(姓は固定)
第一章 女官編
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若慧を妃にするという計画は難航しているらしい。
つい最近、皇室の縁者が亡くなったらしく、慶事はしばらく遠慮しようという傾向があるようだ。
思うようにことが運ばないことで紅明は不満そうだったが、悪阻で動けない若慧にはむしろありがたかった。
なにせ大変だったのだ。気持ち悪いわ頭は痛いわで食欲など一切わかず、ものが食べられないのでどんどん痩せていった。
間が悪いことに最も苦しい時期にいつもの調子でやってきた紅明が、若慧に八つ当たり気味に睨まれて顔を引きつらせて退散していったこともある。
その後あまり顔を見せなくなったと思ったら、どうも若慧が眠っている時にこっそり顔を見に来ているらしかった。
対応をした薔滴がぷりぷりと怒りながら曰く、
「以前よりも痩せているからきちんと食事をさせろ、運動不足だと難産になるから散歩をさせろと、若慧様のお苦しみも知らずに勝手なことばかり仰っていました」
とのことである。
仕方がないので比較的体調が良い日に呼び出すと、恐る恐るといった様子でやってきた。
体調が安定しなかったために最近はまともに口もきいていなかったから、こうして紅明とお茶をするのは本当に久しぶりである。
「お久しぶりでございますわね、紅明様」
「ええ、まあ。……体調はいかがですか? 今日は少し顔色がいいようですね」
以前睨み付けたのがよほど効いたのか、紅明はしきりに若慧の顔色を窺っている。
「あなたを妃にするという話ですが、もう少し時間がかかりそうです」
なぜか申し訳なさそうに言う紅明に、若慧は首を傾げた。
確か若慧を妃にするというのは、紅明が諸侯に婚姻を迫られるのを避けるためだったはずだ。
妃を一人立てたくらいでは海千山千の狸たちは止まらないが、彼らも人の子である。赤子が生まれるとなれば無理に次を勧めるのはもう少し待とうという気になる。
だから若慧が懐妊した今、諸侯は紅明に対して無理強いはしていないはずだが、彼は何を気にしているのだろうか。
「紅明様。もしやどなたかに妃を勧められたのですか?」
若慧が怪訝そうに聞けば、紅明は真っ青になって慌てて否定した。
「まさか、とんでもない! あなたに子どもが生まれようとしているのに、妃など娶れませんよっ」
「では、なぜそのように暗いお顔をなさっているのですか。不幸があったので慶事を遠慮するのは当然の事でしょう。当初の計画通りとまではいきませんでしたが、少なくとも赤子が生まれるまでは諸侯から婚姻を勧められることはないでしょうに」
「……そう、ですね」
なぜか陰鬱な空気をまといだした紅明に、若慧は訝みながらも茶を勧める。
茶器を差し出した若慧をちらりと見て、紅明が少し眉をひそめた。
「先日会った時よりもまた痩せましたね」
衣装の袖から見える腕は、血管が青白く浮き上がるほどに痩せている。
袖を引き下ろして腕を隠しながら、若慧は苦笑した。
「今日は少し、調子が良いのですよ」
「すみません。私のせいで……」
唐突に紅明に謝られて、若慧は目を丸くした。
「まあ、何を仰っているのですか」
「あなたが今こうして辛い思いをしているのも、妃にするという約束を果たせていないのも、全て私のせいです。あんなに偉そうなことを言っておきながらこの体たらくでは、あなたはさぞ失望したでしょうね」
陰気を纏って一人で勝手にどんどん落ち込んでいく紅明に、若慧は眦を吊り上げた。
「滅多なことを仰らないでくださいまし」
ぴしゃりと言ってのけると、紅明の肩が小さく揺れる。
この人はいったい何を言っているのだろうかと、若慧は信じられない心持で紅明を睨み付けた。
「今わたくしが苦しんでいるのも、未だに紅明様の妃ではないのも、確かにすべてあなた様のせいです。しかしだからと言って、そのようなことでわたくしの目の前で暗い顔をなさらないでくださいませ。わたくしはもう、とうの昔に覚悟を決めました。紅明様の妃になり、元気な赤子を産むと決めたのです。それなのにあなた様はまだそのようなことを仰っているのですか」
ただでさえ気分が悪いのに、今は紅明の気鬱まで共に背負い込んでやる余裕がない。
ままならない現実に愚痴りたいのは分かるが、若慧とて誰にも話せない不平不満はある。
自分の知らないうちに自分の体がどんどん変わっていくのが恐ろしい。自分の胎の中に自分ではない人間がいるのかと思うと気味が悪い。体調が悪いのに病ではないので問題ないと言われる不安。あちこちから届く祝いの品や、体調を気遣う遣いの重圧。
こんなにも苦しいのに、誰にも打ち明けられないというのが何よりも辛い。
皇子の子を宿したのだから、生まれてくる子は国を背負う立場になるのだからと言われると、恐ろしいと、不安だと、ましてや産みたくないなどと言えるわけがない。
だから若慧は、心の底のわだかまりを微笑みの下に隠して耐える。
人々の喜びや、侍女たちや紅明の気遣いに罪悪感を覚えながら、腹にあてた両手が震えるのをじっと堪えるしかないのである。
それなのに紅明は、若慧の目の前でいとも簡単に弱音を吐くのだ。
心を押し殺して気丈に振る舞うことしか許されない若慧の目の前で、紅明はこんなにも容易く心をさらけ出す。
「気分が悪くなってまいりました。今日はもうお引き取りくださいまし」
袖で口元覆って顔を背ければ、紅明は滑稽なくらいうろたえる。
水を飲むか、横になりなさいと騒ぐ紅明を無視して、若慧は侍女を呼ぶ。
すぐに沈華がやってきて、楽に過ごせるようにと牀を整えた。
その様子を見て、紅明が哀れなほど情けない顔をしている。
彼も不安なのだとわかっている。ただ、今の若慧には彼を慮る余裕がないのだ。
若慧は小さく嘆息すると、おろおろする紅明の袖を捕まえて、そっと彼に寄り添った。
胸元に頬を添えるようにもたれかかると、紅明の体が驚いたように硬直する。
「紅明様」
名前を呼ぶと、衣越しに心の臓が大きく跳ねたのが分かった。
同時に、背後にいる沈華が何かを察したようにすっと気配を消す。
「若慧。どうしたのですか、突然」
困惑した声が頭上から降ってきた。
普段、人前でこれ見よがしに媚を売る以外に、若慧から紅明に触れることは滅多にない。
とく、とく、と規則正しく聞こえる紅明の鼓動に、いつの間にか若慧の心も落ち着いてきた。
紅明を落ち着かせたかったのにおかしなことだと思っていると、ゆっくりと紅明が動き出す。
恐る恐るといった様子で、彼の腕が若慧の肩に掛かり、背に回され、気が付けば抱きしめられていた。
「どうしましたか、若慧」
先ほどと同じ問いだったが、先ほどに比べて随分穏やかになっている。
自分と同じように紅明も落ち着いたのだとわかって、少しほっとした。
「不安にさせてしまってすみません。あなたが辛いのは分かっているのに、これ以上余計なものを背負わせてしまうところでした。もう、あなたに嫌な話を聞かせたりはしませんから」
紅明の優しい声に、若慧は違う、と首を振る。
彼にそんな言葉を言わせたかったわけではない。
「いいえ。わたくしの方こそ、差し出がましいことを申しました。今はただ、わたくしに紅明様と共に苦しんで差し上げる余裕がないだけなのです。どうか、一人で抱え込まないでくださいまし。紅明様はいつも無理をなさるから、わたくしは心配ですわ」
若慧の体を抱く紅明の腕に力が入る。
「あなたが覚悟を決めたのだから、私もいい加減、腹を据えねばなりませんね」
何かを決心したような声色に、若慧は思わず紅明の顔を見上げた。
見慣れたはずの顔に覇気が宿っている。眼光も鋭く、その表情はいつも若慧が見ているものとは違う。
これは軍師の顔だ、と直感的に悟った。
いつも若慧に見せる“紅明”という男の顔ではなく、煌帝国の皇子として、また軍を司る政治家としての“練紅明”の顔だ。
若慧は戦慄を覚えて、彼の胸に添えていた手をぎゅっと握り込んだ。
紅明は目を細めると、若慧を抱え込みながらその肩に顔をうずめる。
「あなたと生まれてくる子どもは、私が必ず守ります。あなたとこれから生まれてくる子どもが安心して暮らせるような国を作ると約束しましょう」
抱きすくめられた若慧は、何も言えなくなってしまった。こういう時に何と返していいのかわからない。
だから、痛いほどの力が込められている紅明の腕から自分の引き腕を抜くと、そっと彼の背に両手をまわした。
筋肉とは無縁の薄い背を、若慧はゆっくり撫でる。
しばらくそうしていたが、やがて耐えきれずに両腕に力を込めて抱き着いた。
「わたくしとこの子だけではだめです。紅明様も一緒でなければ」
涙の滲む声が紅明の胸元にくぐもって消える。
「どうか、ご無理なさいませんよう」
しがみつく若慧の耳元で、紅明はありがとう、と呟いた。