(姓は固定)
第一章 女官編
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手を繋いで後宮の廊下を歩く様子は、何も知らないものから見るととても仲の良い姉妹のように見えるだろう。
妊娠中の妹を労わる姉という図は、人々の目には美しくも微笑ましく映るに違いない。
だが実態は全くの真逆で、若慧は一刻も早く若麗から逃れたくて仕方がなかった。
もともと感情の起伏が激しく、機嫌の良い時には使用人に物をやったり些細な失敗を見逃すほどの許容を見せる反面、機嫌の良い時には誰彼かまわず八つ当たりをし、時には怪我をさせてしまうようなこともあった。
特に今のようにとびきり優しい時は、必ず後になって機嫌が急降下するもの決まっているので、いったいいつ、何が彼女の気分を害してしまうかと考えると気が気ではない。
尖りきった警戒心を薄い笑みで覆い隠し、表面上は何でもないように取り繕っているが、内心ではいつ足元をすくわれるかわからない恐怖に駆られている。
疑心暗鬼が過ぎて今までのすべてが疑わしく思えてきてしまうほどだ。
「ねえ若慧、覚えていますか? わたくしが後宮に入る前に二人でした約束を」
「ええ、ええ、覚えていましてよ。若麗お姉さま。あの時いただいた指輪は今でも持っております。入内のお祝いにお父様に頂いた宝箱に大切にしまってありますわ」
若麗が後宮に入る前には既に若慧が女官として出仕することは決まっていたので、若麗が若慧に対して決して邪魔はしないようにと命じ、代償として台座のゆがんだ水晶の指輪を押しつけられたときの話だろう。
言葉を変えるだけでなんと平和な内容になってしまうのだろう。当時を思い返すだけで笑いがこみあげてきてしまう。
若麗は若慧に、「お嬢様」ではなく「お姉さま」と呼ぶようにといった。彼女曰く、仲直りの印なのだという。
そればかりではなく、そろそろ夕食時だから部屋に帰らなくては、と言い出した若慧に対して、若麗は後宮の門まで送っていくと申し出た。
仰天したのは若慧だけではなく、扉の外に控えていた若麗の侍女たちも同じで、二人で仲良く手を繋いで部屋を出てくる姿を見て、目玉が飛び出んばかりに驚いていた。
若麗の侍女たちはそのほとんどが彼女が実家から連れてきた者達で、当然のことながら若慧のことも知っている。
以前の二人の関係を知っているだけに、今の様子には目を白黒させている。
中には若慧に対する不信感を隠そうともしない者もいた。子露がその筆頭である。
一方で、若慧の侍女は西家の事情など知る由もない。鳳蛾が挙動不審な若麗の侍女たちを見て、怪訝そうな顔をしている。
子露をはじめとする若麗の侍女数名と、若慧についてきた鳳蛾が二人の後ろをしずしずと歩いている。
春も盛りを過ぎ、役目を終えた花びらが芝に散って一面の色とりどりの絨毯となって庭を彩っていた。
妃の行列は庭の景色を楽しみながらゆっくりと進んで行く。
「毎年夏になると、この池に舟を浮かべて舟遊びをするのですよ」
庭の池を指さして、若麗が楽しげに言う。
「楽士に楽を演奏させて、お料理もいつもよりも豪華にして、陛下もいらして大勢の后妃様方が参加なされて、それは賑やかで美しい宴ですのよ」
「まあ、それは素敵ですこと。紅明様はほとんど宴をなさいませんもの。陛下にお仕えできる方々が羨ましゅうございますわ」
「お前が妃になったら、お前が宴を開けばよいではないの。これから紅明様はたくさんの妃をお迎えなさるでしょう。皆の交流の場を設けて仲を取り持つのは正妃の役目ですよ」
「心得ておきますわ」
若慧は苦笑する。
一人の男の妃たちが集まるということは、すなわち互いを牽制し合う場でもある。正妃は自分よりも下位の者を牽制しながら、全員を御さなければならないのである。
若慧が紅明の正妃になることを前提とした言葉だった。
正直、自分本位になりがちな若慧には荷が重い。皇后のように肝が据わっている女でないと務まらない。
若麗もそれを分かって言っているのだから質が悪い。
やはり若慧に対して完全に心を許したわけではないのだろう。
「ほら、若慧。あそこに鯉がいるわ」
若麗が指さす先に、錦のように美しい数尾の鯉が泳いでいた。
「まあ、本当に。美しいこと」
鯉たちは恐らく餌が浮かんでいるのであろう水面を啄んでいる。
立ち止まってその様子をほほえましく見ていた。
その時だった。
すぐ後ろに暖かい人の気配があって、短い呼気と共に背中に衝撃を受け、若慧の体が前に投げ出された。
首がのけぞり、伸ばした両手は空を掻く。
侍女たちの甲高い悲鳴が聞こえた。
突き飛ばされたのだと気付いた時には、彼女の体は欄干を超えて回廊の外に転げ落ちていた。
地面に叩きつけられる衝撃に息を飲み、反射的に両手で腹を抱え込む。
若慧の体は芝生の上を数度転がり、勢いのままに池に落ちた。
浅い池だが、人を乗せた船を浮かべられるだけの水深はある。衣裳が水を含んで体に絡みつき、動きを阻む。もがけばもがくだけ息ができない。
おまけに、春とはいえ水はまだまだ冷たい。身を切るような冷たさと相まってあっという間に恐慌状態に陥った若慧は、必死で息をしようと口を開くが、口の中に入ってくるのは空気ではなく冷たい水だった。
水の合間から見えた若麗は、顔を引きつらせて笑っていた。
若麗、と僅かな息継ぎの合間から叫ぶ。
それが憤りからか、助けを求めたのかはわからない。
ただ、彼女の声が聞こえたのか、若麗の顔が引き攣った。
鳳蛾が必死な形相で駆け寄ってくるのが見える。
しかし彼女が伸ばした腕をつかむ前に、若慧の体は沈みつつあった。
意識がだんだん遠のいていく。
脳裏に様々な顔が映っては消えていく。
バルバッドの父と祖母。生家で彼女の面倒を見てくれた使用人たち。彼女を買い取った奴隷商。奴隷船で彼女の隣で膝を抱えてふさぎ込んでいた女。
ああ、全く関係ない者達ばかりだ。
西家で若慧に辛く当たった使用人たち。これまで若慧が蹴落としてきた女。そして紅明。
それから、それから。
わたしの赤ちゃん!
思い当たった瞬間、若慧の口からがぼりと大きな気泡が吐き出された。
そうだ、わたしの赤ちゃん。若慧が死ねば、赤ちゃんも死んでしまう。せっかく授かった命なのに。おそらく紅明も生まれてくるのを楽しみにしているのに。
それはだめだ。それだけはいけない。
生きなければ!
重い手足を最後の力を振り絞って大きく泳がせると、不意に二の腕を強く掴まれた。
そのままいずこかに向かって強く引き寄せられる。
若慧が無我夢中でその腕にすがりつくと、彼女の体はあっさりと水面に浮かびあがった。
口を大きく開けてむさぼるように空気を吸い込むが、喉の奥がつかえて大きく咳き込んでしまう。
咳と共に大量の水が吐き出され、大きく息を吸っては咳き込んで水を吐き続けた。
酸欠で頭の芯がしびれるように眩暈がした。
咽てせき込む西若慧を仙姿に預けると、紅炎は濡れた衣を絞りもせずに、青い顔で立ち尽くしている若麗に向き直った。
「西妃様。これはいったいどういうことですかな?」
「紅炎殿……」
目を眇めて仁王立ちする紅炎に若麗が怯む。
紅炎は低い声で糾弾した。
「私には、西妃様が妹君を池に突き落としたように見えたのですが」
「まさか、誤解ですわ!」
若麗が甲高い声で叫ぶ。
「わたくしはその子を助けようとしたのです! ああ、若慧、だから池に近づきすぎるなと言ったのに!」
今更のように取り乱して泣き叫んでいた。
「ではなぜすぐに助けを呼ばなかったのですか? 大声を出せば他の侍女や女官が飛んできたでしょうに」
「混乱していて……何が起こっているのかわからなかったのです! あの子が足を滑らせて、気が付いたら池で溺れていて、侍女たちが悲鳴を……。紅炎殿がいらっしゃらなかったら、わたくし、どうしていいかさえ! ああ、若慧、無事でよかった。ありがとうございます紅炎殿。紅炎殿がいらっしゃらなかったら今頃どうなっていたことかっ」
混乱しているというのは本当だろう。
滑稽なほどに両手をせわしなくばたつかせて髪や振り乱し、まったくもって見苦しいことこの上ない。
妃の侍女が、おろおろしながら主人を宥めていた。
涙で化粧も崩れているがその様子は、今、彼の後ろで仙姿や侍女に介抱されている若慧よりも、以前、朝議で孫馬秀を相手に言い争っていた西福達を思い起こさせた。
さてどうしたものかと思案していると、西若麗と対峙していた紅炎の背後で、仙姿の悲鳴のような声が響いた。
彼女に抱えられた西若慧は、池に飛び込む前に紅炎が脱ぎ捨てた外套を掛けられている。
春先の冷たい池で溺れた為だろう、引き上げた時には蒼を通り越して真っ白な顔をしていたが、今は横ざまに倒れた体を丸めてその顔は苦痛にゆがめられていた。
「若慧さん、しっかり!」
仙姿に抱えられるその様は、まるで母親に抱かれる胎児のよう。
はっとして、主人に縋り付く侍女を押しのけ、若慧の体に掛けられていた外套をはぎ取った。
かくして、水を大量に含んだ裳裾は、鮮血で真っ赤に染まっていたのであった。