(姓は固定)
第一章 女官編
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決して華美ではないが、いつもよりも贅沢な衣装に身を包んだ紅明が、若慧の横たわる臥牀の傍に座っていた。
「若慧」
静かに彼女の名を呼ぶその声は、しかし普段よりもとても堅い。
「紅明様」
答える若慧も、いつもの覇気などどこかに置き忘れてしまったかのように弱々しかった。
室内には二人の他に誰もいない。侍女たちが気を利かせたのか、それとも紅明が人払いをしたのか。
若慧は天井を見上げたまま、腹の上の掛布を握りしめて呆然と呟いた。
「侍医が。……侍医殿が、わたくしは懐妊しているのだと、申しておりました」
「知っていますよ。なにせその侍医は、わざわざ宴の最中に皇帝陛下に謁見を申し出て、出席者全員の目の前で陛下にご報告申し上げたのですから」
若慧の体が震える。
若慧が倒れた時、周りにいたものがとっさに慌てたせいでその騒ぎは宴の席にまで伝わったのだという。
女官が、それも皇子と親しいものが一人倒れたと聞いて、皇后が皇帝の許可を得て自らの侍医を遣わした。
皇帝に命じられて診察したのだから、当然、診断結果は皇帝に伝えなければならない。
かくして、皇帝、皇族、そして諸侯をはじめとする宮廷中の者が同時にその事実を知ることになったのである。
紅明は難しい顔をして、後ろ頭をガシガシと掻いた。
「申し訳、ありません」
「なぜ謝るのですか。赤子はあなた一人の力で出来るものではないのですから、私にも責任はあります。しかし正直、どうしてこの時期に……という感じですね。まあ、嘘から出た真とも言えますが、せっかく授かった命です。前向きにこれからのことを考えなくては……若慧?」
紅明が訝しむ。若慧が天井を見上げて唇を震わせていた。
「わたくし、産みたくありませんわ」
「若慧、なんということを!」
紅明が目を丸くして叱責するが、若慧は両手で顔を覆ってしまった。
「産みたくなどありません。だって誰もこの子を望んではいないのですもの。今だってほら、あなたは難しいお顔をしていらっしゃる。わたくしも素直に喜べない。両親にさえ歓迎されていないのに、生れてきても誰からも愛されないかもしれない。そんなの、この子が哀れなだけです!」
流れる涙を抑えきれずに、枕に顔を押し付けて声を殺す。
紅明はしばらく沈黙した後、若慧をあやすように言った。
「吾子が哀れだと思うのであれば、それでもよいではありませんか。あなたが我が子を想っているという証拠です。無関心に放っておかれるよりずっといい。それに、誰も歓迎していないなんてとんでもありません。侍医の報告を聞いて、陛下は大層お喜びでしたよ。何せあのお方にとっては初孫になるのですからね。少し落ち着きなさい。突然のことであなたも混乱しているのでしょう。落ち着けばきっと、また他の事を考えられるようになりますよ」
そうして、声もなく泣きじゃくる若慧の髪を躊躇いがちにそっと撫でた。
だがそこまでしても、彼も若慧の懐妊を心底喜んでいるわけではないのだ。
若慧の身を案じてはくれているが、同時に周囲への対応も考えている。
もとより若慧が懐妊したと嘘をつき、彼女を妃として迎える手はずであったのだ。
予定が早まったことで、当初の計画をいくらか修正する必要がある。
その算段をしているのだろう。
しかし、彼が冷たいのではない。宮中とはそういう場所だ。
自らの私生活すら、利用価値があるとわかれば政治に利用する。
むしろ、のんきに喜ぶ暇があったら一刻も早く我が身のためにこの状況の利用方法を考えなければならない。
情を期待してはいけないとわかってはいたが、少しでも期待してしまった己が情けなくなった。
紅明は、その日は夜通し傍についていてくれたが、翌日からしばらく来なくなった。
おそらく根回しのために奔走しているのだろう。
若慧の体調も安定しており、新年の儀の後片付けも陵舞がすべて引き受けてくれたので、数日は部屋に引きこもるように過ごすことになった。
幸か不幸か、数日後にやってきた悪阻も軽くで済んでいる。
ただし、食べ物や女性特有の香水や化粧品などの強い臭いがすっかりダメになってしまったので、若慧自身も今はほとんど化粧をしていない。
近くに侍る沈華や鳳蛾、薔滴にも濃い化粧を遠慮してもらったので、今、誰か知り合いが訪ねて来たら部屋を間違ったかと面食らうことになるだろう。
紅明は落ち着いたらまた別の考え方ができるようになると言っていたが、実は数日たった今も妊娠を喜べないでいる。
沈華は冷静に振る舞ってはいるが、実は三人の侍女たちの中で一番喜んでいるかもしれない。福達への報告や今後の準備などの陣頭指揮を執っている。
薔滴は手放しで喜んでくれた。今も事あるごとに赤子の話題を持ち出してははしゃいでいる。
その反面、鳳蛾は懐妊の喜びよりも、主のただならぬ様子の方が心配らしい。
何かを言いたそうな、気遣わしげな視線を向けてくるが、それらすべての感情を否定してしまった若慧は、誰とも目も合さずにただぼんやりと窓の外を眺めるだけだった。
「若慧殿のご様子は、何もおかしい事はございませんよ。初めてのご懐妊というのはどうしても不安が付きまとうもの。今はそっとしておいておあげなさい」
したり顔でそう話すのは、診察に来た侍医である。
「しかし、お食事もほとんど召し上がらないのです。悪阻があっても食べられないというほどではありませんのに」
鳳娥が不安げに訴える。
「夜もあまりお休みになられてないようですし、このままでは若慧様のお身体が持ちませんわ。殿下はどうして若慧様に会いに来てくださらないのでしょうか。吾子様は殿下のお子でもあらせられるのだから、若慧様がお辛い時にはお傍にいてくださるべきではございませんの。せめてお食事だけでも召し上がっていただくようにお話してくださればよろしいのに」
「殿下もお忙しいのでしょう。無理を言ってはいけません」
柔和な顔で諭されれば、鳳娥もそれ以上はぼやけない。
薔滴が苦笑しながら同僚をたしなめた。
「鳳娥、心配し過ぎよ。私の義姉も、最初の子を産んだ時はちょうどあんな感だったわ。それよりも、あなたがそんな顔をしていたら若慧様が余計に不安に思われるじゃない。しゃんとして笑ってらっしゃいよ」
「悪いけど薔滴。私はあなたのように楽観的にはなれないわ」
ぴしゃりと言い放った鳳娥に、薔滴が眉をひそめる。
束の間ただよった張りつめた空気は、薬湯を持ってきた宮女が入室してきたことによって霧散した。
主の介助をするために鳳娥が進み出て、薔滴がいつでも動けるように部屋の隅に控える。
先ほど鳳娥が言った通り、懐妊が分かってからというもの彼女たちの主は弱っていく一方である。
こんな時に一番頼りになる侍女頭の沈華は、新年の儀からこちら、若慧の父親である西福達に頻繁に呼び出されては憔悴して戻ってくることが多くなった。
最初は軽いと思われていた悪阻は、日を追うごとに酷くなっていった。
最近では比較的食べやすいと言われている果物すら受け付けなくなってきているため、今の主は水と薬湯と、塩のみで味付けした薄目の粥で命を繋いでいる状態である。
何より、本人から生きようとする気力を感じられない。
臥牀に横たわる主の腕は、日に日に細くなっていく。
それでも侍医は問題ないと言い張っているのが鳳蛾には信じられない。
鳳蛾の故郷では、妊婦には栄養を付させるために肉をたくさん食べさせた。
お産が重くならないようにと運動を兼ねて家事もさせるし、家畜の世話をしているものもいた。
もちろん悪阻がひどくて動けない者もいたが、それでもここまで弱った女を見たことがない。
皆、初めての妊娠に戸惑いながらも、生まれてくる我が子を慈しんでいた。
鳳蛾の知る西若慧という女は、いつでも悠然と構えて物事をあしらい、常に毅然とした態度を崩さず、侍女にすら弱みを見せるような人ではない。
『煌帝国の悪女』などと呼ばれ、競争相手を次々に追い落とす様から一見冷酷非情なようにも思えるが、その実、脆い心の持ち主であることを知っている。
沈華や薔滴は気づいていないようだが、紅明皇子が訪れた日の翌日は、主は大抵浮かない顔をしている。
泣いた後のように瞼を赤く腫らしている時もあった。
紅明皇子に何かひどいことをされたり、喧嘩をしたわけでもないのだろう。
皇子が起きだして朝の支度を手伝う頃には、二人の間にそんな気配は全くない。
鳳蛾は、主は実は紅明皇子に懸想しているのではないかと考えている。
しかしなぜか主は皇子を想うことを自らに禁じていて、辛い心を誰にも打ち明けられずにいるのではないか。
まるで三流の恋愛小説のような推理だが、あながち間違いではないとも思っている。
主には何か深い事情があるらしい。
それには侍女頭である奇沈華や、父親である西福達が関わっている。
主が自分の本心を隠すのは、それに関係しているのではないだろうか。
本来ならば歓迎されるべき懐妊を、紅明皇子も主も喜んでいる様子がない。
むしろ、主に至っては絶望しているようにも見える。
薔滴は主たちを、まるで互いに思いあっている恋人であるかのように見ているらしいが、鳳蛾から見ればあの二人がそんな温い関係でないことは明白である。
宮中はそれほど甘い場所ではない。
それは、主に拾われる前の宮女だった頃に嫌というほど見てきた。
鳳蛾たちの主は、政略結婚のために集められた女たちのうちの一人だ。
紅明皇子もそれをよくわかっていて、皇子が主のもとに通うのは、後ろ盾である西福達の権力が欲しいからである。
ああ、と鳳蛾は嘆息した。だからか。
情を抱いてはいけないとわかっていて懸想してしまったのだ。だから主は今、あれほど苦しんでいる。
「紅明皇子も、酷なことをなさいますわ」
侍医を見送ってから思わずぼそりと呟くと、部屋の中にいた薔滴が怪訝そうな目を向けてくる。
何も考えていないのであろう能天気な薔滴に一瞥をくれてから、鳳蛾は再び視線を部屋の外に向けそして目を細めた。
向うから紅い人物がやってくる。
室内では主が嘔吐いていた。
鳳蛾はそっと部屋の扉を締めるとそのまえに立ちふさがり、来客を迎え撃つ準備を整えた。