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第一章 女官編

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 庭を少し歩くだけで壁にぶち当たる。
 赤く塗られ、黄色い瓦の乗ったこの壁を見上げるたびに、自分の世界の狭さを思い知らされる。
 これでも広い方なのだという。
 第二皇子の王府は、第三皇子以下やそれ以外の皇女たちの住まいよりも一回り大きいらしい。
 それでもさほど広く感じないのは、空き部屋を埋めるようにひしめく玉の輿狙いの女官の数の多さと、皇子の所有物の大半を占める書簡の山々で全体的に雑然としているからだろう。
 丁寧に手入れされた庭が上手く壁をも風景の一部にしてしまってはいるのだが、しかし四方を囲まれている閉塞感はどうにも息苦しさを感じる。
 女官は宮中における使用人にすぎない為、好き勝手な場所に出入りすることはできない。
 それは若慧とて例外ではなく、この王府の外へ出かけるだけでも上司の許可が必要なのである。
 しかし、これが皇子妃や後宮ともなると、外出の許可を得ることすらままならなくなるのだろう。
 やはりこの場所は窮屈だ。

 あの夜から半月が立とうとしている。
 あれから若慧は一度も紅明に会っていない。
 翌日から紅炎皇子の遠征について出かけてしまったからだが、遠征の話は事前に分かっていたことなので、要するに彼は若慧に対してわざと言い逃げしたことになる。
 これでは返事をしようにもできない。
 壁を見上げてふうっと息をついた。

 先日、孫蓬簫が宮中から出された。
 毒殺未遂事件の予後不良により、職務復帰不可能と判断されたためである。
 ただ、宮中における女官というものは禁城の使用人、つまりは皇帝の所有物という扱いになるため、宮中を出ると言ってもただで実家に帰されるわけではない。
 女官が宮中を出る方法は三つ。
 罪を犯して罪人として出るか、死んで死体となって処分されるか、皇帝によって功臣に下賜されるか。
 流刑はともかく、罪人として放逐されたとなれば実家にも戻れず、かといって都にも留まれず、どこかでうらぶれて野垂れ死にするのが落ちである。
 死んだとて、実家で葬式くらいは上げてもらえるだろうが、神聖な禁城を死で穢したのだから外聞は決してよろしくない。
 病に罹ったくらいでは、運が良ければ医官に看てもらえるが、そうでなければ城の片隅に追いやられて放っておかれるのが宮中という場所である。
 その点、孫蓬簫は運がよく、皇后と櫓仙姿の口添えによって、地方へ下る将軍へ下賜されることになった。

 紅明とは似ても似つかない粗野で武骨な男だと聞くが、彼女を送って行った使者によると、下賜された女官を屋敷に迎え入れた時の彼の様子と言ったら、まるで初恋の人を前にした少年のようだったという。
 農村で生まれて腕一本で将軍までのし上がった成り上がり者らしいが、女性に関してまるで初心で、あまりの照れ様に暗い顔をしていた蓬簫の顔も思わずほころんだそうな。
 それまでの過程はどうであれ、結果的にこの閉鎖的な空間から解放された蓬簫が、今はとても羨ましい。
 この壁の中にいると、どうしても世間の事情には疎くなる。

 たとえばつい先日、バルバッドの王宮に妾腹の第三王子が迎えられたという噂を聞いた。
 あの辣腕家のラシッド王に妾腹の王子がいたことにも驚いたが、正妃腹の二人の王子の不出来は若慧もよく知っていたので、新たに王宮入りした第三王子が兄王子達に似ていないことを何よりも願っている。
 もし第三王子までもが愚鈍であったらと思うと、故国の先行きが不安で仕方がない。
 即ち若慧の実父も心安らかではいられないからである。
 この噂が若慧の耳に届いたのは、騒ぎがバルバッドから商人伝手に煌帝国まで届き、洛昌を賑わせ初めてから何日も経ってからだった。
 柱の陰から官吏たちが世間話をしているのを小耳にはさんだので、それ以上詳しい内容も知らない。
 臍を噛んだところで、今の彼女には何もできないのである。
 目の前にそびえる壁は、目に見える以上の厚さがある。

 そうやって物思いにふけっていたところで、背後で下草の踏む足音が聞こえてはっと我に返った。

「こちらにおいででしたか、若慧様」

「あら、陵舞。何かあって?」

 彼女には、新たに仕立てさせている紅明の衣裳の監督を任せていたはずである。

「新しいお衣裳が仕立てあがりましたので、検品をお願いいたします」

「もうできたの。随分早いこと」

「昨晩、紅炎皇子が遠征先での任を終えて紅明皇子らとともに帰路に着かれたとの知らせが参りましたので、宮女たちを急がせました」

 紅明たちが帰ってくるころには秋が終わる。
 煌帝国は冬になれば山ほど雪が積もる。
 バルバッドは一年を通して温かく、雪なんて見たこともなかったので、若慧は未だに凍てつく冬が慣れない。
 紅明も寒さは苦手らしく、冬になると火炉の傍から離れようとしない。
 ならば紅明が帰ってくる前に、今のうちに冬の支度をしておかなければならないだろう。
 宮女に命じて、新しい冬用の衣裳を何点か仕立てさせた。
 陵舞に促されて部屋に入ると、宮女が数名、自分が仕立てた衣裳を乗せた盆を持って待っていた。
 若慧はそれら一つ一つを手に取り、順番に検品していく。

「これはお前が仕立てたの?」

 順調に検品を進めていたが、やがて一人の宮女の目の前で立ち止まった。

「この刺繍、紅明様のお衣裳にしては珍しい意匠ですわね」

 衣裳には、可愛らしい花の刺繍が施されていた。
 指摘された宮女は、目玉をせわしなく動かしながら小さな声で囁くように言う。

「寒い季節にお召しになりますので、少しでも暖かい季節を思い出していただきたくて」

「そう。それはすてきな心掛けね。きっと紅明様もお喜びになるでしょう」

 言いながら若慧は突然、手に持った衣を左右に引き裂いた。
 絹の割ける甲高い音が響き、室内にいたものが顔を青ざめさせる。

若慧様、何をなさるのですか!」

 陵舞が慌てて静止してくるが、若慧は紅を塗った唇で弧を描いてにんまりと笑いかける。

「ごめんなさい。爪が引っかかってしまったわ」

 目の前の宮女は目に涙を浮かべて震えていた。
 若慧は手元に残った割けた衣裳を見下ろして、憐れんだように言う。

「せっかく綺麗な刺繍だったのに、もったいないけれどこれではもう使えないわねえ。別のものに作り直すにしても中途半端だから、いっそのこと雑巾にでもしておしまい」

 室内は静まり返っている。
 宮女のすすり泣く声だけが響いていた。

「皆、ご苦労様。良い品がそろっていましたわ。これで紅明様にも冬を温かく過ごしていただけるでしょう。一仕事を終えてほっとしているところを申し訳ないのだけれど、次は年明けの祝賀の衣裳も仕度しなければなりません。早急にとりかかりなさい」

 一人を残し、その場にいた宮女は肯定の代わりにおとなしく頭を下げた。
 その様子に満足した若慧は、まださめざめと泣き続けている宮女に後片付けを命じて部屋を出た。

若慧様、先ほどはいったいどうなされたのですか!」

 廊下を歩いていると、陵舞が足早に追ってきて鼻息も荒く若慧に詰め寄った。

「せっかくあの宮女が丹精込めて仕立てた衣裳を、あのように割いてしまわれるなんて」

 声を尖らせて非難してくる陵舞に、若慧は鼻を鳴らして冷静に答えた。

「あの宮女は、血の跡を刺繍で隠していたのよ。おそらく指先を針で突いてしまったのでしょうね。それを隠して素知らぬ顔で持ってくるとは、仕事を軽んじている証拠ではなくて。紅明様に血に染まった衣裳を着せても平気なのだから」

 陵舞が顔色を失くす。

「なぜ、血の跡を隠していると?」

「爪で少し糸をかき分ければわかること。あの厚い生地と意匠にあの小ぶりで可愛らしい刺繍は不釣り合いです」

「そんな細かいところまで……」

「いっそう、意匠にそぐった重厚な刺繍であればわたくしも誤魔化されたかもしれませんわね」

 そうしてふうっと息を吐くと、強い声音で陵舞に命じた。

「陵舞、あの宮女は馘首なさい。あのように軽々しい者はわたくしの部下にはいりません。どこかに引き取り手があればくれてやると良いでしょう。ただ、二度とこのようなことが起こらないように、引き渡し時には先方にもきっちりと先ほどのことを伝えておくように」

 これが、若慧が悪女だの鬼だのと呼ばれる所以である。
 女の本性を包み隠さず体現したような性格と、潔癖ともいえる仕事の采配ぶりが、女官だけでなく宮女からも恐れられている。
 陵舞は眦を吊り上げてなおも抗議する。

「あの者は決して腕の悪い縫師ではございません。その腕は誰もが認めております。たかだか一度の失敗で馘首というのはあまりにも酷です。私は認められません」

 若慧はゆっくりと瞬きをして横目で陵舞を見下ろした。

「あなたの許しは必要ないわ。紅明様のお衣裳に関する全てを統べているのはわたくしです。あの方には皇族としてふさわしい装いをしていただかなければなりません。一度の失敗と言えども軽んじるわけにはまいりませんわ」

「あなたがそれをおっしゃるのですかっ」

 憤りからか、陵舞の声が高くなっていく。

「この一年、仕事は全て部下に押し付けて、あなたが一度としてお役目を全うなさったことがおありですか。今更しゃしゃりでてきて何を偉そうに! 紅明様のお衣裳をずっと管理してきたのは私たちです。今頃になって出しゃばってきて、知った顔で私たちに命令しないでください!」

 おそらくこれは陵舞だけではない、紅明の衣裳に携わるすべての者たちの本音だ。
 若慧だって、今まで全く仕事をしなかった名前ばかりの上司が、突然自分たちの仕事にあれこれと口出ししてきたら腹が立つ。
 だが、ここで若慧が引いてやる道理はない。

「陵舞。あなたはこの国を出たことがあって?」

「は?」

 急に全く違う話になり、陵舞が出鼻をくじかれたような顔をする。

「この国と言っても煌国のことではないわ。この中原の外、天山山脈を超えてより西の国々を知っていて?」

「それは」

「ないでしょう。機会があれば一度行ってみるといいわ。そうすればあなたもこの世界がよくわかります」

 陵舞は若慧の意図を測り兼ねて困惑している。

「国はね、陵舞。どれほど栄えていても、いとも簡単に滅んでしまうのですよ」

「何をおっしゃりたいのですか。まさか、刺繍一つでこの国が滅ぶとでも?」

「可能性としてあり得ないことではないと言っているの。この中原の中でさえ、凱や呉といった国はすでにない。ムスタシム王国が滅亡したのはたった数年前。レーム帝国は今でこそおとなしいけれど、いつ周辺国に牙をむいたっておかしくはないわ。あの国にはそれだけの軍事力がある。いつだって最悪の事態を想定しなければならないの」

 若慧の祖母の故国は既にない。
 この中原の中だけでも、櫓仙姿の生国や溥泰鳳娥の故郷は煌帝国に飲み込まれてしまった。

「話をそらさないでください。今は宮女の処遇についてですわ。厳重注意だけでもよかったのではありませんか? なにも馘首までするほどの事では」

「事情が変わったのよ。先日バルバッドで王宮に迎えられた第三王子が、将来この煌帝国に攻め入ってくるかもしれない。煌帝国は領土拡大のために他国へ侵攻し、多くの人々から恨みを買っています。この国が他国を侵略し続ける限り、何が戦の種になるかはわかりません。あり得ないとは言い切れないでしょう」

「そんな……たかが刺繍です。ほんの小さなものが国勢を傾けるほどのものとは、到底思えません」

「今は国内の情勢も決して安定しているとは言い切れません。先帝を支持するものもまだ多いというのに、身内に足元をすくわれる可能性だってありうるのです。皇族の方にとっては一瞬の隙も命取りになります。わたくしたちの責任で戦を起こすわけにもいかないでしょう」

 陵舞はそれでもまだ納得がいかないという顔をしている。
 若慧も、彼女を納得させようなどとは微塵も思っていない。
 一つ溜息をついて、こう締めくくった。

「今の話は確かに大げさですわね。では、もっと身近な話をしましょうか。陵舞、あなたは知らぬこととはいえ、他人の血の付いた服を着ていたいと思って」

 言い方を変えるだけで、はっと陵舞の表情が変わった。
 今まで怒りに満ちていた視線が微かに泳ぎ始める。

「思わないでしょう。ましてやわたくしたちは、国を代表する方々のお衣裳を誂えるのですもの。それくらいの覚悟と責任感は持っていてもらわなければ困ります。あの宮女を馘首することに変更はありませんわ。後は頼みましたよ、陵舞」

 言い終わると、若慧はくるりと踵を返してその場を後にした。
 後に残された陵舞はしばらくその背を見送っていたが、ふと我に返って若慧に言いつけられた用事を果たすため、先ほどの部屋へ戻っていったのであった。
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