(姓は固定)
第一章 女官編
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中には妊娠してもあまり体調が変わらないという人もいるそうだが、若慧はそうではなかったらしい。
ささいなことで腹が張り、ろくに身動きが取れない。
ようやく悪阻が治まったかと思えば今度は脈が悪いと言われてしまい、折角食べられるようになった食事を制限されてしまった。
貧血気味なのは相変わらずで、情緒不安定さにも拍車がかかり、所かまわず当たり散らされるようになった侍女たちは気の毒としか言いようがない。
普段は衣裳で隠されて見えないが、腹をなでれば僅かなふくらみに触れることができる。
妙な違和感があったので侍医に訴えれば、きっとそれは胎動だと教えられた。
本来であればもう少し成長してから感じるようになるものらしいが、若慧は身体が細い分、胎の中の動きを感じやすいのだという。
胎の中で蠢く感触にぞっとしたが、その反面なにやら妙な心持がして、その日は一日中じっと腹に手を当てていた。しかし、そういう時に限って赤子というのは動かないものらしい。
部屋を訪ねてきた紅明にそのことを話してみると、彼も何やら妙な顔をしてじっと若慧の腹を眺めていた。
「触ってみますか?」
紅明があまりにもじっと眺めているので遠慮がちに声を掛けてみると、焦ったように断られた。
「い、いいえ、結構です!」
それでも無言でじっと腹を見つめられているのも居心地が悪い。
そこで、隣に座る彼の手を取って、そっと自分の腹に触れさせた。
侍医と侍医の連れてくる宮女以外には、自分の侍女にすら触れさせたことのない腹だ。
紅明は驚いて引っ込めようとしたが、彼の手ごと両手で腹を包みこむと、あきらめたらしく大人しくなる。
「ええと、動かないんですが」
「常に動いているというわけではありませんから」
ただ、彼が触れるまではわずかながらに違和感があったものが、彼が触れた途端に落ち着いた。
突然触られて驚いたのか、それとも触れられたことで安心して大人しくなったのか。
父上が分かるのかもしれませんね、と言うと、彼は苦虫を噛み潰したような顔をして、父上、と口の中で呟いた。
そして二人で顔を見合わせて困惑した。なんだかとても奇妙な気分である。
しばらく待っても一向に動く気配がないので、あきらめて紅明が手をひっこめると、とたんにぽこりと腹を蹴られた。
「あら、今」
今まではどちらかというと“蠢いている”という感触だったので、これほどはっきりと蹴られたのは初めてである。
少し感動していると、隣で紅明が不貞腐れた顔をしていた。
その様子がおかしくて、若慧は思わず吹き出してしまった。
体調が安定したことで、これまで避けてきた社交を再開させなければならなくなった。
悪阻で寝込んでいる間にたくさんの祝いの品をもらったので、方々に礼を言って回らなければならない。
真っ先に向かったのが皇帝と皇后の元である。
特に皇帝陛下には侍医を遣わせてもらったので、正月の宴を騒がせてしまった詫びと共に、念入りに礼を言う必要があった。
謁見の間で挨拶をすると、二人とも目を細めて寿いでくれた。
「いろいろと言ってくる人がいるとは思いますが、あまり信じてはいけませんよ」
とは、皇后の談である。
「と、いいますと」
「子どもというのは皆、違って当然なのです。お腹の中にいる時から元気によく動く子もいれば、あまり動かない大人しい子もいます。一人目は安産でも、二人目は難産ということだってあり得るのです。一人として同じ子はいません。その人の子と違うからといって、思い悩む必要はありませんよ。初めてのことで不安も多いでしょうが、何かあればすぐにお言いなさい。私でよければ相談に乗りますよ」
思えば、彼女も四人の子どもを産んだ母親なのである。
普段は敵視している相手だが、不安を言い当ててくれたことで、今回ばかりは少し心が軽くなった気がした。
「ありがとうございます」
自然と笑みがこぼれ出た。
こんなに穏やかな気分は久しぶりである。
ところが良い気分がそう長く続くはずもなく。
分かってはいたことだが、沈華から西福達からの面会の申し出があったことを聞かされたとき、若慧は顔が強張るのを堪えながら決死の覚悟を決めなければならなかった。
「おお、おお。流石はわしの子だ。お前なら必ずやってくれると思ぅておったぞ。よくぞ懐妊した」
面会の間で待っていた福達の喜びようは尋常ではない。
久しぶりに会った“父”は、以前にもまして醜くなっていた。
飽食が過ぎるのか以前よりも肥え太り、頬の肉は弛み、少し動くだけで息が上がっている。
大量に汗をかいているのか体臭も相当なもので、それをごまかすために強く香を焚いているので室内には凄まじい悪臭が漂っていて、治まりかけているとはいえ悪阻を抜きにしても気分が悪い。
これまでの態度とはうって変わって若慧を褒め、今にもほくほくと湯気が立ち上りそうな様子である。
かと思うと顔をしかめ、文句を言う。
「沈華め、嘘をつきおったな。お前の体調がすぐれないから会わせられないなどと言っておったが、元気そうではないか。侍医に聞いても何も教えられない一点張りだ。わしは皇子の義父になるのだぞ。娘や孫を心配して何が悪い」
「気が早ぅございますわ、“おとうさま”。まだわたくしが紅明様の妃になると決まった訳ではございませんのに」
「何を言う。お前は皇子の子を身ごもったのだぞ。皇帝陛下もたいそうお慶びではないか。身分も容姿も申し分ないというのに、妃になれぬはずがない。それなのに、どいつもこいつもわしをお前に会わせたくないらしい」
ところがぶつぶつと文句を言いながらも、顔がゆるむのは抑えられていない。
うきうきと踊りだしそうな福達は、若慧の肩を抱き、上機嫌で笑い、はては若慧の腹に耳を当てようとさえした。
福達の顔が腹に向かって近付いてきた時、ぞっとして鳥肌を立てた若慧は、思わずよろめいたふりをして数歩後ろに下がってしまった。
「どうした、若慧。具合が悪いのか?」
“愛娘”が青い顔をしているのを見て、福達はうろたえる。
近くにあった卓に手を付き、口元を覆って小さくつぶやいた。
「少し、貧血気味で」
「なんだと! それは大変だ。言われてみれば随分痩せているではないか。食事はしっかり摂っているのか? 陛下から侍医を遣わされているのだろう。薬湯は飲んでいないのか」
「胎の子に障るので、あまり強い薬は使えないのだそうです。安静にするのが一番だと言われました」
「そうか。それでは仕方がない。すぐに部屋に戻って休むといい。沈華にはよく言い聞かせておくから、何かあればすぐに言いなさい。わしにできる事があれば何でも手配しよう。今のお前に何かあっては一大事だ」
口先だけではなんとでも言える。
こみ上げてくる嫌悪感をこらえながら、若慧は無言で頷いた。
「よいな、男だ。必ずや男子を生むのだぞ。それがお前の役目なのだから」
肉の垂れた顔を近づけ、真剣な表情で言い含めてくる。
生暖かい息が強烈に臭って、吐き気をこらえながら無理やり微笑んだ。
「もちろん承知しておりますわ、“おとうさま”」
奴隷とは思えない態度であったのに、全く気にしない様子で満足げに頷く福達に、若慧は笑みに侮蔑が滲み出そうになるのを必死に堪えなければならなかった。