(姓は固定)
第一章 女官編
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遠征から戻ったばかりの紅明は、疲れた表情はしていたものの、若慧達が思っていたよりもすっきりとした身なりをしていた。
肌は荒れ髪も痛み放題だったが、紅明が自分でやったにしてはこざっぱりしている。
皺だらけではあったがきちんと洗濯された様子の衣服と言い、共に遠征についていった従者の努力が伺えた。
「ご無事のお帰りを心よりお喜び申し上げます」
拱手で出迎えた女官たちに、紅明は振り向きもせずに言った。
「留守中、何か変わったことは?」
「とりたててご報告することは何も」
細々としたことは、既に女官長や各部署の責任者が片付けている。
此度の遠征は、南方の視察も兼ねていたと聞いている。
西に巨大な天山山脈がそびえる煌帝国にとって、西国との貿易は厳しい山越えよりも海路を発展させた方が効率が良い。
そこで今、南方の海沿いを海運のために開発しようという計画が進んでいる。
貿易相手は海運国家バルバッド。若慧の祖国だ。
辣腕化と名高いラシッド王が健在のため、いかな煌帝国と言えども今のあの国を手中に収めることは難しいだろう。
そんなことをすれば、他にバルバッドと交易をしている他国が黙ってはいない。
故に、しばらくはまっとうに貿易をすることになったらしい。
もし将来バルバッドの国力が弱まるようなことがあれば、その時は煌帝国も容赦しないだろう。
他国に取られる前に、軍事力に物を言わせて力づくで奪いにかかるに違いない。
母国に未練はないが、まだかの国にいるであろう父や祖母の事だけが気にかかる。
今回の遠征は戦が目的ではなかったようだが、長距離の移動はやはり紅明にとっても相当の負担になったらしい。
旅装を解いて普段着に着替えさせる間も、彼は何度も大きなあくびを繰り返している。
皇帝への報告は翌日でいいらしいので、今日はもう休ませよう。もし仕事をしようとしたり書簡を引っ張り出そうとしても全力で阻止しようと、実は事前に侍女や女官たちの間で相談がなされていた。
すでに寝所の支度は整っている。
あとは食事と湯あみをさせて臥牀に押し込んでしまえばいい。
乱暴な扱い方だが、隙があれば仕事をしようとする紅明に対して、規則正しい生活をしてほしい侍女や女官は、いざとなれば多少の強引さはやむを得ないと考えている。
紅明を着替えさせながら、食堂で待ち構えている侍女と引き渡しの時期を目線で確認し合っていたのだが、その最中で若慧はおや、と思った。
そういえば、戻ってきてから紅明は一度も若慧と目を合わせていない。
別に普段から見つめあっているわけでもないが、間近で身の回りの世話をしているのだから全く視線が合わないこともない。
出立前にあんなことを言っていたにしては、特に何か声掛けがあったわけでもない。
というよりも、紅明は若慧に話しかけすらしていない。
まさかこの期に及んで恥ずかしがっているわけでもないだろう。
若慧のことを他の侍女と同じように扱い、まったく素知らぬ顔をしているのだ。
なぜか避けられているらしいと確信したのは、そのすぐ後の事だった。
若慧は、次に紅明が彼女の部屋を訪れて来たら、先日の返事をするつもりでいた。
ところが、待てど暮らせど彼は若慧のもとに来ない。
それどころか、翌日から朝夕の身支度に若慧ではなく陵舞を指名したのである。
「紅明様と喧嘩でもなさったのですか、若慧様?」
陵舞に仕事を取られて自室で退屈そうにしている主に、薔滴が心配そうに聞いてきた。
「喧嘩などしていませんよ」
「でも、お戻りになってから紅明様は若慧様とお会いになろうとなさいませんわ」
そんなことは言われずともわかっている。
若慧は頬杖をついて部屋の窓から外を眺めながら、反対側の人差し指でこつ、と卓を叩いた。
中庭では鳩が集まってのんきに地面を啄んでいる。
紅明がよく餌をやっている鳩だ。
「本当に何もなかったのですか? その割には、遠征中も紅明様からはお手紙の一つもありませんでしたが」
嫌味たらしく言ってくるのは沈華である。
「今まであの方がわたくしに手紙をよこしたことなど一度もなかったでしょう。そんなものはなんのあてにもならないわ」
「失礼いたしました。しかし、以前はあれほど若慧様と仲睦まじくていらっしゃったのに、お戻りになってからは一度もお召しがありませんので、やはり何かあったのではないかと先走ってしまいました」
若慧は指先でこつこつと規則正しく卓を叩く。
紅明が遠征から戻って数日が経ったが、相変わらず彼は若慧の元に来ない。
昼は公務に奔走し、夜は自室にこもっていると聞いている。
ところがここで、沈華がとんでもない爆弾を落としてくれた。
「ここ数日、紅明様は他の女性のお部屋にお泊りになっているようでございますよ」
指先で卓を叩くのをやめ、頬に添えている手に力を込めた。指爪が頬に食い込んでいる。
紅明が何を考えているのかは知らないが、若慧を避けるにしても方法があまりにも稚拙すぎる。
よりにもよって他の女のもとに通うなど、若慧の嫉妬でも誘っているのだろうか。
だとしたら、その作戦はある意味成功だろう。
予定を狂わされた若慧は、怒り心頭に達していた。
「沈華。今宵、紅明様はどちらへ」
「
若慧はそう、とだけ相槌を打つ。
杜貴桜は確か、紅明の書房を管理していた女官である。
後ろで沈華が嫌な笑顔を浮かべている気配がする。
おそらくこの機を逃せば、また福達から折檻を受けることになるだろう。
提案に乗るのは業腹だが、ここは若慧自らが動くしかないと決心した。
夜にしてはしっかりと化粧をした。
紅粉をはたいて、顔が上気しているように見せる。
髪も簡単に結い上げて、宝飾品は挿さず、ただわざと後れ毛がうなじにかかるように結って匂うような色気を演出する。
夜着の上に薄様の背子を羽織り、まるで湯殿から上がってきたばかりのように仕上げた。
「お美しゅうございます、若慧様」
仕度を手伝っていた沈華が、恭しく頭を下げる。
「“お父さま”にも、しっかり報告して頂戴ね、沈華」
わざとらしいほどの支度を見せつけるように釘をさすと、沈華は満足そうに微笑んだ。
「心得ましてございます」
そうして若慧は、沈華を伴って部屋を出る。
夜もすっかり更け、月が沈もうとしている時間であった。
沈華に灯りを持たせて足元を照らさせながら、若慧は廊下を進んでいく。
すると、向かいから同じく小さな明かりを持った人影がやってきた。
「こんばんは、紅明様」
同じように侍女に灯りを持たせた紅明であった。
「まあ、このような夜更けに奇遇ですこと」
微笑みながら小首をかしげて見せると、紅明は明らかに顔を引きつらせていた。
「あなたこそ、こんな時間にどちらへ?」
「わたくしは夜のお散歩に。先ほどまで湯あみをしていたのですが、のぼせてしまったので湯冷ましに少し歩いていたのです。紅明様はどちらへ」
問いかけると彼はしどろもどろになって、口の中でもごもごと言い訳をしているようであった。
私も散歩を、などと言っているような気がするが、そんな可愛らしいものではないとわかっている。
紅明はこんな時間に散歩をするくらいなら徹夜してでも仕事をする人だし、何より今の彼からは女物の香の匂いがする。
埒が明かないので、若慧は紅明の侍女を押しのけて近づき、彼の腕にそっと手を添えた。
「明日もお早いのでしょう。夜更かしは体に毒ですわ。お部屋までお送りいたしましょう」
自分よりも高いところにある顔を見上げると、なぜかすいと視線をそらされる。
「紅明様?」
ついでに顔を覗き込むふりをして柔らかな体を押し付けていくと、彼は一度強く目を瞑って天井を見上げた。
「わかりました」
諦めたように息を吐くと、自分を見上げる若慧を見下ろす。
「私の部屋よりもあなたの部屋の方が近い。今宵は泊めていただけませんか」
「わたくしのお部屋でよろしければ、喜んで」
かくして二人は、連れ立って若慧の部屋へ向かったのであった。
部屋に戻るなり人払いをする。
ふて腐れて牀に掛けている紅明に、若慧は素知らぬ顔をして隣に座りながら茶器を差し出した。
「いったいどういうつもりですか?」
差し出された茶器を受け取ろうともせず、紅明は若慧を睥睨する。
しかし若慧も負けてはいなかった。
「それはこちらの台詞ですわ」
行き場を失った茶器を近くの卓において、両手を重ねて膝の上に置く。
室内には険悪な空気が漂っていた。
「わたくしはただ、紅明様がお戻りになられて以来、一度もいらっしゃってくださらないものですから、お迎えに上がったのです」
「私が他の女性のところに行ったので怒っているのですか?」
当て擦るように紅明が言うので、若慧は袖で口元を覆ってほほほと笑った。
「まさか。その程度の事では怒りませんよ。紅明様にはお子を成さなければならない義務がおありですもの。むしろ、もっと他の女性のもとにも行かれるべきだと常々思っておりました。そんなことよりも、あんなことをおっしゃっておきながらわたくしを避けていらっしゃるのが気にかかりまして」
「返事は今年中で構わないと言ったはずですがね」
「ええ、確かにそうおっしゃいました。しかし、既にわたくしのなかでは答えは決まっております。それなのに一向に紅明様とお話しする機会がないのですもの。お答えのしようがございませんでしょう」
室内の気配が緊張する。
隣に座る紅明が気を張り詰めさせているのが分かった。
「なるほど。それは失礼しました。私はてっきり、あなたにはもっと考える時間が必要だと思ったのですが」
硬い声で揶揄する紅明に、若慧は思わせぶりにほほ笑んだ。
それを肯定と受け取った紅明が、かすれた声で尋ねた。
「それで……答えは?」
「是」
答えは簡潔だった。
「ただし」
間髪入れずに若慧がいう。
何かを言おうとした紅明が口を閉じた。
「ただし、条件がございます」
室内の緊張が一層高まる。
「……条件?」
ええ、と頷く。
紅明が、まっすぐ若慧の目を見ていた。
その強い視線を受け止めて、彼女は静かに続けた。
「わたくしがこれからしようとしていることに対し、何も聞かず、何も言わず、一切の詮索を無用に願います」
紅明がすっと目を細める。
かと思うと、不意に若慧の手元に視線を落とした。
「それは、あなたが奴隷だったことに何か関係があるのですか?」
若慧が息を飲んだ。
紅明が手を伸ばして若慧の手首に触れる。
「何を驚くことがありますか。以前言ったでしょう。あなたのことが気になって調べたのだと」
紅明が若慧の袖をすこしまくると、華奢な手首には灯明の仄暗い灯りの中でもかろうじてわかるほどの薄い痣がある。
「どれほど資料をさかのぼっても、あなたと思しき罪人の記録はありませんでした。であれば、この痣は奴隷であった時の手枷の跡。西福達には、以前から奴隷商との関係が疑われていました。あなたもその商品の一人であったことを否定する材料はありません」
若慧は答える代わりに、膝の上で両手を握る。
このとき、若慧はいったいどんな顔をしていたのだろうか。
紅明は少し目を細めると、片手を若慧の頬に添えた。
そうして親指で彼女の唇をなぞる。
「あまり強く噛みすぎると、切れてしまいますよ」
そこで初めて、自分が唇を噛みしめていたことを知った。
「西福達が憎いですか?」
囁かれる声に苛立って、若慧は紅明の手を払いのける。
「詮索は無用と申し上げました」
「なるほど。これも“条件”のうちに入るのですね」
若慧が奴隷であることを知っているということは、彼女が西福達を陥れようとしていることもわかっているはずだ。
後ろ盾を得るために彼女を妃にしようとしているのに、その女が自分の後ろ盾となるはずの男に復讐しようとしている。
それでも彼は先日の提案を撤回しようとしない。
彼は馬鹿なのだろうか。
紅明の視線が若慧を憐れんでいる。
たまらなくなって若慧は、きっと紅明を睨み付ける。
「あなたは馬鹿です」
「どうしたんですか、いきなり?」
突然なじられて紅明は目を丸くしたが、その表情はどこか面白がっているようにも見える。
その態度に腹が立って、人差し指を彼の胸に突き立てた。
「どうして朝まで貴桜さんのところにいらっしゃらなかったのですか」
「えぇぇ。それは今、関係ないのではありませんか?」
頓狂な声と共に、紅明から張り詰めていた気が抜けた。
それをいいことに、若慧はここぞとばかりに言いたい放題を言う。
「あります。大ありです。あなたがあんな時間に出歩かなければ、わたくしはあなたにお会いできずに諦めて一人で部屋に帰りましたのに。あなたにお会いしてしまったからこうして先日のお返事をしなければならなくなったではありませんか」
「ちょっと待ってください。いくらなんでもそれは理不尽すぎます。話したいと言ったのはあなたですよ? それを責められても私は何とも」
「わたくしはわたくしですけれども、わたくし自身のことについてわたくしにはどうしようもできないのです。ですから紅明様はわたくしをわたくしだとお思いになってはならないのです。わたくしは何一つとしてわたくしのものではないのですから」
自分でも何を言っているのかわからなくなってきている。
要するに、奴隷であるこの身は何もかもがままならず、若慧の仕業だと思われても実は福達の意向であるため、彼女のことは信用してはならないということが言いたいのであるが、案の定、紅明も訳が分からず頭を抱えてしまっている。
頭を抱えたいのは若慧も同じだ。
二人して頭を抱えたところで、何かが解決するわけでもない。
若慧は鼻息も荒く牀から立ち上がると、茶を淹れなおし、隠し持っていた包子を引っ張り出してきて卓に並べた。
本当は酒が欲しいところであるが、あいにく切らしている。
飲茶が並べられた卓上の光景を見て、紅明がぼやいた。
「結局、いつもと同じ流れになるんですね」
「召し上がらないのであれば、この包子はわたくしが全ていただきますが」
「……食べます」
紅明も若慧も、すっかり気が抜けてしまっている。
二人でもそもそと包子を食べていると、やがて紅明がぼそりと呟いた。
「なんだか、今やっとうちに帰ってきたような気がしました」
「お帰りになったのは数日前でございましょう」
「そうなんですが……」
なにやら口ごもりながらながらも何かを考えているそぶりをしていたが、まもなく小さな声でぷつぷつと話し始めた。
「実は、先日あなたにあのようなことを言ってしまったので、帰ってきてからもあなたとは顔を合わせづらくて、試しに他の女性のもとへ行ってみたりもしたのですが、どうにも居心地が悪いというか落ち着かないというか。それで夜が明ける前に部屋に帰ることが多かったのです。部屋に戻っても何をするというわけでもないのですが、そうするとどうしても先日のことを思い出してしまって、やっぱり落ち着かなくて。……もっと早くにあなたに会いに来ていればよかったです」
最後は消え入りそうな声である。
こんなことを言われてしまったら、若慧も眉尻を下げるしかない。
「あまり召し上がると、お腹が膨れて眠れなくなってしまいますわ。ほどほどになさいませ」
先ほど紅明が言った通り、結局はいつもと同じ流れの一日が過ぎようとしているのであった。
ちなみに杜貴桜には、後日、たっぷりと下剤を入れた点心を差し入れておいた。