(姓は固定)
第一章 女官編
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それからというもの、紅明は時折若慧の部屋を訪れるようになった。
夜も更けたころにふらふらになってやってきて、一晩泊まった後、若慧の部屋から直接朝議に向かうのである。
来てしまったものを追い返すわけにもいかず、なんだかんだ言って結局若慧も毎回やってくる紅明を受け入れている。
これを喜ぶのが西福達である。
第二皇子の寵姫となった今、次に期待されるのは懐妊、もしくは妃となること。
西家の家柄なら皇子の正妃となれるのは間違いない。
この寵愛を逃すなと、あわよくば男児を産めと、福達は沈華を通してそう命じてきた。
避妊薬を飲み続けているので懐妊はあり得ないが、寵愛を得るのはさして難しいことではない。
というか、とうの若慧ですら、なぜ紅明が毎晩のようにやってくるのかわからないでいるのだ。
いくら突き放しても数日後にはまた懲りずにやってくる。
若慧にとっては、どうすれば寵を失うことができるのかと、そちらの方がよほど重要な問題であった。
一度、紅明に直接聞いてみたことがある。
「どうしてわたくしの元にいらっしゃるのですか。紅明様の訪れを待つ女性は、他にもたくさんいらっしゃるでしょうに」
すると紅明は首をかしげながらこう答えた。
「どうしてと聞かれても、改めて聞かれると自分でもよくわかりませんね。強いて言えば、あなたのところの包子がおいしいからでしょうか」
実はあの包子は若慧の手作りである。
始めは自分の夜食のために厨房の片隅を借りてせっせと作っていたのだが、それがいつのまにか紅明も数に含まれるようになり、今ではなぜか侍女とのお茶の時間にも登場して、だんだん作る量が増えている。
厨房に詰める女官たちが黙々と種をこねる若慧を不気味そうに眺めながらも我関せずとしているのはもはや見慣れた光景で、他の料理に毒を混ぜられないようにとその一角だけ食材や調理道具がどけられるのもいつもの事である。
しかしだからと言って包子を出さなければいいのかというとそうでもなく。
紅明がやってくるときは大抵公務を終えた直後であるため、腹を空かせていることが多い。
仕事に集中するあまりしょっちゅう寝食を忘れるこの皇子は、食べられるときに食べさせておかないといつか餓死してしまいそうで恐ろしい。
夜食の包子を食べさせなければ、彼は朝まで何も食べないことになってしまう。
結局、口では嫌だ嫌だと言いながらも甲斐甲斐しく世話を焼いてしまうことに気が付いて、一人で愕然としただけだった。
情を移してはならないことは重々承知している。情をうつせば足元をすくわれる。
若慧にとって、紅明は決して近づいてはいけない存在であり、必要とあれば十分に利用すべき相手である。
若慧の目的は福達への復讐。
自分を奴隷として辱めた西福達。私利私欲のために自分をまるで傀儡人形のように扱った男。
何が愛人の娘だ。
西福達と若慧の間には血のつながりなど一切ない。
奴隷商から買い上げた奴隷の一人。それが若慧だ。
ただ見目が良く、教養があったがために利用されたに過ぎない。
昔、祖母に教えられたことがある。
一度学んで身に着けたことは決して誰にも盗まれることはない。たとえ私財を没収されても知識や技術、教養さえあればそれが自分を助けてくれるし、決して奪われることのない、自分だけの財産になるのだと。
祖母は、今はなきムスタシム王国から嫁いできた身である。
かの王国が滅びたのは若慧がまだ小さい頃だったが、祖母が実家を継いだ弟と連絡が取れないとひどく心配していたのを覚えている。
安否を確認するために遣いに出した使者は戻らず、周囲が混乱する中、実家を案じながらも気丈に振る舞って決して取り乱したり無茶を言ったりすることもなく、むしろ革命による余波がバルバットへ降りかからんとするのを防ぐよう、宮仕えをしている義息子を通して上奏すらしていたので、稀にみる賢婦人よとラシッド王から賞賛されていた。
若慧に分別が着くようになってからはことあるごとにこのことを持ち出し、祖国が滅亡し、実家も没落してしまっても、知識と教養があったから今もつつがなく過ごせているのだと、自らの実体験を交えながら祖母は孫に語って聞かせたのだった。
しかし今の彼女はどうだ。
祖母の教えを真に受けて真面目に学んできたことがすべて仇となった。
彼女の父はバルバッドの軍人である。
先祖代々軍人としてバルバッドを支えてきた家に生まれ育ち、裕福な暮らしとたっぷりの愛情を与えられ、親の決めた婚約者もいた。勿論相手もバルバッド人である。
ところがある日、その婚約者の手によって奴隷商に売りとばされ、奴隷として煌帝国にやってきた。
これがそもそもの始まりである。
バルバッドでは奴隷は認められていない。
時折、地方の貧困層の者が奴隷狩りにあったの、生活が立ち行かずに自ら奴隷になっただのと言う“被害者”の話は聞いたが、上流階級の子女が理由もなく奴隷に落とされることはあり得ない。
彼女は目の前で婚約者が奴隷商から金を受け取るところを見た。
皮袋に詰まった金貨が光を反射して、金額を確認するために中を覗き込んだ彼の顔を明るく照らしていた。
かなり重そうな音がしていたが、おそらくあれが彼女の値段だ。
たかが皮袋一杯の金属片で、彼女の人生が一変してしまったのである。
あの時の絶望は忘れようにも忘れられない。
世間知らずの彼女は何が起こっているのかもわからず、ただ婚約者が去っていくのが悲しかった。
呼び止めても振り向いてくれず、今まで見たこともないほど嫌な表情で奴隷商と話している。
本当に同一人物だろうかとすら疑ったものだ。
最後に彼女を見た彼の表情は酷く冷たくて、その目はまるで野良犬でも見るかのような、無関心で、かつ嘲りと憐れみを含んでいた。彼自慢の端正なはずの顔が醜く歪んで見えた。
後に婚約者が賭け事にはまって多額の借金を抱えていたこと、その借金のかたに若慧が売られたことを奴隷商に聞かされて、やっと状況を理解したのである。
あまりのことに放心してしまい、我に返ったのは夜中に奴隷船に乗せられる頃になってからだった。
泣き叫んで抵抗したが、鞭で打たれて猿轡をかまされ、首枷についた鎖を引きずられて船に乗せられ、長い船旅をしてたどり着いたのが煌帝国。そこで出迎えた西福達が奴隷商たちの黒幕だった。
西福達は人事や戸籍を管理する文官であるが、裏ではその立場を利用して奴隷を商っている。
彼女もそんな彼の商品の一つだった。
通常であればそのままレーム帝国にでも連れていかれてしまうらしいが、育ちの良さがにじみ出ているという理由でたまたま目に留まり、煌帝国風の教養を仕込まれて第二皇子練紅明に差し出されたのである。
真実を言えば、西福達に“西若慧”という娘は実在したらしい。
ただし、西家に仕える使用人たちの噂によると、随分前に既に亡くなってしまったのだという。
正妻の子ではなく愛人に産ませた子で、煌帝国建国の前に戦火に呑まれてしまったのだとか、何か公にできない障りがあって密かに処分されてしまったのだという話を聞かされた。
なまじ嘘ではないだけに、朝廷に提出した若慧の経歴には真実味がある。なにせ、ただ他人の経歴に置き換えただけだ。
彼女は思案する。どうすれば西福達に復讐することができるのだろうかと。
一番理想的なのは、彼女が味わったのと同じ苦しみを与えてやることだ。
金であの男の身柄を売買する。そのためには多額の金と、そしてあの男を今の地位から引きずり落とせるだけの事件を起こす必要がある。
そこで彼女はハタと気が付いた。今まで彼女が西福達の思い通りになるまいとして避けてきた練紅明を利用出来はしないかと。
彼の力を借りれば、なにか決定的な証拠を作り上げることはできないだろうか。
汚職でも醜聞でもなんでもいい。
もちろんそれは自分に影響が出ないようにしなければならない。そうでなければ、あの男を嘲笑うことができなくなってしまう。
紅明をうまく使えば西福達だけではなく、彼女を奴隷商に売り渡した元婚約者のあの男にも復讐できるのではないだろうか。
それはとても良い思い付きに思えた。
幸いにも練紅明は彼女を気に入ってくれている。
このまま彼に取り入ってしまえば、近い将来夢が叶うのではないだろうか。
おそらくこの場に侍女が入ってきていれば、目を見開いてほほ笑んでいる不気味な若慧の様子に慄いていたことだろう。
今宵の訪れを待ち遠しく思いながら、若慧は侍女を呼び入れて夜の支度を始めたのだった。