(姓は固定)
第一章 女官編
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医官の後をついて部屋を出ていく宮女の手には、真っ赤に染まった桶があった。
室内には突き刺さりそうなほど悲痛な空気が漂っている。
全員が思考麻痺してしまったらしく、誰一人として動こうとしない。
室の奥、閉じられた臥牀の紗帳の向こうでは、若慧が身じろぎもせずに横たわっていた。
紅炎、紅明、そして櫓仙姿の三人が待つ一室に、仮面のように無表情を取り繕った沈華がやってきた。
「若慧は!?」
がたりと椅子を鳴らして立ち上がる紅明の顔は青ざめている。
紅炎と仙姿も沈華に注目し、彼女は束の間居心地悪そうに視線を泳がせた。
無言でうつむくそのしぐさが、紅明の問いかけに答えている。
椅子に崩れ落ちるように座る紅明の肩を、紅炎が力を込めて掴んだ。
「落ち着け。まだ最悪の事態だと決まった訳ではない」
そうだな、と視線で問われ、沈華は迷いながらも小さく頷く。
「若慧様のお命に大事はございません。しかし、お腹の御子様が」
その先は言わずともわかる。
紅明が悲痛なうめき声をあげて俯き、片手で顔を覆った。
その様子を見て、仙姿が慌てて尋ねる。
「若慧様のご体調はいかがです? 命に大事ないとはいえ、お体に影響はないのですか?」
「今は落ち着いていらっしゃいます。ただ、侍医殿が言うには、今後二度と子は望めぬだろうと」
仙姿は袖で口元を覆って息をのむ。
「見舞うことはできるか?」
紅炎の重々しい問いかけに対する返答は、少しの間があった。
「今はまだ、誰ともお会いしたくないと仰せです」
卓に突っ伏していた紅明がようやく体を起こすが、卓に肘をついて体を支え、片手で顔を覆ったまま背を丸めてうつむいている。
「若慧様から、紅明皇子にご伝言がございます」
遠慮しがちな沈華の言葉に、紅明がぴくりと反応した。
その反応を見て沈華は、ひとつ息をついて言葉を繋ぐ。
「『申し訳ございません』と」
その言葉を聞いて、紅明はますます項垂れて頭を抱える。
「何を謝るのですか」
絞り出すような声だった。
「なぜ彼女が謝るのですか。謝らなければならない人物は他にいるでしょうに。彼女は何を謝っているのですか」
そこから先は言葉にならなかった。
代わりに紅炎が沈華に言う。
「ご苦労だった。下がって良い。今は主の傍にいてやれ。何かあればすぐに報告するように」
「かしこまりました」
沈華は恭しく首を垂れると、静かに去っていった。
室内にしばしの沈黙が落ちるが、それをおもむろに遮ったのは紅炎である。
「紅明」
しかし項垂れたままの紅明は、紅炎の呼びかけにも反応しなかった。
「紅明。辛いだろうが、今は落ち込んでいる暇はない。このことが陛下のお耳に入る前に、一刻も早く今後のことを考えねばならん」
急かす言葉に、紅明はただ、分かっていますとだけ答えたが、相変わらず微動だにしない。
見かねた仙姿が、身を乗り出して申し出た。
「紅炎様。此度の事、わたくしにお任せいただけませんか。後宮は女の園。女同士の諍いごとであれば慣れております。わたくしが一番適任かと」
「何か手があるのか」
紅炎の問いに、仙姿は頷いた。
「阮妃様にご助力願おうかと考えております」
それで彼にはおおよそが理解できたらしい。
一つ頷いて仙姿に一任すると言い、一向に立ち直る気配がない紅明に視線をやった。
西若慧懐妊の報告は、宮廷中を喜ばせた。
なにせ初の皇室直系男子の子である。
特に父帝の喜びは相当のもので、まだ生まれてもいない孫を今か今かと待ち望んでいる様子は、普段の猜疑心に満ちた姿からは考えられないものだった。
普段はぼーっとしている弟でさえ、知らせを聞いた時は目を見開いて驚いていたものだ。
しばらくは公務の合間を縫って彼女を妃に迎える為に奔走していたが、忙しいとぼやいている割には楽しそうであった。
西若慧が紅明の妃となることで、外戚となる西福達の台頭が気になるところではあったが、皇子の義父の権力の及ぶところなど所詮はたかが知れている。
紅明が紅炎の側についている限り、西福達の横行はまだ第一皇子の威光で何とかできる。
医官が宴の席で皇帝に報告したのも、あながち間違いではなかった。
あそこで皇帝が報告を無視すればまた違ったのかもしれないが、彼が盛大に関心を示したことで、結果的に西若慧とその腹の子は皇帝に守られることになった。
後に紅明は医官が西若慧の懐妊を公の場で報告したことを非難していたが、医官とて愚かではない。
長く宮中に努めているだけあって、自分の報告がどのような結果を導くかを良くわかっている。
彼女たちに何かあれば、皇帝の怒りを買うことになるだろう。
もちろん紅炎も黙っているつもりはない。
危険を承知の上で彼女たちに危害を加えるのか。
それでも何かあるのが後宮という場所だ。
故に、安易に出歩くなと周りからは言われているはずだったが、さすがに身内からの呼び出しには警戒しなかったのだろう。
まさか“実の姉”に危害を加えられるとは思ってもみなかったに違いない。
あの時、自分たちが通りかからなかったら彼女は今頃死んでいただろう、と紅炎は述懐する。
後宮には、阮芳梅という名の上級妃がいる。
櫓仙姿の父王の妹の嫁ぎ先である同盟国の姫君で、彼女の従姉姫にあたる。
両国は血縁関係もあって昔から行き来も多く、二人は幼い時から仲が良かったのだという。
二人の故国は既に煌帝国に呑まれてしまったが、阮氏は娘を皇帝に、櫓氏は第一皇子に捧げることで己と自国民の命を繋いだ。
今日はその阮妃に、二人で挨拶に行った帰りだった。
起こったことをそのまま報告すると、気性の激しい皇帝は烈火のごとく怒り狂うに違いない。
当然、手を下した西妃には厳しい裁きが下り、その罪は父である西福達にも及ぶだろう。
今、人事を掌握している西福達が倒れると、朝廷の権力闘争における均衡が崩れる恐れがある。
恐らく仙姿は、阮妃の力を借りて誰か別の者に罪をかぶせるつもりだ。
生贄になる者には気の毒だが、第一皇子夫妻だけでなく上級妃である阮妃の口添えがあれば、その罪には信憑性が増すだろう。
だが本来ならば、この後始末は紅明がやるべきことである。
紅炎は未だ放心している紅明を眇め、卓に肘をつきながら内心で嘆息した。
先触れもなく、突然若慧の部屋を訪れた紅明に驚いたのもつかの間で、すぐに人払いを命じられた。
侍女たちは大層戸惑ったが、紅明の視線がまっすぐ彼女たちの主の方を向いていたため、顔を見合わせつつもおとなしく全員が部屋を退室するに至った。
紅明は適当な椅子をひっつかんで若慧の横たわる臥牀の傍に置き、腰を落ち着けた。
臥牀の紗帳は下ろされたままで、若慧が壁を向いて寝ているのが透けて見える程度である。
背を向けたその姿は、まるですべてを拒んでいるかのようだった。
「お会いしたくないとお伝えしたはずですが」
そっぽを向きながらも、紅明が会いに来たのは分かったらしい。
紗帳の向こうから覇気のない声が届いた。
「あれから、食事を全くとっていないそうですね」
臥牀の傍の卓には、手の付けられていない食事が置かれていた。
何も食べていない彼女を案じて柔らかい粥が出されていたが、すでに冷めてしまっていて、匙を手に取った気配もない。
後宮での騒ぎから数日が経ち、既に全ての沙汰が言い渡されていた。
やはり皇帝の怒り用はすさまじく、西若麗妃の侍女である伯子露が罪人として処刑され、主である西妃は責任を問われて下級妃へ降格。
父親の西福達は火の粉を受けることこそなかったもの、普段の行いからか人々の同情を受けることは無く、むしろ肩身の狭い思いをしているという。
そして、西若慧の第二皇子妃への道は閉ざされた。
家柄はともかく、一族内で不祥事を起こしてしまったことと、二度と子を孕めないという侍医の診断がすべての希望を断ってしまった。
静かに、淡々と告げられる結末に、徐々に若慧の肩が震えはじめる。
「きっと、罰が当たったのですわ」
紅明の報告が終わって少しして、若慧が涙の滲む声で呟いた。
「わたくしが産みたくないなどと言ったから。吾子はお腹の中でわたくしの言葉を聞いていたのですわ。生まれてきても歓迎されないと知っていたのです。だからあれほどわたくしを苦しめて、挙句の果てに……」
そこから先は言葉にならなかった。
体を丸めて嗚咽を堪える。
紅明が静かに立ち上がり、紗帳を上げて臥牀の端に腰かけた。
「若慧。それは違います。赤子にそんな力があるはずがないでしょう。今回のことは不幸な事故です。だからそう落ち込まずに」
「事故ですって!?」
紅明の言葉に、若慧が勢いよく体を起こして振り向いた。
「あれが事故だというのですか? わたくしはあの女に突き飛ばされたのですよ? その前は水差しを投げられました。あの女ははじめから、明らかにお腹の子を殺そうとしていたのに。それなのに、事故だとおっしゃる!」
紅明の胸ぐらをつかみ、涙の浮かぶ眦を釣り上げた。
「あなたの子です! 我が子が殺されたというのに、どうしてそう平然としてられるのですか。あの女が憎くはないのですか? どうして!」
若慧は叫んだ。
「苦しむのはあの男だけでいいのに、どうしてわたしが失わなくてはならないの!」
臥床に腰掛ける紅明の胸を、拳で叩く。
「わたしが望んだのは、あの男が不幸になることよ。あの男を不幸のどん底に陥れて嘲笑ってやるのがわたしの望みだったのに、どうしてわたしが失うの? どうして処刑されたのがあの女ではないの。どうしてあの男には何の罰も与えられずにいるの。どうしてわたしばっかり。どうして、こんな……」
どうして、どうしてと言いながら、若慧は紅明を弱々しく叩き続ける。
紅明は抵抗せず、されるがままになっていたが、自分の胸にしがみついてすすり泣く彼女を抱きすくめ、そして囁いた。
「洛昌の郊外に、母の実家が所有する屋敷があります。そこで、しばらく療養しませんか」
その言葉に若慧はぴたりと動きを止め、信じられないと、縋り付くような表情で紅明の顔を見上げる。
そうしてようやく絞り出した声は、とてもか細いものだった。
「わたくしはもう、不要ということですか。不祥事を起こした上に、子を産めぬようになった女など、もう必要ないと?」
「そうではありません」
紅明は腕の力を強め、若慧を両腕の中に閉じ込めた。
「このまま宮中にいれば、あなたは休まることができない。食事をとらないだけでなく、夜の眠りも浅いというではありませんか。私はあなたの体だけでなく、心も心配なのです。しばらくは権力争いとは遠いところで、何も考えずにゆっくり休養してください」
懇願するように訴えかける紅明が言葉を重ねる一方で、彼の腕の中の若慧はすうっと心が冷えていくのが分かった。
この苦しみを、彼は分かってはくれない。
西家に対する憎しみと、我が子を失った悲しみと、そうして虚しさがないまぜになったこの心を、決して理解してくれることはないのだと。
寄る辺ない彼女が唯一頼れるはずの彼が、急に無機質な人形のように思えた。
どれほど自分の身を案じてくれていようが、所詮は彼も全くの赤の他人であり、本当の意味で彼女を理解してくれることはないのだと思い知らされる。
「若慧?」
急に静かになった若慧を案じて、紅明が彼女の顔を覗き込む。
「わかりました」
心配そうな彼の目を見つめて、彼女は呆然と告げた。
「紅明様のお言葉に従います」
その表情は、まるで魂が抜けたかのように虚ろなものだった。