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第一章 女官編
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背中の傷が乾き、無理な動きさえしなければさほど痛まなくなった頃、若慧は沈華を伴って蓬簫の見舞いに出かけた。
毒を飲んで日は経っていたが回復が遅く、未だ復帰には程遠いということだった。
蓬簫は紅明の食事を担当する部署に所属していることになっている。
役職に胡坐をかいて何もしない若慧とは違い、きちんと仕事をこなしていたらしい。
そのため仕事の滞りが危惧されていたが、蓬簫は寝込みながらも代理人の選定や細々とした指示を出し、自分の責任を何とか無事に機能させていた。
普段からおとなしく控えめで、あまり自分からは自己主張をしない温和な人柄だが、責任感が強く職務においては有能である。
それだけに、若慧は蓬簫に会いに行くのがことさら気が重く感じるのだった。
なぜならそれは、蓬簫にとっては断罪者による死刑宣告に等しい。
若慧が部屋を訪れると、蓬簫は顔色が優れないながらもきちんと身なりを整え、強張った笑顔で居室に招き入れてくれた。
室内には侍女が一人、控えていたが、彼女もどちらかというと清楚な雰囲気の女である。
面白いことに、侍女の傾向は主人に大きく影響されるらしい。
若慧の侍女たちは、噂話が大好きで常に流行を追いかけ、化粧や服装、髪型や体型にまで気を使い、容姿に自信があって矜持も高く、どちらかというと高飛車で鼻につくような性格の女が多い。
これに対して蓬簫の侍女は、気配を殺しているのではないかと思うほど静かに部屋の隅に控え、主人の呼びかけがあれば即座に反応する。給仕の際の心遣いを一つ取ってみても、主人とその客に心地良く過ごしてもらおうと尽力している様子がうかがえる。
部屋の様子や調度品を眺めて、あちこちに手作りの品や大切に使い込まれたようなものが置いてあり、蓬簫は家庭的な女性なのだと想像できた。
本当に、若慧とは真逆の女性だ。
「この度は命を助けてくださって、本当にありがとうございました。それなのに御史台に捕らわれることになってしまって、なんとお詫びをすればよいのやら」
客に茶菓子を勧めながら、今にも泣きそうに声を震わせて蓬簫が切り出した。
しかし若慧は菓子には手を付けず、あえて無表情に答える。
「誠に。此度のわたくしへの仕打ちに対して、“父”も大層怒っておりますの」
「先日の朝議のお話は伺いました。父が西長官へ激しく抗議したのだと。若慧さんは何も悪くありませんのに、父が申し訳ないことを致しました。おまけに紅明様のお手をも煩わせることになってしまって、申し開きのしようもございません」
蓬簫は泣いてこそいないが、その様子は心底若慧に同情し、今回の事件を嘆いているように見える。
「あなたに毒を盛ったのは、瑛児さんだったのですってね。わたくしと入れ違いに御史台に連れてこられていましたわ。なぜ瑛児さんはあなたを殺そうとしたのでしょうね。普段からあまりお話もしていらっしゃらなかったでしょう。最も、今頃は牢の中で己の罪を悔い改めていることでしょうけれど」
「ええ。わたくしも、なぜ瑛児さんに毒を盛られたのかはわかりませんの。お会いすればご挨拶くらいは致しましたけれど、恨まれる原因が全く思い当たらなくて。御史台にもそのように説明したのですけれど、あまり信じてはもらえませんでした。彼らにとっては目の前の証拠の方が大切なのでしょうね」
困惑し、疲れた様子で呟く蓬簫に、若慧もしみじみと答えた。
「ええ。ええ。御史台にはそういうところがありますわ。彼らは彼らの信じたいものしか信じませんから、罪人の心情など取るに足らないものでしかないのですわ。それよりも、罪を犯した証拠さえあればいいのです。まったく、疑われる身からすれば迷惑極まりありませんわ」
その時だけ、無表情でありながらもわずかにうんざりしたような感情をにじませると、ようやく蓬簫の顔に淡い笑みが浮かんだ。
それを見て、ようやく若慧もほほ笑むことができる。
「ああ、蓬簫さん。ようございましたわ。先日のお茶会以来ずっと臥せっておられたと伺っておりましたが、思ったよりお元気そうですわね」
蓬簫は少し驚いたように目を見開き、そしてくすくすと笑った。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。実はまだ万全とは言い難いのですが、それほど悪くもないのです。医官にも、体力さえ回復すればまた元のようにお勤めができると言われましたので、今は日々、体力回復に努めている次第です」
「あら。では体を動かすことも大切ですが、ぜひ日光浴もお勧めしますわ。人間、日の射さないところにいるとどうしても気持ちも沈みがちになってしまいますもの。太陽の光を浴びて、気力体力を充実させてこその健康ですわ」
「まあ、そうですの? ではさっそく、明日からでも試してみますわ。お教えいただきありがとうございます」
すっかり打ち解けた様子の蓬簫に、いいえ、と笑った若慧は呑み終えた茶器をもてあそびながら、何気ない風を装って唐突に切り出した。
「ところで、ねえ、蓬簫さん。お茶会の際にお使いになった毒は、どうやって処分なさいましたの」
静かに告げたとたん、部屋の空気が凍り付いた。
「なんの、お話ですの?」
少し間をおいて、蓬簫が上ずった声で聞く。
若慧は調子を変えずに淡々と答えた。
「『なんの』といわれましても、先日のお茶会で蓬簫さん自身がお飲みになった、あの毒ですわ。わたくしの席に包み紙のみをお捨てになったではありませんか。あれで全てではないでしょうから、残りが御史台に見つからなかったということは、どこかに捨てるか隠すかなさったのでしょう」
「ご冗談を。あれは瑛児さんがあなたを陥れるために仕組んだことでしょう?」
「あら、やはり蓬簫さんは、最初からわたくしを陥れるおつもりだったのですね」
「どうしてそうなるのですか? 自分で自分に毒を盛るなど、そんなことするはずがないではありませんか。わたくしは危うく死ぬところだったのですよ?」
「瑛児さんよりも、わたくしが蓬簫さんを殺す方が説得力がありますもの。それにね、蓬簫さん。もしわたくしが本気であなたを殺そうとするならば、吐き戻したくらいで助かるような生ぬるい毒は使いませんわ。銀器にも反応しない、即効性の致死毒はいくらでもありますもの。そもそもわたくしであれば、毒殺などと証拠が残りそうなことはしません。あなたはご自身で毒を飲んで、その罪をわたくしに着せるおつもりだったのでしょう」
「なんということをおっしゃるのですか。ではなぜ瑛児さんのお部屋から毒薬が見つかったのですか?」
「わたくしの侍女が、瑛児さんの侍女を買収したからですよ」
蓬簫がひゅっと息を飲み、目を見開いて若慧を凝視した。
部屋の隅に控えていた侍女も、驚きと恐れの入り混じった表情で、若慧とその近くに控える沈華をかわるがわる見る。
「なんと……なんということ」
蓬簫はその台詞を絞り出すのが精いっぱいだった。
青ざめた表情でふらりと卓に寄り掛かり、両掌で顔を覆う。
「あなたがお悪いんですのよ、蓬簫さん。わたくしを陥れようとなさるから」
「わたくしは。……わたくしではありませんわ」
背を丸めてうつむき、まるで幼子のように首を振る。
しかし若慧は容赦せずに畳みかけた。
「残念ですわ、蓬簫さん。わたくしは、あなたのことが嫌いではありませんでしたのに、あなたはこれほどまでにわたくしを嫌っていらしたのね」
「いいえ、いいえ」
「何もなければわたくしも何もしませんでしたのに。こうなってしまった以上、わたくしはあなたを排除しなくてはなりませんわ」
「いいえ、違う……違います。あなたが嫌いなわけじゃ」
蓬簫の声に嗚咽が混じる。
「今更何を言っても遅くてよ。あなたがわたくしを陥れようとしたことは、わたくしとこの侍女と、わたくしの“父”も存じております。わたくしはともかく、“父”はあなたのことを決して許しはしないでしょう。本当に、残念ですわ」
嫌われ者の自分を見て怯える姿が気の毒で、よほどのことがない限り若慧の方から蓬簫に近寄ることはなかった。
若慧を見かけるたびに青ざめて泣きそうな顔をする癖に、顔を強張らせながらも精一杯なんでもないふりをしようとする気丈さを、哀れみながらも好ましくさえ思っていた。
だからこそ、心から残念でならない。
若慧に手を出した以上、福達は決して蓬簫を許さないだろう。
というよりも、若慧が競争相手を蹴落とす絶好の機会を不意にすることを許さない。
故に、どれほど気が乗らなくても、若慧は蓬簫に報復をしなければならないのだ。
若慧の一挙一動は全て沈華に監視されている。
さてどうしたものかと部屋を見渡すと、ふと目に入った宝石箱。
漆を塗って螺鈿で装飾された贅沢な品で、素朴な部屋の雰囲気にはそぐわない。
不思議に思って立ち上がり、そっと手に取って蓋を開けてみると、天鵞絨の内張りの中に絹の包みが収められていた。
何の気なしに包みを手に取って開こうとすると、突然蓬簫が叫んだ。
「やめて!」
溢れた涙を拭いもせず、若慧の足元に縋り付いてくる。
「やめてください、若慧さん。お願いします。それは紅明様から頂いたもの。どうか、どうかそれだけは!」
その必死な様子に、若慧ははっとして蓬簫を見た。
若慧を阻もうとして伸ばされる手を振り払い、包みを開くと、そこには一本の髪紐。
見覚えのあるこれはもしや、紅明の髪紐ではないか。
紅明から下賜されたというそれを、立派な宝石箱に収めて大切に持っている。そして蓬簫のこの反応は。
それが何を意味しているのか、気付きたくもないのに気が付いてしまった。
「ああ、そう」
意図せずして、口からため息とともにこぼれ出る。
「蓬簫さん。あなた、紅明様に恋していらっしゃるのね」
蓬簫の体が目に見えて震える。
若慧は今まで彼女に抱いていた憐みの感情が、すっと冷えていくのを自覚した。
この禁城で情を抱くことがどれほど厄介か、貴族の娘であれば知らぬはずがないだろうに。
「わたくしを陥れるのが目的ではなく、紅明様の気を引くことが今回の毒殺騒ぎの狙いだったのですね。ただ紅明様に見ていただきたいがために、わたくしや瑛児さんを巻き込んだと。そういうことなのですね」
そこにあるのは女の本性ともいえる打算であり、政治的目的ではないのだ。
若慧だけではない。現在捕らえられている瑛児ですらも、蓬簫の身勝手なわがままの犠牲となったのである。
若慧は手に持っていた髪紐を包み直して元に戻し、宝石箱の蓋を締めた。
「どうか、どうかお許しを。あなたを巻き込んでしまって、申し訳ないと思っています」
蓬簫は床に蹲ってすすり泣いている。
かと思うと、勢いよく顔を上げて涙で濡れた目で若慧を見上げ、足元に縋り付いてきた。
「どうか信じてくださいまし。決して若慧さんが憎いわけではないのです。わたくしはただ、紅明様のお役に立ちたかっただけなのです。しかし此度のことで、わたくしは身の程を知りました。お悩みになる紅明様のお力になりたくて騒ぎを起こしましたが、やはりわたくしは謀には向いていないということを心底思い知りました。もう二度と、このような馬鹿げた真似は致しません。二度とあなたのお邪魔は致しませんわ。ですからどうか、ご容赦を」
床に両手をつき、再び頭を垂れて額をこすりつける蓬簫を、若慧は冷たく見降ろしていた。
「言ったでしょう、蓬簫さん。今更何を言っても遅いのです。わたくしも瑛児さんも、受けた傷は浅くはありません。瑛児さんに至っては今も御史台で拷問されているかもしれない。許せと言われて、許せることではありませんわ」
宝石箱を一つ撫でると袖にくるんで脇に抱えた。
「これはわたくしがお預かりします」
「そんな!」
「もう二度と紅明様があなたのもとを訪れることはないでしょう。そのように心得ておきなさい」
「そんな……ひどいっ」
「酷いなどと。西家を怒らせればただでは済まないと、此度のことでよくわかったでしょう。これに懲りたら、ご自身でもおっしゃったとおり、二度と出しゃばった真似はしないことです。そうすれば、命だけは助かるでしょう」
突き放すように警告すると、顔を上げた蓬簫はきっと眦を吊り上げて若慧を睨んだ。
「若慧さん。あなたには慈悲というものはないのですかっ」
「慈悲?」
何か耳慣れない言葉を聞いたような気がして、若慧は目を見開き、口元に満面の笑みを浮かべた。
そして。
「ほ!」
思わず噴き出した。
「おほほほほ!」
「何がおかしいのです!?」
「ほほほ! おかしなこと。おかしいに決まっているでしょう? おほほ! この宮中で慈悲を乞うとは、おかしいにもほどがある!」
なおも嘲笑する若慧を見て、蓬簫はみるみる間に顔を怒りで赤く染めると、すくと立ち上がって相手につかみかかった。
「西若慧!」
しかしその腕に指先がふれるや否や、手首を捕らえられて勢いをそがれ、床に投げ出されてしまう。
蓬簫と若慧の衣が大きく翻った。
「蓬簫様!」
「若慧様!」
室内に三人の女の悲鳴が重なった。
蓬簫の侍女は床に倒れた蓬簫に飛びつき、沈華は若慧を抑えるように前から両肩をつかむ。
「覚えておおき、孫蓬簫。わたくしたちがこの宮中で家名を名乗っている以上、一人の女として生きることは許されないの。情にほだされて慈悲を乞うなど言語道断。我が身を追い詰めるだけなのよ!」
はらわたが煮えくり返っている。これほど逆上するのはいつぶりだろう。
様々な思惑が渦巻くこの禁城において、情を抱けば視野が狭まり、足元を掬われる。
女でありながら女として生きることは許されず、しかして女は女であり続けなければならない。
植物が花を咲かせて虫をおびき寄せるがごとく、甘い芳香を放ちながら自己を主張しなければならない。
そして、獲物を捕らえて張り巡らせるのは権謀術数の糸であって、情などという曖昧な物であってはならないのだ。
そう思って若慧はこれまで己を戒めてきたというのに、目の前の蓬簫はそれをあっさりと破ってしまった。
若慧は怒りに任せて沈華を振りほどき、蓬簫の胸ぐらをつかみ上げた。
「出てお行き! ここはお前のような甘い考えが通用する場所ではないの。己を諫められないというのであれば、今後わたくし以外の者からも怒りを買うでしょう。これは最後の忠告よ、孫蓬簫。今のうちに、荷物をまとめて出ていきなさい。さもなくばお前は命を落とすから」
蓬簫の顔にすでに血の気はない。
互いの侍女が必死に二人を引き離そうとしていた。
「落ち着かれませ、若慧様」
沈華に諫められて、若慧はようやくその手を離した。
つんとした匂いが鼻をつく。
下を見ると、何やら蓬簫の裳裾が濡れている。
本人は粗相をした自覚もないらしい。
床にへたり込んで、放心した表情で若慧を見上げていた。
その様子をまるで虫けらでも見るかのように一瞥した後、若慧は速足で部屋を飛び出した。
後を追う沈華のことなど、気にも留めなかった。