(姓は固定)
第一章 女官編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
朝、普段とは違う様子に目が覚めた。
目を開けると飛び込んできた真っ赤な髪と、間近に感じる自分以外の人の体温。
体に残る違和感と、掛布をまとっただけの自分たちの体を見て、そういえば昨夜、紅明が部屋に訪れたのだったとようやくこの時になって思い出す。
自分の胸に顔を押し付けるようにして寝ている紅明を見て、長く息を吐いて全身の力を抜いた。
目を瞑ると再びまどろみの中に引き込まれそうになる。
およそ一年ぶりの情事は思った以上に体に応えたが、軋む体に鞭うって、紅明を軽くゆすって声をかけた。
「紅明様。朝でございます。お目覚めくださいませ」
ところが彼は目覚めるどころか、唸りながら隣に添い寝する若慧の体に腕を回してくる。
外を見るとまだ薄暗い。
今日もこれからまた朝議だの軍議だのと会議続きだろうから、できることならぎりぎりまで寝かせておいた方がいいのだろう。
若慧は一つ苦笑をすると、体をひねりつつ紅明の腕を外しにかかった。
見た目通りに力は強くはない。女の力でも簡単に外すことができた。
兄皇子と違い、文官肌の彼は会議に出席することは多くても、先陣を切って軍を指揮することはほとんどない。
仕事が忙しくて体を鍛える暇もないのだろう。
筋張った男性特有の体つきはしっかりしているが、普段から積極的に体を鍛えている若慧の方が力は強いかもしれない。
隣の温もりがなくなっても紅明が起きる気配がなかった。
若慧が部屋の外に声をかけると、沈華と薔滴が手に桶や手拭を持って現れる。
二人の力を借りて、紅明を起こさないよう気を付けながら手早く身を清め、ついでに簡単な身支度も終えると、ちょうどよく夜が明けてきた。
若慧は再び臥牀に近寄って腰かけ、紅明をゆすって声をかける。
「紅明様。お目覚めのお時間でございますよ」
しかし、やはりと言おうかなんというか、いっこうに紅明が起きる気配はない。
紅明の寝起きの悪さに辟易しながら、若慧はひとつ溜息をついて彼の顔にかかる髪をのけ、その目じりにそっと口づけを落とした。
その瞬間、紅明の目がぱちりと開かれる。
「おはようございます、紅明様」
目が合ったので薄く微笑みながら挨拶すると、紅明も呆然としながら寝起きのかすれた声でおはようございますと返事をした。
「さ、お支度なさいませ。朝議に遅れてしまいますよ」
ところが紅明は起き上がりはしたものの、まるで何が何だかわからないという顔をしている。昨夜突然押し掛けてきたのは彼であるというのに。
「隣の部屋に朝餉の用意ができております」
沈華が恭しく頭を下げて告げる。
そう、と返して、若慧は紅明の方に向き直った。
「紅明様。まだお目覚めではありませんか? わたくしはこのままでも構いませんが、今お支度をしなければ朝餉を食べ損ねてしまいますよ」
「ええ、若慧。……ここはあなたの部屋ですよね?」
「はい、わたくしの部屋でございますよ。もしや、昨夜のことを覚えていらっしゃらないのですか?」
「いえ、覚えています」
紅明はそう言って、片手で顔を覆って俯いてしまった。
「紅明様?」
不審に思って覗き込むと、すっと視線をそらされてしまう。
「昨夜のことは、忘れてください」
やがて、ぼそりと彼が呟いた。
何を言いたいのかをなんとなく察して、若慧は呆れ返って皮肉を言う。
「残念ながら、わたくしは記憶力は良い方なのです。しばらく忘れられそうにありませんわ」
紅明は膝を抱えて顔をうずめてしまったが、日の高さを確認した若慧は容赦しなかった。
「紅明様、失礼いたします」
一言断るなり掛布を剥ぎ取り、紅明を臥牀から引きずり降ろして無理やり身支度を始める。
体を清めて衣装を着せ、髭を剃って髪を結い上げる。最後に装身具を付けさせて終了だ。
「どうしてあなたはそう手際がいいんですか」
「これがわたくしのお役目だからです」
紅明の文句もさらりと受け流し、仕上げに肩口を軽くたたいて終わりましたと微笑みかけると、彼は朝だというのに疲れたようにため息をついて、のそのそと朝餉の席に向かった。
目を覚ますと、思いのほか部屋の中が明るかった。
朝餉を終えて紅明を送り出した後、どうやら牀で眠り込んでしまったらしい。
体も随分軽くなり、そこではっと我に返る。自分はいったいどれほど眠っていたのだろう。
部屋の外に声を掛けると、すぐに布巾をかけた盆を持った鳳蛾がやって来た。
「珍しいこと。沈華はどうしたの?」
「沈華様は福達様の御用で席を外しております」
そう、と返事をして若慧はふわっと欠伸をした。
ここに沈華がいれば、はしたないと眦を釣り上げるところであるが、鳳蛾はそこまで厳しくはない。
「わたくしはどれくらい眠っていたの?」
「それほどではございません。二刻程でございます」
「宮中はどんな感じ?」
「表向きは、普段と変わらず穏やかです」
「表向きは?」
何やら思わせぶりな良い方に、目を眇める。
鳳蛾はしたり顔でうなずいた。
「若慧様がどう出るか、様子を窺っているといったところでしょうか」
「ああ、なるほど」
では、間違いなく昨夜のことは宮中に知れ渡っている訳だ。
「後宮の下級妃たちが数名、若慧様とお会いしたいと言ってきましたが、体調不良を理由に全てお断りいたしました」
それから、と鳳蛾は持ってきた盆の布巾を外して薬湯の入った陶器の器を差し出した。
「こちらをご用意いたしました。沈華様がお戻りになる前にお飲みください」
若慧はその薬湯を、目を細めて受け取る。
「ありがとう。お前のそういうところを、わたくしは高く買っていてよ」
褒めると、恐れ入ります、と鳳蛾は頭を下げる。
彼女は姓名を“
煌帝国がまだ煌国だった頃、ここよりももっと西の山岳地帯に住む、どの国にも属していない少数民族がいた。
やがて煌国が領土を広げるにあたって接収されてしまったが、彼女が宮中に下女として勤めて間もなく異民族の出というだけで忌まれていたことから見ても、未だ選民意識の対象になっていることは明らかである。
異民族を毛嫌いする女官によってひどくいじめられ、迫害されそうになっていたところを若慧が拾った。
以来、鳳蛾は若慧の侍女として、沈華には任せられない仕事を任せられるほどの信頼を寄せる存在となっている。
鳳蛾には若慧の詳しい出自を教えたことはないが、主人と侍女頭の沈華がただならぬ関係であることは察しているようだ。
ただ、沈華は福達の手先だが、鳳蛾は若慧を慕って尽くしてくれる。それだけで若慧にとっては十分信頼に値する相手となっている。
鳳蛾が持ってきたのは避妊薬である。
福達は若慧の懐妊を望んでいるため、沈華に見つかればただでは済まない。
故に、万が一の時のためにいつでも使用できるよう、鳳蛾に手配を頼んでおいた。
ひどい臭いに鼻をつまみながら、決して美味とは言えない薬湯を一気に飲み干す。
「沈華には見つかっていないでしょうね」
「万が一見つかっても、媚薬だと言ってごまかします」
思わず口なおしに飲んでいた茶にむせた。
「真面目な顔で冗談を言わないで頂戴。ただでさえ沈華は冗談が通じないのに、本気にしたらどうするの」
「申し訳ありません」
言いながら鳳蛾は若慧の背をさする。
淡々と仕事をしながら時に同じ調子で笑えない冗談を言うから油断ができない。
しかしこの息苦しい宮中で、気の置けないやり取りのできる相手は貴重である。
鬼の居ぬ間に何とやらではないが、久々につかの間の休息を得た気がした。