(姓は固定)
第一章 女官編
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「私の妃になりませんか?」
何の脈絡もなく唐突に投げかけられた言葉に、若慧は茶器を差し出した手を止めた。
「あなたなら身分も容姿も申し分ないと思いますが」
頭の中で紅明の言葉を反芻し、一つ深呼吸をした後、姿勢を正して彼に向き直った。
「今宵はまた、随分おふざけが過ぎますわね。突然、どうなさったのですか」
「突然ではありませんよ。以前からずっと考えていたことなのです」
言ってから紅明は、差し出された茶を一口飲んだ。
「実はこの度、兄王様が櫓仙姿を妃に迎えることになりました。まだ内定中ですので公にはされていませんが、そうなると、私にとって厄介なことになりかねません」
「紅炎皇子がご結婚なさることに反対なのですか」
「まさか、そういうわけではありません。むしろとても喜ばしいことだと思っていますよ。そうではなく、今までずっと兄王様に妃を勧め続けてきた連中が標的を失って、今度は私の方に矛先が向きかねません。その前に、先手を打っておこうと思いまして」
「わたくしを風よけになさるおつもりですか」
なんと大胆な、と若慧は呆れ返る。
と同時に、突然巡ってきた機会に飛びつきそうになるのを、必死に抑えなければならなった。
先を見定めた矢先だった。若慧にとっては願ってもない申し出である。
ただ、今まで突き放していたものを突然受け入れるのも不自然な話だ。
さてどうしたものかと思案を巡らせる。
「なぜわたくしなのですか。わたくし意外にもふさわしい女性はおりますでしょうに」
「孫蓬簫のことを言っているのですか? 彼女なら既にあなたが蹴落としにかかっているではありませんか。あなたの仕打ちに彼女が耐えられるとは到底思えませんがね」
とりあえず、素知らぬ顔をして牽制すると、思わぬ不意打ちを食らってしまった。
「彼女は未だに復帰もままならない状態です。とっくに回復していてもおかしくないのにと、医官たちも首をひねっていますよ。あなたが何かしたからでしょう?」
「親切心から少し忠告して差し上げただけですわ。彼女にとってこの宮中は、生きにくい場所でしょうから」
意外な流れにはなってしまったが、おかげでなにやら話が反れそうで安堵する。
「
突然、紅明がつらつらと名前を上げだした。
「これであなたの犠牲者は四人になりました」
「まあ、犠牲者だなんて人聞きの悪い。いずれもわたくしには関わりのないことと、他ならぬ御史台が証明しているではありませんか」
「さて、どうでしょうね。蔡寧は後宮の塔から転落死、姜禎禾は首をくくって自殺し、範瑛児は徒刑に処された。孫蓬簫もいずれはこの宮中からいなくなるでしょう」
若慧は否定の意味を込めて首を横に振る。
「蔡寧様は事故ですわ」
「ええ、悲しい事故です。しかし当時、犯人と疑われていた溥泰鳳蛾が事件の直後にあなたの侍女になった為、あなたがご自分の息のかかった女官を使って事故死に見せかけて殺したのではないかと言われました。姜禎禾もあなたに脅されて自殺をしたのだという噂が流れ、範瑛児はあなたの代わりに毒殺未遂事件の犯人に仕立て上げられた。毒殺されかかった孫蓬簫は未だ復帰もままならず、このままでは職務復帰不可として宮中を出されるでしょう。いずれもあなたと対抗していた女たちばかりです。これらの事件であなたが得をしている以上、全てあなたが関わっているとしか言えないでしょう」
紅明は卓の向こうから、ぐっと身を乗り出して若慧の顔を覗き込んだ。
「そうまでして対抗者を排除しておきながら、今になって私の妃になることを拒むはずがありませんよね?」
反れたはずの話が戻ってきた。
「馬鹿馬鹿しい」
若慧は誤魔化すように、手に持っていた器を音を立てて卓上に置いた。
紅明は乗り出していた身を引いて、泰然としたまま茶を啜っている。
「他をあたってくださいまし。わたくしはお断りいたします」
なぜか沸々と怒りが湧いてくる。さっきまであれほど彼の言葉が嬉しかったのに。
天邪鬼な自分の悪い癖だ。割り切ろうと思っても感情が出てしまう。
「なぜですか? あなたには拒む理由がないでしょう。普段あれほど私に取り入ろうとするくせに、こちらから歩み寄ればとたんに逃げてしまう。どちらがあなたの真意かは知りませんが、この際あなたの気持ちなど関係ない。私の妃になれば、あなたの父君も喜ぶでしょうに」
今度こそカッと頭に血が上った。
そうだ。そもそも自分が紅明を拒んでいたのは、福達を喜ばせるのが嫌だったからである。
監視役である沈華の目を誤魔化すために、形だけは紅明に取り入る姿を見せたが、その実、半分以上は彼に嫌われるための嫌がらせだった。
なぜか彼の方から接近してきたためにさすがに誤魔化しきれなくなったこともあり、方針を変えて福達を一度喜ばせてからどん底に落とし込んでやることにした。
自分でそう決めて割り切ったつもりだった。
それなのになぜだろう。今、彼の言葉に一喜一憂している自分がいる。
いつの間にやら自分は、思いのほか紅明に情を抱いていたらしい。
これではいけない。
自分を落ち着かせるために一つ深呼吸をして、引き攣る顔に形ばかりの笑みを張り付けた。
「そうですわね。別に理由なく拒んでいるわけではありませんわ。ただ、周りをどう説得なさるのかと思いまして。紅明様も、わたくしの評判をご存知でしょう。わたくしを妃にするためには、頭の固い官吏たちを納得させられるだけの理由が必要になりますわ」
落ち着き払った風を装ってやんわりと諭してみれば、紅明は少し考えるそぶりを見せてから言った。
「まあ……単純にあなたを妃にすることで私にも政治的に得がないわけではありません。西福達の影響力はその最たるものですし、彼を外戚として取り込むことができれば、強力な後ろ盾となるでしょう。おまけに、確かあなたの母親は煌人でなく、西国出身の外国人でしたね。君主の一族に友好の証として外国の血を招くことは珍しくはありません。民心を得るのに格好の条件だとは思いませんか?」
しかし若慧は首を振って否定する。
「外国の血を招くというのであれば、仙姿様だけで十分でございましょう。第一皇子と第二皇子がともに外国人を妃にすれば、いったい誰が純粋な煌人の血を残すのですか。それに、わたくしは“父”の妾腹の娘ですわ。いくら父の権力が目的とはいえ、皇子の正妃にするには卑しい身です。わたくしの評判も相まって、それだけでは臣たちが納得するはずがございませんでしょう。何かほかに、もっと強力な理由を考えなくては」
紅明は「ああ」とぼやいてしばしの間考え込んだ。
それから何かを閃いたように頷く。
「ならば、あなたが懐妊したことにすればいい」
「はい?」
突拍子もない申し出に、流石の若慧も被っていた猫をずり落としてしまった。
「それが事実かどうかはこの際関係ありません。子どもができたと言えば、周りも納得せざるを得ないでしょう。今すぐに懐妊というのは不自然なので正式に認められるにはやや時間はかかりますが、一番確実で手っ取り早い方法です」
紅明は一人で満足気に頷いているが、若慧にとってはゆゆしき発言であった。
「お待ちを! それはあまりにも無理がありすぎます。腹が膨れるのは詰め物でごまかせるとして、十月十日後に都合よく赤子が用意できるとも限りません。隠しきるのは容易なことではございませんわ!」
「あなた、自分の侍女を信用していないのですか?」
紅明は、呆れと憐憫を含んだ目で若慧を見た。
宮中において噂というものは、だいたい女の口から漏れるもの。
后妃や女官たちの醜聞は、その周囲に仕える侍女たちから流れるものが大半である。
若慧が誤魔化しきれないということはつまり、彼女の力は侍女たちには行き及んでいないということになる。
侍女の教育は主人の務めであり、それができていないということは、主人にとっては恥以外のなにものでもない。
だが若慧にとってはそれでよかったのだ。
多少口が軽い方が噂話は広まりやすい。自分の良くない噂を流すために、あえてそのあたりについては触れなかった。
本当に隠さなければならないことは沈華や鳳蛾にしか知らせず、薔滴のような表向き用の侍女には表向きの用事しか任せない。
そもそも侍女たちはほぼ全員が沈華の言いなりなので、若慧にとっては信用してはならないものたちなのである。
「この禁城で信用できるものなど、何一つとしてありませんわ」
「それはある意味同感ですね。少し種をまけばすぐに噂になる。だからこそ、騙しやすくもあるのです。何も全てが真実である必要はない。なに、簡単な話ですよ。懐妊したという噂を流しておいて、適当なところで流産すればよいのです」
若慧は再び頭にカッと血が上るのを感じた。
「なんということをおっしゃるのです! 女を何だとお思いですか!」
しかし紅明はむしろ冷めた視線で若慧を見る。
「その言葉、そっくりそのままあなたにお返ししますよ。ここをどこだと思っているのですか? この謀略の渦巻く禁城で、綺麗ごとばかりが通じぬことぐらいあなたもよくご存知でしょうに」
そうだった、と若慧は臍を噛む。
彼は煌帝国の皇子だ。公私を分けないことに慣れている。
必要とあらば己の私事さえ政治に利用できるのだ。
そもそも皇族の婚姻に情など必要ない。
今回は若慧の完敗である。
業腹だが、彼の申し出を受けるしかない。
「まあ、返事は急ぎませんよ。兄王様の婚約が発表されるのは、次の年賀の儀です。発表後もしばらくは大騒ぎでしょうから、我々に目を向けている余裕もないはず。そうですね、では、今年中にお返事を頂けますか。遅くとも春には既に動き始めねばなりません」
紅明は勝手に期限をもうけておいてあくびを一つ。
それから、話は終わったとばかりに席を立って、さっさと臥牀にもぐりこんでしまった。
一人残された若慧は卓上を片付けるでもなく、ただ膝の上で裙を握りしめながら全身を震わせていたのであった。