にしては珍しい低い恫喝の声も、彼女からは声なき嗚咽しか返ってこない。
「どうしてそういう時に限って頼ってくれないのですか」
懇願するような言葉にも、彼女はただただ涙するばかり。
「若慧」
彼女の胸元に額を押し付ければ、固い骨と筋張った感触が伝わってくる。
ほとんど食事をとっていないのだろう。部屋から出ることもなく、陽の光にもあたっていないに違いない。
以前は丁寧に手入れされていた滑らかで弾力のある肌も、ふっくらとしていながらも実は意外なほどしっかり鍛えられた質感も、今は全てが失われてしまっている。
何より、温もりが全く伝わってこない。
何がこれほど彼女を追い詰めてしまったのだろうか。どうして彼女はこれほど彼を拒絶するのか。
若慧の嗚咽を聞きながら、彼はきつく目を閉じた。
泣きたいのはこちらだというのに。