(姓は固定)
第一章 女官編
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部屋に戻るなり気力が尽きて崩れ落ちた若慧を、沈華をはじめとする侍女たちが駆けよってきて支えた。
中には涙ぐんでいるものもいる。
彼女たちに支えられながら、這うようにして何とか臥牀までたどり着く。
拷問による傷だけでなく、脱水と空腹でひどく衰弱している自覚がある。
もはや指一本動かす気力もなく、ただ沈華が同僚たちに指示を出す声を遠くに聞いていた。
「若慧様、お召し物を変えましょう。御髪も洗って、お体も清めなくては。それからゆっくりお休みくださいませ」
沈華の優しい声が特に不気味に感じる。
「沈華」
何とか声を振り絞って侍女を呼ぶと、何やら驚いた様子で若慧の傍に屈み込んだ。
「若慧様?」
「わたくしは、何日捕らわれていたの?」
「三日でございます。三日間、御史台に捕らわれておいででした」
「そう、三日も」
そこまでが限界だった。
沈みかかる意識に逆らえず、気を失うようにして眠りについたのだった。
ふっと意識が浮上して、頸を巡らせる。
自分はどうやら俯せになって寝ているらしかった。
枕にしている腕が痛むので外そうと力を入れると、背中が激しく痛んだ。
こらえきれずにうめき声をあげると、傍に座っていたらしい侍女がはっとしたように動いた。
「若慧様。お目覚めになったのですか?」
「薔滴?」
「はい、私でございます」
「意識が戻られてようございました。丸二日も眠っていらしたのですよ。高熱が続いて、ずっとうなされておいででした」
「そう。心配をかけたわね、ごめんなさい」
神妙に謝る若慧に、薔滴は目を見開いてばたばたと両手を振った。
「とんでもない、悪いのは御史台でございますよ!」
そう言って薔滴は鼻をすする。
「御史台は酷うございます。若慧様にこのような仕打ちをするなんて。何もしていないのに牢へ閉じ込めるばかりか、長官の娘である若慧様を、む、鞭で打つなんて!」
よく泣く娘だ、と思った。
そういえば、若慧が部屋に戻ってきたときも泣いていたのは彼女だった。
「今朝方までは沈華様がついていらしたんですよ。でも若慧様がお戻りになってからずっとお傍にいらしたので、沈華様の方がまるで病人みたいで。若慧様のお熱が下がったので休んでほしいと頼み込んで、ようやく私と交代なさったのですわ」
沈華は若慧の侍女頭にあたる。
侍女たちはほとんど若慧が連れてきたものばかりだが、若慧が西家の奴隷であることを知るのは沈華のみで、他は若慧が入内するにあたって集められた、いわば寄せ集めのようなものだった。
普段は沈華も侍女としての職務を忠実にこなしているので、誰も若慧が沈華に監視されているとは気づいていない。
しかし若慧の抱える事情についてもっとも熟知しているのも沈華なので、彼女がずっとついていてくれたのは業腹な反面、ある意味ありがたかった。
「この五日間で、何か変わったことはあって?」
「ええと」
薔滴は少し考えてから答えた。
「孫蓬簫様がお倒れになられた後、お父君の
ここまでを一息にしゃべったあと、息継ぎをして真剣な顔をしていった。
「それから、昨日、紅明様がお見舞いにいらっしゃいました」
若慧は驚きのあまり体を起こそうとして、背中の痛みに呻いた。
「あ、若慧様! 無理はいけません、お体に触ります!」
「紅明様がいらっしゃったの? 本当に?」
「本当ですとも! 私たちもびっくりしました。てっきり今回の騒ぎについてお叱りを受けるのかと思ったら、見舞いにとお花と果物を置いていかれました」
あちらにございます、と指されてそちらを見ると、確かに花瓶に生けられた花束と、滋養によさそうな果物が並んでいる。
「本当に若慧様のことを心配していらっしゃるようでしたわ。今回のことで、お心を痛めていらっしゃるご様子でした」
そんな馬鹿な、と胸中で呟く。
紅明はそんな殊勝な人物ではない。
大方、若慧がどうしているのか偵察に来たのだろう。
自分よりも蓬簫の方に行ってやればいいのに、と考える。
話すのにも疲れてうつらうつらとしていると、そばについていた薔滴があらぬ方を見て、あら、と声を上げた。
「まあ、沈華様。まだ交代の時間には早いんじゃないでしょうか。もう少しお休みになったほうが」
「そろそろお薬の時間でしょう。後は私がやります。お前は下がっていなさい」
否やを言わせない声が、薔滴を渋々ながら下がらせた。
沈華は臥牀の傍の卓に、手に持っていた盆を置く。
「世話をかけるわね」
無言で準備をする沈華に声をかけると、まったくです、と返事が返ってきた。
それから若慧の服を脱がしながら、耳元に口を寄せてぼそりと呟いた。
「此度の事件は、全て孫蓬簫の自作自演です」
その内容に、ひゅっと喉が鳴る。
しかし沈華はそれ以上の説明はしなかった。
後は若慧のすべきことをしろと、視線で訴えてくる。
持ってきた小瓶から塗り薬を掬い取って、若慧の背中に塗っていく。
まだ傷口は完全には乾ききっていなかったが、傷で熱を持った肌に沈華の冷たい手が心地よかった。
ところが、それで終わらないのが沈華である。
若慧の背に薬を塗りながら、薄く笑って言った。
「若慧様。また隠れて鍛錬をなさいましたね」
若慧の額に冷や汗が流れる。
「体型維持は大切だわ」
苦しい言い訳をするが、それで納得する沈華ではない。
「若慧様の場合は体型維持の範疇を超えております。普通の女性というものは、折れそうなほど華奢でたおやかで、柔らかいものです。どこの世界に背筋までしっかりついた姫君がいらっしゃるのですか」
若慧の実父は軍人だった。
早くに亡くした母の代わりに面倒を見てくれた祖母曰く、脳まで筋肉で出来ていた父は、よく幼い若慧に剣の稽古をつけてくれたものだ。
おかげで護身術に余るほどの技量を身に着けることができたが、一度ついた鍛錬の習慣はそう消えるものではない。
剣の稽古が体形維持に役立つのも事実なので、若慧は人目を忍んでこっそりと鍛錬を続けていた。
「幸い、ここ数日でご自慢の筋肉も落ちているようでございますから、これを期におやめください」
ちなみにこのやり取りは初めてではない。
それでも鍛錬をやめないのは、若慧の意地でもあった。
剣は体だけでなく、心も鍛えてくれる。
時に折れそうな心を鍛錬によって練り直し、若慧が若慧であるために気概を保たなくてはならない。
沈華には口で何を言っても無駄だということは分かっている。
故に沈黙を貫いていると、若慧の背に激痛が走った。
「若慧様、お忘れのようなので思い出させて差し上げますが、あなたは奴隷です。私だからこうしてご忠告するに留めておりますが、このことが旦那様のお耳に入ったらただではすみませんよ」
若慧の背に爪を立てながら、低い声で恫喝してくる。
「“おとうさま”に逆らうつもりはなくてよ」
「おつもりはなくとも、そのようにとられかねないと申しているのです。此度のことも、旦那様は大層お心を痛めていらっしゃいましたわ。幸いにも疑いは晴れましたが、不幸中の幸いだとお思いになって、ゆめゆめお役目をお忘れになられませぬよう」
薬を塗り終えた背中に晒を巻き、衫を着替える。
口元にあてがわれた椀に、顔を顰めながらもおとなしく中の薬湯を飲み干した。
手当も身の回りの世話も、若慧の侍女たちの中では沈華が最も気が利いて手も早い。
福達の息がかかっていなければ、絶大な信頼を寄せていたことだろう。
しかし沈華が福達への報告を怠らないうちは、ありえないことだとわかりきっている。
彼女が仕えているのは若慧ではなく、西福達という狸だ。
「お体が良くなりましたら、蓬簫様のお見舞いに行きましょうね」
いつもと変わらない笑みを浮かべながら穏やかに言う。
若慧はただ、目を閉じて頷いただけだった。