(姓は固定)
第一章 女官編
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部屋に入るなりむっとした甘ったるい匂いが鼻につき、無意識のうちに袖で口元を覆った。
室内に煙が漂うほどに香を焚きしめている。
窓から入る陽光は明るいが、締め切っているので空気が淀み、それがいっそう匂いを閉じ込めている。
「若麗お姉さま、ごきげんよう」
せっかく吐き気をこらえて挨拶をしたのに、言葉を発した途端、呼気と共に胃の内容物がのど元までせり上がってくる。
挨拶をしたきり言葉を飲み込んだ“妹”を見ても、若麗の気だるげな表情は変わらなかった。
長椅子に寝そべったまま、億劫そうに彼女を見ている。
小ぶりな目鼻立ちの整った、美人というより可愛らしい顔立ちで、若慧と違って豊かな体つきは健康的に見えるはずなのに、物憂い表情がすべてを台無しにしている。
西家の屋敷にいた時はいつもにこにこと笑ってとても愛らしい人だったのに、この伏魔殿は彼女の人柄にすら影響を及ぼしているらしい。
今日の若齢は、若葉色の深衣に紅水晶の飾りのついた金の簪と、耳飾りと首飾りは金の台座に瑪瑙と猫目石をあしらい、右手には翡翠の指輪がはまっていた。
高級な玉をふんだんに使い、これでもかというほど飾り立てている。
しばらく無言の時間が続き、やがて若麗が手に持った手巾を一振りした。
すると周りにいた侍女たちが恭しくうなだれてしずしずと退室していき、やがて部屋は若麗と若慧の二人きりになった。
「立ったままわたくしに挨拶するなんて、お前も随分偉くなったものだわねぇ」
横柄な声がかかる。
若慧は一瞬体をこわばらせたが、恐る恐る両手を前で組み、片膝をついて拱手の礼を行った。
「大変失礼いたしました。西妃様におかれましては、ご機嫌麗しく存じます」
「お前には、わたくしの機嫌が麗しく見えて?」
そうして、吐き気をこらえている若慧の顔色を見て、不機嫌そうにふんと鼻を鳴らす。
「少なくとも、体調が悪いというのは本当のようね。でも本当に妊娠しているのかしら。侍医の勘違いではなくて?」
「侍医殿は当代一と名高い名医です。その腕は皇帝陛下が絶大な信頼を寄せておられることをみても明らかかと。その侍医殿が、陛下を始めとする諸侯の皆々様の御前でご報告申し上げたのです。万が一にも勘違いであれば、今頃彼の首は罪人たちと共に処刑場に並んでいることでしょう」
冷静に答えると、突然すぐそばで甲高い音が響いた。
反射的に目をつぶって身をよじり、目を開くと、若慧のすぐ真横で水差しが粉々になっていた。
決して大きなものではないが、中の水が床にぶちまけられている。
はっと顔を上げると、いつのまにか若麗が若慧のすぐそばに立っていた。
「若麗お嬢様」
「お黙り。下賤な奴隷風情が、よくもこのわたくしにそのような偉そうな口が利けるものだわね。たかが皇子の子を身ごもったくらいで、皇室の一員にでもなったつもり? 思い上がるのもいい加減になさいな」
「申し訳、ありません」
慌てて両手をついて床に額をこすりつける。
衣裳の袖がこぼれた水を吸って重くなった。
「こんな貧相な娘がお好みだなんて、紅明皇子も変わっていらっしゃるわね。どうやって殿下に取り入ったのかは知りませんけれど、お前が当家の奴隷であることに変わりはないのだから。今度図に乗って偉そうな口を利いてみなさい。お前が奴隷であることを禁城中に触れ回ってあげますわ」
平伏する若慧の頭上で、若麗が滔々と毒を吐き続ける。
「そもそも本当にその腹の子は紅明皇子のお子なのかしら? 元は素性も知れない蛮族の娘だもの。案外、他の男の子を皇子の子と偽っているのではなくて? 礼儀作法もろくに知らぬ野蛮な娘が、欲を満たすために適当な男と淫らな行いをして孕んでしまったとしても何ら不思議ではありませんわね。まあ、そうなると大変ですわ。皇族を謀るのは大罪でしてよ」
薄々感じてはいたが、ここにきてようやく若麗の目的を確信した。
ようするに彼女は若慧に嫉妬し、八つ当たりをしたかっただけなのである。
もともと若麗は気性の激しい女性だ。
中級妃という位は与えられているが、宮中の噂話を集める限り決して評判の良い妃ではなく、しょっちゅう悋気を起こしては侍女に当たり散らしているという。
おかげで若慧の一件があるまで、皇帝ですら一度も彼女に振り返ることはなかったそうな。
若慧の懐妊、福達の台頭と続けば、後宮にいるもう一人の娘を顧みざるをえなくなる。
先日、皇帝は初めて若麗を寝所に召したのだという。
若麗も馬鹿ではない。皇帝から望まれたのは、けっして自分の魅力が目に留まったからではないということを、女の勘とも言うべきところで察している。
だからこそ、こうして若慧を呼びつけて鬱憤をぶつけているのである。
迷惑なのは若慧で、一刻も早く部屋に帰りたくて仕方がない。
いくら寒さが和らいできたとはいえ未だ朝夕の冷え込みは厳しく、たとえ室内と言えども石造りの床は冷たい。
加えて衣裳がたっぷり水を吸った今、若慧の体温は徐々に奪われ続けている。
この状態が胎の吾子にいいはずがない。
体をかがめる叩頭の体勢も、腹がつかえて若干の苦しさを覚えている。若慧が辛いと感じるほどなのだ。赤子はさぞ苦しかろう。
この時若慧は、目の前にそびえる若麗を畏怖しながらも、胎の子を気にかけている自分に戸惑っていた。
今まではいかにして若麗の怒りを穏便に済ませるか、何とかして己の身を守らなければと、そればかり考えていたのに、いつのまにか守る対象には胎の中にいる我が子も含まれている。
何かにつけて無意識に腹を庇ってしまうのだ。
先ほど水差しを投げつけられた時も、とっさに庇ったのは己の体よりも腹だった。
まだ生まれてもいないのに、いつの間にか情を抱いてしまったらしい。
そんな若慧の心情を見透かしたかのように、赤子がぽこりと胎を蹴る。
苦しいと抗議しているのだろうか。それとも、しっかりしろと母を叱りつけているのだろうか。
しかし若麗の機嫌を損ねてしまった今、若慧にはどうすることもできないのである。
その時、ほうっとため息をつく気配がしてふっと空気が軽くなった気がしたかと思うと、床に平伏して丸まった背に暖かい手がそっと置かれた。
驚いて顔を上げると、すぐそばに若麗が屈みこんでいる。
「若麗お嬢様?」
何よりも驚いたのは、彼女が不気味なほど穏やかな表情をしていたことだった。
若麗は若慧の背に置いた手をゆっくりと撫で降ろし、何度も何度もその背を撫でた。
「ごめんなさいね。八つ当たりをしてしまったわ」
そうしてはにかんだ笑みを浮かべる。
「床は冷たいでしょう? 割れた破片で怪我をしていない? ああ、衣裳も濡れてしまったわね。このままでは体が冷えてしまうわ。そうなったらお腹の子に悪いもの。こちらの椅子にお座りなさいな。すぐに着替えを用意させましょう。わたくしの物で申し訳ないのだけれど、まだ新しいからどうか気にしないで。お父様に頂いたものなのだけれど、わたくしには似合わなくて、結局一度も袖を通したことがないの。お前に似合うようであればそのまま下げ渡すから、着てもらえると助かるわ」
若慧の背筋を数百の虫が這い上がって行った。
これは誰だ。一体彼女は何を企んでいるのだ。
知らず知らずのうちに立った鳥肌を納めるように二の腕をつかむ。
一見、若慧の身を案じている若麗の表情は綺麗に笑顔で覆われ、その心理を読み解くことができない。
若麗の呼び出しに応じた侍女がぞろぞろと部屋に入ってきて、手早く割れた水差しを片付け、てきぱきと若慧を着替えさせていく。
その間も若麗は朗らかにしゃべり続けたが、彼女の突然の変化に鳥肌が立つのを堪えるので精いっぱいで、肝心の話の内容はほとんど聞いていなかった。
若麗が用意したのは、普段から若慧が来ているようなゆったりとした襦裙ではなく、交領の深衣だった。
襟を交差させて前で合わせ、体に巻き付けるようにして着る。
襦裙は飾り帯を締めなければ体の線を隠すこともできるうえ、今の若慧にとってはとても楽に着られる衣裳であるが、深衣は体に巻き付けた上に必ず腰帯を締めなければ前が開けてあられもない姿になってしまう。
着つけてくれた子露に頼んでみぞおちに近い位置で腰帯を結んでもらったが、そうすると最近急に大きくなってきた腹が目立つようになった。
着替え終わった若慧の姿を、若麗は目を細めて値踏みでもするかのように眺めている。
その視線が下腹部に留まったのを見て、若慧は思わず両手で腹を抱えた。
「思っていたよりも随分大きいのですね……。ね。触ってみてもいいかしら?」
小首をかしげて可愛らしくねだってくる若麗の姿は、かつて西家ではつらつとしていたころの彼女を彷彿とさせた。
恐る恐る頷くと、彼女は喜んで若慧にすり寄ってくる。
そうして若慧の腹に掌を押し当て、するりと撫でた。
まるでその形を確かめるかのように何度も何度も撫でられるたびに、若慧の体には怖気が走る。
「産み月は夏の終わりごろと聞いているけれど、それまでにもっと大きくなるのでしょう? お前はただでさえ細いのに、こんな大きな子を産めるのかしら。赤子が大きくなりすぎて難産になるのではなくて?」
「問題ないと侍医殿は申しておりました。これでも標準の範囲内なのだそうです。初産は時間がかかるものなので、今から難産の心配をしていてもしょうがないと言われました。むしろ小さいままだと弱い子が生まれてしまうのだとか。何分わたくしも初めての事なので、人に聞くことしか知らないのです。その時になって見ればわかると言われてしまえば、何も言えないのですわ」
「まあ。そうはいっても侍医殿は殿方ではないの。自分で赤子を産んだこともないのに、知ったようなことをおっしゃるのね」
まったくもってその通りだと、このときばかりは若麗に賛同したくなった。
訳知り顔で頷く侍医の顔を見るたびに、毎回若慧はその頬に生えるひょろりと細い口髭をむしり取ってやりたい衝動に駆られるのだった。
長椅子に二人で並んで座り、侍女がお茶の用意をしている間も若麗はずっと若慧の腹を撫でていた。
赤子がぽこりと胎を蹴り、若麗が動いたと無邪気に喜んでいる。一方で若慧は、今日は良く動くものだと感心していた。
普段は一日に一度蹴るか蹴らないか。あとは蠢いていることがほとんどなのに。よほど気にくわないことでもあるのだろうか。
若慧がいやいや若麗の相手をしているので、その不快感が赤子にまで伝わっているのかもしれない。
そんな若麗が、急に真剣な顔で若慧に向き直った。
「若慧。わたくしはおまえに謝らなければならないの。今までお前につらく当たってきたのはわたくしの本意ではないのよ。お父さまに言われて仕方なくやっていたことなの」
突然の告白に、若慧は目を見開いて硬直した。
本当に何を言っているのだろうかこの人は。
今まで散々若慧に当たり散らしてきて、今更謝ったところで許してもらえると思っているのだろうか。
そんな若慧の心境をよそに、若麗は目を潤ませて語り掛けてくる。
「わたくしはこれまで、奴隷は人ではないと教えられて育ちました。奴隷を売買すると大きなお金になるのでしょう? だからお父さまも、まるで物を扱うように奴隷を商うのだわ。わたくしも今まではそれでいいと思っていたの。だけどお前が懐妊したと聞いて、わたくしは驚いたのです。人ではないと思っていたお前が、初めて人であることを知ったのです。目が覚めたような気持だったわ。そして、今までお前にしてきた仕打ちを悔いました。今までわたくしは本当に愚かでした。お前を虐げてきた過去は変えられないけれど、今までの行いを悔い改めることはできます。だからね? 許してもらえるかしら。これからはお互いに助け合って、仲の良い姉妹でいましょう。」
なんという理屈だろう。謝れば許してもらえると思っているのだろうか。
しかも、謝っているようで謝っていない。
今までの所業は自分のせいではないのだと、父に言われて不本意ながらも従わざるを経なかったのだと、全ての責任を福達に押しつけてしまっている。
あくまでも自己保身に走る若麗にはらわたが煮えくり返る思いだったが、今ここでそれを指摘すると、気まぐれな彼女の逆鱗に触れてしまいかねない。
若麗の癇癪はその場にいる者全員に向かうのだ。
若慧の機嫌が降下するにしたがって、若麗の侍女たちが気を張り詰めさせていくのが分かる。
若慧の短気で侍女たちにまで八つ当たりの対象になってしまうのは忍びない。
だから若慧は煮えくり返るはらわたが煮詰まる前に、煮やすのをやめた。今の言い訳は聞かなかったことにしよう。若麗は謝っているのだから、その部分のみを素直に受け取ればよいのだと。
若麗の手に自分の手を重ねて、ふわりと笑いかけた。
「若麗お嬢様。何もかも既に過ぎたことですわ。そのお気持ちだけで嬉しゅうございます。ですからもう、お気になさらないでくださいまし」
「そう言ってもらえると嬉しいわぁ」
若慧につられて、若麗もふわりと笑み崩れる。
そうして二人は、つかの間の昔語りに興じるのだった。
それぞれの胸中に潜む思いなど、互いに決して知る由もない。