(姓は固定)
第一章 女官編
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若慧は自室で爪を噛まんばかりの表情で苛立ちを隠そうともせず、侍女たちを恐々とさせていた。
「姜禎禾。まさかあの程度で自害するとは、誤算だったわ」
女官が一人自害したことで、御史台の取り調べの手は若慧にも至り、思わぬところで余波を食らうところだった。
どうやら死の直前に若慧に呼び出されたことを、禎禾の侍女たちがしゃべったらしい。
しかしさすがの侍女たちも話の内容までは知らず、若慧や沈華の口八丁も功を成して、証拠不十分として罪に問われることはなかった。
この騒ぎの原因は恐らくジュダルだ。
若慧は禎禾を追い詰めたが、自殺するほどではなかったと確信している。
何者かが最後のひと押しをしたはずだ。
あの黒い神官は争い事を好むあまり、人の負の感情を増幅させることさえしてしまう。
具体的に何をしたのかは知らないが、禎禾も十中八九ジュダルの毒牙にかかってしまったのだろう。
だが幸か不幸か、朝廷側としては禎禾が自殺したことでよかったこともある。
女官が自害したということで当然その近辺も調査されたわけであるが、同時に姜家の悪行が白日の下にさらされることとなったのである。
禎禾の父は、軍部をつかさどる文官の一人だった。
軍需物資の調達や兵器の管理などが主な仕事であったが、その立場を利用して他国に軍事機密を漏らしていたとのだという。
残念ながら漏えいしてしまった機密の特定までは至っていないが、軍事大国を自負する煌帝国にとって、軍事機密の漏えいは重罪である。おまけに現帝の激しい気性を鑑みれば結果は推して知るべし。
姜氏は本人はもちろんの事、連座で妻子ともども梟首。そのほかの一族も、官位剥奪や肉刑に処されることとなった。
いずれにせよ、遅かれ早かれ父親の悪事が明らかになった時点で禎禾も死刑に処されていたのだろうが、若慧の計算ではあまりにも早すぎた。
もうしばらく調査を続け、漏えいした機密が特定できるまではと、少なくとも若慧は“父”からはそう聞かされていた。
故に若慧は、禎禾の弱みを握るにとどめていたのである。
秘密が明るみに出たことで、今、朝廷は上へ下への大騒ぎだ。
汚職は罪だが国にとっては恥でもある。
この大騒ぎを何とか他国へ気取らせまいと、必死なのはおそらく外交官だろう。
まったくジュダルは、考えるだに余計なことをしてくれたものだ。
おかげですべてが中途半端なまま、真相を知るものも全て物言わぬ存在となってしまった。
手を出すなと言いつけておいたにも関わらず、やはり若慧程度では止まる相手ではなかったということだ。
指甲套が邪魔で手を握りこめないのが唯一の救いか。もし指に何もつけていなかったら、悔しさのあまりその爪で掌を傷つけていたかもしれない。
その代り、口の中で微かな血の香りを感じるほど唇を強く噛みしめたのだった。
いつもなら、若慧が機嫌が悪い時は誰も声をかけてこない。
しかしこの時、果敢にも彼女の目の前に立ちふさがったものがいた。
「若慧様、旦那様が面会にいらっしゃっておりますが」
沈華が主人の機嫌をものともせずに淡々と知らせてきた。
とたんにそれまで不遜であり続けていた若慧の顔色が変わる。
沈華の言う旦那様とは、すなわち若慧にとっての“父”である。
西福達は、人事や戸籍を担う部署の長官であった。
人柄は無欲恬淡とは程遠い。欲を持ってこそ全ての動力となると考える類の人間である。
つまりは欲の塊のような人間であった。
その体型から、陰で『狸』とまで呼ばれているのは恐らく本人も知っているだろう。
知った上で、実害がなければ放っておけばいいと考える程度には度量を持った男だった。
その福達が面会にやってきた。
呼び出した“娘”が部屋に入るなり、太鼓のような腹を大きく凹ませて挨拶もなく怒鳴りつけたのである。
「貴様、何様のつもりだ!」
怒号と共に足を振り上げ、若慧の細い体を蹴りつける。
「好き勝手にするのもいい加減にしろ! 姜禎禾が死んだのは貴様のせいであろう。この件を隠ぺいするために、わしがどれほど苦労したと思っている!」
床に倒れ込んだ若慧は、起き上がることもできずに痛みをこらえながら両腕で己をかき抱いた。
「この役立たずが! 何のために女官としてねじ込んでやったのか忘れたか! 皇子の寵愛を得るどころか、わしの耳に聞こえてくるのは悪評ばかり。貴様が厄介事を起こせば若麗にも障りがでるということがわからんのか!」
罵りながら福達は、床に這いつくばるようにして身を丸める若慧を足蹴にする。
「貴様なんぞ! わしの力がなければ、所詮はただの薄汚い小娘でしかないというのに。役に立たんばかりか、問題ばかり起こしおって、思い上がりも甚だしいっ。身の程をわきまえろ、この奴隷風情がっ!」
若慧が体を痙攣させ、小さなうめき声を漏らした。
それでようやく福達は我に返ったらしい。振り上げた足を降ろし、無言で若慧を見下ろした。
「よいか、貴様なんぞたかだか金で買えるだけの価値しかない奴隷に過ぎんのだ。そのためわしは、他の奴隷は売り払ってもわざわざ貴様は手元に残したのだからな。第二皇子に取り入って西家の地盤を固めることと、宮中の情報をわしに伝えるのが貴様の仕事だ。何を勘違いしているのかは知らんが、この先長生きしたければ己の分をわきまえることだな。わかったか!」
若慧はやっとの思いで身を起こし、蚊の鳴くような声で返事をした。
「はい、だんなさま」
その姿は、普段の傲岸不遜な態度からは想像もつかない。
まるで何かにおびえるように顔も上げず、ただ項垂れて細い肩を震わせている。
福達はまだ憤懣やるかたない様子だったが、とりあえずは気が済んだらしい。
腕を組み、仁王立ちをして鼻を鳴らした。
大きな腹が膨らみ、凹むたびに牛のように荒い鼻息が響く。
「それで、いつもの物は持ってきたのだろうな」
福達に促されて、若慧は無言で胸元から一巻の巻物を抜いて差し出した。
若慧の震える腕からそれを奪い取ると、今度は福達が懐から包みを取り出して若慧に放りやる。
「孫蓬簫の実家に出入りしている商人から仕入れたものだ。うまく使え。よいな、くれぐれも問題を起こすでないぞ」
投げられた包みを床すれすれのところで両手で掬うように受け止め、中身を確かめることなく若慧は床に額を押し付けた。
「かしこまりましてぞんじます」
その、背を丸めて震える小さな姿に、福達は満足そうに鼻を鳴らして悠々と部屋を出ていったのであった。
福達の足音が聞こえなくなるころ、若慧はようやく体を起こした。
福達が放ってよこした布袋を持つ手は、彼の姿が消えた今でも震えがおさまらない。
この震えが怒りか恐怖かはわからない。
片手で己の手首を握りしめ、震えを抑えようとするがうまくいかず、手の中の布袋と共に腹に押し付けて抱えた。
心の臓がうるさく打ち続け、蹴られた箇所が拍動して痛む。
目を閉じて唇をかみしめ、大きく深呼吸をして自分を落ち着かせようとした。
そうしてようやく震えが落ち着き始めた時だった。
ふと衣擦れの音がして顔を上げると、女物の裳が視界に飛び込んでくる。
「若慧」
目の前の女が横柄な態度で呼びかけてくる。
せっかく落ち着いた心の臓が大きく脈打ち、全身が強張る。
「きちんと見張っていますからね。旦那様のお言いつけはしっかりお守りなさい。今度問題を起こせば、私も庇えませんよ」
若慧は再び唇を噛みしめた。
目の前の女が彼女に暴力をふるうことはない。
しかし、もし彼女が失態を侵せば即座に福達に告げ口をされる。
仕方な彼女は、再度頭を下げて返事をしたのであった。
「はい、沈華様」