(姓は固定)
第一章 女官編
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夜中にふともよおしたので、こっそりと出かけた日だった。
人に気付かれぬように用事を済ませ、物陰に隠れながら部屋に戻る途中、最も出会いたくないものと出くわしてしまった。
その紅い人物を目にするなりくるりと踵を返して見なかったふりをしたくなったが、幼少の頃より体に叩き込まれた礼儀作法がそうはさせてくれなかった。
すぐ目の前で呆然と立ち尽くす人物としっかり目が合ってしまい、条件反射で膝を折って挨拶をする。
「ご機嫌麗しゅう、紅明様」
礼儀正しく挨拶をしたのに、紅明はただ無言で若慧を見つめている。
心配になって顔色を窺っていると、紅明の体がゆらりと揺れた。
「きゃあ、紅明様!」
思わず悲鳴を上げて駆け寄り、その体を支える。
しかし紅明は思ったよりもしっかりと自分の足で立っていた。
そのことに少しほっとして体を離すと、彼女の頭の上で紅明がため息をつく。
「若慧、ですよね」
気まずくなって返事をしなかった。
すると紅明は若慧の頭の上に手を置いて言った。
「疲れました。あなたの部屋で休ませてください」
もちろん否やは言えなかった。
部屋へと連れ込んだ紅明の身支度を整えさせて、月明かりの中、二人で夜中にお茶を飲んでいた。
今の若慧は当然、髪も結っていなければ化粧もしていない。
ドぎつい化粧をしていなければ、彼女はハッキリした目鼻立ちに垂れ目がちの目じりが愛らしい、可憐な美女だった。
月明かりが抜けるように白い肌を一層引き立て、今にも光の中にほどけてしまいそうな儚さを演出している。
そんな彼女を、茶を啜りながら紅明はまじまじとみる。
きっと、うまく化けるものだとか、どうして化粧で顔を変えてしまうのかとか考えているのだろう。
なにせ、侍女にもしょっちゅう似たようなことを言われている。
「昼間とはまるで別人ですね」
「あまり、見ないでくださいまし」
顔を伏せて袖で顔を隠す。
卓の向こうで紅明が笑う気配がした。
「いいではありませんか。どうせ見ているのは私しかいないのですから。何なら裸になっていただいても構いませんよ」
「どこの助平親父ですか、それは!」
紅明の言葉に反射的に顔を上げて言い返してから、はっと我に返って口をつぐむ。
化粧をしていない素顔を見られたことは、若慧にとって紅明に弱みを握られたも同じである。
しかも今日に限って、先日のように寝ぼけているわけでもない。
「また、軍議があったのですか?」
顔を隠すのを諦めて居直り、反撃とばかりに話をそらそうと試みると、紅明はすいと若慧から視線をそらした。
「集中するとどうしても、他のことが目に入らなくなるようでして」
「お仕事熱心なのは結構ですけれど、お体を壊してしまっては元も子もありませんわ。養生なさってくださいな」
その言葉に、紅明は驚いたように目を見張る。
「あなた、本当に若慧ですよね。なんだか目の前にいるのは全くの別人なのではないかという気がしてきました」
「別人だと思ってくださっても結構ですよ。わたくしだって人の子ですもの。紅明様が不摂生をなさっていれば心配くらいしますわ」
拗ねてそっぽを向いて見せると、紅明は肩をすくめて茶を啜った。
「これは失礼しました。しかし女性というのは、化粧一つでここまで変わるものなのですね」
あまりにこちらの気も知らずにのんきに言ってのけるので、皮肉を返してやった。
「男性も、戦の際には鎧を身に付けなさるでしょう」
「なるほど。女性の化粧は我々の戦装束と同じということですか」
紅明は話をしながら、若慧の顔を眺めるのをやめようとしない。
いくら明かりが月明かりだけとはいえ、今日は満月。おまけに窓際に座っているため、相手の顔がよく見える。
自分でもらしくないと感じながらも、顔が火照るのを止められなかった。
「ですから、あまりそうまじまじと見ないでくださいまし。恥ずかしゅうございますわ」
羞恥のあまり、俯いて今度は両手で顔を覆う。
紅明は微かに笑ったようだった。
「私はそちらの方が好きですよ。昼間のあなたは性格もですが、尖りすぎていていけない。普段からそうしていればいいのに、なぜ嫌われ者の振る舞いをするんです?」
その質問に、若慧の頭が一気に冷えた。
両手を降ろして膝の上に置き、すまして答えた。
「理由なんぞどうでもいいでしょう」
そうして冷え冷えとした目で紅明を見る。
「もしや、その話をするためにわたくしの部屋にいらしたのですか? なら、今すぐお帰りなさいまし。その件に関しては、わたくしからは何もお話しすることはございません」
「それは、あなたが実は西家の人間ではないということと関係があるのですか?」
若慧はギョッとして紅明を見る。
彼は妙に含みのある顔で彼女を見ていた。
「少し気になったので、西家のことを調べてみました。西家は建国前からある家ですが、力をつけてきたのはここ数年。時期的には現皇帝が即位した後のことです。先代までは中堅の役職がせいぜいでしたが、現当主、西福達が一代で盛り上げたと言ってもいい。ところが戸籍を見てみると、彼には娘は一人しかいないことになっている。まあ、過去の戦火や建国のどさくさに紛れて随分資料も失われてしまったので、単にあなたの戸籍もなくなってしまっただけかもしれませんが」
「おかしなことをおっしゃいますこと。わたくしの身元は、この禁城に入内した時に徹底的に調べられたはず。なぜ今になって再びお調べに?」
若慧は眉根を寄せ、声を尖らせて警戒心をあらわにする。
表向きは、若慧は福達が愛人に産ませた娘ということになっている。
顔立ちが煌人らしくないのも、愛人が煌帝国に出稼ぎにきた西方の女だから、ということらしい。
嫡出でなければ厳密な届け出の対象にはならない。
愛人が外国人であればなおさらである。
相手が子供を連れて自国に帰ってしまうこともありうるのだ。そうなれば、煌人として国の定めた義務を果たすこともできない。
紅明は後ろ頭をガリガリと掻きながらおっくうそうに答えた。
「貴女の腕ですよ」
「え?」
若慧は驚いて自分の腕を見た。
「その腕の傷跡、それは手枷の痕ですよね?」
指摘されて、思わず握り込んだ手首を腹の前に引き寄せる。
「初めて見た時から、妙に大量の装飾品を付けていたので気になっていたのです。手枷をかけられるということは、罪人か奴隷……」
「おやめください」
続けようとした紅明の言葉をさえぎった。
それほど大きい声ではなかったが、そこに含まれたはっきりとした拒絶が紅明を黙らせる。
若慧は深呼吸をして心を落ち着け、静かに告げた。
「もう十分でしょう。今宵はもうお帰りください」
「若慧」
「紅明様には関係のないことです。これ以上はわたくしもお答えするつもりはありません。それよりも、早くお部屋にお戻りくださいまし。誰かに見られたら、都合がお悪いのは紅明様ですよ」
評判の悪い女のもとに通うと、そのまま彼の評判にも影響してしまう。
紅明はまだ何か言いたそうだったが、若慧が無言で立ち上がり、部屋の扉を開け放った。
「さあ、紅明様。お早く」
そうして有無を言わさず腕を引き、背を押し、部屋から追い出す。
「待ってください、若慧。まだ続きが」
なおも部屋に入ろうとする紅明を突き飛ばし、その目の前で容赦なく扉を閉めた。
「それ以上は聞きたくありません。どうか放っておいて。わたくしに関わらないでください」
彼はしばらくの間、往生際悪く部屋の前に居座っていたが、やがて無駄だと悟ったのか静かに去っていった。
紅明の気配が消えたのち、若慧は閉め切った扉に額を押し付けて、一人声もなく涙を流していたのだった。