(姓は固定)
第一章 女官編
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夜。
若慧は部屋の前で、何かを待っていた。
肌寒い季節である。彼女の肩にかかる褙子の裾が、風にあおられてわずかにはためいた。
と。そこに、ゆらりと人影が現れる。
若慧はそれを認めると、静かに頭を下げて、その人物を部屋へと迎え入れた。
部屋を訪れた紅明に振る舞われた包子は、まだほのかに温かかった。
「随分と用意がいいですね。私が来るとわかっていたのですか?」
「今日はあまり夕餉をお召し上がりになりませんでしたので、お腹がお空きではないかと思いまして」
言いながら淹れたばかりの茶を差し出す。
さすがの若慧もこのときばかりは薄く化粧をしていたが、昼間のようなけばけばしさはなく、むしろ最低限しか手を加えていない実に簡素な物であった。髪も後ろでゆるく一つに縛るのみで、昼間とはまるで別人である。
茶を入れ終わると若慧は、やはり静かに紅明の向かいに腰かけた。
「先日はお騒がせして、申し訳ありませんでした。わたくしが意識を失っている間に見舞いにも来てくださったとか。お手数をおかけしながら気にも留めていただいて、感謝しております」
「傷はもうよいのですか? 御史台は鞭を使ったと聞きましたが」
「ええ、おかげさまでもうほとんど痛みませんわ」
「それはよかった」
少しの沈黙があって、紅明が再び口を開いた。
「範瑛児は徒刑になりそうですよ。宮中に毒を持ち込んだうえ、皇后主催の茶会で他の女官を殺そうとしたのです。しばらくは洛昌のはずれで父親と共に河川工事に従事することになるでしょうね」
「まあ、お気の毒ですこと。何不自由ない暮らししかご存知ない身では、労役はさぞお辛いでしょうに」
「それが宮中の権力闘争に負けたものの末路です。今回も、あなたの勝ちですね」
紅明の何かを探るような視線に対し、若慧はただ淡く微笑むだけだった。
穏やかな笑みに感情はなく、問いかけを肯定しているようにも、否定しているようにも見える。
「そういえば、なぜ突然ご自分の仕事を思い出されたのですか? 今朝はあなたの顔を見て驚きましたよ」
若慧が応えないので、諦めたように嘆息して紅明は話題を変えた。
彼女は紅明の衣裳を担当する女官のはずだったが、これまではその座はただの飾りで、一度もまともに仕事をしたことがなかった。
ところが今朝、いつもの侍女を押しのけて彼女が紅明の支度を手伝ったのみならず、公務を終えて戻ってきたときも部屋で待ち構えていて、就寝の用意まで整えてから下がっていったのである。
正直、若慧が他人の世話をできるとは思っていなかった紅明は、驚きと戸惑いのあまり問い詰めることもできず、ただされるがままだった。
しかし思い返してみれば、軍議続きで疲れ果て、彷徨っていた彼を一人で介抱したのは彼女なのである。
そこで夜更けにもかかわらず、こうして真意を確かめに若慧の部屋を訪ねたのであった。
若慧は薄く笑みを浮かべながら、持っていた茶器を置いて答えた。
「驚いていただけたのであれば幸いですわ。それで紅明様がわたくしを見てくださるのであれば」
「相変わらずそのあたりはぶれませんね。絶対に本心を話さない。いい加減、疲れませんか」
「まあ、おかしなことをおっしゃいますこと。この宮中で本心をさらけ出すことが、どれほど危険かを知らないほどおめでたくはありませんわ。紅明様とて、決して本心でお話になっているわけではないでしょうに」
すると紅明は心外という顔をして若慧を見る。
「私はあなたと話すときは割と本心を話しているつもりですけどね。昼間のあなたは信用できませんが、夜のあなたならまだ話が通じる。だから私もこうして、夜にあなたを訪れるのですよ」
若慧は困ったように笑みを崩して少し首を傾げた。
「それは本心をお話になっているわけではありませんわね。夜にいらっしゃるときはいつも、紅明様はわたくしを質問攻めになさいますもの。わたくしが応えられないことばかりお聞きになるので、なかなかわたくしも本心を語れないでいるのですわ」
「そういえばそうでしたね」
指摘されて紅明がぼやく。
「それよりも、今宵こちらにいらっしゃることは侍女や女官たちは知っているのでしょうか。もし妙な噂が立つようであれば、また誰かが不幸なことになってしまいますよ」
以前、それで女官が一人犠牲になった。
その後に明らかになった大罪のどさくさに紛れて原因は曖昧になってしまったが、元をただせばそれも若慧が自分から目をそらすために引き起こしたことである。
若慧としては、噂が流れてその女官に女たちの嫉妬が集中する程度で良かったのだが、横からジュダルが手を出したせいでこじれてしまい、事が全く違う方向に向かって大きくなってしまった。
若慧の言い回しに、紅明もなんとなく察したのだろう。すっと目を細めて彼女を見る。
「やはり姜禎禾が自害した件にはあなたが関わっていたのですか」
「わたくしではありませんわ。確かに少しお話は致しましたけれど、その時はそれほど深刻な様子ではありませんでしたもの。おそらく直接的な原因は神官様ではないかと」
すると紅明は顔を顰めて舌打ちをした。
普段の彼からは想像もつかない姿に目を丸くしている若慧をしり目に、紅明は苛立つようにつぶやく。
「神官殿か、また余計なことを」
そうして驚いている若慧に気がついて、ああ、と気の抜けた声を出した。
「安心してください。侍女たちには今宵はあなたのところに行くと言ってあります。朝まで戻らずとも問題ありませんよ」
その返答に固まったのは若慧である。
てっきり、誰にも見つからずに来たものと思っていたのに。
笑みを強張らせて、低い声で紅明を問いただす。
「少しお待ちを。ということは、今宵はわたくしのところに泊まることを、皆が知っているということですか? わたくしのところには一切連絡はありませんでしたが」
皇子が女のもとに通うとなると、皇帝の夜伽ほどではないが事前に色々と準備が必要になるはずである。
「出かける直前に侍女に見つかって言い置いてきたので、まだこちらまで伝わっていないのでしょうね。今頃は大騒ぎをしていることでしょう」
若慧は思わず額を抑えて溜息を押し殺した。
不意に、今までの努力は何だったのだろうという無力感に襲われる。
紅明を徹底的に避け、あえて嫌われるよう嫌な女を演じてきた。
若慧が紅明の仕度を手伝うようになったのだって、あからさまに媚を売ってすり寄っていけば嫌がられると思っていたのに。
どの道、この宮中で若慧に敵対するものが少なくなってしまったため、何か次の行動を起こさなければ福達が許さなかっただろう。
わざとらしく取り入るふりをしていけば、結果はどうであれしばらくは福達を騙すことができる。
沈華もあれでいて割と騙されやすいところがある。
あとは口八丁で丸め込んでおけば、勝手に役目を果たそうと努力しているものと勘違いしてくれる。
雑音を消し去ったので次の段階に進んだのだと、今は二人ともそう思い込んでいるだろう。若慧には好都合である。
ところが紅明は今、若慧の目の前でのんきに包子を頬張っている。
おまけに今宵、彼がこの部屋に来ることは第二皇子付きの侍女たちが知っている。
ということは、夜が明けぬうちに宮殿中の知るところとなるだろう。
思惑が外れたとしか言いようがない。当初の予定と全く違うではないか。
なぜ紅明はここまで若慧に付きまとうのか。なぜ若慧が望むように彼女を嫌ってくれないのだろう。
若慧は、今度は紅明を見てはっきりとため息をついた。
「人を見て溜息をつくなんて、失礼な人ですね」
紅明は眉を寄せた後、若慧に向き直った。
「なぜあなたはそうも私を避けるのですか? もしかして、私が嫌いなのですか?」
「紅明様。先日も同じような質問をして、部屋を追い出されたのをお忘れですか」
冷静に言うと、紅明はそうでした、と口の中でもごもご言う。
それから実に眠そうに気の抜けたあくびを一つ。
それをみて若慧も、それ以上は何も言えなくなってしまった。
こっそり深呼吸をして自分を落ち着かせたあと、笑みを作り直して立ち上がった。
「そろそろ夜も更けてまいりました。臥牀を整えますゆえ、今日はもうお休みください」
言ってしまったものは仕方がない。
とりあえず今夜を無事に乗り切って、明日の朝素知らぬ顔で紅明を返せばいい。
そう思って紅明を臥牀に誘い、自分は牀に寝床を整えると、紅明が不思議そうに首を傾げた。
「あなたはこちらには来ないのですか?」
「紅明様が突然いらっしゃったので、何もお構いできずに申し訳ありません。明日もまた、早くから会議があるのでしょう。わたくしには構わず、どうぞごゆるりとお休みくださいませ」
淡々と答える若慧に、紅明はなおも食い下がる。
「どうも話が噛み合いませんね。私は侍女たちに、あなたと夜を過ごすと告げてきてしまったのですが」
途端に彼女の顔から一瞬で表情が抜け落ちた。
しばらく無言の攻防が続いた後、若慧はまるで戦に赴くような面持ちで臥牀へと足を踏み出したのだった。