(姓は固定)
第一章 女官編
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紅明が用意した屋敷は、ほとんど使われていないようだった。
紅明の母方の実家が所有しているというその屋敷は、手入れの為に住み込みで働いている一家以外に使用人はなく、さすがに若慧の引っ越しに合わせて数人を雇い入れはしたものの、宮中には遠く及ばない。
柱も満足に塗り直されていないような状態で、どこか廃れて見える屋敷である。
若慧は留守役に鳳娥と数人の侍女を残し、沈華や薔滴をはじめとする大多数を療養の共として連れて来ていたが、彼女たちが文句を言いながらひどく顔をしかめていた。
そこで若慧は、ただ漫然と一日を過ごすことになる。
酒が呑みたいと言ったら、沈華の目が険しく吊り上った。
煙草を喫みたいと言ったら、薔滴が口を真一文字に引き結んだ。
胸中の虚を埋める術のなくなった若慧は、毎日ただ窓際に座り込んでぼんやりと外を眺めるばかりだった。
贅沢をして享楽にふける気力もない。
やがていつの頃からか、侍女たちはそんな若慧を白い目で見るようになった。
当然だろう。
今まで強い勢力を持つ主に気に入られることでおこぼれをもらっていたものを、宮中から追い出されて落ちぶれた女に誰が仕えたいと思うだろうか。
“療養”というのは名ばかりで、実は体よく宮中を追い出されただけではないか。
この状況はいったいいつまで続くのか、そもそも宮中に戻れるのかどうかすらわからない。
暇乞いこそしないものの、みな惰性で仕事をしているのを隠そうともせず、若慧もそんな侍女たちを咎めなかった。
沈華と薔滴はまじめに仕事をしてくれたし、以前のように入念に手入れをして美しく飾り立て、外へ出かける必要のなくなった若慧一人分の世話など、二人もいれば十分だったからである。
腑抜けてしまった主を放って、侍女たちはてんで好き勝手に遊びほうけるようになった。
どうやら、昼夜を問わずこっそり屋敷を抜け出して街へ繰り出しているらしい。
さすがの若慧も初めにその話を聞いた時は眉をひそめたが、同時に無理に叱るのも億劫な気がして、大事にならなければ構わないと沈華に全てを一任した。
楽しみのない今の生活を続けることを思えば、それくらいの息抜きが合っても問題ないと思ったのである。
いつしか若慧の周りには厭世的な空気が漂うようになった。
今ならば、あの時の若麗の気持ちがわかる気がする。
日がな一日、何もすることはなく、かといって何かをしようという気力もない。
何かをした所でどうにもならないとわかっているのである。
しかし胸の奥に秘めた憤りは決して消えることはなく、きっかけさえあれば容易く暴発してしまいそうな危険を孕んでいる。
紅明は宮中を出る時に見送りに来たきり、一度も会っていない。
ろくに言葉を交わさぬままに出発してしまった。
禁城から離れた場所にあるこの屋敷からは、今の時勢を知ることもできない。
しかし今は情勢から外された隔離されたもどかしさすら抱かず、ただ無気力に長い一日を過ごすのみだった。
福達が足を踏み鳴らしながら脇目も振らず廊下を突き進んでいる。
その様子は怒り狂った猪が突進する様に似ていて、血走った眼で睨みつけられた下働き達が血相を変えて飛びのいて道を譲った。
その後を、これまた血相を変えた沈華が小走りに追いかけている。
「いけません、旦那様! 若慧様はまだ、十分にご快復なさってはおりません!」
いつも冷静沈着な沈華がこれほど取り乱すのも珍しく、爆走する福達に取りすがっては無造作に振り払われている。
この二人の光景を、下働き達は目を丸くして見送ったのであった。
その直後だった。
轟音と共に、部屋の壁が諸共吹き飛ぶのではないかと思う勢いで扉が開かれた。
音の聞こえる範囲にいたものは全員思わず肩をすくめ、室内にいて主の傍に控えていた薔滴は、突然の乱入者に声のない悲鳴を上げた。
しかし福達は室内の様子には目もくれず、勢いのままに部屋の奥に突進し、驚いて振り返った女の髪をむんずとつかみ上げた。
「きゃあ!」
「若慧様!」
髪を鷲掴みにされた若慧が悲鳴を上げて床に転げ落ちるが、それでも福達は放そうとしない。
「このアバズレ女が!」
西福達が肩を怒らせながら、彼女の耳元で大声で怒鳴りつける。
そこにようやく追いついた沈華が福達に取り付き叫んだ。
「旦那様、お鎮まりを。ここは西家の屋敷ではございません!」
「ええい、邪魔だ。どけ!」
福達は沈華には目もくれず、割れ鐘のような大声で怒鳴りつける。
それでも彼女は、激高する巨躯と若慧の間に割って入り、果敢に立ちはだかった。
「どけ、沈華。このスベタに身の程を知らせてやらねばならん」
言葉と同時に福達は無造作に沈華を振り払う。
体格の良い福達が腕を一振りするだけで、華奢な沈華など容易く吹き飛んでしまうだろう。
案の定、彼女はいとも簡単に投げ飛ばされてしまった。
沈華はしたたか打ち付けた痛みをこらえながら体を起こし、部屋の隅で震えていた薔滴に小声で命じた。
「薔滴、お前は部屋の外に出ていなさい。この部屋に誰も近づけてはなりません」
「でも」
「口答えは無用! 早くお行き!」
視線を彷徨わせながら狼狽する薔滴は、沈華の叱責に一瞬体を硬直させて若慧と福達を見比べていたが、やがて泣きそうな顔で部屋から走って出ていった。
その間も福達は若慧の髪を離さず、巨大な体をふいごのように膨らませてはしぼませ、たるんだ口元からは今にも泡を吹かんばかりである。
「このアバズレめが。わしのみならず、若麗にまで恥をかかせるとは!」
「おやめください、旦那様!」
福達が若慧を打たんとして振り上げた腕を、沈華がつかみかかるようにして止めた。
「放さんか、沈華! 貴様、この儂に逆らう気か!」
血走った眼で睨み付ける様はもはや尋常ではない。
沈華を突き飛ばし、つかんだままの若慧の髪を引き上げると、若慧は顔を歪めてうめき声をあげた。
その頬を怒りに任せて何度も打擲し、つかんだ髪をゆすり、声も出せずにぐったりしたところで彼女の耳元で延々と怨嗟の声を吹き込んでいく。
満足か、ええ?
どうせ最初から何もかも偽りだったのだろう。
孕んだというのも嘘に違いない。紅明皇子をそそのかし、侍医を抱き込んでわしや若麗を陥れるために大芝居を打ったのだろう。だからあれほど儂を避けていたのだ。
違うか、性悪女め?
わしらを振り回して喜んでいたのだろう。わしのみならず、皇子や皇帝、はては禁城中を巻き込んでおいて貴様は裏で密かに笑っていたのだろう。
周りが偽りの懐妊の噂を鵜呑みにして喜ぶ様はさぞ滑稽だったろうな。どこまでも性根の腐った女だ。
それだけではない。一体わしが貴様に今までどれほどの金をつぎ込んでやったと思っている。それが此度の件ですべてパァだ。この損失どうしてくれる?
まったく、お前のような奴に今まで大金をかけていたのかと思うと腸が煮えくり返るわ。
わしも紅明皇子もまんまと騙されたわい。さすがは蛮族の娘だ。男を誑かすのはお手の物というわけか。
だいたいこのようなことを延々と言っていたが、ふと異様な気配を感じて福達はがばりと顔を上げた。
床に倒れて呻いていたはずの沈華がいつの間にか立ち上がり、簪の先を彼に向けて構えている。
否。ただの簪ではない。その切っ先は異様なまでに尖っている。護身用の仕込み簪だ。
「沈華。貴様、何のつもりだ」
「その手をお放しなさい、西福達」
沈華がかすれた声で告げた。
福達が喉元を大きく膨らませて低く唸る。
「沈華、気でも狂ったか。主に向かって刃を向けるとは」
「私の主は西若慧様です」
即座に返されたその答えに、福達が声もなく笑った。口端を大きく吊り上げ、まさしく異形の蛙である。
「ぐふふ……なるほどな。今までわしに従う振りをしていたわけか。主が主なら部下も部下だな。容易く周りを騙しおる。だが」
そうして福達は、つかんでいた若慧の髪をぐいと引き寄せて彼女を自分の体の前へと押し出した。
「これならばどうだ? 貴様がそのまま突進すれば、大事な主が傷つくぞ」
若慧を盾にされた沈華は一瞬目を見開いて動揺し、逡巡した。
福達に手加減なく打たれた主の顔は大きくはれ上がり、元より心身ともに弱り切っていたこともあって、今や意識はほとんど朦朧としている状態である。
沈華は唇を引き結び、ゆっくりと簪を反転させると己の喉元に突きつけた。
「それ以上若慧様に手を上げるのであれば、私がここで死にましょう。第二皇子縁の屋敷で療養中の女官の侍女が死んだとなれば、世間はさぞ騒がしくなるでしょうね。あなたのお立場も、ただでは済まないのでは?」
硬い決心のこもった声である。
しかし福達は鼻息一つでその決心を吹き飛ばし、豪胆にも笑って見せた。
「愚かしい。貴様にそんな覚悟があるものか。主のために命を捨てることほど馬鹿らしいものはないわい。そもそもこの女にそれほどの価値があるのか? 元はただの奴隷だというのに」
「奴隷だろうと何だろうと、私の主は若慧様ただお一人。主を害するおつもりならば、いかに福達さまと言えども許しません。それでもなお、まだ主に手を上げるというのであれば、相応のお覚悟を」
言いながら沈華は両手に力を込めた。
かんざしが喉元に食い込み、プツリと皮膚を突き破る。
赤い血玉があふれ出たのを見て、さすがの福達も彼女が本気であると気が付いた。
顔を顰めて盛大に舌打ちをして鷲掴んでいた若慧の髪を離し、指に絡まった長い髪を振り払いながら沈華を脅迫する。
「よいか。貴様もただで済むと思うなよ、奇沈華。すぐに若慧ともども地獄を見せてやろう。せいぜい覚悟しておくことだな」
捨て台詞を吐くと西福達は、大きな体を揺らしながらゆっくりと部屋を出ていった。
その背を見送っていた沈華は、福達の姿が見えなくなるなり自分の喉に突きつけていた簪を取り落す。
揺れる細工が繊細ながらも激しい音を立てた。
力の抜けた両手の震えを抑えようともせず、そのまま沈華はよろめきながらもゆっくりと歩き出し、床に倒れて失神している主の傍に崩れ落ちるようにして座り込んだ。
そうして彼女はしばらく、主の髪を愛おし気に撫でていたのであった。